嫉妬、苦しみ、愛

嫉妬を生み出したのは思考なのに、ほかならぬその思考が、「私は、それから逃避しなければならない、それを抑圧しなければならない」と言うのである。
もし逃避、抵抗、抑圧のもつ虚偽性を見ぬいたら、そのときには、逃避や抵抗や抑圧のほうへ行っていたそのエネルギーは、観察するために結集される。

人が、「私は妬み深い」と言うとき、
ある意味では、すでに、それを押しのけようとしている。
だから、観察するためには、人は言葉の影響力から解放されなければならない。
そしてこれには―逃避しないための、そして羨望という言葉がその感情を生み出したのだということを見ることができるための―とてつもない敏感さ、非常な注意深さ、気づきが必要である。

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苦しみから逃げることなく、全面的に、完全にそのなかにとどまり、
どんな思考の運動もなく、苦しみを和らげようとしたり慰めを求めたりせず、
あくまでもそれから離れることなく、自分の中の苦しみをあるがままに観察するとき、
そのときには人はたぐいまれな心理的変容が起こるのを見る。

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愛は情熱である。それは慈悲心である。
その情熱や慈悲心がなく、知性しかなければ、人はきわめて限られた意味でしか行動できず、
行為はすべて限定されてしまう。
慈悲心があるところでは、その行為は全面的で、完全で、不変のものとなる。


翻訳家のノート: クリシュナムルティ
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