内観は、なぜこれほどにも効くのか?

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はじめに

内観と云う技法(方法論)が、とにかく良く効く(効果がある)というのは、関係者・経験者には明らかなことで、いまさら説明するべき必要も無いことではあるのですが、では、「なぜ、そんなに効くのか?」と尋ねられると、スッキリと納得できるかたちで答えるのが難しい。
最善の答えが、「やってみれば分かりますよ」であったりするのですが、
確かに、こんな単純でシンプルな構造をした技法が、なぜ、これほどまでに広範で多様な効果(変化)を引き起こすのか、しかも短期間で…

そういう意味で、内観は、「効果は実証されているのだが、その作用機序は明らかではない薬」のようなものだとも言えます。

このページでは、現時点の自分の力を尽くして、その限界まで、「内観の作用機序」について考えてみたいと思います。

内観の内部構造

内観の行程・段階について

1. 愛の再確認

愛の落穂拾い・魂の宝探し(宝石拾い)としての内観。

幼児期の両親・家族からの愛情の再確認。

黄金の少年時代の再発見、発掘。

内観の第一段階としての、バランスの取れた、肯定的自己イメージの確立
心理的安定、基礎作り。

2. 自己との和解

過去との和解、自分の生まれた境遇・親・環境・身体的状態との和解・受容

親を許し、親から許される、ココロ(魂)の体験。

3. 社会性(他者からの視点)の確立

客観的視点(第三者的視点、相手の視点から自分(状況全体)を見る経験。

自分を離れた視点の確立。

4. 恩の感覚の確立

受けたものの大きさと、返したものの少なさの非対称の自覚。
有り難さ、恩の感覚。
報恩の思いの発生。

5. 罪の自覚 罪業感

罪業感から、悟り/救いを求める内観へ。
どこまでも汚れた、救われない自分の自覚・凝視。
宗教的行としての内観。
「公案系」の技法としての内観 (弥蛇の公案) 二種深信

参考ファイル

「久松真一集」
「たった今、他ならぬ此処で、どうしてもいけなければどうするか」
「どうしてもだめならば、どうするか?」


これら5つの要素は、必ずしも時系列で生じてくるものではなく、全体が同時並列的に、渾然一体となって内観者の心に育ってくるものですが、もし、あえて順序を言うならば、1.の「愛情の再確認」がまずあって(それは、たいてい、父母・養育者に対する内観で起こります)、自分の中に、「基本的な自己肯定・無条件の自己存在承認・自己受容」と云う基盤ができてきます。
そのうえで、5.の「罪の自覚 罪業感」の感覚(これは、特に「嘘と盗み」というテーマで扱われる)が熾烈になっていく(あるいは、その両者が相伴って高じて来る)のが、望ましく、理想的と言えるかもしれません。

馴化と云う問題

馴化 – Wikipedia

psycho lab. : Learn to Psychology! : 学習心理学 : 初期経験と馴化

『馴化』のからくり – 生涯成長

12/3(月)
食べる物がある。寒さがしのげる。かけがえのない家族と一緒に暮らしていける……。
そんな当たり前の、ささやかな幸福が、どれほど得がたいことか。
有るのが難しい、有り難い、ありがたいことだったのだ……と、すべてを失った時に、痛切に思い知らされる‥‥。

12/4(火)
快楽の記憶はたちまち薄らぎ、楽受系の事柄は、どんなことも当たり前になっていく‥‥。

12/5(水)
強烈な快感であればあるほど、脳神経細胞のシナプスは、快感ホルモンの受け皿を減少させる傾向がある。
最初と同じ強さの快感では、物足りない‥‥と感じる所以である。
快楽の刺激はエスカレートし、欲望は肥大する‥‥。

12/6(木)
同じことは、飽きる‥‥。
同じ強さの刺激に、不満を感じる官能。
受け取った刺激の意味を変換する、高度な精神の営みがなければ、「少欲知足」は難しい‥‥。

(世界からの世話と愛を受け)愛されて育ってきた自分を確認することで、自己評価の低さ(それ故の、劣等感/優越感、肥大化した自己イメージ防衛)と云う問題を抱えていた自己に、健全な自己像・パーソナリティ形成に必要な、健全な自己肯定感・条件づきでない自己存在承認が可能となる。

