私は世界である

明らかに、生理的、肉体的な苦しみというものがある。
そしてその苦しみは、もしひとがあまり注意深くなければ、精神を歪めるおそれがある。
しかしわれわれは、人間の心理的な苦しみを問題としている。
苦しみという問題を探求するとき、われわれはあらゆる人間の苦しみを探求している。
というのも、われわれひとりひとりが全人類の本質をもっているからである。
人はみな、心理的、内面的に、深く自分以外の人類に類似している。
彼らは苦しんでいる。
彼らは、われわれのひとりひとりがそうであるように、大きな心労、不安、混乱、暴力を経験し、大きな非痛感、喪失感、孤独感を味わっている。
われわれすべてのあいだには、心理的な意味での区別はまったくない。
心理的には、われわれは世界であり、世界はわれわれである。
それは判断ではなく、結論でもなく、知的な理論でもない。
それは感じられ、気づかれ、生きられるべき現実である。
この悲しみという問題を探求すれば、自分個人の限られた悲しみばかりではなく、人類の悲しみをも探求していることになる。
それを個人的なものに引き下げてはならない。
なぜなら、人が個人的なものに引き下げることなく、その巨大性、その全体性の理解において、人類の巨大な悲しみを見るならば、自分自身の一部がそのなかでひとつの役割を担うようになるからである。
それは、どうやって自分が悲しみから解放されるかということだけに汲々とする利己的な探求ではない。
もしそれを個人的で、限定的なものにするなら、そのときには人は巨大な悲しみのもつ重要な意味を理解しないだろう。


翻訳家のノート: クリシュナムルティ
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