2ch ダンテス・ダイジ スレ2-1

2chの「ダンテス・ダイジ」スレ2です。
おそらく、1と同じ方が投稿されているのだと思いますが、価値ある仕事だと思います。
埋もれてしまうのは惜しいので、此処に置かせて貰います。
長いファイルですので、4つに分割してみました。
もし、此処に置くことに問題ある場合は、お手数ですがご連絡ください。(霊基)

ダンテス・ダイジ2


『救世主なぞいらない
    救世主でないものなど何一つありはしないのだから』

――不安、不満、虚しさ、恐怖、憎悪、嫉妬などを、完全に見守ることが、
     「ニルヴァーナ」すなわち「絶対幸福」の出発点なのである。

どんなことも結局はあなた次第なのだから
  言葉の中に瞑想はないだろう しかし瞑想の中には言葉もある

今・ここで 言葉は神になった

—–

幾度も幾度も繰り返される夢 夢見続けるブラフマン
無数の意識の流れ 輪廻し 上昇しあるいは再び下降し そして帰り着こうとする流れ
眠り続けるブラフマン 一人の人間の中にある無限の宇宙 あらゆる生類達の多様多元の宇宙
一人の人間の中に接弦する多元宇宙 夢見続ける宇宙

久遠の時の中の遠い遠い夢 うつし世の胸高鳴る甘美な悦び そして苦しみ 深い深い嘆き
夢見続けるブラフマン 目覚めることのない久遠の夢 すべてを秘めて眠るアガシャの夢の海

全知全能を内包した一つぶの砂 アガシャの想念の海を泳ぐ無数の生命達
あらゆる想念を具現しまた破壊する ブラフマンの化身シヴァ 破壊と殺戮の神シヴァ そして私自身なるシヴァ
私の手は無限の宇宙を握りつぶし 私の足は永遠の歴史を踏み倒す

シヴァなる私は踊り狂う 眠り続けるブラフマンに気使うことなく 夢の宇宙に私は踊る
モンゴルの平原にさまよう旅人も わたしの酒くさい一息が 全身に吹きかかれば思い出す
あなたはブラフマンの夢 あなたはシヴァの化身
時にはあなたはブラフマンそのもの そしてあなたは私自身

—–

愛は自由だ。
愛はすべての生命、すべての存在物が求めてやまない、そのものだよ。
しかも、それぞれの存在物ってのは、みんな愛の中にあるんだ。
「愛情ってね、執着するじゃない。でも、自由になるとさ、何ていうか、愛情の中から飛びぬけてしまって、そういう事はないの?」
うんと、自由ってのは、例えば愛情とかなかにはさ憎悪が時におこる時もあるし、嫉妬がおこる事もある。それから執着が苦しくなる時もある。
だけど自由ってのはさ、部分的にあるんじゃないんだ。
例えば、愛情ってものや執着ってものを消した時に、自由が出てくるなんてそんなチンケなものじゃないんだ。
まず、自由があるんだ。自由があるからその中で、自由に愛情を注ぐ事ができるんだ。

それは、同時にあるんだよ。

それは、人間として生まれた計り知れない喜びを味わうことだし、
人間として生まれた計り知れない悲しみを味わう事なんだ。

さあ、もうすべては終わったんだよ。
・・・・・・そして、すべてがはじまる。

人間が 人間のものではない人間性を自覚する途上において 言葉は無効だなどと
今さらとやかく言うにはおよばぬ 人類すべてが すでに求道者としてしかありえぬ 時節に入って久しい
ことばとは実体験とは別のものだと 言いたい人は言えばいいし そのように生きたらいい

この現在の 様々な姿をとった求道者達にとっては 言葉は一輪の野の花であり
瞑想体験の一つともなる どんなことも結局は あなた次第なのだから

—–

パラノイア

パラノイアはおもしろい 私たち人間は、みんなパラノイアだ。

欲望が標テキを仮作する 人間コメディーの幕が上がった

果てしなき流れは終りがない 無限の大海のまっただ中にいるのも知らずに

そこで物語が尽きることなく演じられているというわけだ

大いなるマーヤ・・・ 甘美なる欲念相続・・・ 不可思議な神の遊び 不可知な神の戯れ・・・

さあ、さあ、物語はすでに進行してるんですぜ!
この演技の唯一の観客は、神様ただ一人
あの、ニンマリと微笑を浮かべた   あいつだ!

