悲しみの原因

悲しみの原因を理解すると、悲しみは終わるだろうか?
私は自分自身にこう言うかもしれない。
「私は自己憐憫の気持ちでいっぱいだ。もし私が自己憐憫に終止符を打つことができれば、どんな悲しみもなくなるだろう」。
そこで、私はその自己憐憫がいかにばかげているかを知っているから、それを追い払うことに取り組む。
私はそれを抑えつけようとする。
私は、それをあれこれと心配している。
そうすることによって、私は、頭のなかでは、自分は悲しみから解放されていると考えるかもしれない。
しかし、悲しみの原因を暴露することは、悲しみの終焉ではない。
悲しみの原因を探し求めることは、エネルギーの浪費である。
悲しみはそこにあって、大きな注意を要求している。
それは、人に行動することを求める問いかけである。
だが人は、その求めに応じないでこう言う。
「私にその原因を調べさせてください。私は見出しましょう。それはこれか、あれか、あるいは別のものでしょうか? 私はまちがっているかもしれません。それをほかの人に相談しましょう。あるいは、私にそのほんとうの原因は何であるか教えくれる本があるでしょうか?」
しかし、そういうものはすべて、現実的な事実からの逃避、その問いかけへの現実的応答からの逃避である。


翻訳家のノート: クリシュナムルティ
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