『生の全体性』 第二部より

実際に、あるがままの自分の姿を自分の力であばくことは、きわめて重要である。
心理学者や哲学者やグルの理論・主張・体験に従ってではなく、むしろ自分自身の本性と運動の全体を探求することによって、実際にあるがままの自分を見ることによって、そうすることが重要なのである。

心理的な意味において、あたかも鏡のなかの自分を見るように実際にあるがままの自分の姿を見ること、
そうすることによって自分自身の構造そのものを変容させること― それがいかに途方もなく重要であるかを、人は理解できないようである。
そういう変容、変換を根本的、徹底的に為し遂げるとき、その変換は人間の意識全体に影響を及ぼす。
これは絶対的な事実・真実である。
もし人が本当に真摯なら、もし人が世界の状況―世界のひどい悲惨、混乱、不安定な状態、さまざまな宗教や国家間の分裂や戦争、国家の名のもとに戦争を準備し、民衆を殺戮するために莫大な金額を費やして軍備を増強していることなど―に目を向けるなら、根本的な変容を為し遂げることが、きわめて重要になる。

実際にあるがままの自分を見るためには、自由であることが不可欠である。
自分の意識の中身すべてからの自由、思考によって組み立てられた一切のものである意識の中身からの自由があることが不可欠である。
自分の意識の中身からの自由― 自分の怒りや野蛮さ、虚栄や傲慢、自分がとらわれているものすべてからの開放、自由― それが瞑想である。
あるがままの自分を見ること自体が、すでに変容の始まりである。
瞑想とは、内面的に、したがって外面的にも、あらゆる衝突や葛藤の終焉を意味する。
実際のところ、内面や外面というものはない。
それはあたかも海のように、満ち干きしている。

実際に、あるがままの自分をあばくとき、人はこう問う。
観察者、自分自身は、自分が観察する対象と違うものだろうか。
私は怒っている、私は貪欲だ、私は暴力的だ…
そのは、観察されるもの― 怒り、貪欲、暴力― とは別個のものだろうか、別の存在だろうか。

あきらかに否である。
怒っているときには、怒っているは存在しない。
存在するのは、ただ怒りだけである。
だから怒りはであり、観察するものは観察されるものである。
両者の区別はまったく消し去られる。
観察者とは観察されるものであることが分かり、それゆえに葛藤はおのずと熄む。
瞑想の役目は、内面的に、したがって外面的にもあらゆる葛藤を完全に消し去ることである。
葛藤を消し去るためには、この基本原理を理解しなければならない。
「心理的に、観察者とは、実は観察されるものに他ならない」
怒りがあるとき、そこには居ない。
だが、一瞬後に思考がを作り出し、「私はいま怒った」と言う。
そして、「私は怒るべきではない」という考えを持ち込む。
だから、まず怒りがあって、しかる後に、怒るべきではないが出てくる。
その分裂が葛藤を生むのである。
観察する者と観察されるものとのあいだに分裂がなく、したがって、あるのはただあるがままの実体、すなわち怒りだけだとしたら、そのときには何が起こるだろうか。
怒りは続くだろうか、それとも怒りは完全に熄むだろうか。
怒りが湧き上っても、それを目に留める者がなく、分裂もないとき、その怒りは花開いて、そしてしぼむ。
さながら一輪の花のように、それは咲き、枯れ、そして消え去る…
しかし怒りと闘っている限り、怒りに抵抗し、怒りを正当化している限り、人は怒りに活力を与えていることになる。
観察する者が観察されるものであるとき、怒りは花開き、成長し、おのずと死ぬ。
したがって、そのなかには心理的な葛藤はない。

……

人の行為は分裂し、ばらばらになっている。
行為がばらばらであるときには、それが心理的に葛藤をもたらすことは避けがたい。
葛藤もなく、どんな後悔や失敗や失望感もないような行為があるだろうか。
全体的で調和のとれた完璧な行為、他の領域に対して自分の特殊な領域を主張することのないような行為があるだろうか。

自分が実際に何をしているか、自分が実際に、いかに矛盾した人生を生き、矛盾した行為を犯しているかということを、そして、それ故に葛藤に陥っているのだということを見なければならない、気づかなければならない。
そして完全に気づいたら、そのときには何が起こるだろうか。

私が矛盾した行為のなかに生きていて、あなたが私に、「それに気づきなさい」と指摘したとしよう。
「それに気づく」とはどういう意味だろうか、と私は尋ねる。
あなたが選ぶとき、すなわち「私はこの行為が好きだ、私はそれを続けていきたい、どうか私が他のことをしないでいられるようにしてください」と言うときには、気づきは不可能である。
それは気づきではない。
それは、いちばん気に入った、快適で、満足をもたらすような、見返りがありそうな特定の行為の選択である。
選択があるところには、完全な気づきはない。
もし人が完全に気づいていたら、まったく問題はない。
そうなったら、そこには連続的な、どんな断絶もないがゆえに全体的な行為が生ずる。
それはまともな精神を持つこと、つまり特定の信念、教義、理想、その他どんなものにも拘束されないことを意味する。
それは明晰に、じかに、客観的に考えることのできる精神を持つことに他ならない。
瞑想の過程で、人はそう云う行為を発見するに至る。

……

瞑想とは何かを見出すにあたって、これが瞑想だと考えられているこれまでの一切の知識は、その探求の妨げになる。
だから心理上の権威からの自由が絶対に必要である。
その探求に欠かせないものは何か。
精神集中か、留意か、それとも気づきか。
精神集中するときには、その人の全エネルギーは、何か特定の対象に集中され、干渉してくる思考すべてに抵抗し、それを排除する。
精神集中にあっては、人は抵抗している。
しかし、自分の思考に気づくには、どんな精神集中も要らない。
気づきにおいては、自分はどの思考が好きかという選択はしない。
ただ気づいているだけである。
その気づきから留意が生じる。
留意にあっては、自分の注意の起点となるような中心はない。
これを理解することは極めて重要である。
それは瞑想の本質である。
精神集中にあっては、メンタルイメージ、観念、表象などへの精神集中の起点となる中心がある。
そして、他の思考が入らないよう集中し、抵抗し、壁を築こうとエネルギーを使っているから、必然的に葛藤が生じる。
その葛藤を全面的に消し去りたかったら、選ばないで思考に気づきなさい。
そうすれば、どんな思考についても、矛盾、抵抗は無くなる。
そこから気づきが、自分の思考のあらゆる動きについての気づきが起こる。
その気づきから留意が出てくる。
真に深く何かに注意するときには、中心、つまりは、いない。

留意においては― もし、その境地まで行けたら― 人は思考の苦役のすべてから解放される。
その恐怖、苦悶、絶望から解放される。
それが根本である。
自分の意識の中身が空っぽになり、解放されていくのである。
瞑想とは、意識の中身を空にすることである。
意識の中身のすべてを空っぽにすること、思考、想念が終息すること、それが瞑想の意味、瞑想の深さである。

瞑想とは、記録なき留意である。
ふつう頭脳は、騒音や発せられる言葉やほとんどすべてのものを、ちょうど録音テープのように記録している。
では、頭脳が絶対に必要なもの以外記録しないということは可能だろうか。
なぜ侮辱を記憶しなければならないのか。
なぜお世辞を記憶しなければならないのか。
それは不必要だ。
なぜ傷を心に刻んでおかなければならないのか。
不必要だ。
だから、技術者、作家などとして日々の生活を送るために必要なものだけを記録しておきなさい。
だが、心理的には何も記録しないことだ。
瞑想においては、心理的には何の記録もない。
会社へ行く、工場で働くといった生活上の実際面以外には、何ひとつ記録しない。
そこから完全な沈黙が生じる。
それは思考が終焉したからである。
ただし絶対に必要なところでは思考は働く。
時間は終焉した。
そして、その沈黙のなかで、まったく次元の違う運動が起こる。

そうなると、宗教は完全に違う意味合いを帯びてくる。
これまでは、それは思考の問題であった。
思考、想念が様々な宗教を作ってきた。
だから各宗教は分派し、各分派のなかに更に多種多様な流派がある。
信仰、希望、恐怖、あの世での安心を得たいという願望なども含めて、宗教と呼ばれるものは全て、思考、想念の生み出した結果である。
それは宗教ではない。
それは思考の運動に過ぎない。
恐怖、希望、安定を求める試みのなかで起こる思考の運動、物質的な過程に過ぎない。

では、宗教とは何か。
それは探求である。
神聖なるものを見出し、聖なるものに出会うために、自分の注意の全てを注ぎ、全身全霊を捧げる「探求」である。
それが起こり得るのは、ただ思考という騒音から解放されたときだけである。
心理的、内面的に思考や時間が終焉したときだけである。
ただし、それは知識をもって働かなければならない世間での知識の終焉ではない。

聖なるもの、神聖なるもの、真実なるものが存在できるのは、完全な沈黙があるときだけであり、頭脳自体が、思考をしかるべき持ち場につけたときだけである。
その計り知れない沈黙から、神聖なるものが生まれる。

沈黙には空間が必要である。全意識構造における空間が。
いまの有り様では、人間の意識構造のなかには空間はない。
それは様々な恐怖で一杯だからである。
混雑し、饒舌で一杯だからである。
沈黙があるときには、広大な、時間なき空間がある。
そのとき初めて、永遠なるもの、神聖なるものに出会う可能性が開けてくる。