だが、あいつもまた 一人ぼっちの役者に過ぎないかもね・・・

夢を夢と見るも夢
 夢を夢なる夢のまた夢・・・・・・・・

三神歌―――
われもなくうつし世もなくなにもかも
 夢の中なる夢のたわむれ

われもなくうつし世もなくなにもかも
 神の中なる神のあらわれ

われもなくうつし世もなくなにもかも
 なにもかもなしなにもかもなし

—–

鳥は鳥に帰るのだ。魚は魚に帰るのだ。
限りなき高みを天にかける孤独の鳥は、その量り知れぬ意志ゆえに、
空の果てまでも見破って、永遠の神秘におののく。

この魚も海の底深く、深海魚よりも、さらに深く、
まっ暗闇の深海の地獄へ沈んでゆく。

鳥が太陽に向かって飛ぶように、魚は海に溶け込みたいのだ・・・

もし、太陽が鳥を愛し、海が一ぴきの魚を慈しむのなら、

かれらは 太陽となり海となるだろう。

そうして帰ってくるのだ。
鳥は一ぴきの愚かな鳥として、
魚は一ぴきの無知なる魚として、
帰るともなく帰ってくるに違いない。

なんと完全なんだろう!

身知らぬ未知に飛び込むのは 本当に恐ろしいことだ

そしてそれよりもっと恐ろしいことは 君が、すでに未知だということだ

私は何も知らないともいえない 何と完全なんだろう!

一つの時が満ちた時、なにもかもが、得体の知れぬものと化す。
それはもはや、恐怖でさえない。

—–

「私の知人に悟り薬を作ってる人がいた。
一粒飲めばたちどころに悟りを開くというわけだ。
ところでその完成した悟り薬を飲んだ連中の言うことには、三日間とても素敵なんだそうだ。
ところが三日過ぎれば元の木阿弥とあいなる次第。
知の宮のある科学者は宇宙意識と合一して超人化するための、最もイージーなテクニックを組織的に研究している。
全く人間という夢は、夢ゆえに何でも夢見るらしい。
私の超人仲間であるケイルーンのよく言う言葉を思い出す。
『君にとって簡単に見えるものが困難のはじまりである。君を死滅させるほどの難しさが、簡単のはじまりなのである』
確かに超人達はイージーそのものだ。
しかし、イージーそのものはあなたに属するものにはない。
安楽な戯れは、あなたが元々ありもしないここにある。
私が出版した『救世主入門』を読んで、『自分こそ三歩先を行く精神だ』などと妄想する人々が出だしたようだ。
このアトランティス文明も長くはない。
あなたの肉体も意識も、あなたの宇宙も宇宙意識も
あなたの記憶ビジョンも神秘知覚も、もういい。
あなたの何かなど、もうどうでもいいのだ。

—–

それより戯れよう。
三歩先を行く精神の中を、私であるあなたが、愛を戯れている。
三歩先を三歩先を行く精神もへったくれもありはしないのではないか。
言葉は、瞑想行法や、密教学や、精神変容剤や畑を耕すこと、パンを焼くことと同様に、
宇宙意識なる本来の自己を自覚するのに役立ちはしない。
だが、今更言葉の無効性をとやかく言うには及ばない。
人類の全てが求道者としてしかありえぬ時節にはいって久しい。
ここに言葉は、一輪の野の花や、最愛の者の死や極限の情況と同じだけ、宇宙意識を開示せしめる火花となる。
あなたはどうなのか?
言葉が夢の中での戯れであるのは当たり前のことだ。
それであなたはどうなのか?
夢といい、現実といい、全てはあなた自身にかかっている。
あなたがどのように生きるかによっては夢もまた現実以上の現実そのものともなりうる。
いつでもあなたはとぼけている。
やれ、幸福だ、不幸だ。
やれ、悟りだ、迷いだ。
やれ、生まれて働いて死んだ。
やれ、鳥が飛んでいる、石ころが笑っている。
やれ 人間だ。宇宙だ。瞑想だ。密教だ。神通力だ。平凡だ。
そんなふうにとぼけている。
では、あらゆるとぼけをやめたとしたら、そこに何がある?
この疑問もまたあなたのとぼけに違いはない。
それでも神はとぼけによって、愛という宇宙ゲームを戯れて尽きることがない。
悟りを開いたとか、神を見たとか、神を見たと頑張るとか、
死やこの世の果てに直面したとか、言いようもない素敵な体験を持ったとかしても、それらがあなたの・・・

—–

いかなる根拠も無いということが、これそのものなのだ。

理屈と保障がないからこそ、久遠の安楽なのだ。

喜びも苦しみもないからこそ、あなたは永遠の平安を生きて死ぬ。

そして、あなたは喜びを求めて旅続ける。

ニルヴァーナという妄想 エクスタシーというマーヤ
それを欲すること―
これが人間という戯れの正体だ!

何もかもなし!ただただ、これの戯れでない戯れ・・・

ない時はないのだ。だめな時はだめなのだ。むなしい時はむなしいのだ。
それ以外にない時はそれ以外にないのだ。

私は空気がなければ生きられはしない。私とは空気なのだ。

私に自由はない。自由が私を使っている。

自由それ自身は完璧な笑いだ!

