文章断片

誓願

この、自身の内なる、自身そのものである、妙なる、間断なき、自身と不可分・対象化不能なる気づき=意識(awareness)のみを信ぜよ。

一瞬一瞬、一刻も無駄に(放念・失念)することなく、瞬間瞬間に、身も心も完全に充実し、統合され、完璧に空白で透明な充実の状態に留まれよ。
そして、宇宙の展開の最善を祈れ、全托の心と共に。

この脳-身体-意識が、神の働きの器として、回路として用いられますよう、
聖化され、純化されますよう。

が、どんどん小さくなって、もっと無くなって、より純粋に、神の回路として、奉仕の器として用いられますよう。願い、祈ります。

現在の瞬間・あるがままへの全托・投げ出し・全受容こそが、全的な、あるがままへの気づきであり、救いである。

誓願(方向づけ)と伴っての、全托(御預け、全受容)、そして、背後にある全的な気づき。

現在の自身の状況(身体の状態、浮念、思考-感情)、周りで起こること、すべてを必然的なものとして、聖なる結果、変えようのないものとして受け入れよ。
すべての心理的抵抗を無くし、自身/世界の展開を信ぜよ。

格言(気づきの行における)

外なる技法を求めるな。方法を外に求めるな。
ただ、自分の内なる気づきのみを信じて(に頼って)、その道具(のみ)を磨け。

もっとを求めるな。
いま、この瞬間の、この事実、この現象のみを味わっておれ(の中に留まっておれ)。
それが、どんな不快な、ウンザリするものであれ。

* もっとは、いま現在の現状・事実から、頭の中にしかないもっといい未来・理想へ逃げることに、過去の経験・記憶を基に作った、もっといい状態を一瞬先の未来において実現させようとすることに他ならない。

その絶え間ない現実からの逃避の習慣に、永遠の苦しみがある。

* 過去と未来は頭の中にしかなく、今と現実は目の前にある。

気づきの行において、問題を作っているのは思考。
上手くいかなくて、どうしたらいいのか、もっといい方法、もっといい情報が無いかと逃げ回っているのも思考。

思考することではなく、気づくことに解決がある。どの場合、どの瞬間においても。

どの場合においても、問題は全て、あるべき自分像、今・ここには無い理想の自分の状態を頭に思い描き、現にあるもの・事実・現実の自分・状況を見ないことにある。

その、あるべきを捨てて、裸になって、現実の、情けない自分に着地することに解決がある。

全ての問題は、今・ここ・この、あるがまま(の自分)」対する気づきがないこと、
刻々の自由な気づきがないことにある。
それのみ。

安定は、刻々の気づきの中にある

私たちは心理的安定を求めます。
心理的安定がないと、不安・不安定で、明日が知れず、心安んじて居られません。

そのため、安心できる財産、家、職業、地位、容姿、能力、資格、学歴、あらゆるものを求めます。
それによって、この不安定な世の中で、少しでも安定して、安心して、確実でありたいと願うからです。

しかし現実は、そんな安定への努力など消し飛んでしまうほど、予測不能で、明日が知れず、
実際のところ、明日の夜まで自分の家があるか、仕事があるか、生き残れるか、死なないか…
奇跡のような偶然で、その日その日を生き延びているに過ぎません。

では、安定は、どこにあるか。

安定は、今、ここにあります。
それは、いま・この瞬間の、全的な気づきのなかに、あります。

それは、全面的な不安定の状態と同一化していることであり、
全面的に不安定であるとき(過去の記憶による思考である、安定の記憶=安定への願望が気づきによって、瞬間瞬間捌け切ってしまっている状態にあるとき)、あります。

確乎とした地盤である大地。
それは、不安的な生存において、かなり信頼できる安定した拠り所でしょう。
しかし、大地震が来ます。
そのとき、私は、どうするのでしょう。
あらかじめ不動心の修練をしておいて、どんなに大地が地震で揺れても、揺れない内面を作るのでしょうか。
しかし、それも厳しそうです。