……

われわれは、愛は苦しみの一部だと言う。
誰かを愛するとき、それは苦しみをもたらす。
そこで、われわれは、すべての苦しみから自由になることができるかどうかを問題にしようとしている。
自分の意識のなかで苦しみから自由になったとき、その自由は意識の変容を引き起こし、その変容の影響は人類の苦悩全体に及ぶようになる。
それこそが慈悲心の一部である。
苦しみがあるところでは、とうてい愛することはできない。
それはひとつの真実、ひとつの法則である。
誰か愛する人がいて、その人があなたのまったく反対していることを行い、そのためにあなたが苦しむとき、それはあなたが愛していないということになる。
その真実を見てごらん。
妻があなたを放り出して誰かほかの人のあとをおいかけるとき、いったいどうしてあなたは苦しむことができよう?
しかし、われわれはそういうものに苦しんでいる。
われわれは怒り、嫉妬し、ねたみ、憎んでいながら、同時に「私は妻を愛している」と言う。
このような愛は、愛ではない。
そこで、苦しむことなく、しかも広大な愛が花開くということは可能だろうか?
苦しみの本性、本質とは何か?
そのさまざまなかたちではなく、その本質は何か?
苦しみの本質は何か?
それは、その瞬間における、まったく自己中心的な存在の全面的な表現ではないだろうか。
それは〈私〉の精髄(エッセンス)である。
自我(エゴ)、個人、限定され、囲まれ、反抗している存在、つまり〈私〉と呼ばれている存在の精髄である。
理解と洞察を要する出来事が起こるとき、その〈私〉の精髄が苦しみのもとである。
もし〈私〉がまったく存在しなかったら、苦しみがあるだろうか?
その人は、人を助けたり、あらゆる種類の事をするだろうが、苦しむことはあるまい。
苦しみは〈私〉の表現である。
そのなかには自己憐憫がある。
逃げようとしたり、すでに去った他者と共に居ようとする孤独がある。
そして、そのなかにはその他のすべてが含まれている。
苦しみは〈私〉そのもの、すなわちイメージ、知識、過去の記憶である。
そこで、苦しみつまり〈私〉の本質は、愛といかなる関係をもっているのだろう?
愛と苦しみのあいだには何らかの関係がるのだろうか?
〈私〉は、思考によって組み立てられたものである。
しかし、愛は思考によって組み立てられたものだろうか?
愛は思考によって組み立てられたものだろうか?
苦痛、歓喜の記憶、そして性的な快楽あるいはほかの快楽の追求、誰かを所有し、あるいは所有されたいという快楽の追求―そういうものはすべて思考が構築したものである。
名前、姿、記憶などをもつ〈私〉は、あきらかに思考によって組み立てられたものである。
しかし、愛は思考によって組み立てられたものではないとしたら、そのときには苦しみは愛とは何の関係もない。
したがって、愛から出た行為は、苦しみから出た行為とは別のものである。
思考は、愛に関して、そして苦しみに関して、どんな役割をもっているのだろうか?
それを洞察することは、あなたが逃避していないということ、慰めを求めていないということ、孤独で、孤立するのを恐れていないということである。
したがってそれは、あなたの精神が自由であるということを、そして自由であるものは空であるということを意味する。
あなたはその〈空〉があるなら、苦しみに対する洞察もある。
そのときには〈私〉という苦しみは消える。
したがって、即時の行動が生まれる。
そうなったら行動は愛から出てくる。苦しみからではない。
人は、苦しみから出る行動は〈私〉の行動であり、したがってそこには絶え間ない葛藤があることを発見する。
そのすべての論理、その理由を見ることができるのである。
そうなってはじめて、苦しみの影をやどすことなく愛することが可能になる。
思考は愛ではない。
思考は慈悲心ではない。
慈悲心は叡智である。
それは思考の産物ではない。
叡智の行動とは何か?
もし叡智をもっていたら、その叡智は、はたらいている。
それは機能している、動いている。
しかし、もし叡智の行動とは何かとたずねるなら、その人はただ思考を満足させたいだけである。
慈悲深い行為とは何かを問うとき、そう問うているのは思考ではないだろうか?
「もしそういう慈悲心をもっていたならば、私はいまとは別のかたちでふるまうだろうに」と言っているのは、〈私〉ではないだろうか?
したがって、このような質問をするとき、人はまだ思考という観点にとらわれている。
しかし思考を洞察すれば、それに伴って、思考はそのしかるべき役割に戻るようになり、そうなったら叡智がはたらくのである。

……

われわれは、生を、時間のなかで測られる運動、死に帰する運動として考えている。
その地点までを、われわれは継続性と呼んでいる。
しかし人は、時間のものではない運動、すなわち現在を通過し、未来を修正して継続していく、過去の何かの記憶ではない運動を観察する。
そこには、起こりつつあるものすべてに訣別するような精神の状態がある。
起こるものすべては、入ってきて、流れ出る。
いっさいとどまることなく、つねに流れ出る。
そのような精神の状態には、独自の美的感覚があり、
時間的なものではない継続性がある。

……

人は終焉があるときはじめて、その真実を見出すことができる。
あなたがもっているものすべてに対する終焉、執着に対する終焉、
一日かけて終わらせるのではなく、いま完全にそれを終わらせること。
その完全なる終焉を、われわれは死と呼ぶ。
そして、完全なる終焉があるときには、何か新しいものが誕生する。
恐怖は、重荷、それもひどい重荷である。
そしてその重荷を完全に取り除くとき、新しい何かが起こる。
しかし人は終焉を恐れている。
人生の終わりにある終焉か、さもなければ現在の終焉かのいずれかを。
空しいものを終わらせることだ。
なぜなら、終焉がなければはじまりなどないからである。
われわれは、けっして終わることのないこの継続性にとらわれている。
全的で、完全で、全体的な終焉があるとき、まったく新しい何かが始まる。
それはあなたが想像だにできないものであり、まったく次元の違うものである。
死の真実を見出すためには、自分の意識の中身の終焉がなければならない。
そうなったら、「私は誰か」「私は何か」を問うことは決してない。
人は、中身をもつ意識である。
中身をもつ意識が終焉するとき、そこにはまったく別個のもの、想像されないものが現れる。
人間はその活動において不死性を求めてきた。
ある人は本を書き、その本のなかに作家としての自分の不死性がある。
偉大な画家は絵を描き、その絵がその人間の不死性になる。
そういうことはすべて終わらなければならない。
だが芸術家はひとりもそうしようとはしない。
人間はそれぞれ全人類の代表である。
そして意識のなかでその変化が起こるとき、
人は人類の意識のなかに変化を引き起こす。
死とは、人がいま知っているその意識の終焉である。

……

たいていの人たちは、自分がそのなかで生きているあらゆる問題、つまり政治的、宗教的、経済的、社会的、観念的なあらゆる問題に目覚めさせられる。
たいていの人たちはそういうあらゆる問題に多少なりとも気づいて、不満をもつようになる。
若いときには、この不満は炎のように燃え上がって、何かをしたいという情熱を抱く。
そこであなたは政治的な党派、極左、極端な革命家、極端な形のジーザズ・フリークス(若者の信仰宗教の一種)等々に加わる。
そういうものに加わることによって、特定の態度、特定のイデオロギーを受け容れることによって、その不満という炎は、しだいに消えていく。
そうなったら、あなたは満足したようにみえる。
そして、「これこそ私がやりたかったことだ」と言い、自分の情熱をそのなかに注ぎこむ。
だが、もし自分が巻き込まれている当の問題に、完全に目覚めたら、あなたはしだいに自分が満足していないということを見出す。
それでは遅すぎる。
というのも、あなたはすでに、大いに価値があると思いこんだものに、人生の半分を与えてしまって、しかるのちにそれはそうではないと気づいたからである。
そのときには、あなたのエネルギー、能力、衝動は衰えている。
不満という真理の炎はしだいに薄れている。
あなたは自分自身、自分の子供、若者や老人のなかで代々続いてきた様式(パターン)に気づいたにちがいない。
しかし、もしあなたがこういった事柄すべてに敏感で、不満をもつと同時に、満足したいという欲望や、環境、体制(エスタブリッシュメント)、理想、ユートピアに順応したいという願望によってその不満が押し潰されることを許さないならば、もしあなたがその炎が何ものにも満足することなく燃えるがままに任せるならば、そのときには表面的な満足はもう無用になる。
そうなったら、その不満そのものが、何かもっとはるかに偉大なものを要求するようになる。
そして、さまざまな理想、グル、宗教、体制はまったく表面的なものになってしまう。
この不満という炎は―それがどんなはけ口もないがゆえに、それが自分を満たすことができるどんな対象もないがゆえに―その炎は偉大な情熱になる。
その情熱が叡智である。
もしあなたが、これらの表面的な、本質的に反作用的な事柄にとらわれないならば、そのときには大いなる炎は強烈に燃え上がる。
その強烈さが、物事に対してただちに深い洞察をもつような精神の質を生み出す。
そしてそこから行動が起こる。

……

いままでのところ、われわれは大きな海の水面の波だけにかかわってきた。
その表面だけを取り扱ってきた。
今度は、非常に深く入っていけば、その大海の深みまで行くことができる。
もちろん、あなたはいかに深く潜るかを理解しなければならないが、
しかしあなたが潜るのではない、それはおのずと起こるのである。
精神集中、無選択の気づき、そして留意がある。
精神集中とは抵抗を意味する。
ある特定のもの、いま読んでいる本のページ、あるいは理解しようとしている章句に対する精神集中。
集中するということは、エネルギーのすべてをある特定の方向に向けるということである。
精神集中においては抵抗が生じ、それゆえに努力と分裂が生じる。
あなたは集中したいが、何かほかのものに気を取られて想念が移る。
あなたはそれを引き戻す。
そこに葛藤が生じる。
もし何かに興味をもっていれば、貴方はいともたやすく集中できる。
集中するという言葉のなかには、精神を特定の対象、特定の心象、特定の行動に置くということが含まれている。
水面の波のすべて―恐怖、権威、われわれがこれから探りをいれようとしていることに較べれば取るに足りない事柄のすべて―を理解してしまえば、そのときには精神は意識からその中身のすべてを空っぽにしてしまったことになる。
それは空である。
それは、意志の行為、欲望、選択によらずして、空っぽになっている。
そうなったら、意識はまったく違ってくる。
意識はまったく次元の違うものになる。
空間があるから、〈空〉と全的な沈黙が存在する。
それは誘導された沈黙や、練習された沈黙ではない。
そういう沈黙は思考の運動にすぎず、したがってまったく無価値なものである。
あなたがそのすべてを通過したとき、そしてそのすべてを通過する際に大きな喜びがあるとき、それがとてもおもしろいゲームを楽しんでいるようなものであるとき、そういうときには、その完全な沈黙のなかには時間無き運動、思考によっては測ることのできな運動がある。
思考はいかなる意味でもそのなかに入る余地はない。
そのあかつきには、完全に神聖で永遠なるものが現れる。

