観察する者は観察されるものである

観察する者は観察されるものである。
経験する者は経験されるものである。
ちょうど、考える者が考えられるもの〈思考〉であるように―。
観察する者が「私は悲しみのなかにある」と言って、自分自身を悲しみから切り離してから、その悲しみに対して何かをしようとする、という場合のような分裂はまったくない。
そのような場合には、彼はたとえば悲しみから逃げたり、慰めを求めたり、悲しみを抑圧したり、悲しみを超越しようとするあらゆるさまざまな手段を試みる。
したがってもし、観察する者は観察されるものであるという事実を見るなら、そのときには人は葛藤をもたらす分裂をすべて消し去る。
人は、観察する者は観察されるものとまったく別個のものだと考えるように、育てられ、教育されてきた。たとえば、人は分析する者である。
したがって人は分析することができる。
しかし、その分析する者はじつは分析されるものなのである。
だから、この知覚においては、観察する者と観察されるもの、考える者と考えられるもののあいだには何の区別もない。
考える人のない思考は存在しない。
もし、考える人がいなければ、思考もない。
―それらは一体なのである。

そこで、もし観察する者は観察されるものであるといういことを見るなら、そのときには人は悲しみとは何かを決めつけてはいない。
人は悲しみに対して、それがどうあるべきか、どうあってはならないのかなどと命じてはいない。
人はどんな選択もなく、どんな思考の運動もなく、ただ観察している。


翻訳家のノート: クリシュナムルティ
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