葛藤

目覚めた叡智は、危機、阻害など心理的な問題すべてに対する、深い、真の洞察をもっている。
それは頭の上での理解でもなく、葛藤を通して問題を解くことでもない。
人間の問題に対する洞察をもつことは、とりもなおさず、この叡智を覚醒させることである。
あるいは、この叡智をもてば、洞察が生まれる。
それは両方に通ずる。
このような洞察において葛藤はない。
あるものをきわめて明晰に見るとき、問題の真理を見るとき、その葛藤は終わる。
あなたはそれに対して戦わない。
あなたは統制しようとしたり、計算され、動機づけられた、さまざまな努力をしようとはしない。
その洞察つまり叡智から行動が生まれる。
延期された行動ではなく、即時の行動が生まれる。

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われわれは、子供時代から、できるかぎり徹底的に、あらゆる種類の努力をするようにしつけられてきている。
もし自分自身を観察すれば、われわれが自分自身を統制し、抑圧し、自分や他者が確立した一定の型式(パターン)や目的に自分を合わせ、修正するために、いかに大きな努力をしているかが分かるだろう。
だからこそ絶え間ない闘いがあるのだ、ということも分かるだろう。
われわれはそれとともに生き、それとともに死ぬ。
そしてわれわれは、日々の生活をただひとつの葛藤もなく生きることは可能だろうか、と問う。

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ほとんどの人々は、「葛藤はなくてはならないものである。さもなければ、どんな生長もない。その葛藤こそが人生の一部だ」と言うであろう。
森のなかの一本の樹は、太陽に届こうと闘う。
それは一種の葛藤である。
あらゆる動物は葛藤の状態にある。
そして人類も、知的ではあっても、それでも絶えず葛藤の状態にある。
さて、そこで不満は、「なぜ私は葛藤しなければならないのだろう?」と言う。
葛藤とは、比較、模倣、服従、ある様式への適応、現在から未来にかけて存在するものの修正された継続性を意味する―これらはすべて葛藤の過程である。
葛藤が深ければ深いほど、ますますあたなは神経症的になる。
だから、葛藤から逃れるために、あなたは深く神を信じて、「願わくば神の意志が実現されんことを」と言う。
そして、われわれはこの奇怪な世界をつくり上げる。

葛藤とは、比較を意味する。
人は比較なしで生きることができるだろうか?
ということは、どんな理想も様式の権威も、特定のイデオロギーに対する服従もないということである。
それは、観念という牢獄から自由になって、どんな比較も、模倣も、服従もなくなり、したがって〈あるがまま〉、まさに〈あるがまま〉に忠実になる、ということを意味する。
比較は〈あるがまま〉を、〈あるべきもの〉や〈あるかもしれないもの〉と比較するときにだけ生じる。
あるいは〈あるがまま〉をそうではないものに変えようとするときにだけ生じる。
そして、すべてこの種のものは葛藤にほかならない。

もし〈あるがまま〉に対する洞察を得たなら、そのときには葛藤はやむ。
あなたは〈あるがまま〉とともに残る。
すると〈あるがまま〉はどうなるだろうか?
あなたが〈あるがまま〉を見つめているときの精神の状態はどういうものだろうか?
あなたが逃避していないとき、〈あるかまま〉を変えようとしたり、歪めようとしたりしていないとき、あなたの精神の状態はどういうものだろうか?
洞察をもって見つめている、その精神の状態はどういうものだろうか?

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洞察のある精神の状態は、完全に空っぽである。
それは、逃避から解放され、抑圧や分析などから解放されている。
その重荷がすべて取り去られたとき、そのときには自由がある。
それは、あなたがその愚かしさを見るからであり、ちょうど重い荷物を取り去るようなものある。
自由とは、観察する〈空〉を意味する。
その〈空〉はあなたに暴力に対する洞察を与える。
暴力のさまざまな形態ではなく、暴力の本性と暴力の構造の全体に対する洞察を。
したがって、暴力に対する即時の、無為自然な行動が生まれ、
それは完全にあらゆる暴力から自由である。


翻訳家のノート: クリシュナムルティ
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