……

われわれの精神は、知識、心配、さまざまな問題、金銭、地位、身分によって乱雑になっている。
それらはあまりにも重荷となっているので、そこにはまったく空間(スペース)はない。
だが、空間がなければ秩序もないのである。
たとえば、丘の上からこの谷間を見下ろすとき、自分の住んでいるところを見たいから、指向性が出てくる。
そのときには、私は空間の広大さを失う。
指向性があるところでは、空間は限定される。
目的や目標(ゴール)や達成されるべきものがあるときには、どんな空間も無い。
もし人生において精神集中し、生きるための目的をもっているとするなら、いったいそこに空間があるだろうか?
しかし、精神集中がなければ、そこには広大な空間がある。
見る中心があるときには、空間はきわめて限られる。
中心、つまり思考によって組み立てられた〈私〉という構築物がまったく存在しないとき、そこには広大な空間がある。空間がなければ、秩序、明晰さ、慈悲心はない。
努力や意志的行為がいっさいないところ、つまり広大な空間があるところに生きるということこそ、瞑想の一環である。

……

時間は、われわれにとって、年代的にも心理的にも、きわめて重要である。
われわれは心理的な時間に大きく依存している。
時間は動きに関連していて、ここからそこへ動くには時間がかかる。
出かけて、目的地に到達し、目的を達成するには、その距離には時間がかかる。
言葉を学ぶには時間がかかる。
それが心理的な領域に移されてしまった。
「われわれは完全であるためには時間を必要とする。何かを乗り超えるためには時間を必要とする。心配から解放され、悲しみから解放され、恐怖から解放されるためには時間を必要とする」と言うのである。
時間は、実用的な問題において、科学技術の分野などにおいては必要とされる。
その時間に対する必要性が、心理的な生活に取り入れられて、われわれはそれを受け容れてしまったのである。
われわれは民族性を取り払って、人類が兄弟のように親密になるには、時間が必要だと考えている。
心理的な時間とは希望を意味する。
つまり、「世界は狂っている。未来においてまともな世界が現れることを望もう」というわけである。
今、自分に何が起こるかは問題ではない。
重要なことは未来である。
未来のために、世界中の観念論者たちや宗教的教師たちなどによって確立された「すばらしい未来」のために、現在の自分自身を犠牲にせよ―。
われわれはそれを問題にして、はたして心理的な時間というものがあるか、したがって何の希望もないかと問うのである。
「もし私に何の希望もないのだとすると、いったいどうすればいいのだろう?」
希望がそれほど重要なのは、それが人に、何かを達成するための満足、エネルギー、活力を与えてくれるからである。

……

否定を通して肯定的なものが現れる。
「否定を通して」とはつまりこういうことである―
「快楽は愛か?」と快楽を検討し、それはそうではない、
すなわち快楽には快楽の役割があるがそれは愛ではないと知って、あなたはそれを否定する。
あなたは、記憶は必要なものだが、愛は記憶ではないと知る。
そこで、記憶をそのしかるべきところに収める。
したがってあなたは、記憶を愛でないものとして否定したことになる。
欲望にも一定の役割があるけれども、あなたは欲望を否定する。
だから否定を通して肯定的なものがある。
しかし、われわれは逆に、肯定的なものを先に置いて、それから否定的なもののなかに陥る。
まず、疑うこと、徹底的に疑うことから始めなければならない。
そうすれば最後には確実性に至る。
しかし確実性から始めたら、最後には不確実性や混沌に至る。
だからこそ、否定から肯定的なものが生まれる。

……

絶対に必要なものだけを記録し、ほかのものはいっさい記録しないということが可能だろうか?
たとえば、こういうごく単純なことを例に取ってみよう―
たいていの人たちは、何かしら肉体的苦痛を味わったことがある。
その苦痛が記録されて、頭脳は、「明日、あるいは一週間後にでも、こんな痛みを二度と味わわないよう、充分注意しなければならない」と言う。
肉体的苦痛が、歪曲の作用をしているのである。
大きな苦痛があるときには、物事を明晰に考えることができない。
苦痛を引き起こすようなことをすることから自分を守ろうとして、その苦痛を記録するのは、頭脳のはたらきである。
頭脳は記録しなければならない。
それから、その苦悩がふたたび起こることに対する恐怖が生まれる。
その記録が恐怖を引き起こしたのである。
その苦悩を味わったあとで、それを終わらせること、それを続けないこと、それを繰り返さないことは可能だろうか?
もし可能なら、そのとき頭脳は、自由で聡明であるという安定性を得ることになる。
しかし、苦痛がもちこされた瞬間、それはもうけっして自由ではなくなる。

……

慈悲心、あるいは愛は、快楽だろうか?
あらゆる人間が、どんな犠牲を払っても求め、追っている快楽の意義、意味はいったい何だろうか?
快楽とは何か?
財産から生まれる快楽、能力や才能からくる快楽、他人を支配する場合の快楽、政治的、宗教的、経済的に大きな権力をもつことの快楽、性の快楽、金銭が与えてくれる大いなる自由感という快楽―さまざまな種類の快楽がある。
快楽のなかには享楽があり、もっと進むと法悦(エクスタシー)がある。
歓喜や法悦の感覚がある。
法悦とは、自分自身を超えているということ、喜ぶ自分はもういないということである。
自己、つまり〈私〉、自我(エゴ)、個人性、はまったく消え失せ、その外側にいるという感覚だけが残る。
それが法悦である。
だが、その法悦と快楽とはまったく関係がない。

……

われわれは、技能、自己の構造や本性の大きな発達を通して、自分の意識を強化してきた。
自己は暴力である。
自己は貪欲、羨望などである。
そういったものこそ自己の本質的なものである。
〈私〉という中心があるかぎり、あらゆる行為はかならず歪曲される。
中心を起点としてそこから行為をすることで、あなたはある指向性を与えている。
その指向性が歪曲なのである。
そのようにすれば技能は大きく発達するかもしれないが、それはつねに不均衡で不調和なものである。
意志とは欲望である。
何かに対する欲望である。
欲望があるとき、そこには動機がある。
そしてその動機もまた、観察を歪める要因なのである。

……

最も重要なことは、観察することである。
観察し、観察者と観察されるものとのあいだに区別をつけないことである。
たいていの場合、観察者と、〈あるがまま〉のものである観察されるものとのあいだには区別がある。
その観察者とは、じつは記憶という過去の経験の総和である。
だから、過去が観察しているということになる。
観察者と観察されるものとのあいだの分裂は、葛藤のもとである。

心理的に、なぜこのような葛藤があるのだろうか?
古代から社会的にも宗教的にも、善と悪の区別があった。
いったいほんとうにこのような区別があるのだろうか、
それとも、あるのはただそういう相反性のない〈あるがまま〉だけなのだろうか?
たとえば怒りがこみ上げてきたとしよう。
それは事実である、それは〈あるがまま〉である。
しかし、「私は怒らないようにしよう」というのはひとつの観念であって、事実ではない。

観察者なしに観察することができるだろうか?
過去から生じたあらゆる記憶、経験、反作用などの精髄(エッセンス)である観察者なしに?
もし言葉や過去の記憶なしに何かを見つめたら、そのときには観察者なしに見つめている。
それを実行するとき、そこにあるのはただ観察されるものだけであり、
心理的には、区別や葛藤はいっさいない。
自分の妻や親友を、名前、言葉、
そしてその人間関係のなかで集めてきたあらゆる体験なしに
見つめることがでるのだろうか。
そのように見るときはじめてその人を見つめているのである。

内面に葛藤がないとき、外側にも葛藤はない。なぜなら、内なるものと外なるもののあいだには、何の区別もないからである。それは、あたかも海の潮の満ち干のようなものである。それは絶対的で消しようのない事実であり、誰にも触れることのできない事実である。

〈あるがまま〉のものを否定し、〈あるべきもの〉という理想をつくり出すから、葛藤が生まれる。
実際にあるがままのものを観察するということは、相反するものはいっさいもたず、ただ〈あるがまま〉のものだけをもつことを意味する。
もしあなたが暴力を観察し、暴力という言葉を使うなら、そこにはすでに葛藤がある。
その言葉そのものがすでに歪められている。
つまり、暴力を認める人々と認めない人々がいる、ということになるからである。
非暴力の哲学のすべては、政治的にも宗教的にも歪められている。
そこには、暴力と、それに相反するものである非暴力とがある。
相反するもの〈非暴力〉は、あなたが暴力を知っているから存在する。
その非暴力は暴力にその根源をもっている。
人は相反するものをもつことによって、何か途方もない方法や手段によって〈あるがまま〉のものを取り除こうとする。

……

明らかに、生理的、肉体的な苦しみというものがある。
そしてその苦しみは、もしひとがあまり注意深くなければ、精神を歪めるおそれがある。
しかしわれわれは、人間の心理的な苦しみを問題としている。
苦しみという問題を探求するとき、われわれはあらゆる人間の苦しみを探求している。
というのも、われわれひとりひとりが全人類の本質をもっているからである。
人はみな、心理的、内面的に、深く自分以外の人類に類似している。
彼らは苦しんでいる。
彼らは、われわれのひとりひとりがそうであるように、大きな心労、不安、混乱、暴力を経験し、大きな非痛感、喪失感、孤独感を味わっている。
われわれすべてのあいだには、心理的な意味での区別はまったくない。
心理的には、われわれは世界であり、世界はわれわれである。
それは判断ではなく、結論でもなく、知的な理論でもない。
それは感じられ、気づかれ、生きられるべき現実である。
この悲しみという問題を探求すれば、自分個人の限られた悲しみばかりではなく、人類の悲しみをも探求していることになる。
それを個人的なものに引き下げてはならない。
なぜなら、人が個人的なものに引き下げることなく、その巨大性、その全体性の理解において、人類の巨大な悲しみを見るならば、自分自身の一部がそのなかでひとつの役割を担うようになるからである。
それは、どうやって自分が悲しみから解放されるかということだけに汲々とする利己的な探求ではない。
もしそれを個人的で、限定的なものにするなら、そのときには人は巨大な悲しみのもつ重要な意味を理解しないだろう。