人間の喜怒哀楽のゲームは決して終わることはない。
だから、ゲームはすでに終わり尽くしている。

—–

海の波々が寄せては返す。朝ごと太陽は東より昇り、

落日の残光を残して西に沈み行く。

体内の有毒ガスがたまっている現代人は

あたりまえのやすらぎを知ることがない。

それでも血わき肉おどる『これ』は、

笑いに笑いに笑っている!

—–

いとしいゲーム

肉体は絶対無に直結している。観念は肉体に直結している。

人体七つのチャクラは、極めて具体的な悟りへの道すじである。
それは、人間を至福へと導いていく。

最後のサハスラーラ・チャクラのみは、実用性を越えたものであり、
生理的なものではない。

サハスラーラ・チャクラは、チャクラではないばかりか、
いかなる人間的な概念規定をも越えている。

サハスラーラ・チャクラとは、何ものでもないのだ。

人間がサハスラーラに到達するまでは、命がけの情熱が必要だ。

だが、サハスラーラそのものは、コエダメの中のウジムシの狂言に他ならぬ。

ああ、このいとしさよ!いとしさよ!!いとしさよ!!!

—–

地獄の天国のあくび

そうなっていく、そのままでいいのだ、とも言えまい。
こうなっていく、このままでいいのだ、ということもわかりはしない。

何もわかっていないのだ!だが、何もわかっていないとも言えまい。

地獄の地獄の地獄の闇。極楽の極まりないカオス!
―それでも、どんな答えも出やしない。

このモノグルオシサよ!この静寂!もはや静寂とも言えまい。
何もかもが至福である。
すべてがすべてである。
そして、あなたは死んでいる・・・

マハー・マーヤ
すべてがイマジネーションだ。(これもイマジネーションあるいはイリュージョンである)

マハー・マーヤ!
欲念相続である。根本無明である。さっぱりわからないそのことである。
性であり死である。
このあらゆる多様多元の世界である。
不安そのもの恐怖そのもの!

謎そのもの!
神秘!!

久遠に未知なる未知。疑団?
(これ以上は思考不能!?)

—–

どんなしばるものもない。
勿論、君が愛しさを感じるものを大いに愛しめばいい。尊敬するものを尊敬しろ!
だけど、君自身は君自身だ。それ以外の何ものでもない。

冥想には、二つの方向がある。一つは、肉体的、精神的機能を最大限に発達させる方向。
それは、悟り、とかいう問題ではなく、最適なコンディションを整える働きがある。これを実用三昧という。
他のもう一つはそれとは全然ちがう。それは人間であることの絶対的な悲しみと表裏一体なものだ。
人間が本当にどうしようもないもの、という、その直視と一体のものだ。
否、もっとはっきり言えば、 本当に人間がどうしようもないものだ。どうしようもないものだ、という事が、本当にわかった時さ、
ほら、その時、あれが起るんだ。 みんな同じに見えてしまうんだ。 何もかもが。

その時、もう意味ないんだ。自分が一定の形を保つっていることが。そして直面するんだ。
ところが問題なのは、人間が本当にどうしようもないっていうことが、嫌っていう程———-
つまり、それは、最愛のものの死によって起こるかも知れない。或いは、ガンを宣告されて、起るかもしれない。
兎角 ——– それが起こった時  そう。
みんな同じに見えてしまう。
もう、男も女もなく、優劣も劣等もなく、みんな意味がなくなってしまうんだ。
そうして更には、そのように感じている自分さえ意味ないんだ。
でも、それは灰色だ。入り口にすぎない。
何故なら、まだ、 そのような意味ない、と思っている自分があるから。

—–

その時、座るんだよ!その時、座るんだ、と言わなくても座るんだよ。そういう風に出来ているんだよ。

訳は知らない、 ——- 万事休す ——- その時、見ている自分が消えるんだよ

面白いものなんだぜ。電信柱だろうと、道路だろうと、みんな見知らぬものなんだ。
ところが、見知らぬっていうのは、知っている事、
何か知っているものがあって、それに対して見知らぬ、だろ。
そんな事抜きにして見知らぬもの、なんだよ。みんな。
それに近い感覚っていうのは、此処にいる人達はみんな経験しているはずだ。
そういう時代が来ているからだよ。
ところが、本当に、どんづまりに来たっていうのは本当に見知らないんだ。
つまり、見知らぬっていう風にして、あわてる意識さえないんだよ。
まるで、そう、魂を、どこかに落っことしたような。

ほら、あるじゃないか、たとえば、とてもすてきな人が、
そばに来れば、いくらすましていても、やっぱり---そういう事ってあるじゃないか。
そんな事さえないんだよ。本当に灰色というか、白というか、ゼロというか。
ゼロポイント、そう、このゼロポイントまでいけば、ブラックマジックも成立しない。
ブラックマジックつまり破壊というのはゼロポイントの一つ手前にとどまる。
つまり差引きゼロの世界では、もう、やる事がないんだ。
ところが、まだ観念が先行している時に差引きゼロっていう事に気づくと、もう何をしてもいいという発想が出てくる。
でも、本当に本当に悲しめよ!
いいか。悟りっていうのは理屈抜きの悲しみの事なんだ。生命の悲しみの事なんだ。
本当に悲しみに直面できる感受性、それが悟りだ。

