自由な思考

新しい思考というものはない。
自由な思考というものはない。
思考はただひとつしかない。
それは、頭脳のなかに記憶として蓄積された、知識、経験からくる反応である。
さて、それが事実だとしたら、悲しみは時間や思考の結果だということが真実であるのを見抜くなら―それは仮説ではないとしたら―、そのときには、人は〈私〉なしに悲しみに応じていることになる。
というのも、〈私〉はほかならぬその思考によって組み立てられたものだからである。
私の名前、私の形、私の外見、私の性質、私の反応、身につけたすべての事柄、それらはすべて思考によって組み立てられたものである。
思考は〈私〉である。
時間は〈私〉である。
自己、自我、個人、私という時間の運動のすべてである。
時間がないとき、苦しみというこの問いかけに応じる〈私〉がないとき、そのときには苦しみがあるだろうか?

すべての悲しみは、〈私〉、〈個我〉、個人、自我にもとづいているのではないだろうか?
「私は苦しい」、「私は寂しい」、「私は心配だ」と言うのは、自己である。
この運動全体、この構造全体は、思考のなかの〈私〉である。
そして思考は、〈私〉を措定するばかりではなく、自分は優れた〈私〉―思考よりはるかに優れた何か―であると断定する。
それでもなお、それは思考の運動にすぎない。
だから、思考の運動である〈私〉が終焉するとき、悲しみが終焉するのである。


翻訳家のノート: クリシュナムルティ
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