……

悲しみの原因を理解すると、悲しみは終わるだろうか?
私は自分自身にこう言うかもしれない。
「私は自己憐憫の気持ちでいっぱいだ。もし私が自己憐憫に終止符を打つことができれば、どんな悲しみもなくなるだろう」。
そこで、私はその自己憐憫がいかにばかげているかを知っているから、それを追い払うことに取り組む。
私はそれを抑えつけようとする。
私は、それをあれこれと心配している。
そうすることによって、私は、頭のなかでは、自分は悲しみから解放されていると考えるかもしれない。
しかし、悲しみの原因を暴露することは、悲しみの終焉ではない。
悲しみの原因を探し求めることは、エネルギーの浪費である。
悲しみはそこにあって、大きな注意を要求している。
それは、人に行動することを求める問いかけである。
だが人は、その求めに応じないでこう言う。
「私にその原因を調べさせてください。私は見出しましょう。それはこれか、あれか、あるいは別のものでしょうか? 私はまちがっているかもしれません。それをほかの人に相談しましょう。あるいは、私にそのほんとうの原因は何であるか教えくれる本があるでしょうか?」
しかし、そういうものはすべて、現実的な事実からの逃避、その問いかけへの現実的応答からの逃避である。

……

新しい思考というものはない。
自由な思考というものはない。
思考はただひとつしかない。
それは、頭脳のなかに記憶として蓄積された、知識、経験からくる反応である。
さて、それが事実だとしたら、悲しみは時間や思考の結果だということが真実であるのを見抜くなら―それは仮説ではないとしたら―、そのときには、人は〈私〉なしに悲しみに応じていることになる。
というのも、〈私〉はほかならぬその思考によって組み立てられたものだからである。
私の名前、私の形、私の外見、私の性質、私の反応、身につけたすべての事柄、それらはすべて思考によって組み立てられたものである。
思考は〈私〉である。
時間は〈私〉である。
自己、自我、個人、私という時間の運動のすべてである。
時間がないとき、苦しみというこの問いかけに応じる〈私〉がないとき、そのときには苦しみがあるだろうか?
すべての悲しみは、〈私〉、〈個我〉、個人、自我にもとづいているのではないだろうか?
「私は苦しい」、「私は寂しい」、「私は心配だ」と言うのは、自己である。
この運動全体、この構造全体は、思考のなかの〈私〉である。
そして思考は、〈私〉を措定するばかりではなく、自分は優れた〈私〉―思考よりはるかに優れた何か―であると断定する。
それでもなお、それは思考の運動にすぎない。
だから、思考の運動である〈私〉が終焉するとき、悲しみが終焉するのである。

……

学ぶすべは、技能的な活動のために必要な知識の蓄積のなかだけではなく、そういう蓄積のない学習のなかにもある。
学習には二つのタイプがある。
経験、書物、技能的な活動のなかで使われる教育を通して、膨大な知識を獲得し、蓄積することがひとつ。
そして、もうひとつはけっして蓄積などせず、絶対必要なもの以外は何も記録しないようなかたちの学習である。
最初のかたちにおいては、頭脳は知識を記録し、蓄積し、それを貯えて、その蓄えから行動を起こす。
それが巧妙であろうとなかろうと、である。
第二の形態においては、人は完全に自覚しているので、絶対的に必要なものだけを記録し、それ以外のものはいっさい記録しない。
そうなったら、精神は蓄積された知識の運動に散らされたり、影響されたりはしない。
このような学習法、知識の蓄積の仕方においては、技能的なはたらきに必要なものだけを記録することによって、いかなる心理的な反応も記録しないようになる。
頭脳は、機能や技能が必要な知識は用いるが、心理的な領域において記録することからは解放されている。
頭脳が完全に自覚して、その結果、必要なものだけを記録し不要なものは絶対に記録しないようになる、ということはきわめて困難である。
たとえば、誰かがあなたを侮辱する、あるいはあなたにお世辞を言う、誰かがあなたのことをああだこうだと言う。
しかしそれを記録することはない。
これはとてつもない明晰さを与える。
つまり、心理的な意味で〈私〉を、自己という構築物を築き上げることがいっさいないように、記録し、それでいて記録しないということは―。
自己という構築物が生じるのは、必要でないあらゆるものを記録するときだけである。
つまり自分の名前、自分の経験、自分の意見や結論など自己のエネルギーを強化するものすべてに重要性を与えるときだけである。
そしてその自己は、つねに事物を歪めている。

……

完全な留意があるときには止滅し、留意がないときには涌き上がる、この思考の本性は何か?
人は何に気づくべきかを理解しなければならない。
さもなければ、留意の重要な意義を完全には理解できない。
〈気づき〉という観念があるのか、それとも気づいているだけなのか?
そこには違いがある。
気づいているという観念か、それとも気づいているという状態そのものか。
〈気づく〉とは、自分に関する物事、自然、人々、色彩、樹々、環境、社会的構造などあらゆるものに対して鋭敏であること、いききと敏感であることを意味する。
そして、起こっていることすべてに対して外面的に気づくと同時に、内面的に起こっていることに気づくことである。
気づくということは、心理的に内側で起こっているものと同時に、外側で環境的、経済的、社会的に起こっているものに対しても鋭敏であること、知ること、観察することである。
もし、外面的に起こっていることに気づかないで内面的に気づきはじめたら、そのときには人はむしろ神経症的になる。
しかし、もしできるだけ多く世界で起こっていることに気づきはじめて、そこから内面へと向かうなら、そのときには人はバランスを保っている。
そうなったら、自己欺瞞という可能性はなくなる。
人は、外面的に起こっていることに気づくことから始めて内面へと向かう。
あたかも潮の満ち干のように、そこには絶え間ない運動がある。
そうすれば、そこには欺瞞はない。
外側で起こっていることを知って、そこから内側に進むなら、そのときには拠り所を得る。

……

観察する者は観察されるものである。
経験する者は経験されるものである。
ちょうど、考える者が考えられるもの〈思考〉であるように―。
観察する者が「私は悲しみのなかにある」と言って、自分自身を悲しみから切り離してから、その悲しみに対して何かをしようとする、という場合のような分裂はまったくない。
そのような場合には、彼はたとえば悲しみから逃げたり、慰めを求めたり、悲しみを抑圧したり、悲しみを超越しようとするあらゆるさまざまな手段を試みる。
したがってもし、観察する者は観察されるものであるという事実を見るなら、そのときには人は葛藤をもたらす分裂をすべて消し去る。
人は、観察する者は観察されるものとまったく別個のものだと考えるように、育てられ、教育されてきた。たとえば、人は分析する者である。
したがって人は分析することができる。
しかし、その分析する者はじつは分析されるものなのである。
だから、この知覚においては、観察する者と観察されるもの、考える者と考えられるもののあいだには何の区別もない。
考える人のない思考は存在しない。
もし、考える人がいなければ、思考もない。
―それらは一体なのである。
そこで、もし観察する者は観察されるものであるといういことを見るなら、そのときには人は悲しみとは何かを決めつけてはいない。
人は悲しみに対して、それがどうあるべきか、どうあってはならないのかなどと命じてはいない。
人はどんな選択もなく、どんな思考の運動もなく、ただ観察している。

……

思考とは、頭脳のなかに蓄積された記憶、経験、知識から出てくる反応である。
思考はけっして新しくない。
それは常に過去から来る。
したがって思考は限られている。
それは数えきれない問題を生み出したが、しかしながら科学技術という大いなる世界も生み出した。
それはすばらしいことを為し遂げたのである。
だが、思考は過去の結果であるから限られており、したがってそれは時間に束縛されている。
思考は、はかりがたいもの、永遠なるもの、自分自身を超えたものを、考え出せるかのようにみせかける。
それは、あらゆる種類の幻想的なイメージを投影する。
イメージなしに、そしてそれらのイメージを追求せずに、したがって欲求不満、達成の希望などに巻き込まれずに、欲望の運動全体を観察することができるだろうか?
欲望の運動全体をただ観察すること、それに気づくことが?
恐怖の根源は時間の運動であり、それは測定、尺度としての思考である。
この運動を観察し、気づくことができるだろうか?
それを統制したり、抑圧したり、それから逃げたりするのではなく、ただ観察し、その全体的な運動に気づくことが?
われわれは、時間や尺度としてのこの思考の全体的な運動に気づく。
私は生きてきた、私はこれからも生きるだろう。
私は生きたい―われわれは、この事実に無選択に気づき、この事実とともにとどまり、実際にあるものから逃げ出したりはしない。
実際にあるがままのものとは、思考の運動であり、それは、「私は過去に傷つけられた、だから、未来においては傷つけられたくない」と言う。
例をひとつ挙げれば、そういう思考の過程そのものが恐怖なのである。
恐怖があるところには、あきらかにどんな愛情も、どんな愛もない。
—–
意識の大部分は、膨大な、快さに対する欲望と快楽の追求である。
すべての宗教は、「快楽、すなわち、性的な快楽やそのほかの種類の快楽を追い求めるな」と説いてきた。
あなたがたは、自分の生命(いのち)をイエスやクリシュナにゆだねてしまったのだから、と言うのである。
彼らは、欲望を抑圧すること、恐怖を抑圧すること、どんな種類の快楽をも抑圧することを奨励する。
あらゆる宗教はそれを果てしなく説きつづけてきた。
われわれは逆に、「何ものをも抑圧するな、何ものをも避けるな」と言っている。
自分の恐怖を分析してはいけない。
ただ観察することだ。
すべての人間はこの快楽の追求にとらわれていて、その快楽の追求、その快楽が与えられないと、憎しみ、暴力、怒り、辛さが出てくる。
だから、世界中で人類がもっているこの快楽の追求、この快楽の大きな衝動を理解しなければならない。
—–
心理的に記憶するものは、いったい必要なのだろうか?
あなたが心理的に保持しているものは何であれ、不必要である。
そういうものを保持し、記録することによって、そういうものを頭脳が固守することによって、それはそれなりの安定を達成する。
しかし、その安定は、あらゆる心理的な傷や痕跡が集まった〈私〉にすぎない。
だから、われわれはこう主張する。
「何であれ心理的に何かを記録し、それを保持することは絶対的に不必要である。自分の信念、教義、経験、希望や欲望、それらはすべてまったく不必要である」
それでは必要なものとは何か?
衣、食、住―それ以外の何ものでもない。
これは本来、理解すべき重要なことである。
それは、頭脳はもはや〈私〉を蓄積する要因ではなくなっている、ということを意味する。
頭脳は、静かにくつろいでいる。
それは充分な平安を必要とする。
しかし、それはつねに、あらゆる過去の記録の蓄積である〈私〉のなかに、その平安、安定性を求めてきた。
が、その〈私〉はただの記憶にすぎず、したがって、死んだ灰をたくさん集めてそれに重要性を付与するのと同じように、無価値なものである。
絶対に必要なものだけを記録すること―そのなかに入ってそれを実行することができれば、それはすばらしいことである。
そうなったら真の自由―つまり、思考が〈私〉だと思ってしがみついている、この巨大な構築物を築き上げてきた蓄積された知識や伝統や迷信や経験からの自由がある。
〈私〉が存在しないとき、そのときには慈悲心が生まれ、その慈悲心が明晰さを生む。
その明晰さに伴って、熟練性が出てくる。
不必要な記録があるところ、そこには愛は一切ない。
慈悲心の本性を理解したいなら、愛とは何かというこの問題、そしてあらゆる混乱、快楽、恐怖を伴う執着がいっさいないような愛があるかどうか、というこの問題に立ち入っていかなければならない。

