精神集中、無選択の気づき、留意

いままでのところ、われわれは大きな海の水面の波だけにかかわってきた。
その表面だけを取り扱ってきた。
今度は、非常に深く入っていけば、その大海の深みまで行くことができる。
もちろん、あなたはいかに深く潜るかを理解しなければならないが、
しかしあなたが潜るのではない、それはおのずと起こるのである。

精神集中、無選択の気づき、そして留意がある。
精神集中とは抵抗を意味する。
ある特定のもの、いま読んでいる本のページ、あるいは理解しようとしている章句に対する精神集中。
集中するということは、エネルギーのすべてをある特定の方向に向けるということである。
精神集中においては抵抗が生じ、それゆえに努力と分裂が生じる。
あなたは集中したいが、何かほかのものに気を取られて想念が移る。
あなたはそれを引き戻す。
そこに葛藤が生じる。
もし何かに興味をもっていれば、貴方はいともたやすく集中できる。
集中するという言葉のなかには、精神を特定の対象、特定の心象、特定の行動に置くということが含まれている。

水面の波のすべて―恐怖、権威、われわれがこれから探りをいれようとしていることに較べれば取るに足りない事柄のすべて―を理解してしまえば、そのときには精神は意識からその中身のすべてを空っぽにしてしまったことになる。
それは空である。
それは、意志の行為、欲望、選択によらずして、空っぽになっている。
そうなったら、意識はまったく違ってくる。
意識はまったく次元の違うものになる。

空間があるから、〈空〉と全的な沈黙が存在する。
それは誘導された沈黙や、練習された沈黙ではない。
そういう沈黙は思考の運動にすぎず、したがってまったく無価値なものである。
あなたがそのすべてを通過したとき、そしてそのすべてを通過する際に大きな喜びがあるとき、それがとてもおもしろいゲームを楽しんでいるようなものであるとき、そういうときには、その完全な沈黙のなかには時間無き運動、思考によっては測ることのできな運動がある。
思考はいかなる意味でもそのなかに入る余地はない。
そのあかつきには、完全に神聖で永遠なるものが現れる。


翻訳家のノート: クリシュナムルティ
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