では、地震の最中の安定は、どこにあるのでしょうか。

それは、揺れ=不安定のなかにあります。

揺れと共に、全面的に揺れているとき、
揺れと自分との、運動的ずれ・時間的ずれがないとき、
凄まじい動きのなかの動かないこと、
揺れのなかの安定があります。

それは、「安定・不安定」、「揺らぐ・揺らがない」を超えたところにあります。

揺るがない安定は、刻々の気づきのなかにあります。

科学と宗教

自分が、「どういう芝居の、どういう役で、そして、いまが何幕目なのか」を知る為の手段として科学が存在する。歴史学、進化生物学、現代宇宙論、素粒子論などがある。

そして、この神なき時代に成立すべき(同時代的な、死んでいない、生きた)宗教とは、それら全てを含み、また、それらすべてを超えていなければならない。

科学、宗教-それら全ては、我々個々の自己認識、そして人類そのものの自己認識のために(協働して)存在する。

闇と光と

気づきは光に似て、ひかり(気づき)があれば、闇は消える。

ハッキリと照らし見ることができれば、見えないが故に、怖れ、怖がり、混迷していた、事実誤認の状態は終わり、事実が(光の下)剥き出しにされる。

闇(見えなさ、見えてなさ)を無くすためにできることは光をもたらすことのみであり、光が射せば(暗闇は消え)、すべては明らかとなる。

その、気づき-意識の光の強度に耐えられるよう脳を訓練(改造)すること、その光の強さに眼が眩んでしまわないよう、徐々に眼を慣らしていくことが気づきの修行であり、その集中的なトレーニングを、気づきの耐久レ-スであるリトリートのなかで行なう。

それは、そもそも、既にある、遍満し、充溢している気づきを、脳が感受・認識できるよう、調整(チューニング)するための訓練である。


自身の心の中の闇を見ること、見続けること、それそのものが浄化をもたらす。

「どうしたら(自分は)変われるか、どうしたら(自分の中の)この汚れを拭えるか」ではなく、自分の中の闇、汚濁を観察し続ける視線こそが光であり、この光の照らしによって闇は闇として深まり、その闇の深さによって光は眩さを強める。

* この局面に於いて、「なぜそうなのか」の原因を探したり、「どうすれば変われるか」の方法を考えたりすることは、事実・問題(と直面すること)からの逃避でしかなく、精神力・エネルギーの浪費であるに過ぎない。無駄なこと。

そこに、浄化されることが不可能なままの魂の浄化・洗いがあり、地獄の底での救いがある。

それは地獄を離れて極楽に至ることではなく、地獄が地獄のまま昇天すること、地獄の底に光が射すことに他ならない。

光の存在によって闇はその深さを増し、闇の深さによって光はその輝きを増す。

気づきこそが、唯一の光である。

リトリートとは、徹底的な自分直面の作業である

リトリート(集中的修行・研修)とは、徹底的に自分と向き合う作業である。
それは現にある自分から、素晴らしい自分に逃げる(移る)ことではない。
なので、そこには、当然、自己直面のうんざりさがある。
それは、あって当然。

しかし、その自己直面がない限り、本質的な問題の解決、心の構造そのものの変容は見込まれない。

修行とは、あるがままの(このつまらない)自分から、本で読んだり、人に聞いたりした「素晴らしい状態」へと移行する努力をする(目的地を目指して歩く)ことではなく、この現にある自分の姿(刻々の心/からだの動き・現象)を見つめ、あるがままの自分を全面的に認識し、そこに留まり、それと和解する作業である。

それは、出発地点である「ここ」に、全面的に立っている訓練であり、喩えれば、何処へ走り出すこともなく、スタート地点である「ここ」に全身全霊で立ち尽くすことができとき、一歩も歩まずゴールに到着していると云うのにも似た、不思議な構造を持っている。

