知らないであること

不確かさ(uncertainly)の状態、「知らない」という状態に留まること

……

明らかに教師も生徒も不安でなければならない。
教師もまた調べ、探求しなければならない。
決して一定の場所に留まって、「私は知っている」と言ってはならない。
英知の持ち主は決して静止しておらず、「私は知っている」と言わない。
彼は常に探求しており、常に不安定で、常に見つめ、探し、見出しつつある。
自発性を生み出し、英知をもたらすのは、たゆみない探求である。
単に答えに満足することは精神を鈍感にする。

……

あなたは人々が何を言ったか聞いてきたかもしれません。
人々が何を言ったか読んできたかもしれません。
私はそのすべてを捨てます。

私に分かっているすべては、「私は知らない」ということだけです。
あなたもまた、そのような立場― そのような心が存在するのかどうか、そして一体それに到ることができるのかどうか知らないという立場にいるでしょうか。

あなたは知りません。
振りをしないでください、それがすべてです。
私は知りません。
「私は知らない」という心は、それゆえ自由に調べることができます。

自由があります。
それは最初の一歩で最後の一歩です。
それをゆっくりと踏み出して下さい。

「私は知らない」と言うとき、私は、誰にも、何の環境にも、過去のものや未来のもののどちらにも頼っていません。
あなたはその立場にいますか。
でなければ、あなたは、隠れた師、隠れた案内、隠れた記憶を持っていて、知らない振りをしているのです。

「私は知らない」と、あなたは正直に自分自身に言えるでしょうか。
そう言えるとき、私は自由に尋ねることができます。
したがって探求は最初に自由であることを必要とします。
最初に自由なこと― 最後に、ではなく。
あなたの禅から自由なこと、あなたの瞑想、あなたの方式、あなたの神、あなたの導師、あなたの概念から自由なこと。

放棄して下さい、
そういったすべてを放棄して下さい。
あなたは、キリスト教徒でも仏教徒でもありません。
放棄して下さい。
そのとき自由に探求することができます。
それは、心が独りであるのを恐れていないということです。

さて、私は調べようとしています。
なぜなら私は、何が起きようとしているか知らないからです。
私は結果を求めていません。
私はそれを見つけること、あるいは見つけないことを望んでいるのではありません。
なぜなら私の主張は、心は自由に調べることができなければならない、したがって一瞬の歪みも決してあってはならないということだからです。

動機があるとき歪みがあります。
私は動機を持っていません。
私は気にしていません。
そのような心が存在するかしないか、気にしていません。
私の調査は、動機がなく、終りがなく、どんな権威も、過去も未来もまったく持っていません。
したがってそれは自由に調べることができます。

あなたは知りません。
それで、なぜ、あなたはそこから出発しないのでしょうか。
私はどうやって葛藤を終らせるか知りません。
私は葛藤、矛盾のなかに生きています。
私はそのことを調べています。
なぜなら私は何が起ころうとしているか知らないからです。
そこに留まって下さい。
私は葛藤を調べています―それを超えることができるのかどうか、本当に知らない、と云う心でもって。

あなたは「私は本当に知らない。私は葛藤のなかに生きているが、どうやってそれを解決したらいいのか知らない」という心で出発しています。
そこに留まって下さい。
一歩一歩それを調べて下さい。
あなたは知らないで出発します。
したがってあなたは自由で出発します。

……

思考が全く機能していない状態において問いが発せられるなら、そして、あなたが「本当に私は知らない」と言うなら、その状態のなかに何があるでしょう。
「私は知らない」と言っている、その心の状態はどうでしょう。
思考があるでしょうか。本当に思考があるでしょうか。
あなたは今、待っていません、期待してはいません。
あなたの頭脳は、それがどうあっても答えることのできない何かに直面しています。
脳細胞は静かです、応答も反応もなく。
あなたは答えを知らないまま、問いと共に留まります。
あなたの頭脳は完全に静かです。
なぜなら頭脳は、まったく知らないからです。