—–

奥深い心

すでに人間はいない あらゆるものを構え その中でとりとめもない
人間の喜びと悲しみとを持つ そのものはすでにいない

人間の喜びと悲しみとから生まれる あのしみじみとした心の果てには すでに人間はいない

人間にとってあるというすべてのものは ことごとく消え果て
ただその奥深い心だけが 何の束縛もなく 現前している

それは人間の心ではない 人間の喜びも悲しみも その心のどこにもないのだから
人の子の悲惨な死も 甘美な恋慕も その心には見えない
また その心には 石ころと人間とに区別がつかない めくらで不人情な心だ

だが その非人間的な心の絶対から 人間の喜びと悲しみとを
しみじみと眺めあたたかく包む
何ものかが
限りなくあふれ出す

—–

何が善で何が悪だ? 瞑想とは、善悪の彼岸であるなぞと
思っている人物は、超人になるどころか
人間や動植物や鉱物にもなれまい。

禅であろうが、ヨーガであろうが、 それが純粋なものであるならば、
個人的人格や、人格のいわゆる成熟を問題にしない。
真実とは、人間の個人的人格性とは、いかなる関係も持っていない。

完全な絶望からも自己解放は、起こりうる。
ただし、完全な絶望とは、観念的な希望に対する絶望ではない。

真実の瞑想には、額面どおりの至福の生き様と、完全無比なる全体性と
一切万象の余りにあらわな絶対解答がある。
だが、純粋瞑想ほど、その理論の知的心情的理解と現実即実践とが隔絶しているものは、
おそらく、この世には、他に例がないであろう。
純粋瞑想が、本当に理解されるかどうかは、私達個々人の感受性の質と理解力にかかっている。
したがって、純粋瞑想について何かを解説するのは、まったく無意味である。

瞑想の極点は、ニルヴァーナではない。瞑想に極点があったら、
それは、瞑想ではなく、何らかの瞑想的ゲームにすぎない。

本質的な問いには、解答というものはない。 にもかかわらず、
あなたは、問うことをやめてはいけない。 少なくとも問いも答えも、
あなたも世界も、消え果るまでは・・・

ここにいつも全体がいるから 只管打坐が純粋瞑想なのだ。
ここにいつも呼吸があるから アパーナ・サティ・ヨーガが、純粋瞑想なのだ。
ここにいつも知覚があるから尾骶骨の中の生命力を、あらゆるものを知覚し切ることに
使い果たすのが純粋瞑想なのだ。

—–

今、君達は 今から、全く新しく生き始めた。

本当に、何一つ人間にとって救いっていうものはないんだ。
何てすてきだ。何て恐ろしいんだ。
信じ切れないっていう事は、此処に安住できないって事さ。
此処に安住したら、その次の生活っていうのが全然、成り立たないんじゃないか、
とか、自分は、いろいろ考えて、いろいろ向上したり、いろいろうまくやったりする方便がなくなってしまうんじゃないか?っていつも、不安を感じているからさ。
それだけのこと。皆、観念の、頭の中のゲームだ。
本当に、信じ切れない。本当に、信じ切れない。だから、本当に、好きなこと、をすることができない。
いいか、信じきるっていうのは、たとえば、こういうものなんだ。
現代人の身体の中を見よう。肉体。そうすると、必ず、どこかに、しこりがある。
どこかに何か、何か、しっくりこないんだ。いつでも、しっくりこない。
そういう意識が、どこかに、さまよっている。
そして、何か、ハタヨガとか、いろいろ修行したら、それがとれる、と信じ込んでいる。
誰が決めた!そんなことを。

しみわたらせるんだ!今、此処で!

此処でなくてもいい。どこでもいいよ。いいか。本当に、しみわたるんだ。
しみわたるっていうことが、信じ切れるっていうことさ。あるがままの自分、というのにどっしり座るんだ。

うーん-----そう-----通俗的に言おう。
例えば、人が、 何かを見ている。自分の身体か何か、顔とか-----
ところがどういう訳か君達は、どこかの部分を、見ないんだな。
とりわけ、どこか、気にくわない部分は、見るに耐えない。
何故なら、それが、しこりだ。何故なら、それが、君達が決めた観念だ。
一つ、一つ、愛(いと)しむんだ!一つ、一つ、愛しむんだ!
自分の、あるがままを、愛しむんだ。
びっこが何故いけない。自我が何故いけない。胃腸が弱いっていうことが何故いけない。
肥っちょが、何故いけない。自分の、かたくなさ、が何故いけない。外の考えに、惑わされるなよ。
いいか。かけがいのない、一人、一人の君達なんだ。かけがいのない君、だ。
どこも、かしこも、愛しむんだ。何故なら、愛しみたがっているから。

