観察の先にあるもの

痛み・悲しみ・苦しみがあるとき、それを観ている自分、それを恐れ、それに巻き込まれること無く、それを制御しようとしている自分という感覚があります。
「それを観察しよう(観察していよう)」とする心の動き(行為)自体が、それを恐れ、それを制御しようと云う自我に発する制御欲求・安全欲求に発している場合がある。
「(観ている自分と、見られている対象の)分離感のある自己観察」の極みが「分離なき観察」であり、更に言えば、それは「観察」ですらなく、ただ「それ(対象物)」であること、「それ」になっていること、「それ」としてハタラクことである。
観ている自分(自我)と云う残り滓なしに、完全に「それ」しかないとき、「それ」が自然に働き、純粋な衝動・エネルギー・振動として展開し、それを昇華する。
クリシュナムルティは、それを「フラワリング(開花)」と云う言葉で表現します。
禅の逸話にこういうのがあります。
白隠禅師に長く参じたおばあちゃん(大姉)が居た。
白隠さんにも一目置かれるほどの、いわゆる「悟った」おばあちゃんであった。
あるとき、そのおばあちゃんの孫が事故で死にました。
そのお葬式の時、おばあちゃんは、ワンワン言って泣いてました。
それを見た近所の人たちが、「何だー、あのおばあちゃん、普段悟ったとか何とか言ってるけどさー、あんなに取り乱して泣いちゃってさー、普通の人と何にも変わんないじゃない」とかささやきあっていました。
それを聞いたおばあちゃんは、「あんたら何も分かっていないねー。自分のこの号泣は、どんな偉いお坊さんのお経よりも功徳があるんだよ」と答えた。
この話の意味は、自分では、まあ理解しているつもりで居たのですが、数日前、「なるほど、そういうことなのか」と、やっと腑に落ちた感じがありました。
大きな山を貫通しているトンネルを抜けて、その先に行きたいなら、そのなかに真っ向から入っていくしかないように、トンネルを幾ら外から観察したところで、その通路を抜けた先にはいけない。
雨雲を外から見ていても、何も分からないように、そこに突入して、暗く、濡れた場所を、モミクチャになりながら通り抜けるしかない。
痛み、苦しみ、惨めさ、喪失感などを超える、最高で、最短の道は、ただ全面的に苦しむことである。
苦しんでいる、そこから逃れようとしている自分すらないまでに、苦しみに打ちのめされ、打ち負かされて、苦しみそれ自体しかない状況に、真っ直ぐに飛び込んでいくこと(あるいは引きずり込まれていくこと)
これは、テクニックなどではなく、単に、どうしようもなく、駄目になることである。
それが起こるとき、これはマズイ! このままでは駄目になってしまう、との自我の足掻きが起こるが、それに構わず、負けて、飲み込まれて、駄目になって、訳が分からなくなってしまえば良い。
つまり、最高の方法は、無方法であり、(方法を求めることこそが、最大の問題からの逃避・延期であり)方法など考えずに、全面的に、それに負け、突入することが必要である。
ただ、これは自分(自我)が行なえることではなく、起こるときには起こること。不慮の事故、あるいは神の(宇宙の)恩恵である。
先ごろ亡くなった、東山寺の雪担和尚さんも、このことばかり言ってました。
このことしか言ってなかった、と云っても良いです。
しかし、それは禅にしか言えないこと(禅の専売特許)ではなく、クリシュナムルティであれ、ヴィパッサナーであれ、インド系の教えであれ、(言い回しは違うけど)行き着くところまで行けば、そうなるしかない話で。
心の治癒と魂の覚醒  他人事のように自分を見る
http://lasttimer.blog130.fc2.com/blog-entry-176.html
ここでは、外から「他人事のように自分を見る」工夫が紹介されています。
これも、間違いではなく、私たちにできることは、ただどこまでも、いまある苦しみを観ることだけであり、その極みにおける飛躍は、ただ起こるべきときに起こるだけで、狙うことも、訓練することもできません。
この「観察の先、観察対象へのジャンプ」は、自己観察と云う道(通路)を通り抜けた先にあるものであり、そこに向けてできることは、地道な、弛みない、粘り強い観察の訓練のみです。
「絶望(何もしないこと)と飛躍」が起こる為には、「あらゆることをし尽くさなくてはならない」。その「できること」とは、気づきの訓練、今ある問題を純粋に観ることの持続、強化でしかないです。
……
言い方を変えれば、つまり、こういうことです。
自我(思考、記憶、比較)があるから、(たとえば)嫉妬が起こります。
その意味では、「嫉妬」は幻(蜃気楼)のようなものです。実体がない。
しかし、一旦、嫉妬と云うものがる強度を持って成立してしまうと、それは現実に存在するもの(法)になります。苦しいです。
その嫉妬を、見ている自我なしに(思考・イメ-ジ、変えようとする心なしに)観察するなら、その「嫉妬」というものだけが、実在であり、真実であり、それしかありません。
そのとき、その嫉妬と名付けられた感情そのものが、自発自展して、真理へと変容します。
それが嫉妬によって嫉妬を越える道であり、大乗仏教などの行き方です。