十日間の心の手術

それが、内観であれ、ヴィパッサナーであれ、ボディワークであれ、リトリートとはつまり大掛かりな心の手術であり、そのことによって、積年抱えていた病・痛み・不具合が解消される。

それだけの手術に臨むのだから、それなりの覚悟は必要で、まず入院前の先生の注意(体調管理など)をキチンと守ること。
また、手術が始まってしまったら、痛いからといって途中で止めることはできないことの理解。
開腹した状態で、「想像してたより痛いから、このままウチに帰らせて下さい」と言われて、「ああ、そうですか」と言って帰らせてくれるお医者さんは居ない。
やり始めたら、最後までやる、と云う決意が必要です。

内観、ボディワーク、瞑想は、病院に喩えれば、それぞれ科の違いに似ている。
内科、皮膚科、歯科など。

しかし、その方の抱える問題を総合的に解決しようとする点では同じ。

そして、気づきの手術は、ただ一つの道具、「気づき」というレーザーメスを使って行なう。
その道具を自分の心のなかに作り上げます。

「この心の痛み・苦しみから、どうにか解放されたい、楽になりたい。そのためには、自分にできる限りでの努力は厭わない」と云う気持ちが定かであれば、研修はうまくいきます。

テクニック・技術が人を変えるのではありません。
求心のみが、極限まで高まった「どうにかしたい、どうにかなりたい」と云う心のみが、それ自体を変容させます。
そのためのエネルギーの流れ道として、技法・技術があります。

「怒っていることを怒り、嫌悪していることを嫌悪する」の構造

自分の中の怒りについての怒り。
自分が怒ったこと自体を怒る、受容できない。
嫌悪自体への嫌悪。
ある出来事・人に嫌悪感を抱いたこと自体を嫌悪する、と云う悪循環。
一つ目の矢と二つ目の矢の喩え。
それをしている限り、今の事実・現実への受容的な気づきは不可能となる。

怒りについて怒ったら、二度怒りを抱え込むことになる。
泣き喚く赤ん坊だと思って抱きしめる。
「怒りのストーリー」を追うのを止めて、体の感覚に目を向ける。
まずは、第一段階として、怒りを対象化することができなければならない。
怒りにまきこまれず、「現象」として客観視する。
そして、それを深める中で、怒りが自分に他ならないこと、怒りの他に自分と云う別の実体は無いことに気づく。
そのことによって、「怒り」の異なった形での解決がある。

感情が動くことが問題なのではなく

「感情が動くこと」が問題なのではなく、それが「残ること(残余して、尾を引くこと)」が問題。
それを掃け切らせるための技術が、瞑想、気づきの技法である。
方位磁石が東西南北、自由に振れて、滞らなければ良いように、人の心も喜怒哀楽、自由に振れてもいいから、固着しないことが肝心。
でも、それが難しいので、そうなるための方法論が色々あると云うこと。

さとりの扉

さとりへの扉、秘儀参入への扉は、「いま、ここの、このつまんない私の現実、感覚、痛み、イライラ」、そこにしかない。
「私」と云う人型をした扉から入るしかない。

真の師は、自分の中にしかいない

真の師は、自分の中にしかいない(「気づき-洞察モード」で起動している脳=「私」)。
その内なる師が目を覚ますまでのしばらくの間、代理で教えてくれるのが外なる師・先生。

悟りを超えた祈り(祈りと瞑想)

祈り・助けを求める先の「神」は=全体(とつながっている私)=宇宙それ自体のこと。
小さき「我(われ)」が、大いなる「私」に頼み、祈る。
祈りと瞑想の統合。
自力と他力の統合。
禅と内観(浄土教)、仏教とキリスト教との統合。
悟りを超えたところに生じる祈り。

