公案系の技法としての内観

1 はじめに

内観、公案禅、キリスト教、クリシュナムルティ

内観法の二つのレベル

心理療法としての内観(内観療法)と、宗教的行としての内観(内観道)

「心理療法としての内観(内観療法)」においては、内観は、非常の変化の確実な、即効性のある、技法であり、一回の内観内観によって、人間は変わる、問題解決できる、と言える。

宗教的行としての内観(内観道)においては、人間は、どこまでいっても本質的には変われない、内観によって人は変らないと言える。
ただし、その「変らない、変れない」としか答えられないところに、内観の奥深さがある。

悟りと救い(自力と他力)

内観は、まず三学で言えば、戒の修行であり、内観によって初めて、清らかになりたい、もうこれ以上、戒を破りたいくない、まっとうな人間になりたい、と云う主体的な心底の心のうめき・叫びが生まれる。それが、その後、戒を守って生きることの原動力になる。
そこからはじめて、仏教の修行が始まる。
その上で、定の修行に取り組める。
定の修行がある程度進んだところで再び、内観に取り組むことによって、自身の進境をはかることができる。

内観と瞑想は、左右の足、あるいは車の両輪の如く、双習するのが望ましい。
また、最終的に、内観のなかに瞑想が流れ込み、瞑想のなかに内観は浸透し、どちらとも言えない独特のものとなって深展してゆく。

2 キリスト教と浄土教 共通する基本構造(骨組み)

「阿弥陀(法蔵菩薩)の誓願、二種深信、地獄と極楽、煩悩罪重の身)に対し、「神-キリスト、天国と地獄、原罪」など、道具立ては違えども、その構造は共通する。

二種深信とは

「深心」(じんしん)と言うは、すなわちこれ深信(じんしん)の心なり。
また二種あり。
一つには決定(けつじょう)して深く、「自身は現にこれ罪悪生死(ざいあくしょうじ)の凡夫、曠劫(こうごう)より已来(このかた)、常に没(もっ)し常に流転して、出離の縁あることなし」と信ず。
二つには決定して深く、「かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受(しょうじゅ)して、疑いなく慮りなくかの願力に乗じて、定んで往生を得」と信ず。

親鸞 『教行信証』の信巻

3 公案禅と内観 共通する基本構造(骨組み)

また、その基本的構造は、公案禅の基本的構造そのものであり、内観とは、弥陀の公案と云う唯一の公案のみで一切の人間的問題からの突破を目指す、浄土系の思想が生み出した公案禅だと言える。

この内観=弥陀の公案の素晴らしいのは、高みに上ることでなく、誰よりも深い地獄に転落することによってしか、その問題を解けない構造にある。
地獄から出て天国に上るのではなく、地獄の底の床板に這いつくばったとき、地獄そのものが地獄のままに衝天する、その構造にある。

しかし、その神秘主義的パラドックス自体が、禅、キリスト教神秘主義などと通底する逆説構造の
純化されたものである。

・久松真一の基本的公案

「たった今ほかならぬここで、どうしてもいけなければどうするか」
「どういう在り方でも、われわれの現実の在り方は、特定の在り方であり、何かである。何かである限り、何かに限定され繋縛された自己である。何ものにも繋縛されない自己、それをまずわれわれは自覚しなければならない。立ってもいけなければ、坐ってもいけない。感じてもいけなければ、考えてもいけない。死んでもいけなければ、生きてもいけないとしたら、その時どうするか? ここに窮して変じ、変じて通ずる最後的な一関があるのである。禅には、古来千七百どころか無数の古則公案があるが、それらは結局この一関に帰するであろう。」 『絶対危機と復活』(著作集第2巻、法蔵館)より(p.191)」

久松真一集

4 内観の未来 (来たるべき内観)