歓喜と快楽

あなたは、何かに歓喜を覚える。
何かとても美しいものを見るときおのずと湧いてくる歓喜を。
その一瞬、その一瞬、そこにあるのは快楽でも喜びでもなく、
ただその見るという感覚だけである。
その観察においては、自己はない。
頂上に雪をいただき、渓谷に飾られた、雄大で荘厳な山を見つめるとき、思考はすべて追い払われる。
そこに山がある―自分の眼前にひろがるその雄大さを見て、あなたは歓喜する。
それから思考が現れて、それが何とすばらしく素敵な体験であったかを、記憶として記録する。
それからその記憶が培養され、その培養化が快楽になる。
一篇の詩に、水のひろがりに、野原の孤独な樹に―、
何かに対して美しいと感じ、偉大だと感じる、その感覚に思考が干渉するときはいつであれ、それが記録になる。
しかし、それを見てなおかつそれを記録しないということ、それが重要である。
それを、その美しさを記録した瞬間、記録そのものが思考をはたらかせる。
そうなったら、その美しさを追い求めたいという欲求が起こり、それが快楽の追求になる。


翻訳家のノート: クリシュナムルティ
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