修行の動機を問え

(昔書いて、そのままになっていた文章のお蔵出しです)

悟りに憧れる前に、苦をなんとかしたいという欲求を見る。

瞑想の動機 苦

『臨死体験・気功・瞑想』掲示板

を覗いてたら、共感できる文章に出会った。

─引用開始─

Re:瞑想は散歩のようなもの  robert zimmerman

> 神秘体験や癒しや悟りなどと言って看板をあげると、
> 私のような「愛されたいお化け」とか、「知ったかぶりお化け」
> 「性欲抑圧頭脳昇華型お化け」「現実不適応故精神世界で一旗あげようお化け」
> 「タレントよりもグルの追っかけしようお化け」などが
> わんさか寄ってきて(まじで全部あてはまる(TT))、
> 多重的に親や恋人や子どもなどの役割を投影され、
> 転移感情を向けられることになります。

─引用終了─

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●以前にこんなことを書いたが、今でも、この考えに変わりはない。

> それに、何らかの結果を求める瞑想法は

何の結果も求めない瞑想法なんてあるのだろうか?

自身を率直に見つめるかぎり、

苦があるから楽になりたい、
不満であるから満足したい、
落ち着けないから落ち着ける状態になりたい、
今、現状が不満だから、一瞬先の未来ででも満足(充実)したい。

これが何であれ、行為の動機であるように思えます。

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更に一般化して言えば、
人間の行為全ての動機が、不快を避け快を得たい、苦を避け楽に至りたい…などの「快感原則」に従っているのであって、一見、そうではないように見える行為も(K読むのも、vipassana実践するのも、掲示板に書き込むのも)全てこの原則に常に従っている。

「苦を免れようと云う動機を持っての行為によっては、苦を免れることはできない」という指摘は、その後に来るものであって、まず、そもそもの始めに、「自分は、苦を免れたくて行為(瞑想?)をしているのだ」と云うことを認めなくては何も始まらないのではないのでしょうか。

「あなたは何のために修行しているのですか?」
「苦しいので楽になりたくて….」
「不満なので、満足したくて….」

これ以上、真摯な答えがあり得ようか。

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念のため書いておくと、
「快感原則」とは、我々が、行為(意志・選択)において、常に/既に、無自覚的に従っている衝動のごときものであって、自覚的に、自分の判断力で選べるものではない、ということ。