恐怖、時間、思考、愛

思考とは、頭脳のなかに蓄積された記憶、経験、知識から出てくる反応である。
思考はけっして新しくない。
それは常に過去から来る。
したがって思考は限られている。
それは数えきれない問題を生み出したが、しかしながら科学技術という大いなる世界も生み出した。
それはすばらしいことを為し遂げたのである。
だが、思考は過去の結果であるから限られており、したがってそれは時間に束縛されている。
思考は、はかりがたいもの、永遠なるもの、自分自身を超えたものを、考え出せるかのようにみせかける。
それは、あらゆる種類の幻想的なイメージを投影する。
イメージなしに、そしてそれらのイメージを追求せずに、したがって欲求不満、達成の希望などに巻き込まれずに、欲望の運動全体を観察することができるだろうか?
欲望の運動全体をただ観察すること、それに気づくことが?

恐怖の根源は時間の運動であり、それは測定、尺度としての思考である。
この運動を観察し、気づくことができるだろうか?
それを統制したり、抑圧したり、それから逃げたりするのではなく、ただ観察し、その全体的な運動に気づくことが?
われわれは、時間や尺度としてのこの思考の全体的な運動に気づく。
私は生きてきた、私はこれからも生きるだろう。
私は生きたい―われわれは、この事実に無選択に気づき、この事実とともにとどまり、実際にあるものから逃げ出したりはしない。
実際にあるがままのものとは、思考の運動であり、それは、「私は過去に傷つけられた、だから、未来においては傷つけられたくない」と言う。
例をひとつ挙げれば、そういう思考の過程そのものが恐怖なのである。
恐怖があるところには、あきらかにどんな愛情も、どんな愛もない。

—–

意識の大部分は、膨大な、快さに対する欲望と快楽の追求である。
すべての宗教は、「快楽、すなわち、性的な快楽やそのほかの種類の快楽を追い求めるな」と説いてきた。
あなたがたは、自分の生命(いのち)をイエスやクリシュナにゆだねてしまったのだから、と言うのである。
彼らは、欲望を抑圧すること、恐怖を抑圧すること、どんな種類の快楽をも抑圧することを奨励する。
あらゆる宗教はそれを果てしなく説きつづけてきた。
われわれは逆に、「何ものをも抑圧するな、何ものをも避けるな」と言っている。
自分の恐怖を分析してはいけない。
ただ観察することだ。
すべての人間はこの快楽の追求にとらわれていて、その快楽の追求、その快楽が与えられないと、憎しみ、暴力、怒り、辛さが出てくる。
だから、世界中で人類がもっているこの快楽の追求、この快楽の大きな衝動を理解しなければならない。

—–

心理的に記憶するものは、いったい必要なのだろうか?
あなたが心理的に保持しているものは何であれ、不必要である。
そういうものを保持し、記録することによって、そういうものを頭脳が固守することによって、それはそれなりの安定を達成する。
しかし、その安定は、あらゆる心理的な傷や痕跡が集まった〈私〉にすぎない。
だから、われわれはこう主張する。
「何であれ心理的に何かを記録し、それを保持することは絶対的に不必要である。自分の信念、教義、経験、希望や欲望、それらはすべてまったく不必要である」
それでは必要なものとは何か?
衣、食、住―それ以外の何ものでもない。
これは本来、理解すべき重要なことである。
それは、頭脳はもはや〈私〉を蓄積する要因ではなくなっている、ということを意味する。
頭脳は、静かにくつろいでいる。
それは充分な平安を必要とする。
しかし、それはつねに、あらゆる過去の記録の蓄積である〈私〉のなかに、その平安、安定性を求めてきた。
が、その〈私〉はただの記憶にすぎず、したがって、死んだ灰をたくさん集めてそれに重要性を付与するのと同じように、無価値なものである。

絶対に必要なものだけを記録すること―そのなかに入ってそれを実行することができれば、それはすばらしいことである。
そうなったら真の自由―つまり、思考が〈私〉だと思ってしがみついている、この巨大な構築物を築き上げてきた蓄積された知識や伝統や迷信や経験からの自由がある。
〈私〉が存在しないとき、そのときには慈悲心が生まれ、その慈悲心が明晰さを生む。
その明晰さに伴って、熟練性が出てくる。

不必要な記録があるところ、そこには愛は一切ない。
慈悲心の本性を理解したいなら、愛とは何かというこの問題、そしてあらゆる混乱、快楽、恐怖を伴う執着がいっさいないような愛があるかどうか、というこの問題に立ち入っていかなければならない。


翻訳家のノート: クリシュナムルティ
http://4652.cocolog-nifty.com/blog/cat38192765/index.html