—–

その間っていうのは距離があるんじゃないんだ。
今、此処で、安心するっていうこと。此処で、リラックスするっていうこと、
そして、それが、できなかったら、永遠に、輪廻するっていうこと。

そう、輪廻する。つまり、そういう風に、苦しみ多き日々を生きるっていうことはね。
たとえば、苦しみ多き日々、三年後のその時でもいいんだ。
でも、折角だから、此処で決めて欲しい。
決めるっなんて言わないでいいよ。当たり前でいいんだ。
ものすごく恐ろしいんだぜ。
何故なら、人間っていうのは、条件が好きだから。
人がリラックスできない理由は単純なことさ。ものすごく、それは単純だ。
自分が満ち足りない、って妄想しているのさ。
今の自分はまだまだ、って妄想しているのさ。
勿論、 この世を、人間として最後まで全うするには、
まだまだっていうのは必要だ。 でも、それは二次的なものだ。
それは、あとから出てくるものだ。
君達の、 今いる君達に 何が欠けてる?
欠けてる、と考えるのは、 皆、頭でもって吸収した、いろいろな情報のせいだ。

できるんだ。今、今、此処で、できるんだ

六根を通じて、というのは、君達の感覚、今、此処で、働いている感覚さえ、
いろいろな妄想や、こいつ何話してる、とかそういう働きが全て。さ。

大安心。 どんなことを考えようと
大安心。
いいんだ—– いいんだ—– もう、いいんだ—–
おかえりなさい

(完)

—–

ダイジ 「基本推薦図書12冊」

「臨済録」
「イリュージョン」(リチャード・バック 集英社)
「維摩経」
「自己変革の方法」(クリシュナ・ムーティー)
「愛の叡智」(ヴィヴェーカーナンダ)
「イクストランへの旅」(カルロス・カスタネダのドンファン・シリーズより)
「荘子・内篇」
「生と死の記録」(佐藤幸治 講談社)
「究極への旅」(ラジネーシ)
「生命の実相」シリーズより 観行篇 生活篇(谷口雅春 日本教文社)
「バガバット・ギーター」

—–

わがあだ名はダン

ダンは同族を裁く イスラエルの他の部族のように
ダンは道端の蛇 小道のかげの蝮となり
馬の踵にかみつけば 乗り手はどっと落馬する
(ヤハウェよ、私は救いを待つ)

旧約聖書創世記より

ナーガ賛歌
ナーガ かつてイブをそそのかして 知恵の木の実を食べさせた蛇
ナーガ 今この瞬簡に再来し 現し世の原動因 魔的エネルギーを その体内に深く豊かにひそめ
転生のアダム達に 生命の樹の実 迷悟去来の知恵を食べさせる

生命の樹にちかづくことを禁じた 妬みの神エホヴァ
吾が蛇神ナーガよ 悪魔に化身し 人間だけの神エホヴァを殺せ
そしてアダムに 人間を越えた 久遠生命の密儀を開示せよ

人間性という虚妄から幻出した神エホヴァ お前は今 ナーガにかまれて死滅し
人間性を離脱した久遠のアダムは ナーガのその恐ろしき蛇体と溶け合い 限りない光となる

ナーガ 観世音菩薩の妙変化よ ナーガ エホヴァの兄弟なるサタン ナーガ エホヴァをかみ殺す蛇
ナーガ 玄妙神秘の蛇神ナーガ 有から無へ寂滅せんとする情熱ナーガ すべてを飲みこむ神
ナーガ アダム自身よ

—–

汝蛇神ナーガよ
人間が人間自身の宇宙を見限る時 その虚空のうちに 闇の情熱と言詮不及の光を顕すものよ

ナーガよ その麗しき白光の蛇体よ 私はあなたを恐れはしない
虚無を消散する空寂を与える汝 恐怖を恐怖自身によって粉砕し 時間のない恍惚を与える汝
私を産み 私を育て 私を私自身によってかみ殺させる汝 ナーガよ 私自身よ

ナーガよ 応身仏の千変万化よ ナーガよ 神に創られた悪魔よ
ナーガよ 神を殺す蛇 ナーガよ 永遠の解けぬ逆説
ナーガよ 私自身 ナーガよ 神自身よ

人間である私は どのくらい悲しめばよいというのか すべてが夢にすぎないことを
ナーガよ あなたである私は 限りなく限りなく歓喜する すべてが夢にすぎないことを
ナーガ その秘められた夢 ナーガ その秘められた窮極実在