あなたの心は途方もなく活発です。
その心、その頭脳は今、完全に活発です。
以前には、それは答えを待っていました。
それは尋ねており、要求しており、期待していました。
答えがまったくないとき、それはあなたが眠っているということを意味しません。
それどころか、あなたの全身、あなたの有機体全体、あなたの精神、あなたの脳細胞は、途方もなく活発です。
しかし、そのとき思考はありません。
そばを通り過ぎるあの車、あの列車に、その強烈な活発さの感覚で聞き入るとき、何が起こるでしょうか。
思考があるでしょうか。

…思考がまったくない心の状態があります。
それは行為の状態です。
その心の状態が何かを為すとき、それは観念に基づいてはいません。
ひとはそのとき、「積極的な行為」の有害さを知ります。
それが全的に理解されるとき―言葉上でではなく実際に、断片的にではなく全的に、理解されるとき、そのとき、否定である自然な状態―反応ではなく、積極的なものの拒絶ではない、否定的な心の状態が生じるのです。
そのような心は強烈に活発であり、したがってそれは行為なのです。
心それ自体が行為なのです。

……

思考は既知のものの領域外で働くことはできるでしょうか。
明らかにできません。
それは、自分が知らないもののなかでは働けないのです。
では、なぜそのように働くのでしょう。
なぜなら、それが私が知っている唯一のものだからです。
そのなかに安定があり、保護があり、安全があるからです。
それが私が知っているすべてです。
思考は既知のものの領域でしか働けません。
やがて思考がそれに飽きると、それは、その領域の外の何かを求めます。
しかし、それが求めるものはなお既知のものです。
その神々、そのビジョン、その霊的状態―すべては、既知なる過去から既知なる未来への投影なのです。
そのように思考は、常にこの領域で働いているのです。
それゆえ思考は常に獄舎のなかで働いているのです。
自分のことを自由だとみなすことも、美しいとみなすことも、あるいはその他どのように見なすこともできます。
が、それは常に柵の内側にあるのです。

そこで私は、そこ(内側)以外のところで思考に持ち場があるかどうか知りたいと思います。
「私は知らない」「私は本当に知らない」と私が言うとき、思考の居場所はないのです。
お分かりですか。
私は本当に知らない。
私はこれしか知らない、ここ以外の所で思考が働けるかどうか本当に知らない。
「私は知らない」と私が言うとき、それは知ることを期待して言っているのではありません。
「私は本当に知らない」と言うとき、何が起こるでしょう。
私は梯子を降ります。
「私」、精神は完全に謙虚になるのです。
そして、その「不知」の状態が英知(intelligence)なのです。
するとそれは既知の領域内で働き、もし望めば、どこか他の場所でも自在に働けるのです。

……

頭脳は、その慣れ親しんだ自己防衛的な反応のパターン― 判断、非難、受容― に依りすがることなく、常に鋭敏で、全面的な不確かさ(uncertainly) の内に留まらねばならない。

……

私は自由でなければなりません。
あなたの意見、あなたの判断、あなたの真理からだけでなく、私自身の偏見や結論から。
私が理解してきた、私が読んできたことからの自由―私はそれらのすべてから自由でなければなりません。
私はまた、雑音によってごったがえしていない空間を持たなければなりません。
私は自由と沈黙である空間を持たなければなりません。
欲求がなく、即座の解答という雑音がなく、尋ねることのない沈黙の感覚がなければなりません。
心のなかに空間がなければなりません。
それは完全に静かであり、答えを待ったり期待したりしておらず、完全に静かです。
そのとき、ひとは自分で― 見解ではなく― 真理を見出すかもしれません。

……

本当の宗教とは何なのかを見出すためには、単に一日の努力や、一日の探求ではなく、絶え間ない尋問、かき乱す調査を必要とします。
その結果、あなたがあらゆるものを捨て始めるように。

結局、この捨てるということこそが思考の最高の形態なのではないでしょうか。
肯定的な思考の追求は少しも考えることではありません。
それは単なる反応に過ぎません。
そうではなく、動機なしに、結果を求める欲望なしに、調査があるとき―それは否定的な接近法なのですが―その調査のなかで、心は伝統的な宗教すべてを超えて進むのです。
そのとき、ひとは、神とは何か、真実とは何かを自分の力で見出すのです。