不満の炎

たいていの人たちは、自分がそのなかで生きているあらゆる問題、つまり政治的、宗教的、経済的、社会的、観念的なあらゆる問題に目覚めさせられる。
たいていの人たちはそういうあらゆる問題に多少なりとも気づいて、不満をもつようになる。
若いときには、この不満は炎のように燃え上がって、何かをしたいという情熱を抱く。
そこであなたは政治的な党派、極左、極端な革命家、極端な形のジーザズ・フリークス(若者の信仰宗教の一種)等々に加わる。
そういうものに加わることによって、特定の態度、特定のイデオロギーを受け容れることによって、その不満という炎は、しだいに消えていく。
そうなったら、あなたは満足したようにみえる。
そして、「これこそ私がやりたかったことだ」と言い、自分の情熱をそのなかに注ぎこむ。
だが、もし自分が巻き込まれている当の問題に、完全に目覚めたら、あなたはしだいに自分が満足していないということを見出す。
それでは遅すぎる。
というのも、あなたはすでに、大いに価値があると思いこんだものに、人生の半分を与えてしまって、しかるのちにそれはそうではないと気づいたからである。
そのときには、あなたのエネルギー、能力、衝動は衰えている。
不満という真理の炎はしだいに薄れている。
あなたは自分自身、自分の子供、若者や老人のなかで代々続いてきた様式(パターン)に気づいたにちがいない。

しかし、もしあなたがこういった事柄すべてに敏感で、不満をもつと同時に、満足したいという欲望や、環境、体制(エスタブリッシュメント)、理想、ユートピアに順応したいという願望によってその不満が押し潰されることを許さないならば、もしあなたがその炎が何ものにも満足することなく燃えるがままに任せるならば、そのときには表面的な満足はもう無用になる。
そうなったら、その不満そのものが、何かもっとはるかに偉大なものを要求するようになる。
そして、さまざまな理想、グル、宗教、体制はまったく表面的なものになってしまう。
この不満という炎は―それがどんなはけ口もないがゆえに、それが自分を満たすことができるどんな対象もないがゆえに―その炎は偉大な情熱になる。
その情熱が叡智である。
もしあなたが、これらの表面的な、本質的に反作用的な事柄にとらわれないならば、そのときには大いなる炎は強烈に燃え上がる。
その強烈さが、物事に対してただちに深い洞察をもつような精神の質を生み出す。
そしてそこから行動が起こる。


翻訳家のノート: クリシュナムルティ
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