ナーガは私を時空を越えた狂気に導く 邪神よ 邪なるものよ 悪魔よ
ナーガ 無限自由の目くるめく魅惑 ナーガ 全智全能なる魔王
ナーガ 全智全能なる神 ナーガ アダムを苦海に落とした竜神
ナーガ 喜怒哀楽の私自身 ナーガ 全智全能なる私自身よ

—–

戯れに冥想を  著・雨宮第慈  プロローグ

この本は、宗教的でも神秘的でも通俗的でもないし、正気でも狂気で書かれたわけではない。
「あなたは何か?」
この人間性最後の疑団であり答えであるフレーズを 神の気の向くままに書きつづったものがこの本である。
「私は何か?」
答えは極めてというのも馬鹿げたほど明々白々である。
人間が何らかのものに寄生あるいは依存しなければならないという、
現代の精神分裂的な状況が、私にあわれみをいやというほど感じさせるのだ。

このように恐怖と不安と苦悩と自虚的、憎悪に満ちた文明の中で、絶対の解決とは何なのであろうか?
「絶対の解決なぞない」などと疲れた顔をして言わないで欲しい。

バイブル・ギーター・仏典・老子・アヴェスター・クラーン------それらに書かれていることは余りにもシンプルで、それは本来”読書”の対象にはなり得ない。
本を読むなどということは、描象的な人間のデッチあげた営みであり、
この本は、あなたに読まれるために書いたのではなく、あなたと愛し合うために、
あるいはあなたを強迫するために書いたものにすぎない。 魂の読書というものがあるのだ。それは言語冥想である。

まるでこれ以上ないというほどのステキな彼または彼女に出会って、転生も末長く「愛」を暮すような何かだ。

人間は、到底、考えられないくらい、永遠に戯れる存在としてあらしめられ、そしてみづから、喜んで、このドブ池という宇宙に産まれて来た。

『元々あるものになるってこと。自分が生かされるってこと。ものすごく古い言い方だけど。
そういうことが一番の中心だ。そしてね、自分が何かになろうとする生き方っていうのは、
相変わらず自分の支配欲っていうかな、にとらわれ続ける。だから魔術師になる道とか、
超能力者になる道とか、呪術師になる道っていうのがとても落とし穴の多いものだっていうことだ。
そうではなくて本当に自分の一番中心、無限なるものの一部であるってこと。いい?
海の中の、君はさ、魚なんだ。そういうこと。そういう安らぎを得るっていう方向へ進んでいかなきゃあ。
その人にそういう素質があったらひとりでに出て来る』

—–

『一体、救世主っていうのは何だろうか。どうして何か、高尚な教えやいろんな教えを説いてくれる人が救世主だって考えるんだ。
俺達はさ、お腹空いたらきっとパン屋へ行ってパンを食べる。大衆食堂へ行って、何とか定食って。
あれをどうして救世主じゃあないなんてそんな固いこと言うんだよ(笑)。この世にある全てのものは互いに救われ合っているんだ。
何一つとして例外はない。みんなそれぞれお互いに高め合っているんだ。
それが愛する二人に言葉はいらない(笑)。ちょっと落ち込んだ(笑)?
触れ合うためにあるんだ。そして深く深く触れ合っている。ただ、余計な観念が邪魔するだけだ。
余計な観念さえなければ、それが本当にその通りであることがわかる。それが救世主さ。
救世主は人間のみと思うなかれ。酒好きのさ、男が飲む焼酎の一杯だってもちろん救世主だ。
ただ、それが救世主だとわかるためには、ものすごく水晶のように透明なクリアな素直な心でなくちゃあならない。
それは何でも救世主なんだ。猫も杓子も救世主。太郎も花子も救世主。本当だよ』

『(笑)ただ、それはものすごく恐ろしい教えだ。一見ものすごく軽く『ああ、そうか』なんて思いやすい。
だけどそれだけじゃあない。本当に自分がこの大自然と一つである流れに即したときに初めてわかる。
D・H・ロレンスなんていうのはそういう世界を憧れてたんだ。そして遂に到達することが出来た』

—–

エピローグ

この本は、
今や死のうとしている君と
今や死んでいる私との
果てしない果てしない果てしない戯れである。

そして君は冥想を決して止めてはならないし、
君が冥想を止めることはできないのだ。

この本は、私という存在もしない夢幻が雲をつかむようなあなたに、
法悦の酔いのなかで書かれた。
「カキクドキ」の文句の集まりである。

あなたは、魂のどん底から、この世とあの世を楽しみたいと思わないか?
だとしたら、あなたは”あなた”という乞食を、
私は”私”という乞食を捨て去らねばならない。
そして、あなたと私は、乞食以下の乞食になるのだ!!!