● 懺悔→感謝→報恩

自分は罪深いという自覚が、許しと恵みに対する感謝(または他者に対する許し)を生み、 許しと恵みに対する感謝が愛を心に満たし、心に満たされた愛が他人に働きかける。

相手への共感能力が、罪悪感を成立させる

他者への共感能力が、罪業感を産み出す。 共感能力――つまり、他人の心を想像したり、理解したり、自分を他人の立場に置いて考える能力が、他の動物にはない人間の大きな特徴の一つだと言われている。

● 内観 脚下照顧 回向返照 足元を照らす 自分の立っている基盤を見る

● 人は他人に善を求めて苦しみ 己の悪を認めて安らぐ   柳田鶴声

内観 鏡で自分を観る作業

心を映す鏡 他人を鏡として、自分の心を、そこに映して見る

● 井戸掘りの喩え 素手で井戸を掘る

内観で自分を調べるのは、素手で井戸を掘ることに似て  ようなもの。

岩だらけの岩盤を、血だらけになりながら、延々掘り続ける作業に似ていて、 そこを掘ったら、本当に水源や温泉に突き当たるのか分からない状態で、ただただひたすらに、そこ(自分の過去、他者との関係)を信じて掘り進める。 一度掘り出して、ある程度掘ってから途中で、「やっぱり、こっちの方が良いかも知れない」と掘る位置を変えたりしていては、永遠に水脈を掘り当てることにはならない。

地面とは、自分の心であり、掘り下げるのは、日常の生活では見ることの難い、自分の深い部分での正体であり、自我の本性である。

「細い井戸をたくさん掘ってみるのでなく、ひとつの井戸を深く掘り進まないと、命の水は得られない。」

自身のうちの闇を見つめることが、心を浄化する

闇の凝視、闇への気づきの深さに応じて、心は浄化されないまま、浄化される。 見ている闇が深いほど、光のまぶしさも増す。

断片と絵 パズルのピースと図柄

一つ一つの断片的な記憶の想起と、それが一気につながって、脈絡のある理解-洞察に至る。
ゲンシュタルト図形 図-地反転。

前提自体からの解放

トラウマ理論との違い 「愛」がないと思って(そういう前提で)の「愛情探し」「愛の狩人」、 そこから、既に/常に、愛が与えられていたのだ、満ち渡っていたのだ、との自覚。 「たとえば水の中にいて、渇を叫ぶがごとくなり」

自我の語りとしての自我伝と、内観における語り

「脱・自我伝」
自伝は常に自我伝である、との言葉。
自我に心地良い物語を語ることから、自我を跳出した視点からの語りへ。
自我は、常に、無自覚的に、如何に自分が良い人間であるか、如何に深い人間であるか、イケてるか、如何に思慮深く、やさしく、良心的かをアピールしようとする。
事実(あったエピソード)のなかから、じぶんの自己イメージに都合のいい部分のみを取り出し、自伝を編み上げ、語る。しかし、それは「真実」ではない。内観における「語り」とは真実の語り。

「物語療法」としての内観

第1段階 自分の「不幸物語」の語り

2段階 物語として編集される以前の(そこからこぼれ落ちている)元事実の想起

3段階 より客観的な、新たな「物語」の編み直し、語り直し、物語の上書き、リニューアル・更新

「野家啓一の物語論」

内観は、「物語」として編集済みでない、編集前の元事実(編集以前の元-事実群)を見ていく作業である。

星と星座、コンスタレーション 星座描き、ストーリー作り

私たちは、色んな「物語」を持って、自分の過去、境遇、育った家庭、両親との関係、自分の性格、人格を説明する。 それは主に、自分を救うため、自己弁護、自己正当化、自己合理化のため行われるが、 その「物語」としての自己規定が、本当は自分を苦しめている。事実・現実を見る眼を曇らせる。

自分の本当の自由な可能性、新たな展開、これまでのパターンから飛び出ること、脱出することを妨げてい場合がある。 その「物語」は、現在世間に流通している様々な心理的理論・本などを利用し、自分の過去のエピソードの中から、そのお話に都合のいい断片的なエピソードだけを抽出し、繋げることによってできている。 「トラウマ物語」「アダルトチルドレン物語」「傷ついた子供物語」など、現代社会に於いては幾つもの通りの良い定番「物語」があり、それによって自己規定をしている