……

もしこの種のものをすべて払いのけたら、そのときには、人は〈あるがまま〉から始める。
この場合の〈あるがまま〉とは、われわれの生活が、近かろうと遠かろうと、人類、男、女、隣人のあいだのとてつもない責め苦、とてつもない闘いになってしまっているということである。
その闘いのなかにも、青空を見る時おりの自由や、何か素敵なものを見、それを楽しみ、しばしのあいだ幸せになる自由はある。
しかし、闘いという雲がまもなく帰ってくる。
すべてこの種のものを、われわれは生きることと呼んでいる。
教会へ行って欽定訳聖書の詠唱をしたり、あるいは新英語聖書の詠唱をしたりして、一定の観念を受け容れている。
それを、人は生きることと呼ぶ。
そして人は、それに深くかかわるあまりそれを受け容れてしまっている。
しかし、不満、真の不満にはそれなりの意義がある。
不満はひとつの炎である。
人は、子供じみた行為、つかのまの満足によって、それを抑圧している。
だが不満は、それを開花するがままにまかせ、湧き上がるままにまかせるときには、真実ではないものすべてを焼き払う。

……

そこで我々は、どんなイデオロギーも結論もなしに、こう問いかける。
「死とは何か? 死ぬ当のもの、終わる当のものはいったい何か?」
人は、継続的なものがあればそれは機械的になる、ということを見る。
あらゆるものに終焉があれば、新しいはじまりがある。
もし恐れていれば、そのときには、とうてい死と呼ばれるこの広大なものが何であるかを見出すことはできない。
それは途方もないものであるにちがいない。
死とは何かを見出すためには、死の前に、生とは何かということも追求しなければならない。
人はけっしてそれをしない。
けっして、生きることとは何かを追求しない。
死は避けがたいものである。
しかし、生きることとはいったい何か?
この途方もない苦しみ、恐怖、心配、悲しみ、そういった類のものすべて―これが生きることだろうか?
それに執着するために、人は死を恐れる。
生きることとは何かを知らないから、人は死とは何かを知ることはできない。
それらはともに進む。
生きることの完全な意味とは何か、生きることの総体性(トータリティ)、生きることの全体性(ホールネス)とは何かを、見出すことができたら、そのときには、人は死の全体性を理解することができる。
しかし人はふつう、生の意味を追求することなく、死の意味を追求する。

……

意識とその中身という問題を調べる際には、自分自身がそれを観察しているのか、それとも観察の際に意識が気づいているのはじつは意識それ自体なのか―それを見出すことがきわめて重要である。
そこには違いがある。
あたかも外側から見るように、自分の意識の動き、つまり、自分の欲望、傷、野心、貪欲、そのほかのあらゆる意識の中身を観察するのか、それとも、意識が意識自体に気づくのか…。
後者は、思考が「自分が観察している対象はじつは自分がつくり出したものにすぎない、それは自分の意識の中身にすぎない」と悟ったとき、はじめて可能になる。
そうなったら思考は、意識を観察している思考が組み立てた〈私〉をではなく、思考自身を観察しているだけだ、ということを悟る。
そこにはただ観察だけがある。
そうなったら、意識がその中身を開示しはじめる。
たんに表面意識だけではなく、深層意識も含めた意識の中身のすべてを。
もし純然たる不動の観察の重要性を知ったら、そのときには物事は花開きはじめ、意識はその扉を開きはじめる。
—–
自分の観察に干渉する思考の運動なしに、観察することができるだろうか?
それが可能なのは、観察者が、自分と自分が観察しているものとはひとつだ、観察者は観察されるものだ、ということを悟ったときだけである。
怒りは〈私〉と別個のものではない。
私は怒りであり、私は嫉妬である。
観察者と観察されるものとのあいだには、何の区別もない。
それは、人が把握しなければならない根本的な現実である。
それを悟ったら、意識の全体は、いかなる努力もすることなく、自分自身を開示しはじめる。
その全的な観察において、思考が組み立てたものすべて、すなわち自分の意識は、空っぽにされる、あるには超越される。
そうなったら、時間という問題が出てくる。
観念、イデオロギーの達成に向かう運動としての、心理的な時間のことである。
自分は貪欲だ、暴力的だ―そして自分自身に、「それを乗り超えるためには時間がかかる。あるいはそれを修正し、それを変え、それを取り除き、それを超越するためには、時間がかかる」と言う。
そういう時間は心理的な時間であって、時計や太陽によって測られるような年代的な時間ではない。
そこには、「本質的な、美しい、立派だとみなしているものを達成するためには、時間がかかる」と言う、この精神の条件づけ全体がある。
われわれは、そういう時間を問題にし、「いったい心理的な時間というものがあるだろうか?」と問いかけているのである。
そういう時間をつくり出したのは思考ではないだろうか?
もし時間がまったくないなら、どんな過去も未来もなく、あるのはただまったく次元の異なる何かだけである。
人は、あまりにも時間に条件づけられていて、心理的には、「私が成長する時間、今の自分とは別の何かになるための時間が要るにちがいない」と言う。
思考それ自身が時間がつくり出したもとである、という真理を見るとき、そのときには過去や未来は終わる。
そして今度は、時間なき運動の感覚だけが残る。
これを理解すれば、じつにすばらしいことである。
そして、結局、愛とはそれなのである。
そういう精神状態、すなわち愛は、まったく時間なしに存在している。
そうなったら、自分と他者との関係に何が起こるか見てみよう。
人は、時間のものではない、思考のものではない、快楽や苦痛の記憶ではない愛の途方もない感覚をもつだろう。
そうなったら、そういう愛をもっている人ともっていない人とのあいだの関係はどうなるだろうか?
ひとりの人は、もうひとりの人について何のイメージも持っていない。
なぜなら、イメージとは時間の運動だからである。
思考は相手について少しずつイメージをつくり上げてきたが、そういうことはもはや起こっていない。
しかし、もうひとりの人は、少しずつ相手についてイメージをつくり上げてきた。
なぜなら、ひとりは時間の運動のなかにおり、ひとりはまったく時間をもっていないからである。
彼は、時間のものではない愛のこの途方もない感覚をもっている。
そうなったら、相手との関係はどうなるだろうか?
そのような愛の途方もない質をもつとき、その質のなかには至高の叡智が存在する。
相手との関係のなかで働いているのは、その叡智である。
自分がその関係のなかで働いているのではない。
そういう状態を経験することはほんとうにすばらしいことである。
それはあらゆる関係をまったく変えてしまうからである。
そして、もし関係においてそのような根本的な変化が起こらなければ、われわれが築いてきたこの奇怪な社会のなかではどんな変化を起こらない。
〈私〉がまったくいないとき、そこには美しさがある。
そうなったら、自分と自然との関係は完全に変わる。
大地は気高いものになる。
あらゆる樹、あらゆる葉、あらゆるものがその美しさの一部になる。
しかし人間は、そのあらゆるものを破壊しているのである。

……

どんなグルもどんな方式も、自分自身を理解するのを助けることはできない。
自己理解がなければ、正しい行為であるもの、真理であるものを見出すすべはない。
自分の意識を探求する際には、自分自身の意識だけでなく、人間の意識全体を探求している。
なぜなら、自分は世界であり、したがって自分自身の意識を観察するときには、人類の意識を観察していることになるからである。
それは個人的なものや自己中心的なものではない。

……

秩序とは、日々の生活における調和を意味する。
調和は観念ではない。
われわれは観念という牢獄にとらわれていて、そのなかには何の調和もない。
調和や明晰さとは、物事を全体的に見ること、
生を全体的で統一的な運動として観察することを意味する。
—–
生をひとつの全的(トータル)な運動―
そのなかにすべてが含まれていて、善と悪、天国と地獄という分裂がいっさいない全的な運動―
として取り扱うことがいかに重要であるかを見ることだ。
自分の友人、妻や夫を観察するとき、
その人間関係のなかで全体的に見ることができるように、
全体的に見ることだ。
—–
そこで生を、ばらばらではない、全体的で、継続的に流れる全的な運動として、観察してごらん。「継続的に」と言っても、それは時間的な意味においてではない。
ふつう、「継続的」という言葉は時間をその裏にふくんでいる。
しかし、時間的なものではない継続性も存在する。
—–
無秩序があるところ、そこには当然、葛藤がある。
絶対的な秩序があるところ、そこには何の葛藤もない。
そしてそこには相対的な秩序ではなく、絶対的な秩序がある。
それが、何の葛藤もなく、自然に容易に生まれることができるのは、
ひとつの意識としての自分自身に気づくときだけである。
混乱、動揺、矛盾に気づき、外面的にも内面的にも何の歪曲もなく観察するときだけである。
そうなったら、そこから自然に、優しく、容易に、不変の秩序が生まれる。