—–それが冥想である
—–これが冥想の戯れである。

ねえ、あなた、
あなたという たった一人のあなたを死んでください。

—–

瞑想の極点は、ニルヴァーナではない。瞑想に極点があったら、
それは、瞑想ではなく、何らかの瞑想的ゲームにすぎない。

救世主なぞいらない。私達、一人一人が、真人間になればいい。

禅であろうが、ヨーガであろうが、それが純粋なものであるならば、
個人的人格や、人格のいわゆる成熟を問題にしない。
真実とは、人間の個人的人格性とは、いかなる関係も持っていない。

あなたの問題が、自我とエゴイズの問題なら、禅がオーケーだ。
あなたの問題が、自我とは何か?自とは何か?我とは何か?何かとは何か?
世界全体とは何か?これとは何か? であるならば、クンダリニー・ヨーガの正しいグルを必要とする。

あなたがいる限り、生老病死の苦悩がある。あなたがいない時、全体性が目覚める。
これが禅である。

あなたにとって、あなたを含めて、確実なものは何一つない。生老病死の苦悩も、絶対不可知である。
何もかもがわからない。わからないということもわからない!
これが、クンダリニー・ヨーガのスタート・ラインである。

—–

君はもともと慈悲の救世主として この世に生き切り死に切っている 他のありとあらゆるものと同様に
そして 慈愛と自由とは 君の思い込んでいる人間性の中にはない

救世主は すべての場所と時間を通じて 只一人しかありえない
それゆえ救世主は 一つの肉体や人格でないばかりか どのような決まった形態も持っていない

エゴという幻想が虚構したものでない 幸福を仮に真福と名付けるなら
一切生類は、絶体絶命の逆対応を 必然的に純粋瞑想せざるをえぬ
なぜなら 一切生類が真福であり 純粋瞑想それ自身だから

瞑想とは、人間性・人生・生老病死・大自然・存在の本質に目覚め、
これによって永遠に千変万化しているこれ自身のことである。
したがって瞑想には、いかなる立場も本質も存在しない。

本ものの瞑想修行にイージーな態度で手出ししてはならない。
現代においては、単に日常的人生を生き抜くだけでも、大変な努力を必要とする。
まして、瞑想修行は、全生涯に渡っての、全面的・全身全霊的努力を必須のものとするであろうから。

君の内なる感受性を、社会に無理やり適応するというやり方などで殺してはいけない。
正しい感受性は、とても傷つきやすいが、それは、愛情と信頼、そして瞑想への種子となるものだから。

—–

すずめがさえずり

すずめがさえずり

若者は熱病にうなされ悩み

老人が季節のうつろいに眸をしめらす時

あるものが高まろうとしている

あるものが帰ろうとしている

いやおうなく

あるものが高まろうとしている

あるものが帰ろうとしている

密かな懐かしさを内に抱いて

—–

神にあって、いかに悪魔を戯れるか。
これが君の、人間としての全使命である。

生きている それで充分なのだ。
死んでいく それで充分なのだ。
なぜなら 太陽がどれほどの大きさだろうと
私という中心太陽から見れば爪のアカにも相当しない

まして本当の私が神に光あれと命じたのであれば

愛は、人間の中の一つの感情などではない。
愛はこの宇宙そのものの根源なのだ。

終わりの時節が来た。
終わりを精一杯、歓び楽しみなさい。この宇宙が歓びで破裂するほど・・・
終わりの時節が来た。
終わりを、精一杯嘆き悲しみなさい。
その叫びであらゆる宇宙が破裂するほど・・・

神の終わりの時が来た。愛が凍る時が来た。
終わりの時を感謝して歓びなさい。
神の死は、真の神の始まりだからです。愛の死は、真の愛の始まりだからです。

その道が、君自身の道であるかどうかは、その道の途上においても、
君が倒れても悔いがないこと、それが君の心ある道だ。

—–

覚者というイタヅラ者が、世に出てきては、世の人々を惑わするかな。
惑わされなかったら、惑いつづけるばかりだ。
神も消え果てた。もう誰一人、神を知らない。神が神をしている時には・・・
二万五千年サイクルにわたる、アメンティー・タントリズムの全使命も、
今、ここに、完結する。

三神歌---

われもなくうつし世もなくなにもかも 夢のなかなる夢のたわむれ
われもなくうつし世もなくなにもかも 神の中なる神のあらわれ
われもなくうつし世もなくなにもかも なにもかもなしなにもかもなし

君が今、どのような状態でいようと、この今を愛は、考えられないくらい愛している。

もし、あなたが、どんなものにも納得を見出せないということが確実になったならば、
私のもとに本当に素直に帰ってきてください。

あなたに真実の出会いが起こりますように
               おかえり

神とは絶対の未知自身だ。神・すべてのすべて。
そういうわけで、神などと言っているうちは、ぜんぜん楽しくないのである。

いずれにせよ、この書は、プロローグである。
あなたが、神に目覚めるための、ほんのちっぽけな道標である。

この文明らしきものの週末後、神に目覚めた、水晶の魂を持ってあなたは、
まったく新しい文明を産み出し得るだろうか?