(強い)感情・情動を伴う認識の転換が、人の心(行動)を変える

健全な自己否定と、不毛な(価値のない、徒に自己消耗的な)自己否定

健全な自尊心(セルフエスティーム)と、無くすべき自尊心(肥大化した、現実にそぐわない自己イメージ)自己防衛、傲慢さ。

気づきと洞察による認識の枠の転換(リフレーミング)

自己の心身への気づきによる洞察と解放の道。 身体的には、解放と浄化、調整

awareness-insight retereat(気づきと洞察の集中研修)

すべて「気づき-洞察志向的な技法(サイコテクノロジー・精神技術)」である。

それらはすべて認識の(枠の)転換をもたらす。リフレーミング

瞑想=気づき-洞察→(自己の心身と、それを通してみる世界に対する)認知・認識の転換

内観=懺悔-感謝→(自己の行動の動機と、それを取り巻く他者-社会との動機に関する)ものごとの認識の枠の転換(リフレーミング)

ボディワーク=開放-調整→身体と身体図式(ボディイメージ)認識の転換

どの入り口から入っても、最後には、他の二つすべての結果も含む。

人の幸不幸は、意識の志向性が決める

現象を経験した瞬間に、遺伝と、これまでの生育環境・人生経験によって刻まれた自然地形の川(脳に形成されている道筋)を通って、意識・エネルギー・認識が流れる。
それが、その人の反応系-意識の志向性である。

つり橋の喩え

内観も、ヴィパッサナーも、その生まれついての指向性を変える訓練・技術

マナシカーラ

ただでさえ限られた貴重な「効果」を、自分で認めない・否定することによって無いものとしてしまう。

否定的認識が強い人の内観体験記の例(柳田鶴声さんの挙げているものから)

「内観は効き目は無い」

私は、全身の骨が痛む病気を治すために病院の紹介で来ました。ある本で、内観に合わない人もあると云う記事を見ましたが、私もそうでした。
ほとんど効き目がありませんでした。
もちろん、皆さんが言うように、木々の緑が美しく見えたり、花が優しく微笑みかけるような気分を味わいましたが、一週間、薄暗い屏風の中にいて、突然日の当たる場所に出たので、当然の結果だと思います。内観しなくても、そのようなことはあり得る事です。
また、骨の痛みも今は全く治って痛くありませんし、体も軽いのですが、しかし、必ず再発しないと云う保証もないし、治ると云う自信もありません。
したがって、私にとって内観は無駄だったと思います。
今のところ、二度とやる気はありませんが、またお世話になりたいと云う気になるかもしれませんので、よろしくお願いします。
食事は、私の好きなものが出たときは美味しく頂きました。
ありがとうございました。

◆ 内観=リフレーミングの作業

reframingとは、ある枠組み(フレーム)で捉えられている物事を枠組みをはずして、違う枠組みで見ることを指す。

同じ物事でも、人によって見方や感じ方が異なり、ある角度で見たら長所になり、また短所にもなる。

例えば、試験で残り時間が15分あった場合、悲観的に考えた場合は「もう15分しかない」と思うし、また楽観的に考えた場合は「まだ15分もある」と思うであろう。

リフレーミング
 「フレーム」つまり、認知の「枠組み」を変えるという意味です。

 リフレーミングには「意味のリフレーミング」と「状況のリフレーミング」の二つがあります。

 私たちは、この世の出来事を、そのまま見ているわけではありません。どんな出来事も、何らかの意味づけを行って見ています。

 例えば、向こうから歩いてくる見知らぬ女性が笑ったとします。ちらりとこちらを見たような気がします。

 Aさんはこう思います。「お、俺のことを見て笑ったぞ。俺に気があるのかな。ちょっと嬉しいかな。」

 Bさんはこう思います。「何だよ、馬鹿にした笑いをしやがって。何か、今日の俺の服装はおかしかったかな?それとも、俺の顔がおかしかったのか?頭に来るなあ。」

 Cさんはこう思います。「変な女性だなあ。何か、思い出し笑いでもしたのかなあ。良くわからないや。」

 人間はこのように同じ現象に対して、人によって違う意味づけをします。これはあたかも、私たちが色眼鏡、しかもその人独自の色眼鏡をはめて世の中を見ているようなものです。アドラー心理学ではこれを統覚のスキーマと言います。他の心理学では認知バイアスと言ったりします。

