心理的な安定

慈悲心は精神が自由であるときに生まれる。
そして、それが根本的な心理的革命を引き起こす。
その心理的革命こそ、われわれが終始一貫して取り組んでいるものなのである。
そこで、われわれはこう自問することから始める。
われわれが求めているものは何か?
肉体的な慰めか?
物質的な安定か?
奥深いところでは、すべての活動において全面的に安全でありたい、すべての関係のおいて固定し、確実で不変でありたい、という要求や欲望があるのではなかろうか?
われわれは、自分に一種の安定性を与えてくれる経験に執着する。
あるいは自分に、永遠、幸福という感覚を与えてくれ確実な自己同一性に執着する。

いったい心理的な安定というものがあるのかどうか、厳密に検証しなければならない。
心理的な安定がいっさいないとしたら、人間は狂うだろうか?
心理的な安定がなくなれば、完全に神経症的になるだろうか?
おそらく人類の大多数がいくらかは神経症的である。
共産主義者、カトリック、プロテスタント、ヒンドゥー教徒などは、それぞれ自分の信念のなかに安んじている。
それにしがみついているから、恐怖はまったくない。
そういう人とともに探求し、質問し、論じはじめると、その人はある地点で止まり、もうそれ以上検証しようとはしない。
それはあまりにも危険だ……彼は自分の安全が脅かされていると感じる。
そうなったら、意志の疎通は止まる。
彼は、ある地点までは理性を用い論理的に考えるかもしれないが、まったく別の次元へ突破することはできない。
彼は溝のなかにとどまって、ほかのものはいっさい探求しようとしない。
それが本当に安定を与えるのだろうか?
思考、つまり彼のそういった信念、教義、経験、分裂のすべてを生み出した思考が、安定を与えてくれるだろうか?

真理の知覚が叡智である。
その叡智のなかにこそ、平安、安定がある。
その叡智は、あなたのものでも私のものでもない。
その叡智は条件づけられていない。
われわれは、その種のものすべてと縁を切った。
われわれは、思考それ自体の運動において条件づけをつくり出すということを、すでに見た。
そしてその運動を理解するとき、その理解そのものが叡智である。
その叡智のなかに平安があり、そこから行為が生まれるのである。
思考は過去から生ずる運動であり、したがって時間的なものであり、測りうるものである。
測りうるものは、測りえないもの、つまり真理を見出すことは絶対にできない。
それができるのは、思考が何をつくり出そうと、そのなかには安定などないという真理を、精神が実際に見るときだけである。
その見ることが叡智なのである。
その叡智があるとき、思考はすべて終わる。
そうなったら、あなたはこの世界に住んでいるにもかかわらずこの世界の外にある。

どんな歪曲もなく観察し、そこから何を得ようとは努めず、罰や報酬という観点から考えるのでもなく、まさに明晰に観察するがゆえに放棄するならば、その知覚の明晰さが叡智なのである。
そのなかには大いなる安定がある。
ただし、あなたが安定するのではなく、叡智そのものが安定しているのである。

われわれは、相対的な事実ではなく、絶対的な事実に到達した。
何であれ、人間が捏造したものなかには、心理的な安定はいっさいないという絶対的な事実に。
われわれは、宗教はすべて思考によってつくりさされた捏造物である、ということを見る。
あらゆる分裂的な努力―宗教の全実体である信仰、教義、儀式などがあるときに生じる努力―を見るとき、その事実そのものが、完全で全的な安定を伴う叡智の途方もない質を開示するのである。


翻訳家のノート: クリシュナムルティ
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