「分離ある観察」と「分離なき観察」 ヴィパッサナー瞑想に対する疑問に答えて

昨今、良く見られるヴィッパサナー瞑想(主にマハーシ・メソッド)批判の典型として、以下のようなものがあります。

1. サティ(気づき)による主客分化の強化について

サティをする側(主体)と、サティの対象(客体)の固定化、分離感の強化、主体と客体のさらなる分離、自我の強化がされるような感覚があること。
自我と云う隔てを壊さなければならないのに、その隔てが強化されるような感覚がある。
気づきという意識の働き自体が自我から起こっているので、やればやるほど主客の分離間が強まる感覚があること。

瞑想は主客融合・主客未分である(になる)はずなのに、その逆の結果となる矛盾。

2. ラベリング(言葉による気づき、確認)について

ラベリングにより、思考、雑念、怒り等を認識・識別する際、自己嫌悪感という瞋(怒り)が自然発生してしまい、かえって、それらへの執着・固着を深めてしまう点。

「痛み」「怒り」などと云う否定的なラベリング自体が対象に対する嫌悪感を強化し固着させてしまう。その観察対象自体も強めてしまっている感があること。

瞑想は、善悪・有無などの対立概念による分別を超える道のはずなのに、その分別・概念自体を強化すると云う錯誤。

3. 中心対象の設定について

中心対象をあらかじめ設定すると云う意志的、意図的な観察は、あるがままの現実の受動的な観察になり得ないこと。

真の瞑想は、徹底的なこれらの排除によって成り立ちうるのであり、あるがままへの気づきを説くヴィパッサナー瞑想が、実際の瞑想技法として、このような不自然なことをしているのでは、ブッダの真意にも反するのではないか、間違っているのではないか。
→ これは主にクリシュナムルティなどを読み込んでいる方から起こりやすい批判点です。

以上をまとめると、

サティ=ラベリングの使用、中心対象の設定は、主体と客体を区別するマインドの働き(主客分離感)を強めるものであり、
その技法と、進める境地には限界がある。

と云うものです。

「分離ある観察」と「分離なき観察」

同じようなヴィパッサナー瞑想に対する認識・評価を、ケン・ウィルバーは、

1.one taste = 大乗仏教、アドバイタ、その他の伝統の説く、非二元の意識のレベル
2.witness = ヴィパッサナー瞑想など絶対観照者の観察のレベル

との(ある種の)階層づけ・ランクづけによって説明します。

以下は、ある方の書かれたウィルバー思想の要約です。

ウイルバーの(魂の)成長論を簡単に述べるなら、アイデンティティの脱同一化と同一化(統合)という言葉がキーワードになるでしょう。

例えば私達は自分の身体を客体として見て、自分の心(自我)に同一化しています。この段階では心と体が分裂しています。この自我から脱同一化して、自我と身体を統合することが次の段階です。

同様に身体から脱同一化して、世界と同一化することが次の段階です。
つまり、狭い自己からの離脱は広い自己との同一化と同義ということです。

ただしウイルバーは最後の段階でこの二つを区別しています。

Witness、目撃者、元因の段階は、すべての顕現からの離脱を意味しています。しかし、この段階では、あらゆる主体への同一化を解除しているものの、未だ目撃者と目撃されるものという微妙な二元論が働いているとしています。

最終段階は、One Taste、心のレベル、非二元的領域、統一意識、と色々と表現を変えていますが、この段階はすべての顕現と統合します。
「目撃者の中で静かにくつろぐにつれて、この内なる目撃者であるという気持ちが完全に消え去り、そして目撃者は結局目撃されているあらゆるものだとわかる。形は空であり、空は形である。目撃者とすらも脱同一化し、すべての顕現と統合する。」

ただ、ウイルバーはこの段階を、自己と全自然界との間に分離がない自然神秘主義の段階と区別しています。「自然との一致体験と違い、単なる外なる粗い形との間でだけでなく、内なる微細な形すべてとの間でも体験される。」

つまり、ヴィパッサナー瞑想では、Witness、目撃者、観照者の意識まではいけるけれども、非二元の「一味」のレベルには行けない、あるいは、非二元の意識の認識を邪魔する、との理解です。