……

意識のなかには、善と悪という二元性がある。
われわれはつねに善の眼で見ると同時に、悪の眼でも見る。
だから葛藤が生じる。
いまや、葛藤を消し去ることが可能なのは、まったく無選択に観察するときだけである。
ただ自分自身を観察することだ。
そのようにして、あなたは善と悪の葛藤を消し去る。
理性や論理は、まだ人間のさまざまな問題を解決していない。
そこでわれわれは、生の問題や苦悩すべてに対するまったくの別の取り組み方があるかどうかを、見出していこうとしている。
われわれは理性を超えた何かに出会わなければならない。
なぜなら、理性は政治的・経済的・社会的問題をまだ何ひとつ解決していないし、二人の人のあいだの身近な人間的問題も解決していないからである。
われわれが、断片化しつつある世界、住むにはあまりにも狂気じみて、無秩序で、危険な場所になっている世界に住んでいることは、ますますはっきりしてきている。
ある地点までは、論理的にまともに、全体的(ホリスティック)に理性を用いなければならないが、その地点を超えると、おそらく別の精神状態、別の精神の質を見出すだろう。
その精神は、いかなる教義、信念、経験にも縛られないがゆえに自由に観察し、その観察を通して「あるがまま」を正確に見、同時にそれを変えるエネルギーがあることを見出すのである。

……

慈悲心は精神が自由であるときに生まれる。
そして、それが根本的な心理的革命を引き起こす。
その心理的革命こそ、われわれが終始一貫して取り組んでいるものなのである。
そこで、われわれはこう自問することから始める。
われわれが求めているものは何か?
肉体的な慰めか?
物質的な安定か?
奥深いところでは、すべての活動において全面的に安全でありたい、すべての関係のおいて固定し、確実で不変でありたい、という要求や欲望があるのではなかろうか?
われわれは、自分に一種の安定性を与えてくれる経験に執着する。
あるいは自分に、永遠、幸福という感覚を与えてくれ確実な自己同一性に執着する。
いったい心理的な安定というものがあるのかどうか、厳密に検証しなければならない。
心理的な安定がいっさいないとしたら、人間は狂うだろうか?
心理的な安定がなくなれば、完全に神経症的になるだろうか?
おそらく人類の大多数がいくらかは神経症的である。
共産主義者、カトリック、プロテスタント、ヒンドゥー教徒などは、それぞれ自分の信念のなかに安んじている。
それにしがみついているから、恐怖はまったくない。
そういう人とともに探求し、質問し、論じはじめると、その人はある地点で止まり、もうそれ以上検証しようとはしない。
それはあまりにも危険だ……彼は自分の安全が脅かされていると感じる。
そうなったら、意志の疎通は止まる。
彼は、ある地点までは理性を用い論理的に考えるかもしれないが、まったく別の次元へ突破することはできない。
彼は溝のなかにとどまって、ほかのものはいっさい探求しようとしない。
それが本当に安定を与えるのだろうか?
思考、つまり彼のそういった信念、教義、経験、分裂のすべてを生み出した思考が、安定を与えてくれるだろうか?
真理の知覚が叡智である。
その叡智のなかにこそ、平安、安定がある。
その叡智は、あなたのものでも私のものでもない。
その叡智は条件づけられていない。
われわれは、その種のものすべてと縁を切った。
われわれは、思考それ自体の運動において条件づけをつくり出すということを、すでに見た。
そしてその運動を理解するとき、その理解そのものが叡智である。
その叡智のなかに平安があり、そこから行為が生まれるのである。
思考は過去から生ずる運動であり、したがって時間的なものであり、測りうるものである。
測りうるものは、測りえないもの、つまり真理を見出すことは絶対にできない。
それができるのは、思考が何をつくり出そうと、そのなかには安定などないという真理を、精神が実際に見るときだけである。
その見ることが叡智なのである。
その叡智があるとき、思考はすべて終わる。
そうなったら、あなたはこの世界に住んでいるにもかかわらずこの世界の外にある。
どんな歪曲もなく観察し、そこから何を得ようとは努めず、罰や報酬という観点から考えるのでもなく、まさに明晰に観察するがゆえに放棄するならば、その知覚の明晰さが叡智なのである。
そのなかには大いなる安定がある。
ただし、あなたが安定するのではなく、叡智そのものが安定しているのである。
われわれは、相対的な事実ではなく、絶対的な事実に到達した。
何であれ、人間が捏造したものなかには、心理的な安定はいっさいないという絶対的な事実に。
われわれは、宗教はすべて思考によってつくりさされた捏造物である、ということを見る。
あらゆる分裂的な努力―宗教の全実体である信仰、教義、儀式などがあるときに生じる努力―を見るとき、その事実そのものが、完全で全的な安定を伴う叡智の途方もない質を開示するのである。

……

明晰さは、観察する自由があるときはじめて存在する。
人は、完全で全面的な自由があるときはじめて、観察し、見つめ、見守る能力をもつ。
さもなければ、観察してもかならず歪みが生じる。
自分の視野に歪みをもたらす要因のすべてから自由になることは可能だろうか?
自分、他者、社会、環境、そして世界で行われているすべての文化的、政治的、宗教的運動―
いわゆる宗教的運動―を観察するとき、いかなる先入観もなく、いかなる立場もとらず、自分自身の個人的結論、信仰や教義、経験や知識を投影することなしに、観察することができるだろうか?

……

死はたんに神秘的なものであるばかりでなく、大いなる浄化の作用(はたらき)でもある。
反復的な型式のままで続いているものは、堕落である。
その型式は国、風土、環境によってさまざまであるかもしれないが、ひとつの型式であることには変わりない。
何かの型式に従って動くと、継続性が生じる。
その継続性は人間を堕落させる過程の一環である。
継続性が終わるとき、新しい何かが起こる可能性が開けてくる。
人はそれを即座に理解できる。
思考の運動の全体、恐怖、憎しみ、愛といった心の動きの全体を理解したら、そのときには、死とは何かという意義を、ただちに把握できる。
死とは何か?
そう問うとき、思考には多くの答えが浮かぶ。
思考は、「私は、死の悲惨な説明はいっさいしたくない」と言う。
あらゆる人間が、自分の条件づけ、欲望、希望に従って、その問いに対する答えをもっている。
思考はつねに答えをもっている。
その答えはきまって知的であり、思考によって言語的に組み立てられるものである。
だが、人は、答えをもたずに、まったく未知なる何か、まったく神秘的な何かとして、死を問題にしている―だから、死は途方もないものになる。
人は、有機体、肉体が死ぬことは知っている。
そして、頭脳もまた死ぬことを知っている。
頭脳は、人生において、わがまま、矛盾、努力、たえざる闘いといったさまざまなかたちで誤用されてしまって、機械的に消耗している。
というのも、それは一種の機械だからである。
頭脳は記憶、つまり経験、知識としての記憶の集積場である。
脳細胞のなかに記憶として貯えられた経験や知識から、思考が生じる。
有機体が終息するとき、頭脳もまた終息する。
したがって思考も終息する。
思考は物質的(マテリアル)な過程である。
思考は、まったく霊的精神的(スピリチュアル)なものではない。
それは、脳細胞のなかに保持された記憶にもとづく物質的過程である。
したがって有機体が死滅するとき、思考もまた止滅する。
思考は〈私〉という構築物全体をつくり出す。
これを欲しい、あれは欲しくないという〈私〉、恐れ、心配し、失望し、憧れ、孤独になり、死ぬことを恐れる〈私〉という構築物全体を―。
そして思考は言う、「闘い、体験し、獲得し、こんな醜い、愚かな、不幸なかたちで生き、あげくの果てに死ぬ人間にとって、生の価値、意義とはいったい何なのか?」。
そこで、思考は次にこう言う。
「いや、これは終焉ではない、来世がある」。
だが、その「来世」もまた思考の運動にすぎないのである。

……

観察してみると、〈私〉は「私はそれを持たなければならない」と言ったかと思えば、二、三日もたてば何かほかのものを欲しがる。
そこにあるのは欲望のたえざる動き、快感のたえざる動き、自分がこうなりたいああなりたいという、たえざる動きである。
この動きは心理的な時間とみなされる。
「私は苦しい」と言う〈私〉は、思考によって編成される。
思考は「私はジョンだ。私はこれだ、あれだ」と言う。
思考は、自分の名前や姿を自分だと思いこむ。
そして、意識の中身全体のなかに、その〈私〉がある。
それは恐怖、苦痛、失望、心配、罪悪感、快楽の追求、孤独感なとどいった意識の中身すべての中心となる精髄(エッセンス)である。
「私は苦しい」と言うとき、それは、思考―悲嘆に暮れる思考―が自分自身についてつくり上げたイメージ、形、名前である。

……

愛したいという欲求は愛ではない。
人生のあらゆる瞬間において、愛ならざるものを否定し、愛ならざるものを放棄することから、愛と呼ばれる肯定的なものが生まれる。
思考はばらばらで、限られている。
思考には「愛とは何か」という問題は解けないし、愛をはぐくむこともできない。
思考で抽象化すると、人は「あるがまま」から遠ざかる。
この抽象という運動は、生を規定するひとつの条件になる。
そこで人はもう事実に従っては生きなくなる―これが人が一生を通じてやってきたことである。

……

人はきわめて近くから、すなわち自分自身から出発した場合にのみ、非常に深く、遠くに行くことができる。
自分自身を理解しなければ、遠くへは行けない。
われわれは、自分の日々の生活のきわめて重要な問題を掘り下げていこうとしている。
この問題のなかへ、論理的に、理性的に、まともな状態で入っていかなければならない。
しかしまた、人はそれを超えていかなければならない。