内なる井戸を掘る

それぞれの精神的伝統(教え)を井戸に喩えることができる。

全ての井戸は元は同じ地下水を汲み上げている。

自身の存在の底に、気づきによる井戸を打ち抜いたとき、地下水が噴出する。
そして、最後は、自分自身の存在の底に自家製の井戸を掘ること。
直接源泉から水を汲むこと。

井戸のある場所の地質や、汲み上げポンプ・道具、手入れの状態によって味は変わる(味は濁る)
自分の口に合う井戸から水を飲めばよい。

自らの底に打ち抜かれた井戸から直接水を汲むとき、はじめて真実の修行が始まる。

過去、数知れぬ人々が水を汲んできた尽きせぬ源泉に直接通う道行き(真の修行)が始まる。

このことから幾つかのことが帰結します。

1、著作権など無いこと。
どの回路を通って出てきたかの違い。

2、教えの体現に関して、責めを負えないこと
どの人(指導者)も完成者ではないこと。

いま私たちに必要なのは、自身の内なる井戸を掘るための具体的な方法論・マニュアルであり、あとは、それを使って実際に自らのなかの手入れされず埋もれてしまっている古井戸を掘り起こすことだけです。

その気づきによる井戸を自身の意識の中核に打ち抜いたとき、私たちは、すべての井戸が根っこのところは同じ一つで、繋がっており、常に同じ水が湧いていたのだ、と理解します。

ただ、それぞれの井戸によって、地質の違いとか、汲み取りポンプの錆の味とか、手入れを怠っての苔の味とか、色々味が変わる要因を持っていただけなのだと。

Awarenessismの言いたいこと

『あなたは世界だ You Are The World』 →クリシュナムルティ

『私たちは世界だ We Are The World』 →USAフォー・アフリカ

『きみは地球だ デヴィッド・スズキ博士の環境科学入門』 →デヴィッド・スズキ

『あなた(我々)は宇宙そのものだ。あるいは宇宙の細胞だ(進化生物学的な意味において)』 →Awarenessism

Awarenessismの基本的認識

1、宇宙は神の身体である。一者(得体の知れない何者か、唯一の生命体・生き物)の身体である。

2、我々は、神の細胞である。(私のお腹の中の大腸菌が、私と云うシステムの一部であるように)

3、それが、時間の流れのなかで進化している。それは、進歩とも言えない。人間的枠組みで「良い悪い」は言えない。ただ、より複雑に構造化されつつある、結びつきつつある、とは言える。

私のお伝えしたいことの要点

1、「禅、ヴィパッサナー瞑想」などの気づき系・仏教系の瞑想は、取り組む価値がある技法だということ。(私の場合、その理解の前提として、クリシュナムルティの教えが絶対的に存在しています)

2、「内観」は、これもまた、一度は経験する価値のある強烈な心理的技法だということ。
(瞑想と内観は、組み合わせて実践する(双習・併宗)ことによって、バランスが取れ、その真の効果を発揮します。それは、右足と左足のようなもの。片足では早く進むことができないように。)

* ただし、一週間以上の日数をかけて行う「集中内観」に関しては、単発で、一発勝負・短期決戦的な側面もあり、ある意味、その期間だけで完結した結果を出せる。結果を出せるとは、「問題解決を期待できる」と云う意味である。

3、身体系の技法(ボディワーク)としては、指導者なしに実践するなら「フェルデンクライス・メソッド」、習いに行くことが可能ならば「刀禅」は、即効性と奥深さを備えた素晴らしい体系であるということ。

* 私は、「刀禅」に(武術である以前に)ボディワークとしての有効性を見出しており、それはつまり、身体の歪みの調整、ブロックの解除・開放を行うための整体法としての治療的な効果を実感していると云うことです。フェルデンクライス・メソッドの健康法・治療法としての効果に関しては、言うまでもないです。

そして、その先に、瞑想的な身体意識の深化と云うレベルがあります。

これらの技法においては、「強さ(年齢、体力、体格に関わらない本質的な力強さ)」と「正しさ(つまり、身体に良い)」と「美しさ(無駄が無い、機能的な美しさ)」が一致しており、真・善・美の三つが溶け合っているのを錬功のなかで実感できる所に魅力を感じます。

