生の全体性 第二部 第一章(抄)

実際に、あるがままの自分の姿を自分の力であばくことは、きわめて重要である。
心理学者や哲学者やグルの理論・主張・体験に従ってではなく、むしろ自分自身の本性と運動の全体を探求することによって、実際にあるがままの自分を見ることによって、そうすることが重要なのである。

心理的な意味において、あたかも鏡のなかの自分を見るように実際にあるがままの自分の姿を見ること、
そうすることによって自分自身の構造そのものを変容させること― それがいかに途方もなく重要であるかを、人は理解できないようである。
そういう変容、変換を根本的、徹底的に為し遂げるとき、その変換は人間の意識全体に影響を及ぼす。
これは絶対的な事実・真実である。
もし人が本当に真摯なら、もし人が世界の状況―世界のひどい悲惨、混乱、不安定な状態、さまざまな宗教や国家間の分裂や戦争、国家の名のもとに戦争を準備し、民衆を殺戮するために莫大な金額を費やして軍備を増強していることなど―に目を向けるなら、根本的な変容を為し遂げることが、きわめて重要になる。

実際にあるがままの自分を見るためには、自由であることが不可欠である。
自分の意識の中身すべてからの自由、思考によって組み立てられた一切のものである意識の中身からの自由があることが不可欠である。
自分の意識の中身からの自由― 自分の怒りや野蛮さ、虚栄や傲慢、自分がとらわれているものすべてからの開放、自由― それが瞑想である。
あるがままの自分を見ること自体が、すでに変容の始まりである。
瞑想とは、内面的に、したがって外面的にも、あらゆる衝突や葛藤の終焉を意味する。
実際のところ、内面や外面というものはない。
それはあたかも海のように、満ち干きしている。

実際に、あるがままの自分をあばくとき、人はこう問う。
観察者、自分自身は、自分が観察する対象と違うものだろうか。
私は怒っている、私は貪欲だ、私は暴力的だ…
そのは、観察されるもの― 怒り、貪欲、暴力― とは別個のものだろうか、別の存在だろうか。

あきらかに否である。
怒っているときには、怒っているは存在しない。
存在するのは、ただ怒りだけである。
だから怒りはであり、観察するものは観察されるものである。
両者の区別はまったく消し去られる。
観察者とは観察されるものであることが分かり、それゆえに葛藤はおのずと熄む。
瞑想の役目は、内面的に、したがって外面的にもあらゆる葛藤を完全に消し去ることである。
葛藤を消し去るためには、この基本原理を理解しなければならない。
「心理的に、観察者とは、実は観察されるものに他ならない」
怒りがあるとき、そこには居ない。
だが、一瞬後に思考がを作り出し、「私はいま怒った」と言う。
そして、「私は怒るべきではない」という考えを持ち込む。
だから、まず怒りがあって、しかる後に、怒るべきではないが出てくる。
その分裂が葛藤を生むのである。
観察する者と観察されるものとのあいだに分裂がなく、したがって、あるのはただあるがままの実体、すなわち怒りだけだとしたら、そのときには何が起こるだろうか。
怒りは続くだろうか、それとも怒りは完全に熄むだろうか。
怒りが湧き上っても、それを目に留める者がなく、分裂もないとき、その怒りは花開いてそしてしぼむ。
さながら一輪の花のように、それは咲き、枯れ、そして消え去る…
しかし怒りと闘っている限り、怒りに抵抗し、怒りを正当化している限り、人は怒りに活力を与えていることになる。
観察する者が観察されるものであるとき、怒りは花開き、成長し、おのずと死ぬ。
したがって、そのなかには心理的な葛藤はない。

……

人の行為は分裂し、ばらばらになっている。
行為がばらばらであるときには、それが心理的に葛藤をもたらすことは避けがたい。
葛藤もなく、どんな後悔や失敗や失望感もないような行為があるだろうか。
全体的で調和のとれた完璧な行為、他の領域に対して自分の特殊な領域を主張することのないような行為があるだろうか。

自分が実際に何をしているか、自分が実際に、いかに矛盾した人生を生き、矛盾した行為を犯しているかということを、そして、それ故に葛藤に陥っているのだということを見なければならない、気づかなければならない。
そして完全に気づいたら、そのときには何が起こるだろうか。

私が矛盾した行為のなかに生きていて、あなたが私に、「それに気づきなさい」と指摘したとしよう。
「それに気づく」とはどういう意味だろうか、と私は尋ねる。
あなたが選ぶとき、すなわち「私はこの行為が好きだ、私はそれを続けていきたい、どうか私が他のことをしないでいられるようにして下さい」と言うときには、気づきは不可能である。
それは気づきではない。
それは、いちばん気に入った、快適で、満足をもたらすような、見返りがありそうな特定の行為の選択である。
選択があるところには、完全な気づきはない。
もし人が完全に気づいていたら、まったく問題はない。
そうなったら、そこには連続的な、どんな断絶もないがゆえに全体的な行為が生ずる。
それはまともな精神を持つこと、つまり特定の信念、教義、理想、その他どんなものにも拘束されないことを意味する。
それは明晰に、じかに、客観的に考えることのできる精神を持つことに他ならない。
瞑想の過程で、人はそう云う行為を発見するに至る。