……

人間の頭脳は、たえず安定を求めるという習慣によって、機械的になってしまった。
機械的だというのは、一定の限られた様式に従うということ、
その様式を日々の生活の日課において何度も何度も繰り返すということである。
そこには快楽の反復や恐怖という重荷の反復があり、それを解消することはできない。
だから、しだいに頭脳あるいは頭脳の一部は心理的と同様生理的にも機械的になり、反復的になったのである。
人は信仰や教義やイデオロギー、つまり、アメリカのイデオロギー、ソ連のイデオロギー、インドのイデオロギーなどの型にとらわれている。
そこには快楽、つまり性的な快楽、達成の快楽、所有の快楽、愛着の快楽などの反復がある。これはすべて反復的だから、頭脳の退化を引き起こすようになる。反復的過程としての快楽の追求と、それがもたらし、人がまだ解決していない恐怖という重荷があるかぎり、頭脳は退化する。人はその重荷を離れ、逃避し、それを正当化するけれども、依然としてそれは残っている。
われわれが、人々、観念、象徴、概念などに執着するのは、そういったもののなかに安定があると思っているからである。
何かの関係のなかに安定があるだろうか?
自分の妻や夫のなかに安定があるだろうか?
その「安定」の本質は、実際は執着である。
妻や夫などのなかに安定を求めたら、そのときにはどうなるだろうか?
人は合法的にあるいは非合法的に所有する。
所有があるところには、それを失いはしないかという恐怖があるにちがいない。
したがって、そこには嫉妬、憎しみ、離婚、といったさまざまなものが出てくるにちがいない。

……

目覚めた叡智は、危機、阻害など心理的な問題すべてに対する、深い、真の洞察をもっている。
それは頭の上での理解でもなく、葛藤を通して問題を解くことでもない。
人間の問題に対する洞察をもつことは、とりもなおさず、この叡智を覚醒させることである。
あるいは、この叡智をもてば、洞察が生まれる。
それは両方に通ずる。
このような洞察において葛藤はない。
あるものをきわめて明晰に見るとき、問題の真理を見るとき、その葛藤は終わる。
あなたはそれに対して戦わない。
あなたは統制しようとしたり、計算され、動機づけられた、さまざまな努力をしようとはしない。
その洞察つまり叡智から行動が生まれる。
延期された行動ではなく、即時の行動が生まれる。
—–
われわれは、子供時代から、できるかぎり徹底的に、あらゆる種類の努力をするようにしつけられてきている。
もし自分自身を観察すれば、われわれが自分自身を統制し、抑圧し、自分や他者が確立した一定の型式(パターン)や目的に自分を合わせ、修正するために、いかに大きな努力をしているかが分かるだろう。
だからこそ絶え間ない闘いがあるのだ、ということも分かるだろう。
われわれはそれとともに生き、それとともに死ぬ。
そしてわれわれは、日々の生活をただひとつの葛藤もなく生きることは可能だろうか、と問う。
—–
ほとんどの人々は、「葛藤はなくてはならないものである。さもなければ、どんな生長もない。その葛藤こそが人生の一部だ」と言うであろう。
森のなかの一本の樹は、太陽に届こうと闘う。
それは一種の葛藤である。
あらゆる動物は葛藤の状態にある。
そして人類も、知的ではあっても、それでも絶えず葛藤の状態にある。
さて、そこで不満は、「なぜ私は葛藤しなければならないのだろう?」と言う。
葛藤とは、比較、模倣、服従、ある様式への適応、現在から未来にかけて存在するものの修正された継続性を意味する―これらはすべて葛藤の過程である。
葛藤が深ければ深いほど、ますますあたなは神経症的になる。
だから、葛藤から逃れるために、あなたは深く神を信じて、「願わくば神の意志が実現されんことを」と言う。
そして、われわれはこの奇怪な世界をつくり上げる。
葛藤とは、比較を意味する。
人は比較なしで生きることができるだろうか?
ということは、どんな理想も様式の権威も、特定のイデオロギーに対する服従もないということである。
それは、観念という牢獄から自由になって、どんな比較も、模倣も、服従もなくなり、したがって〈あるがまま〉、まさに〈あるがまま〉に忠実になる、ということを意味する。
比較は〈あるがまま〉を、〈あるべきもの〉や〈あるかもしれないもの〉と比較するときにだけ生じる。
あるいは〈あるがまま〉をそうではないものに変えようとするときにだけ生じる。
そして、すべてこの種のものは葛藤にほかならない。
もし〈あるがまま〉に対する洞察を得たなら、そのときには葛藤はやむ。
あなたは〈あるがまま〉とともに残る。
すると〈あるがまま〉はどうなるだろうか?
あなたが〈あるがまま〉を見つめているときの精神の状態はどういうものだろうか?
あなたが逃避していないとき、〈あるかまま〉を変えようとしたり、歪めようとしたりしていないとき、あなたの精神の状態はどういうものだろうか?
洞察をもって見つめている、その精神の状態はどういうものだろうか?
—–
洞察のある精神の状態は、完全に空っぽである。
それは、逃避から解放され、抑圧や分析などから解放されている。
その重荷がすべて取り去られたとき、そのときには自由がある。
それは、あなたがその愚かしさを見るからであり、ちょうど重い荷物を取り去るようなものある。
自由とは、観察する〈空〉を意味する。
その〈空〉はあなたに暴力に対する洞察を与える。
暴力のさまざまな形態ではなく、暴力の本性と暴力の構造の全体に対する洞察を。
したがって、暴力に対する即時の、無為自然な行動が生まれ、
それは完全にあらゆる暴力から自由である。

……

感傷なしに、論理的に、厳密に見るならば、いったい心理的な時間というものがあるだろうか?
心理的な時間があるのは、〈あるがまま〉から逃げるときだけである。
心理的な時間があるのは、たとえば自分は暴力的だと気づいて、
次にどうやって暴力から離れるかということに取りかかるときである。
その〈あるがまま〉から離れてゆく運動が時間である。
しかし、もし全面的かつ完全に〈あるがまま〉に気づいたら、
そのときにはそのような時間はいっさいなくなる。
日々の生活において、この状態からあの状態へと動く運動としての時間が消えてしまった生き方がある。
それをするときには何が起こるのだろう?
あなたは途方もない活力や明晰な感覚をもつようになる。
そうなったら、あなたは観念をではなく、事実だけを扱っている。
しかし、たいていの人たちはさまざまな観念のなかに閉じ込められている。
そしてその生き方を受け容れてしまっている。
その観念の牢獄を破壊することは非常に難しい。
だが、それを洞察することだ。そうすればそれは終わる。

……

あなたは、何かに歓喜を覚える。
何かとても美しいものを見るときおのずと湧いてくる歓喜を。
その一瞬、その一瞬、そこにあるのは快楽でも喜びでもなく、
ただその見るという感覚だけである。
その観察においては、自己はない。
頂上に雪をいただき、渓谷に飾られた、雄大で荘厳な山を見つめるとき、思考はすべて追い払われる。
そこに山がある―自分の眼前にひろがるその雄大さを見て、あなたは歓喜する。
それから思考が現れて、それが何とすばらしく素敵な体験であったかを、記憶として記録する。
それからその記憶が培養され、その培養化が快楽になる。
一篇の詩に、水のひろがりに、野原の孤独な樹に―、
何かに対して美しいと感じ、偉大だと感じる、その感覚に思考が干渉するときはいつであれ、それが記録になる。
しかし、それを見てなおかつそれを記録しないということ、それが重要である。
それを、その美しさを記録した瞬間、記録そのものが思考をはたらかせる。
そうなったら、その美しさを追い求めたいという欲求が起こり、それが快楽の追求になる。

……

心理的、内面的には、誰であろうと、あらゆる人間は世界である。
世界は自分自身のなかに表されており、自分自身が世界なのである。
これは心理的には完全な事実である。
ある人は白い肌で、別の人は褐色や黒色の肌かもしれないし、
ある人は裕福で、別の人はひどく貧乏かもしれないが、
内面的に奥深い所では、人間はすべて同じである。
われわれは、孤独、悲しみ、葛藤、不幸、混乱に苦しんでいる。
われわれは何を為すべきか、いかに考えるべきか、
何を考えるべきかを教えてくれる人に頼っていて、
さまざまな政党や宗教などの宣伝教化(プロパガンダ)に服従している。
それが、内面的に、世界中で起こっていることである。
だから実際に心理的な意味で、人は世界であり、世界はその人自身なのである。
言葉や観念の上ではなく、あるいは事実からの逃避としてではなく、現実的にこの事実を悟ったら、そしていかに遠く離れていようと自分と他者は別個のものではないという事実を、つまり内面的には彼もおおいに苦しんでおり、ひどく恐れていて、不確実で不安なのだという事実を、深く感じ、悟ったら―そのときには、人は小さな自分ではなく、人間全体と関わっていることになる。
この途方もない事実に気づいたとき、それは人に大きな力を与え、自分自身を探求し、変容させたいという強い衝動を与える。
なぜなら人は個人ではなく、人類だからだ。
こうした変容が起こるとき、人は人類全体であるから、その影響は人間の意識全体に及ぶ。
自分が根本的に深く変わり、内面にこの心理革命が起こるとき、そのときには、人類の意識はおのずと影響をうける。
自分は、人類、自分以外の残りの人類の意識全体の一部だからである。
そこで、人は自分の意識のさまざまな層を洞察することにかかわり、その意識の中身を変容することが可能がどうかを探求する。
その変容から次元の違うエネルギーや明晰さが出現できるように。

……

意識のなかには善も悪もあるが、いまは悪が増大しつつある。
悪が増大しているのは、善が固定化されていて、善が花開いていないからである。
人は、善とみなされている特定の様式を受け容れ、それらの様式に追従して生きる。
だから善は花開くどころか、枯れつつあり、そうなることによって悪を力づけている。
まさに世界中に暴力や憎悪が増大し、国家的・宗教的分裂が増大し、あらゆるかたちの敵対がある。それが増大しているのは、善が花開いていないからである。
いまは、この事実に気づくことだ。
ただし、どんな努力もなしに。
努力するやいなや、人は自己に重要性を与え、尊大になる。
それが悪なのである。
どんな努力もしないで、ただ悪という事実そのものを観察することだ。
どんな選択もしないで、それを観察することだ。
なぜなら、選択は事実を歪める要因だから。
きわめて開放的に、自由に観察するとき、善は花開きはじめる。
それは、善を追求し、そうすることによって、それに開花する力を与えるということではない。
悪、魔性、醜さが完全に理解されたとき、その対極をなすものがおのずと花開くのである。