4、それら、瞑想・内観・ボディワークを、バラバラなものとしてではなく、統合した視座のもとに組み合わせて実践することで、更なる深み・高みを目指すことができる。(単なる「足し算」ではなく、強力な「掛け算」になります)

瞑想・内観・ボディワークは、最低限必要な組み合わせで、三角錐の三つの底辺、三位一体的なものとしての実践が望ましい。

* それらすべての修習・実践に関わる基礎知識として「進化生物学的な知識・知見」があると、なお良い。

気づき=王様であり、その他のジャンル=僕、大臣である

瞑想、ボディワーク、音楽、何であれ、全てそれ以上のものではない。
それらは、すべて王である「気づき」を何に振り向けるか(身体か、知覚か、創作か、思考か)の違いでしかない。
芸術であれ、哲学であれ、宗教であれ、それら全てのなかで働いているのは「気づき-意識」である。

「気づき」が身体と云う回路へ向かえば舞踏となる。
「気づき」が思考と云う回路に流れれば哲学・思想となる。
「気づき」が存在することそのものの充足へ向かえば(いわゆる)瞑想になる、あるいは、ただの日向ぼっこになるのかも知れない。

すべてのなかで、そのものをそのものたらしめているのは「気づき-意識」であり、AOAを実践する(つまり、「受容的な気づき」の状態として在る)こととは、その、瞬間瞬間、生まれ続け、そして壊れ続ける不断の作品の唯一の内的鑑賞者(目撃者)として存在することである。

「Awareness(気づき-意識)」が、純粋に、滞りなく機能していさえすれば問題は存在しない。
気づきがあるとき、問題は消え(自己溶解し)、気づきが鈍いとき、全てのものごとは問題となる。

知・情・意、知覚・思考・感情・欲求などの各モジュールが「気づき-意識」によって統合される。

「あるがまま」と「あるべき」との比較なしに、いまの事実・現実を観るとき、全く異質な「自由」の感覚がある。それは、全面的な不自由さの真っ只中に出現(現成)する、自由の感覚である。

気づきの訓練(瞑想)とは、脳の再-条件づけである

それは、条件づけを解除するためデザインされた特殊な条件づけではあるが、条件づけであることに変わりはない。→「指に刺さった棘を抜くための棘」の喩え

故に、
1.反復回数、継続時間
2.稽古中の集中力(集中してトレーニングする)、あるいは熱意(感情)を伴って訓練をする。
3.より能率の良い訓練法を探す工夫(頭を使う)をする

の三つが効果の大きさを決める。
スポーツの技能に習熟するのと変わらない。

その(デザインされた)条件づけによって、脳に新しい認識の流れ(川)を刻む。
そのための気づきによる反復練習、脳の筋トレ。

これは、内観・瞑想・ボディワーク、すべてに共通して言える原則・事実である。

気づきが世界を成り立たせている

宇宙があり、世界があり、他人が沢山居り、そのなかに私の肉体があり、その肉体の頭のなかで意識がハタラキ、そのハタラキの断片が「気づき」である、と云う訳ではない。
「気づき」こそが、私たちの世界を宇宙を成立 ・存在させ、瞬間瞬間、維持している。
私たちは「気づきの海」のなかに存在している。

気づきが、通身(全存在)に行き渡り、浸透し、すべてを満たす。
気づきのなかに、世界が存在する。

気づき=創造の状態

「気づき=洞察の状態」とは、また「創造の状態」であり、すべての芸術・表現を産み出し続ける、意識=存在の状態である。

すべての型を生み出し続ける、無形のもの。
それ自体は、常に型を破り、そこから抜け出し続けるもの、である。

それは、また、愛の状態でもある。

ここで言うとは、心地良く無い・快くないものも含め、自身の経験する全て(の感覚・内的/外的なすべての現象・経験)を受け入れ、味わい尽くす心の質のことである。

苦しみを感じている自分

痛み・悲しみ・苦しみがあるとき、それを観ている自分、それを恐れ、それに巻き込まれること無く、それを制御しようとしている自分という感覚があります。

「それを観察しよう(観察していよう)」とする心の動き(行為)自体が、それを恐れ、それをコントロールしようと云う、自我に発する制御欲求・安全欲求に発している場合がある。