……

瞑想とは何かを見出すにあたって、これが瞑想だと考えられているこれまでの一切の知識は、その探求の妨げになる。
だから心理上の権威からの自由が絶対に必要である。
その探求に欠かせないものは何か。
精神集中か、留意か、それとも気づきか。
精神集中するときには、その人の全エネルギーは、何か特定の対象に集中され、干渉してくる思考すべてに抵抗し、それを排除する。
精神集中にあっては、人は抵抗している。
しかし、自分の思考に気づくには、どんな精神集中も要らない。
気づきにおいては、自分はどの思考が好きかという選択はしない。
ただ気づいているだけである。
その気づきから留意が生じる。
留意にあっては、自分の注意の起点となるような中心はない。
これを理解することは極めて重要である。
それは瞑想の本質である。
精神集中にあっては、メンタルイメージ、観念、表象などへの精神集中の起点となる中心がある。
そして、他の思考が入らないよう集中し、抵抗し、壁を築こうとエネルギーを使っているから、必然的に葛藤が生じる。
その葛藤を全面的に消し去りたかったら、選ばないで思考に気づきなさい。
そうすれば、どんな思考についても、矛盾、抵抗は無くなる。
そこから気づきが、自分の思考のあらゆる動きについての気づきが起こる。
その気づきから留意が出てくる。
真に深く何かに注意するときには、中心、つまりは、いない。

留意においては― もし、その境地まで行けたら― 人は思考の苦役のすべてから解放される。
その恐怖、苦悶、絶望から解放される。
それが根本である。
自分の意識の中身が空っぽになり、解放されていくのである。
瞑想とは、意識の中身を空にすることである。
意識の中身のすべてを空っぽにすること、思考、想念が終息すること、それが瞑想の意味、瞑想の深さである。

瞑想とは、記録なき留意である。
ふつう頭脳は、騒音や発せられる言葉やほとんどすべてのものを、ちょうど録音テープのように記録している。
では、頭脳が絶対に必要なもの以外記録しないということは可能だろうか。
なぜ侮辱を記憶しなければならないのか。
なぜお世辞を記憶しなければならないのか。
それは不必要だ。
なぜ傷を心に刻んでおかなければならないのか。
不必要だ。
だから、技術者、作家などとして日々の生活を送るために必要なものだけを記録しておきなさい。
だが、心理的には何も記録しないことだ。
瞑想においては、心理的には何の記録もない。
会社へ行く、工場で働くといった生活上の実際面以外には、何ひとつ記録しない。
そこから完全な沈黙が生じる。
それは思考が終焉したからである。
ただし絶対に必要なところでは思考は働く。
時間は終焉した。
そして、その沈黙のなかで、まったく次元の違う運動が起こる。

そうなると、宗教は完全に違う意味合いを帯びてくる。
これまでは、それは思考の問題であった。
思考、想念が様々な宗教を作ってきた。
だから各宗教は分派し、各分派のなかに更に多種多様な流派がある。
信仰、希望、恐怖、あの世での安心を得たいという願望なども含めて、宗教と呼ばれるものは全て、思考、想念の生み出した結果である。
それは宗教ではない。
それは思考の運動に過ぎない。
恐怖、希望、安定を求める試みのなかで起こる思考の運動、物質的な過程に過ぎない。

では、宗教とは何か。
それは探求である。
神聖なるものを見出し、聖なるものに出会うために、自分の注意の全てを注ぎ、全身全霊を捧げる「探求」である。
それが起こり得るのは、ただ思考という騒音から解放されたときだけである。
心理的、内面的に思考や時間が終焉したときだけである。
ただし、それは知識をもって働かなければならない世間での知識の終焉ではない。

聖なるもの、神聖なるもの、真実なるものが存在できるのは、完全な沈黙があるときだけであり、頭脳自体が、思考をしかるべき持ち場につけたときだけである。
その計り知れない沈黙から、神聖なるものが生まれる。

沈黙には空間が必要である。全意識構造における空間が。
いまの有り様では、人間の意識構造のなかには空間はない。
それは様々な恐怖で一杯だからである。
混雑し、饒舌で一杯だからである。
沈黙があるときには、広大な、時間なき空間がある。
そのとき初めて、永遠なるもの、神聖なるものに出会う可能性が開けてくる。