倫理なき悟りと、悟りなき倫理

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悟りと倫理 「倫理なき悟り」の問題

道徳的・倫理的な自己確立ができていない状態で、禅的な見性体験などをした際に起こる大きな問題は、よく言われています。

倫理的な方向性の重視

私は、昨今では当たり前に語られている「倫理なき悟り」「覚醒に人格性は伴わない」と云う話は(現状を見る限り、確かにそうであるけれども)間違っていると考えています。

ただ、悟り・覚醒体験が、日常の人格性に浸透してきて、悟りが日常で人格化されるところまで定着するのが、相当に難しいことであるだけだと思います。その根拠は、「そもそも倫理や道徳は、悟りの世界から来ている」と理解しているからです。
そもそもの倫理性や社会的道徳の根源・発生は、あちらの世界にあると感じています。

その「倫理性の強調」の路線は、今後明らかにしていきたいと考えています。
極端な言い方ですが、ひとつになった、融合した、脱落した、などと云う体験よりも、少しでも人格的にまともになった、自分の煩悩のひどさに悩めるようになった、と云うほうが重要で、価値があると感じています。

「悟り」と云う全てを超えた世界から切り離された道徳や倫理は干からび形骸化した拘束物になるけども、
「倫理」と切り離された、そこに向かわない悟りも非常に危険なものである。

悟りなき倫理も、倫理なき悟りも危ないと云うこと。
それらは、本来共通のところから発生している。
あちらの世界の暗示(暗在)的構造を、こちらの世界に持って帰って明示化したものが倫理規範や道徳であると理解しています。

おおよそ、そういうことをもっと具体的に書いていきます。