……

いま生きているように、活力、エネルギー、人生の苦悩のすべてとともに生きていながら、しかも、死と直面して生きることができるだろうか?
人は、活力、エネルギー、可能性に満ちて生きているが、死とはその生の終焉を意味する。
さて、人は始終、死とともに生きることができるだろうか?
つまり、私はあなたに愛着をもっている、その愛着を落としなさい、と言うことは一種の死ではないだろうか?
ある人が貪欲で、その人が死んだとき、その人はその貪欲をたずさえていくことはできない。
だから貪欲を終わらせることだ。
一週間や十日後ではなく、いまそれを終わらせるのだ。
そうすれば、人は、活力、エネルギー、可能性に満ちた生、注意深い生を生き、この世の美しさを見、そしてまたただちにその終焉、つまり死を見るようになる。
だから、死の前に生きるということは、死とともに生きるということになる。
つまり、それは時間なき永遠の世界に生きているといいうことである。
—–
死を招くとき、すなわち自分がつかんでいるものすべてを放し、日々刻々それに訣別するとき、自分は見出すだろう。
いや、そうなったら自分ではない、見出す自分自身というものはもはや存在しない。
なぜなら「自分」は消え去ってしまったからである。
そうなったら、われわれが「時間」として知っている運動は存在しない。
永遠の次元という状態がある。
それは、自分の意識の中身を空っぽにしたために、時間がいっさいなくなったことを意味する。
時間が終焉する―それが〈死〉である。

……

嫉妬を生み出したのは思考なのに、ほかならぬその思考が、「私は、それから逃避しなければならない、それを抑圧しなければならない」と言うのである。
もし逃避、抵抗、抑圧のもつ虚偽性を見ぬいたら、そのときには、逃避や抵抗や抑圧のほうへ行っていたそのエネルギーは、観察するために結集される。
人が、「私は妬み深い」と言うとき、
ある意味では、すでに、それを押しのけようとしている。
だから、観察するためには、人は言葉の影響力から解放されなければならない。
そしてこれには―逃避しないための、そして羨望という言葉がその感情を生み出したのだということを見ることができるための―とてつもない敏感さ、非常な注意深さ、気づきが必要である。
—–
苦しみから逃げることなく、全面的に、完全にそのなかにとどまり、
どんな思考の運動もなく、苦しみを和らげようとしたり慰めを求めたりせず、
あくまでもそれから離れることなく、自分の中の苦しみをあるがままに観察するとき、
そのときには人はたぐいまれな心理的変容が起こるのを見る。
—–
愛は情熱である。それは慈悲心である。
その情熱や慈悲心がなく、知性しかなければ、人はきわめて限られた意味でしか行動できず、
行為はすべて限定されてしまう。
慈悲心があるところでは、その行為は全面的で、完全で、不変のものとなる。

……

完全に「あるがまま」とともに生きるということは、いかなる意味でも葛藤がないということである。
したがって、それを何かほかのものに変えるべき場としての未来はどこにもない。
その終焉こそは、叡智の一形態である至高のエネルギーの結果なのである。
—–
単独(アロンネス)とは、孤立のことではない。
それは、引きこもって、自分のまわりに壁をはりめぐらせるということではない。
単独(alone)とは、全一(all one すべてひとつ、全体と一体)だ、ということである。
そのときには、人は全人類を代表する全的な人間存在であり、意識は知覚を通して変容を遂げるようになる。
それこそが、叡智の目覚めである。
その叡智は永遠に心理的権威と手を切り、自分の意識に深く影響するようになる。

……

ばらばらではない全体的な〈生〉を生きることが可能だろうか?
思考が家族、会社、教会などというかたちで分裂していないような〈生〉を。
死はあまりにもばらばらになっているので、
死が訪れるとき、それに脅え、それに衝撃を受けて、
人の精神は死に直面することができない。
それは全的な〈生〉を生きてこなかったからである。
死はやってくる。
そして、その死と言い争うことはできない。
「もう少し待ってください」と言うことはできない。
死はそこにある。
それがやって来るとき、精神は、自分が生き、活力やエネルギーに満ち、生命に満ちていながら、あらゆるものの終焉を迎えることができるだろうか?
人生が葛藤や心配に浪費されていないときには、人はエネルギーや明晰さに満ちている。
ここで言う死とは、人が知っているものすべての終焉を意味する。
そこには完全な終焉がある。
精神は、生きていながら、なおかつそういう状態に直面することができるだろうか?
そうなったら、人は死とは何かという意味のすべてを理解するだろう。
もし〈私〉という観念にしがみついていたら、
すなわち存続しなければならないと信じている〈私〉、
そのなかに高次の意識、至高の意識が存在すると信じている〈私〉をも含めて、
思考によって組み合わされた〈私〉という観念にしがみついていたら、
そのときには、人は生における死とは何かを理解することはない。
思考は、既知なるもののなかに生きている。
それは〈既知〉の産物である。
〈既知〉からの自由がなければ、どうてい死とは何かを見出すことはできない。
その〈死〉とは、肉体のもつあらゆる根深い習慣やその他すべてのものの終焉、
体や名前やその肉体が得たあらゆる記憶をほんとうの自分だと思いこんでしまうことからの訣別である。
肉体的に死ぬときには、そのすべてを持ち越すことはできない。
自分の財産のすべてをそこへ持っていくことはできない。
だから、同じ意味で、自分の知っているすべてを、生において終わらせなければならない。
ということは、自分はまったく単独であるということである。
孤独(ロンリネス)ではなく、単独(アロンネス)である。
それは、完全に全体となった境地にほかならない。
単独(アロンネス)とは全一(オールワン)を意味する。

……

〈気づく〉とは、自分に関する物事、自然、人々、色彩、樹々、環境、社会的構造などあらゆるものに対して鋭敏であること、いききと敏感であることを意味する。
そして、起こっていることすべてに対して外面的に気づくと同時に、内面的に起こっていることに気づくことである。
気づくということは、心理的に内側で起こっているものと同時に、外側で環境的、経済的、社会的に起こっているものに対しても鋭敏であること、知ること、観察することである。
もし、外面的に起こっていることに気づかないで内面的に気づきはじめたら、そのときには人はむしろ神経症的になる。
しかし、もしできるだけ多く世界で起こっていることに気づきはじめて、そこから内面へと向かうなら、そのときには人はバランスを保っている。
そうなったら、自己欺瞞という可能性はなくなる。
人は、外面的に起こっていることに気づくことから始めて内面へと向かう。
あたかも潮の満ち干のように、そこには絶え間ない運動がある。
そうすれば、そこには欺瞞はない。
外側で起こっていることを知って、そこから内側に進むなら、そのときには拠り所を得る。
—–
人はいかにして自分自身を知ることができるか?
自分自身とは、非情に複雑な構造、非情に複雑な運動である。
自己欺瞞に陥らないためには、どのようにして自分自身を知ればよいのか?
人は、他者と自分との関係においてはじめて、自分自身を知ることができる。
人は、自分と他者の関係において、自分が傷つけられたくないがために他者から退くのかもしれない。
あるいはその関係のなかで、自分がとても嫉妬深くて、依存心が執着心が強く、
それでいてきわめて冷淡であるということを発見するかもしれない。
だから、関係は自分を知る鏡としてはたらく。
それは外面的にも同じことであって、外なるものは自分自身の反映である。
なぜなら、社会、政府などといったものはすべて、
根本的に自分と同じような人間たちによってつくり出されたものだからである。
人が何かを理解できるのは、〈あるがまま〉を見てそれから逃げ出さない―
それを何かほかのものに変えようとしない場合だけである。
〈あるがまま〉―ただそれだけとともにとどまり、
それを観察し、見ることができるだろうか?
私は〈あるがまま〉を見たい。
私は自分が貪欲だということを知っているが、それは何の役にも立たない。
貪欲は、感覚、感情であり、私は貪欲と名づけられたその感情を見ている。
言葉は実体ではないのに、私は言葉を当の実体と間違えているのかもしれない。
私は、言葉にとらわれていて、事実、つまり自分は貪欲だという事実とともにはいないのかもしれない。
それは非常に複雑である。
言葉はその感情を誘発することができる。
精神は言葉から解放されて、そして見ることができるだろうか?
—–
言葉が貪欲という感情を生み出すのだろうか、
それとも言葉がなくても貪欲があるのだろうか?
これは抑圧ではなく、とてつもない規律を必要とする。
それを追求すること自体が、独自の規律を内在している。
そこで、私は非常に注意深く、
言葉が感情を生み出したのか、それとも感情は言葉がなくても存在するのか、
ということを見出さなければならない。
その言葉とは「貪欲」であり、
私は、以前にその感情を抱いたときに「貪欲」と名づけた。
したがって、私は現在の感情を同じ種類の過去の出来事によって記録している。
だから、現在は過去にすっかり吸収されてしまっているのである。
—–
さて、私は過去なしに貪欲という事実を観察できるだろうか?
名づけずして、言葉にとらわれずして、
つまり、言葉は感情を生み出すことができることを理解し、
そして言葉が感情を生み出すなら、言葉は〈私〉であり、
「怒るな」と命じているその〈私〉は過去のものであるということを理解してしまったら、
貪欲を観察できるだろうか?
〈私〉、すなわち観察者なしに、〈あるがまま〉をみることは可能だろうか?
私は、観察者すなわち過去なしに、
貪欲―その感情、その達成やはたらき―を観察できるだろうか?
〈あるがまま〉は、〈私〉がいないときはじめて観察されうる。
人は自分のまわりのさまざまな色や形を観察できるだろうか?
どうやってそれを観察するのだろうか?
人はそれを、眼を通して観察するのである。
眼を動かさずに観察することだ。
というのも、眼を動かせば、思考する頭脳が完全にはたらき出すからである。
頭脳がはたらき出す瞬間、そこには歪曲が生まれる。
眼を動かさずに何かを見つめてごらん。
そうすれば、頭脳はどれほど静かになることだろう。
眼だけではなく、自分の注意、自分の愛情をもって観察してごらん。
注意や愛情があれば、観念ではなく事実を観察するようになる。
注意、愛情をもって〈あるがまま〉に近づくようになる。
そのあかつきには、判断、非難はいっさいなくなり、
人は対極をなすものから解放されるのである。