気づきの言葉

真理は、事実、理路整然としたものであるが、人間の矮小な認識能力からすれば、真理は、矛盾を含んだ、理解を寄せ付けない「道なき荒野」として映るかもしれない。

世界や人生に、望まない納得のいかない理不尽な出来事が起こったとしても、地球上において時間と引力の支配を受けないものが存在しないように、あらゆる現象は、「例外なく」真理の支配を受けている。

毛筋ほども違わぬ。
現実こそが神である。
現実を生きてこそ、大切なことが体得されていく。

つまり、人間が、自分自身の身に起こった出来事に対して好き嫌いを言って、受け入れたり受け入れなかったりすることは間違った態度であり、「病気」である。

色々な予想外の理不尽な出来事が人生にあったにせよ、そうした「なりゆき」は、神が、神の目から見た成功へと、その人が成り行くようにと導いている結果であり、すべて神のご守護と感謝して受け入れることが求められるのである。

世界と人生に起こる出来事を、たとえそれがいかに理不尽で、納得のいかない種類のものであっても、すべて例外なく、「歓喜」で受け入れる。その心に、限りない慈悲が降り注ぐ。

悟り・覚醒・解脱を欲して、あれやこれやと行法を修することは、まことに結構なことではあるが、「これをすれば覚醒できる」という計画は、多くの場合、苦しい現実からの逃避(エゴ)であり、神仏の意思に反する在り方であり、人間のこうした浅薄な「はからい」も何もかもを捨てて、ただ、神仏と人生に全託(全面的な信頼)して、目の前のことを喜んで受け入れることが、実は覚醒への近道であり、真の信仰なのである。

あるがままの現実を通して、神仏の御意思を、いまここに、直接にいただく、いわゆる真理の直接体験が最も美しい。

いかに手痛い出来事が起ころうと、神の導きと喜び、受け入れ、さらに生き生きと生きることが、信仰である。

悟りとは、自分の好き嫌いを離れて、目の前の真理を受け入れることであり、覚醒や解脱とは、そうした心が極まって、雲が晴れたように、あらゆる葛藤が消滅したところで、不意に感じられる底知れぬ安堵と軽やかな喜悦である。

「気づきの言葉」への2件のフィードバック

  1. お久しぶりです。
    以前内観研修をさせていただいた後藤と申します。その節は大変お世話になりました。

    気づきの言葉、読ませていただき本当にその通りだな、と感じ入っております。敢えて修行の意義を見いだすとすれば、あるがままの現実を歪めることなく、あるがままに観て受け入れることの出来る心を育む為なのだと、そう思いました。

    内観ではないですが、毎日座禅に数息観を取り入れて、少しでも現実をそのまま観ることの出来る心を育もうと取り組んでいます。

  2. お久しぶりです。コメント、ありがとうございます。

    現実を受け入れる(全托)とは、
    決して消極的なものではなく、
    究極的に強い生き方(心の在り方)だと思います。

    数息観も、じっくり深めていくなら、
    非常に良くできた訓練となりますので、
    ぜひ続けていかれて下さい。

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