あるがままから始まる

もしこの種のものをすべて払いのけたら、そのときには、人は〈あるがまま〉から始める。
この場合の〈あるがまま〉とは、われわれの生活が、近かろうと遠かろうと、人類、男、女、隣人のあいだのとてつもない責め苦、とてつもない闘いになってしまっているということである。
その闘いのなかにも、青空を見る時おりの自由や、何か素敵なものを見、それを楽しみ、しばしのあいだ幸せになる自由はある。
しかし、闘いという雲がまもなく帰ってくる。
すべてこの種のものを、われわれは生きることと呼んでいる。
教会へ行って欽定訳聖書の詠唱をしたり、あるいは新英語聖書の詠唱をしたりして、一定の観念を受け容れている。
それを、人は生きることと呼ぶ。
そして人は、それに深くかかわるあまりそれを受け容れてしまっている。
しかし、不満、真の不満にはそれなりの意義がある。
不満はひとつの炎である。
人は、子供じみた行為、つかのまの満足によって、それを抑圧している。
だが不満は、それを開花するがままにまかせ、湧き上がるままにまかせるときには、真実ではないものすべてを焼き払う。


翻訳家のノート: クリシュナムルティ
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