愛と思考と苦しみ

われわれは、愛は苦しみの一部だと言う。
誰かを愛するとき、それは苦しみをもたらす。
そこで、われわれは、すべての苦しみから自由になることができるかどうかを問題にしようとしている。
自分の意識のなかで苦しみから自由になったとき、その自由は意識の変容を引き起こし、その変容の影響は人類の苦悩全体に及ぶようになる。
それこそが慈悲心の一部である。

苦しみがあるところでは、とうてい愛することはできない。
それはひとつの真実、ひとつの法則である。
誰か愛する人がいて、その人があなたのまったく反対していることを行い、そのためにあなたが苦しむとき、それはあなたが愛していないということになる。
その真実を見てごらん。
妻があなたを放り出して誰かほかの人のあとをおいかけるとき、いったいどうしてあなたは苦しむことができよう?
しかし、われわれはそういうものに苦しんでいる。
われわれは怒り、嫉妬し、ねたみ、憎んでいながら、同時に「私は妻を愛している」と言う。
このような愛は、愛ではない。
そこで、苦しむことなく、しかも広大な愛が花開くということは可能だろうか?

苦しみの本性、本質とは何か?
そのさまざまなかたちではなく、その本質は何か?
苦しみの本質は何か?
それは、その瞬間における、まったく自己中心的な存在の全面的な表現ではないだろうか。
それは〈私〉の精髄(エッセンス)である。
自我(エゴ)、個人、限定され、囲まれ、反抗している存在、つまり〈私〉と呼ばれている存在の精髄である。
理解と洞察を要する出来事が起こるとき、その〈私〉の精髄が苦しみのもとである。
もし〈私〉がまったく存在しなかったら、苦しみがあるだろうか?
その人は、人を助けたり、あらゆる種類の事をするだろうが、苦しむことはあるまい。

苦しみは〈私〉の表現である。
そのなかには自己憐憫がある。
逃げようとしたり、すでに去った他者と共に居ようとする孤独がある。
そして、そのなかにはその他のすべてが含まれている。
苦しみは〈私〉そのもの、すなわちイメージ、知識、過去の記憶である。
そこで、苦しみつまり〈私〉の本質は、愛といかなる関係をもっているのだろう?
愛と苦しみのあいだには何らかの関係がるのだろうか?
〈私〉は、思考によって組み立てられたものである。
しかし、愛は思考によって組み立てられたものだろうか?

愛は思考によって組み立てられたものだろうか?
苦痛、歓喜の記憶、そして性的な快楽あるいはほかの快楽の追求、誰かを所有し、あるいは所有されたいという快楽の追求―そういうものはすべて思考が構築したものである。
名前、姿、記憶などをもつ〈私〉は、あきらかに思考によって組み立てられたものである。
しかし、愛は思考によって組み立てられたものではないとしたら、そのときには苦しみは愛とは何の関係もない。
したがって、愛から出た行為は、苦しみから出た行為とは別のものである。

思考は、愛に関して、そして苦しみに関して、どんな役割をもっているのだろうか?
それを洞察することは、あなたが逃避していないということ、慰めを求めていないということ、孤独で、孤立するのを恐れていないということである。
したがってそれは、あなたの精神が自由であるということを、そして自由であるものは空であるということを意味する。
あなたはその〈空〉があるなら、苦しみに対する洞察もある。
そのときには〈私〉という苦しみは消える。
したがって、即時の行動が生まれる。
そうなったら行動は愛から出てくる。苦しみからではない。

人は、苦しみから出る行動は〈私〉の行動であり、したがってそこには絶え間ない葛藤があることを発見する。
そのすべての論理、その理由を見ることができるのである。
そうなってはじめて、苦しみの影をやどすことなく愛することが可能になる。
思考は愛ではない。
思考は慈悲心ではない。
慈悲心は叡智である。
それは思考の産物ではない。

叡智の行動とは何か?
もし叡智をもっていたら、その叡智は、はたらいている。
それは機能している、動いている。
しかし、もし叡智の行動とは何かとたずねるなら、その人はただ思考を満足させたいだけである。
慈悲深い行為とは何かを問うとき、そう問うているのは思考ではないだろうか?
「もしそういう慈悲心をもっていたならば、私はいまとは別のかたちでふるまうだろうに」と言っているのは、〈私〉ではないだろうか?
したがって、このような質問をするとき、人はまだ思考という観点にとらわれている。
しかし思考を洞察すれば、それに伴って、思考はそのしかるべき役割に戻るようになり、そうなったら叡智がはたらくのである。


翻訳家のノート: クリシュナムルティ
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