 とにかく、ある状況に対して、ある意味づけを行っているのです。

意味のリフレーミング
 この、ある状況に対する意味づけを変えることを「意味のリフレーミング」と言います。

 例えば、交通事故に出会ったことで、ショックを受けて、鬱々と落ち込んでいる人に、「危険な事故にあったにもかかわらず、生き残ることが出来た。」という見方や、「貴重な体験ができた。」、「今後は安全運転をする癖が身についてよかった。」などの違った側面からの意味づけを学んでもらうのです。

 どんな出来事にも、考えればポジティブな側面はあるものです。そのポジティブな側面に照明を当てるのです。この意味のリフレーミングによって、ネガティブな意味づけをポジティブに変えて、気分などを改善します。

状況のリフレーミング
 次は、その人が持っている色眼鏡の傾向を、違った状況に使ってみて、役に立つ場合があるということをイメージすることです。意味づけをそのままに、対象になる状況を変えるので、「状況のリフレーミング」と言います。

 ある人が、どんな状況でもそれに含まれる不都合などに目がいって、批判的なあら探しの傾向があるとします。あら探し傾向の意味づけが役に立つ状況を考えるのです。

 何か、危険な落とし穴があるような状況の場合、あらゆる事を批判的に見ることが、危険性を見事に察知する事につながります。この状況のリフレイミングを行うことによって、人は、自分のものの見方、意味づけ傾向を有用に使えるようになっていくのです。

さてあなたはボトルに半分飲み物が残っているときに、「もう半分しかない」と思いますか?「まだ半分もある」と思いますか?人によって見方は異なると思います。これを心理学で生かしたものがリフレーミングというものです。
 同じ物事でも、人によって見方・感じ方が異なります。それは、ボトルのような例だけではなく、性格などについてもあてはまります。たとえば、何をするにも時間がかかって、特に決断するというのが苦手で優柔不断だと言われて悩んでいる人がいるとします。確かに、それも一つの見方だと思います。では、見方を変えてみましょう。何をするにも時間がかかってしまうと言うのはあせらずじっくりと物事を進める性格だとも言えませんか?すぐに決断しないというのは、慎重な性格だとも言えませんか?多少強引かもしれませんが、短所だと思っていることも見方を変えれば長所にすることができるのです。このようにある「枠組み(フレーム)」で捉えられている物事を枠組みをはずして、違う枠組みで見ることをリフレーミングと言います。
 自分や身近な人を悪い方向からばかり見つめてはいませんか?柔軟な発想でリフレーミングをすることで、自分や他人とのコミュニケーションのしかたも変わってくるかもしれませんよ。

原始仏典には、このようなエピソードも記されています。

在るところに、二人の息子を持つお婆さんが住んでいました。
その二人の息子の、兄の方は日傘を売り、 そして弟の方は、雨傘を売って生計を立てていました。 そこでお婆さんは、晴れた日には、弟の雨傘が売れないと心配をし、雨の日には、兄の日傘が売れないと心配をして暮らしていたのです。

その話を聞いた釈迦は、そのお婆さんに次のようなアドバイスをしました。

お婆さん、晴れた日は、兄の日傘が売れて嬉しいと喜びなさい。 雨の日は、弟の雨傘が売れて嬉しいと喜びなさい。

それを聞いたお婆さんは大いに喜び、 それからは、毎日を笑顔で楽しく暮らすようになりました。

よく、「ポジティブ(プラス思考)」と 「ネガティブ(マイナス思考)」を説明する譬えとして、

水がちょうど半分入っているコップが目の前に置いてあるとすると、「まだ半分も水が入っている」と考えるのがプラス思考で、「もう半分しか入っていない」と考えてしまうのがマイナス思考、という話しをよく聞きます。

しかし、この場合の視点には三種類あるということに気づくでしょう。

「まだ半分も水が入っている」と観るプラス思考的な視点。 「もう半分しか入っていない」と観るマイナス思考的な視点。 そして、さらに三つ目は、ただありのままに、 「ちょうど半分の水が入っている」と観るニュートラル思考的な視点。

家族療法としての内観

愛の論理療法=内観

固定化した情緒的反応パターン、ものの見方 ・ 受け取り方 ・ 感じ方 ・ 考え方のパターンの自覚と解除 ・ 更新の為に。