理解とは、統合の過程である

私がこれまで取り組んできたものを振り返ってみると、それは互いに否定しあい、対立しあう理論と技法との戦場でした。

ある教えには、大抵、対立する方法論(実践技法)と理論を持ったライバルとも云える教えが存在し、その、それぞれの教えのなかにも、より細かいセクト・流派があり、その中にも、更なる対立…と、より小さな方向にも、より大きな方向にも、無限の対立があるなかでの探求・試行錯誤でした。

それら対立し、否定しあう教えの双方を学び、実際に技法を習得していくなかで、「理解(の進展)とは、異なるものの統合の過程なのではないか」との思いに至りました。

その自分のなかの直感を最もうまく言語化しているものに「ヘーゲルの弁証法」があります。

ヘーゲルの弁証法を構成するものは、ある命題(テーゼ=正)と、それと矛盾する、もしくはそれを否定する反対の命題(アンチテーゼ=反対命題)、そして、それらを本質的に統合した命題(ジンテーゼ=合)の3つである。

全てのものは己のうちに矛盾を含んでおり、それによって必然的に己と対立するものを生み出す。
生み出したものと生み出されたものは互いに対立しあうが(ここに優劣関係はない)、同時にまさにその対立によって互いに結びついている(相互媒介)。

最後には二つがアウフヘーベン(aufheben,止揚(しよう),揚棄(ようき))される。

このアウフヘーベンは「否定の否定」であり、一見すると単なる二重否定すなわち肯定=正のようである。
しかしアウフヘーベンにおいては、正のみならず、正に対立していた反もまた保存されているのである。
ドイツ語のアウフヘーベンは「捨てる」(否定する)と「持ち上げる」(高める)という、互いに相反する二つの意味をもちあわせている。 【弁証法 – Wikipedia】より

し‐よう【止揚】(Aufheben 「廃棄」「高めること」「保存すること」の意)
弁証法的発展では、事象は低い段階の否定を通じて高い段階へ進むが、高い段階のうちに低い段階の実質が保存される。 矛盾する諸契機の統合的発展。揚棄【広辞苑 第五版】より

単なる融合・合体・統一ではなくて、互いに否定しあう対立項が、その矛盾をより上位のレベルで捨てると共に保持することによって次の段階の統合に至る。
そして、そのプロセスが果てしなく繰り返されながら、「絶対精神=気づきの完成」に至る、それが世界であり、歴史である。

私が出会う瞑想法であれ、ボディワークであれ、武術であれ、哲学・思想であれ、それは、すでに歴史を持っています。
と云うことは、もう既に幾多の天才・達人たちの人生の中で繰り返し統合されてきたものです。
それを、いま学び、自身の人生をかけた理解・実践の試みのなかで統合させていきます。
それが代々引き継がれてきます。

(瞑想、ボディワーク、武術、哲学、科学(技術)など)それぞれの理論、それぞれの技法が、互いに否定しあい、からみ合い、互いに影響をあたえ合いながら流れていき、最後には気づきの海に注ぐ大河のようなもの。

その流れのなかに私たちの日々の生活、理解、実践があり、そのなかに私たちは、歴史的存在として存在しています。

それは、衛星写真に写された大河の流れのようです。

まさに自分自身が、いま、まさに歴史的存在として、その流れのなかにあることを認識(実感)するのは、日常的な感覚・スケールでは難しいことです。

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ボディワークも、瞑想も、存在(宇宙)は全て大いなる統合に向かっている。より複雑な、組織化へ向かう。

また、最終的に統合されるなら、はじめから分化しなければいいじゃないか、との問いには、こう答えられます。
→ はじめから一つでは、否定が無く、進化も起こらない。より上位の統合のためには、否定しあう契機が必要。

相対主義的な統合 統合されない統合

しかし、この「統合」は、単に部分が全体に含まれるような、それぞれのパーツが平面状のパズルの絵柄に統一されるような、あるいはホロン的な構造でもなく、「互いが互いを飲み込みつつ飲み込まれている」独特の(他者論的)構造を持ちます。

ホロン(Holon)とは、物の構造を表す概念。部分であるが、全体としての性質も持ち、上下のヒエラルキーと調和し、機能する単位。全体を構成する要素がそれ自体、全体としての構造をもつ場合の、要素(部分)としてのひとつの全体。全体子とも言う。例えば、人体という全体を構成する要素(部分)である細胞も、各々全体としての構造、機能をもっており、ホロンであると言える。【ホロン (哲学) – Wikipedia】より

「盲人の象」と云う喩えがあります。→ 群盲象を評す – Wikipedia

この喩えを使うとき、使っている本人は、それを離れたところから見ている超越者として自分を位置づけ(語り)ます。(そうでないなら、この喩えは使えません)

しかし、実際には、全ての人(全ての世界理論)が、自分はその超越的観察者だと思いつつ、相手の世界から見たら、その中に登場している一人物でしかないという形で飲み込みあっています。

その「どうしようとも超越的な立場には立てない、超越的な立場と云うものが無い」と云うのが「相対主義」の原初的感覚であり、私の場合、そもそもからして、その問題感覚を強く抱いての出発でした。

その上で、瞑想宗教の超越主義(独我論)を、どう捉えるか、相対主義(他者論)の問題意識に、どう答え得るか、が次の主題です。

それについては、「他者論/独我論、超越主義/相対主義」を主題とした別ファイルにて書きます。

……

これから書こうとしているのは、私の人生であった統合の流れの総括であり、それをこうして残そうと思うのは、これを読むことになるかもしれない未来の子孫の更なる統合の一つの材料になる「義務」があると思うからです。

これは「私は、ここまでの統合を見た。あとは君たちが(それを一つの材料として、生かして)、どこまで進めるかだ」とのメッセージです。

私がこれまで関心を持ち取り組んできた理論・技法の主なものは、以下の通りです。

  • クリシュナムルティ
  • 禅 (臨済下の白隠系公案禅、井上義衍老師の法系、少林窟道場)
  • ヴィパッサナー瞑想 (マハーシ、ゴエンカ、スリランカシステム)
  • 内観
  • フェルデンクライス・メソッドを中心とした、気づき系のボディワーク
  • コンティニュアム・ムーブメントなど、自働運動系のボディワーク
  • 刀禅、韓氏意拳、胴体力など、武術にルーツを持つ身体開発法
  • 相対主義、他者論など

私には、これらのジャンルを主な生息地として生きてきたので、それらを話題の中心に据えることになります。

しかし、これは、「私においてはそうであった」と云う一つの実例であり、aoa自体は、これら扱われている内容物には規定されません。

気づきの弁証法理解=統合の終わらない過程こそがaoaの本体(実体)であるからです。


Art of Awarenessは、以下の「対立するものの統合」をその本体とする。

臨済禅と曹洞禅 禅
禅(自力)と内観・浄土系(他力) 日本仏教
小乗(テーラワーダ仏教)・ヴィパッサナーと大乗仏教・禅 仏教
クリシュナムルティと仏教
気づき系ボディワークと活元系ボディワーク
気づき系の心身技法と丹田系の心身技法
刀禅とフェルデンクライスなど ボディワーク内での統合
形意拳・太極拳・新陰流 刀禅のなかでの統合
瞑想とボディワーク
超越主義(瞑想宗教)・真我(独我)論と相対主義・他者論
瞑想宗教と進化生物学
瞑想宗教と科学
瞑想と芸術