「(観ている自分と、見られている対象の)分離感のある自己観察」の極みが「分離なき観察」であり、更に言えば、それは「観察」ですらなく、ただ「それ(対象物)」であること、「それ」になっていること、「それ」としてハタラクことである。

観ている自分(自我)と云う残り滓なしに、完全に「それ」しかないとき、「それ」が自然に働き、純粋な衝動・エネルギー・振動として展開する。

それを、「フラワリング(開花)」と云う言葉で表現することもできる。

禅の逸話にこういうのがあります。

白隠禅師に長く参じたおばあちゃん(大姉)が居ました。
白隠さんにも一目置かれるほどの、いわゆる「悟った」おばあちゃんでした。
あるとき、そのおばあちゃんの孫が事故で死にました。
そのお葬式の時、おばあちゃんは、ワンワン言って泣いてました。
それを見た近所の人たちが、「何だ、あのばあちゃん、普段悟ったとか何とか言ってるけど、あんなに取り乱して泣いちゃって、普通の人と何にも変わんないじゃない」とか囁きあっていました。
それを聞いたおばあちゃんは、「あんたら何も分かっていないねー。自分のこの号泣は、どんな偉いお坊さんのお経よりも功徳があるんだよ」と答えました。

大きな山を貫通しているトンネルを抜けて、その先に行きたいなら、そのなかに真っ向から入っていくしかないように、トンネルを幾ら外から観察したところで、その通路を抜けた先にはいけない。
雨雲を外から見ていても、何も分からないように、そこに突入して、暗く、濡れた場所を、モミクチャになりながら通り抜けるしかない。

痛み、苦しみ、惨めさ、喪失感などを超える、最高で、最短の道は、ただ全面的に苦しむことである。

苦しんでいる、そこから逃れようとしている自分すらないまでに、苦しみに打ちのめされ、打ち負かされて、苦しみそれ自体しかない状況に、真っ直ぐに飛び込んでいくこと(あるいは引きずり込まれていくこと)、これは、テクニックなどではなく、単に、どうしようもなく駄目になることである。

それが起こるとき、「これはマズイ! このままでは駄目になってしまう」との自我の足掻きが起こるが、それに構わず、負けて、飲み込まれて、駄目になって、訳が分からなくなってしまえば良い。

つまり、最高の方法は無方法であり、(方法を求めることこそが、最大の問題からの逃避・延期であり)方法など考えずに、全面的に、それに負け、突入することが必要である。

ただ、これは自分(自我)が行なえることではなく、起こるときには起こること。
不慮の事故、あるいは神の(宇宙の)恩恵に近いもの。

これは、禅が得意とする法の説き方であるが、それは禅にしか言えないこと(禅の専売特許)ではなく、クリシュナムルティであれ、ヴィパッサナーであれ、インド系の教えであれ、(言い回しは違うけど)行き着くところまで行けば、そうなるしかない。

他人事のように自分を見る – 心の治癒と魂の覚醒

ここでは、外から「他人事のように自分を見る」工夫が紹介されています。
これも間違いではなく、私たちにできることは、ただどこまでも、いまある苦しみを観ることだけであり、その極みにおける飛躍は、狙うことも訓練することもできず、ただ起こるべきときに起こるだけで。

この「観察の先、観察対象へのジャンプ」は、自己観察と云う道(通路)を通り抜けた先にあるものであり、そこに向けてできることは、地道な、弛みない、粘り強い観察の訓練のみです。

「絶望(何もしないこと)と飛躍」が起こる為には、「あらゆることをし尽くさなくてはならない」。その「できること」とは、気づきの訓練、今ある問題を純粋に観ることの持続、強化でしかないです。