蓄積なき学び

学ぶすべは、技能的な活動のために必要な知識の蓄積のなかだけではなく、そういう蓄積のない学習のなかにもある。

学習には二つのタイプがある。
経験、書物、技能的な活動のなかで使われる教育を通して、膨大な知識を獲得し、蓄積することがひとつ。
そして、もうひとつはけっして蓄積などせず、絶対必要なもの以外は何も記録しないようなかたちの学習である。

最初のかたちにおいては、頭脳は知識を記録し、蓄積し、それを貯えて、その蓄えから行動を起こす。
それが巧妙であろうとなかろうと、である。
第二の形態においては、人は完全に自覚しているので、絶対的に必要なものだけを記録し、それ以外のものはいっさい記録しない。
そうなったら、精神は蓄積された知識の運動に散らされたり、影響されたりはしない。

このような学習法、知識の蓄積の仕方においては、技能的なはたらきに必要なものだけを記録することによって、いかなる心理的な反応も記録しないようになる。
頭脳は、機能や技能が必要な知識は用いるが、心理的な領域において記録することからは解放されている。
頭脳が完全に自覚して、その結果、必要なものだけを記録し不要なものは絶対に記録しないようになる、ということはきわめて困難である。
たとえば、誰かがあなたを侮辱する、あるいはあなたにお世辞を言う、誰かがあなたのことをああだこうだと言う。
しかしそれを記録することはない。
これはとてつもない明晰さを与える。
つまり、心理的な意味で〈私〉を、自己という構築物を築き上げることがいっさいないように、記録し、それでいて記録しないということは―。
自己という構築物が生じるのは、必要でないあらゆるものを記録するときだけである。
つまり自分の名前、自分の経験、自分の意見や結論など自己のエネルギーを強化するものすべてに重要性を与えるときだけである。
そしてその自己は、つねに事物を歪めている。


翻訳家のノート: クリシュナムルティ
http://4652.cocolog-nifty.com/blog/cat38192765/index.html