「現実」と云う煉獄

本で読み学んだ知識、考えて得た理解―それらは、「現実」と云う生の現場で、日々の人との交わりの中で、試され、磨かれる。
血肉化するかどうかは、どれだけ真摯に、その指摘 ・ 衝撃 ・ 苦しみを受け止められるかに掛かっており、自己正当化 ・ 自己防衛心から懺悔への転身が必要である。

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極楽は地獄を通らなければ到達できないものであることを忘れてはいけない。
地獄あっての極楽なのである。
地獄の業火に焼かれて、心身共にこなごなになったとき、極楽の扉は開き始めるであろう。

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西瓜は切ってみなければ、その良し悪しは分からない。
人も真っ向唐竹割りに斬られてみて、初めてその真価が現れる。

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事上練磨―。世間の冷徹な現実が、時として私たちの頭上に加える一撃は、痛烈無比なる教育である。

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自分に対して悪声を放つ者があれば、それは間違いなくわが良師である。
素直に、その言うところを聞くがいい。
謙虚に己を反省し尽くした上で、尚、彼の言うところが自分に当てはまらない場合は、彼のファウルを気の毒だと思えば良い。
だが、たいていの場合は、ぴたりと自分の過誤や欠点が指摘されているものである。
良い勉強をさせてもらったと思って、「授業料」を呈すべきである。

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通身徹骨、己の至らなさと過ちとを思い知ること― すべてはここから始まる。
己を良しとしている限り、人間関係は決して好転しない。
そして、心の安らぎがなく、常に修羅の巷をさまようている。

『上村秀雄 歩むもの』から