※ この「one taste=一味」とは、元々「一味平等」と云う禅宗の言葉です。

この様なヴィパッサナー瞑想の理解・認識・位置づけは、ケン・ウィルバーに限らず、ステファン・ボディアンなど、現代アメリカの論者全般に共通するものですが、私とはかなり異なっています。

※ 逆に、観の瞑想のなかでそのような分離感の残滓があると云うこと自体、ヴィパッサナーとしてはレベルが低く、初期仏教の理論では「初禅」の段階に達していない、「心一境性=サマーディ」が完成していない状態での観察であるとしか言えません。
その分離感(現象を見ている観照者として「私」の感じ)は、自身の微細な思考-イメージの蠢きを完全に対象化・観察・見切ることができていない故に継起・存続し、完全な対象化(余すところなき、見漏らしなきサティ)ができれば、そのような対象との分離感は即座に消えます。
そこから初めて真性のヴィパッサナーが始まる、と理解しています。

私は、禅、アドヴァイタ系、クリシュナムルティ、その他、現在沢山居られる瞑想世界の指導者の言われていることが、「細かい話を除いて、大まかな部分では、結局言っていること(説いている境地)は皆一緒である」と云うのに、ほぼ同意できるのですが、ことヴィパッサナー瞑想(原始仏教、歴史的人物としてのブッダ)の教えと修行システムと到着地点に関しては、そこに回収できない異質なものがあるとの感触を持っています。(断言できるほどの経験や論拠は、まだ無いので「感触」と云うに留めています) (また、すべての人にとって、それ(原詩仏教的な観‐行、さとり)を選ぶべき必然性があるかどうかは別問題です) (また、この話は、どちらが「良い悪い」とか、「間違い正しい」とか「上位下位」ということを言っているのでは無く、「違う」と云うことを言っております)

ただし、この話は、純粋なヴィパッサナー瞑想を実践して、消滅智・壊滅智などの九観智の入り口まで実際に行ってみた実践者でないと議論することに意味が無い(議論できる材料が無い)話なので、私は通常、このことには触れないで、ケン・ウィルバーやステファン・ボディアンの本と論考を研修に際しての参考資料として肯定的に紹介しています。 しかし本心としては、「条件つきで」でしかありません。

これらの方の大乗仏教やアドヴァイタの理解に関しては疑問は無いのですが、ことヴィパッサナー=アビダルマ仏教の理解に関しては、かなりの問題を感じます。

純粋な(ヴィパッサナーもどきではない)ヴィパッサナー瞑想の修行経験がないのではないか、と感じてしまうのです。

これは、普通の意味では良書だと思えるラリー・ローゼンバーグさんの『呼吸による癒し』を読んでいても感じることで、この方は、私が理解するところの「真性ヴィパッサナー」を理解できていないのではないかと思っています。(よって「無常・苦・無我」などの原始仏教の根源の部分の説明が曖昧で、大乗仏教的に薄められた感じになっています)

ただし、それは通常のレベルの指導の場合、特に問題で無く、ラリー・ローゼンバーグさんは、非常に良い、開けたタイプの瞑想指導者なのではないかと感じています。

これら良く見られる批判・疑問・認識のズレは、私からすれば、

・ それらの技法の狙い・意味が分かるところまで実際にヴィパッサナーをやっていない

・ そもそも、ヴィパッサナー瞑想それ自体を正しく実習できていない

・ 正しく理解できている指導者に習っていない

・ 何らかの(瞑想や悟りに関する)先入観、背景理論を持った状態で、ヴィパッサナーの実践をしている(つまり、ヴィパッサナーとして正しく、正確に実践できていない)

のどれかから出てくるものではないかと思います。

これらの疑問・疑義は、理論的な説明によって解くことが可能である、と考えております。

そして、このページの論考で、それを行なっていく積もりでおります。

なぜ、このことに時間を注ぐかと云うと、ヴィパッサナー瞑想と云う貴重な独自性を持った瞑想法(人類の精神的遺産・伝統)が、この程度の理解・誤解によって投げ棄てられるのは、あまりにも残念だと感じるからです。

私にできる範囲の理論的な説明・釈明によって、潜在的にヴィパッサナーに縁がありつつ迷っておられる方のヒントとなればと思います。