思考と思考者、二元性、時間、愛

意識とその中身という問題を調べる際には、自分自身がそれを観察しているのか、それとも観察の際に意識が気づいているのはじつは意識それ自体なのか―それを見出すことがきわめて重要である。
そこには違いがある。
あたかも外側から見るように、自分の意識の動き、つまり、自分の欲望、傷、野心、貪欲、そのほかのあらゆる意識の中身を観察するのか、それとも、意識が意識自体に気づくのか…。
後者は、思考が「自分が観察している対象はじつは自分がつくり出したものにすぎない、それは自分の意識の中身にすぎない」と悟ったとき、はじめて可能になる。
そうなったら思考は、意識を観察している思考が組み立てた〈私〉をではなく、思考自身を観察しているだけだ、ということを悟る。
そこにはただ観察だけがある。
そうなったら、意識がその中身を開示しはじめる。
たんに表面意識だけではなく、深層意識も含めた意識の中身のすべてを。
もし純然たる不動の観察の重要性を知ったら、そのときには物事は花開きはじめ、意識はその扉を開きはじめる。

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自分の観察に干渉する思考の運動なしに、観察することができるだろうか?
それが可能なのは、観察者が、自分と自分が観察しているものとはひとつだ、観察者は観察されるものだ、ということを悟ったときだけである。
怒りは〈私〉と別個のものではない。
私は怒りであり、私は嫉妬である。
観察者と観察されるものとのあいだには、何の区別もない。
それは、人が把握しなければならない根本的な現実である。
それを悟ったら、意識の全体は、いかなる努力もすることなく、自分自身を開示しはじめる。
その全的な観察において、思考が組み立てたものすべて、すなわち自分の意識は、空っぽにされる、あるには超越される。

そうなったら、時間という問題が出てくる。
観念、イデオロギーの達成に向かう運動としての、心理的な時間のことである。
自分は貪欲だ、暴力的だ―そして自分自身に、「それを乗り超えるためには時間がかかる。あるいはそれを修正し、それを変え、それを取り除き、それを超越するためには、時間がかかる」と言う。
そういう時間は心理的な時間であって、時計や太陽によって測られるような年代的な時間ではない。
そこには、「本質的な、美しい、立派だとみなしているものを達成するためには、時間がかかる」と言う、この精神の条件づけ全体がある。
われわれは、そういう時間を問題にし、「いったい心理的な時間というものがあるだろうか?」と問いかけているのである。
そういう時間をつくり出したのは思考ではないだろうか?

もし時間がまったくないなら、どんな過去も未来もなく、あるのはただまったく次元の異なる何かだけである。
人は、あまりにも時間に条件づけられていて、心理的には、「私が成長する時間、今の自分とは別の何かになるための時間が要るにちがいない」と言う。
思考それ自身が時間がつくり出したもとである、という真理を見るとき、そのときには過去や未来は終わる。
そして今度は、時間なき運動の感覚だけが残る。
これを理解すれば、じつにすばらしいことである。
そして、結局、愛とはそれなのである。

そういう精神状態、すなわち愛は、まったく時間なしに存在している。
そうなったら、自分と他者との関係に何が起こるか見てみよう。
人は、時間のものではない、思考のものではない、快楽や苦痛の記憶ではない愛の途方もない感覚をもつだろう。
そうなったら、そういう愛をもっている人ともっていない人とのあいだの関係はどうなるだろうか?

ひとりの人は、もうひとりの人について何のイメージも持っていない。
なぜなら、イメージとは時間の運動だからである。
思考は相手について少しずつイメージをつくり上げてきたが、そういうことはもはや起こっていない。
しかし、もうひとりの人は、少しずつ相手についてイメージをつくり上げてきた。
なぜなら、ひとりは時間の運動のなかにおり、ひとりはまったく時間をもっていないからである。
彼は、時間のものではない愛のこの途方もない感覚をもっている。
そうなったら、相手との関係はどうなるだろうか?
そのような愛の途方もない質をもつとき、その質のなかには至高の叡智が存在する。
相手との関係のなかで働いているのは、その叡智である。
自分がその関係のなかで働いているのではない。
そういう状態を経験することはほんとうにすばらしいことである。
それはあらゆる関係をまったく変えてしまうからである。
そして、もし関係においてそのような根本的な変化が起こらなければ、われわれが築いてきたこの奇怪な社会のなかではどんな変化を起こらない。

〈私〉がまったくいないとき、そこには美しさがある。
そうなったら、自分と自然との関係は完全に変わる。
大地は気高いものになる。
あらゆる樹、あらゆる葉、あらゆるものがその美しさの一部になる。
しかし人間は、そのあらゆるものを破壊しているのである。


翻訳家のノート: クリシュナムルティ
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