あるがまま(現実)とあるべき(理想)

最も重要なことは、観察することである。
観察し、観察者と観察されるものとのあいだに区別をつけないことである。
たいていの場合、観察者と、〈あるがまま〉のものである観察されるものとのあいだには区別がある。
その観察者とは、じつは記憶という過去の経験の総和である。
だから、過去が観察しているということになる。
観察者と観察されるものとのあいだの分裂は、葛藤のもとである。

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心理的に、なぜこのような葛藤があるのだろうか?
古代から社会的にも宗教的にも、善と悪の区別があった。
いったいほんとうにこのような区別があるのだろうか、
それとも、あるのはただそういう相反性のない〈あるがまま〉だけなのだろうか?
たとえば怒りがこみ上げてきたとしよう。
それは事実である、それは〈あるがまま〉である。
しかし、「私は怒らないようにしよう」というのはひとつの観念であって、事実ではない。

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観察者なしに観察することができるだろうか?
過去から生じたあらゆる記憶、経験、反作用などの精髄(エッセンス)である観察者なしに?
もし言葉や過去の記憶なしに何かを見つめたら、そのときには観察者なしに見つめている。
それを実行するとき、そこにあるのはただ観察されるものだけであり、
心理的には、区別や葛藤はいっさいない。
自分の妻や親友を、名前、言葉、
そしてその人間関係のなかで集めてきたあらゆる体験なしに
見つめることがでるのだろうか。
そのように見るときはじめてその人を見つめているのである。

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内面に葛藤がないとき、外側にも葛藤はない。なぜなら、内なるものと外なるもののあいだには、何の区別もないからである。それは、あたかも海の潮の満ち干のようなものである。それは絶対的で消しようのない事実であり、誰にも触れることのできない事実である。

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〈あるがまま〉のものを否定し、〈あるべきもの〉という理想をつくり出すから、葛藤が生まれる。
実際にあるがままのものを観察するということは、相反するものはいっさいもたず、ただ〈あるがまま〉のものだけをもつことを意味する。
もしあなたが暴力を観察し、暴力という言葉を使うなら、そこにはすでに葛藤がある。
その言葉そのものがすでに歪められている。
つまり、暴力を認める人々と認めない人々がいる、ということになるからである。
非暴力の哲学のすべては、政治的にも宗教的にも歪められている。
そこには、暴力と、それに相反するものである非暴力とがある。
相反するもの〈非暴力〉は、あなたが暴力を知っているから存在する。
その非暴力は暴力にその根源をもっている。
人は相反するものをもつことによって、
何か途方もない方法や手段によって〈あるがまま〉のものを取り除こうとする。


翻訳家のノート: クリシュナムルティ
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