クリシュナムルティ 『生の全体性』より

われわれは、生を、時間のなかで測られる運動、死に帰する運動として考えている。
その地点までを、われわれは継続性と呼んでいる。
しかし人は、時間のものではない運動、
すなわち現在を通過し、未来を修正して継続していく、過去の何かの記憶ではない運動を観察する。
そこには、起こりつつあるものすべてに訣別するような精神の状態がある。
起こるものすべては、入ってきて、流れ出る。
いっさいとどまることなく、つねに流れ出る。
そのような精神の状態には、独自の美的感覚があり、
時間的なものではない継続性がある。

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人は終焉があるときはじめて、その真実を見出すことができる。
あなたがもっているものすべてに対する終焉、執着に対する終焉、
一日かけて終わらせるのではなく、いま完全にそれを終わらせること。

その完全なる終焉を、われわれは死と呼ぶ。
そして、完全なる終焉があるときには、何か新しいものが誕生する。

恐怖は、重荷、それもひどい重荷である。
そしてその重荷を完全に取り除くとき、新しい何かが起こる。
しかし人は終焉を恐れている。
人生の終わりにある終焉か、さもなければ現在の終焉かのいずれかを。

空しいものを終わらせることだ。
なぜなら、終焉がなければはじまりなどないからである。
われわれは、けっして終わることのないこの継続性にとらわれている。
全的で、完全で、全体的な終焉があるとき、まったく新しい何かが始まる。
それはあなたが想像だにできないものであり、まったく次元の違うものである。

死の真実を見出すためには、自分の意識の中身の終焉がなければならない。
そうなったら、「私は誰か」「私は何か」を問うことは決してない。
人は、中身をもつ意識である。
中身をもつ意識が終焉するとき、そこにはまったく別個のもの、想像されないものが現れる。
人間はその活動において不死性を求めてきた。
ある人は本を書き、その本のなかに作家としての自分の不死性がある。
偉大な画家は絵を描き、その絵がその人間の不死性になる。
そういうことはすべて終わらなければならない。
だが芸術家はひとりもそうしようとはしない。

人間はそれぞれ全人類の代表である。
そして意識のなかでその変化が起こるとき、
人は人類の意識のなかに変化を引き起こす。
死とは、人がいま知っているその意識の終焉である。

翻訳家のノート: クリシュナムルティ
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