死― 思考の終焉

死はたんに神秘的なものであるばかりでなく、大いなる浄化の作用(はたらき)でもある。
反復的な型式のままで続いているものは、堕落である。
その型式は国、風土、環境によってさまざまであるかもしれないが、ひとつの型式であることには変わりない。
何かの型式に従って動くと、継続性が生じる。
その継続性は人間を堕落させる過程の一環である。
継続性が終わるとき、新しい何かが起こる可能性が開けてくる。
人はそれを即座に理解できる。
思考の運動の全体、恐怖、憎しみ、愛といった心の動きの全体を理解したら、そのときには、死とは何かという意義を、ただちに把握できる。

死とは何か?
そう問うとき、思考には多くの答えが浮かぶ。
思考は、「私は、死の悲惨な説明はいっさいしたくない」と言う。
あらゆる人間が、自分の条件づけ、欲望、希望に従って、その問いに対する答えをもっている。
思考はつねに答えをもっている。
その答えはきまって知的であり、思考によって言語的に組み立てられるものである。
だが、人は、答えをもたずに、まったく未知なる何か、まったく神秘的な何かとして、死を問題にしている―だから、死は途方もないものになる。

人は、有機体、肉体が死ぬことは知っている。
そして、頭脳もまた死ぬことを知っている。
頭脳は、人生において、わがまま、矛盾、努力、たえざる闘いといったさまざまなかたちで誤用されてしまって、機械的に消耗している。
というのも、それは一種の機械だからである。
頭脳は記憶、つまり経験、知識としての記憶の集積場である。
脳細胞のなかに記憶として貯えられた経験や知識から、思考が生じる。
有機体が終息するとき、頭脳もまた終息する。
したがって思考も終息する。

思考は物質的(マテリアル)な過程である。
思考は、まったく霊的精神的(スピリチュアル)なものではない。
それは、脳細胞のなかに保持された記憶にもとづく物質的過程である。
したがって有機体が死滅するとき、思考もまた止滅する。
思考は〈私〉という構築物全体をつくり出す。
これを欲しい、あれは欲しくないという〈私〉、恐れ、心配し、失望し、憧れ、孤独になり、死ぬことを恐れる〈私〉という構築物全体を―。
そして思考は言う、「闘い、体験し、獲得し、こんな醜い、愚かな、不幸なかたちで生き、あげくの果てに死ぬ人間にとって、生の価値、意義とはいったい何なのか?」。
そこで、思考は次にこう言う。
「いや、これは終焉ではない、来世がある」。
だが、その「来世」もまた思考の運動にすぎないのである。


翻訳家のノート: クリシュナムルティ
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