気づき、自己知、あるがまま

〈気づく〉とは、自分に関する物事、自然、人々、色彩、樹々、環境、社会的構造などあらゆるものに対して鋭敏であること、いききと敏感であることを意味する。
そして、起こっていることすべてに対して外面的に気づくと同時に、内面的に起こっていることに気づくことである。
気づくということは、心理的に内側で起こっているものと同時に、外側で環境的、経済的、社会的に起こっているものに対しても鋭敏であること、知ること、観察することである。
もし、外面的に起こっていることに気づかないで内面的に気づきはじめたら、そのときには人はむしろ神経症的になる。
しかし、もしできるだけ多く世界で起こっていることに気づきはじめて、そこから内面へと向かうなら、そのときには人はバランスを保っている。
そうなったら、自己欺瞞という可能性はなくなる。
人は、外面的に起こっていることに気づくことから始めて内面へと向かう。
あたかも潮の満ち干のように、そこには絶え間ない運動がある。
そうすれば、そこには欺瞞はない。
外側で起こっていることを知って、そこから内側に進むなら、そのときには拠り所を得る。

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人はいかにして自分自身を知ることができるか?
自分自身とは、非情に複雑な構造、非情に複雑な運動である。
自己欺瞞に陥らないためには、どのようにして自分自身を知ればよいのか?
人は、他者と自分との関係においてはじめて、自分自身を知ることができる。
人は、自分と他者の関係において、自分が傷つけられたくないがために他者から退くのかもしれない。
あるいはその関係のなかで、自分がとても嫉妬深くて、依存心が執着心が強く、
それでいてきわめて冷淡であるということを発見するかもしれない。
だから、関係は自分を知る鏡としてはたらく。
それは外面的にも同じことであって、外なるものは自分自身の反映である。
なぜなら、社会、政府などといったものはすべて、
根本的に自分と同じような人間たちによってつくり出されたものだからである。

人が何かを理解できるのは、〈あるがまま〉を見てそれから逃げ出さない―
それを何かほかのものに変えようとしない場合だけである。
〈あるがまま〉―ただそれだけとともにとどまり、
それを観察し、見ることができるだろうか?
私は〈あるがまま〉を見たい。
私は自分が貪欲だということを知っているが、それは何の役にも立たない。
貪欲は、感覚、感情であり、私は貪欲と名づけられたその感情を見ている。
言葉は実体ではないのに、私は言葉を当の実体と間違えているのかもしれない。
私は、言葉にとらわれていて、事実、つまり自分は貪欲だという事実とともにはいないのかもしれない。
それは非常に複雑である。
言葉はその感情を誘発することができる。
精神は言葉から解放されて、そして見ることができるだろうか?

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言葉が貪欲という感情を生み出すのだろうか、
それとも言葉がなくても貪欲があるのだろうか?
これは抑圧ではなく、とてつもない規律を必要とする。
それを追求すること自体が、独自の規律を内在している。
そこで、私は非常に注意深く、
言葉が感情を生み出したのか、それとも感情は言葉がなくても存在するのか、
ということを見出さなければならない。
その言葉とは「貪欲」であり、
私は、以前にその感情を抱いたときに「貪欲」と名づけた。
したがって、私は現在の感情を同じ種類の過去の出来事によって記録している。
だから、現在は過去にすっかり吸収されてしまっているのである。

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さて、私は過去なしに貪欲という事実を観察できるだろうか?
名づけずして、言葉にとらわれずして、
つまり、言葉は感情を生み出すことができることを理解し、
そして言葉が感情を生み出すなら、言葉は〈私〉であり、
「怒るな」と命じているその〈私〉は過去のものであるということを理解してしまったら、
貪欲を観察できるだろうか?

〈私〉、すなわち観察者なしに、〈あるがまま〉をみることは可能だろうか?
私は、観察者すなわち過去なしに、
貪欲―その感情、その達成やはたらき―を観察できるだろうか?

〈あるがまま〉は、〈私〉がいないときはじめて観察されうる。
人は自分のまわりのさまざまな色や形を観察できるだろうか?
どうやってそれを観察するのだろうか?
人はそれを、眼を通して観察するのである。

眼を動かさずに観察することだ。
というのも、眼を動かせば、思考する頭脳が完全にはたらき出すからである。
頭脳がはたらき出す瞬間、そこには歪曲が生まれる。
眼を動かさずに何かを見つめてごらん。
そうすれば、頭脳はどれほど静かになることだろう。
眼だけではなく、自分の注意、自分の愛情をもって観察してごらん。
注意や愛情があれば、観念ではなく事実を観察するようになる。
注意、愛情をもって〈あるがまま〉に近づくようになる。
そのあかつきには、判断、非難はいっさいなくなり、
人は対極をなすものから解放されるのである。

翻訳家のノート: クリシュナムルティ
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