—–

『まことに、まことに汝らに告げる汝らを産みしものなる神に その愛のすべてを捧げよ。
次にすべての隣人たちにその愛を捧げよ。
君たちはよく思う。神に愛を捧げたら他のものが台無しになるんじゃないかと。
そして他のもの全部を台無しにしている。
神って何?すべてだ。
君たちがすべてに愛を捧げたら、
君たちの当たり前の人生が台無しになるんじゃないかといつも怯えている。
が、そうじゃない。
君たちを産んだものが、まず第一にある。
君たちの心臓を動かし、君たちの頭に様々な妄想を感じさせ、君たちの感覚を働かせている、
そのものがまず第一にある。
それはいいといっても悪いと言っても始まらない。

あるんだ!

そして、その愛がすべてになれば、他の事は全部整っていく。
夫婦関係だろうと、セックスだろうと、必要なだけの金だろうと、
必要なだけの地位だろうと、必要なだけの安心だろうと・・・。

ところが君たちは、まず最初に外側のごちゃごちゃしたものを一生懸命つかもうとする。
そんなことしていたら永遠の時間があったって、そこに行き着くことなんか決してないよ。』

—–

だいじょうぶだよ 君は必ず死ぬ

だいじょうぶだよ 君は必ず死ぬ
死んだら あたたかい夜のぬくもりの中で
君と僕は 君と僕のいのちを
あたためあう
夜闇のフクロウも 僕達の命だ
フクロウの鳴き声が 静かに僕達の瞳をしめらすことだろう

だいじょうぶだよ君は必ず死ぬ
死ぬべき君には もうどのような恐れも無用だ
そして僕達は 時間を忘れた夜明けの すがすがしい大気を吸い込む
まるで初めて 大気を吸いこんだように
僕達は 夜明けの息吹きを感じることだろう

だいじょうぶだよ やがて死ぬ時が来る
僕達の宇宙ゲームを終らせて 夢もない眠りに やすらかに帰る時がくる
初めがないここには生も死も 初めから夢にすぎなかった

だいじょうぶだよ 君は必ず死ぬさあ今 君は君自身に帰る 帰っておいで
君自身である 僕自身の胸の中に

人々は どういうわけか 死をいみ嫌っていた
だが だいじょうぶだよ 君もやがては死ぬ
死が 君にすべての生命達との ふれ合いを教えてくれる
だいじょうぶだ 君は死なないのだから 生と死の中をつらぬき
やさしさがいつも響いていた虚しさを見切った人芸者であろうが売春婦だろうが
殺人狂だろうが聖者だろうが乞食だろうがサラリーマンであろうが
この人間世界のあるがままを見切った人達のその深く静かな眸が美しい

—–

おれ達はいつもトボケてる

おれ達はいつもトボケてる
やれ天国だ地獄だ やれ虚無だ充実だ
やれ生き生きしている やれ病気だ神経衰弱だ老醜だ死だ
やれ産まれたセックスした やれ大金持ちやれ赤貧洗うがごとし
やれ悟りだ解脱だ解放だ やれ愛しているんだもん
やれ憎悪だ嫉妬だシラケただ やれ救世主やれ仏陀
やれ人間だすずめだなめくじだヘビだ やれ帝王だ大金持ちだ乞食だ奴隷だ
やれウジ虫だ石ころだドブだ龍だライオンだスーパーマンだ
やれ晩のオカズは何にしよう やれ男が欲しい やれ百三十円たりない
やれこのラーメンまずい やれきりがないだ永続だ やれ生まれ変わりだ霊能力だ奇蹟だ
やれおれ達はいつもトボケてるだ そんなふうに おれ達はいつもトボケてる

今、おれの眼には映っている
考えられないくらい素敵な奴らが 考えられないくらい素敵なトボケを 戯れているじゃないか
この世の何もかも 宇宙から素粒子から霊界から 君の眼の前のホコリまで
考えられないくらい素敵にトボケてる
ほんとにすべては パーフェクトな役者達だ
君の演戯は無限を舞台に如意自在だよ
トボケがきついよ・・・

それじゃあ あらゆるトボケが なくなっちまったら
そこに何がある? 何がある? 何がある! これがおれのトボケだ

何しろおれは すべてがなくなっちまった 愛そのもの・・・

さあ 帰っておいで 君はおれなんだから
さあ 帰っておいで 君はトボケを見ている絶対者なんだから

おかえりなさい そしてまたおれ達は おれ達のトボケを戯れよう
死よりも恐ろしい まごころをこめて おれ達はいつもトボケている

—–

すべてに対する全面信頼、それが瞑想の出発点であり帰着点である。

例えば、只管打坐とは、信・不信を超えた全面信頼にただ坐っているだけのことだ。

『一度きりの君たちだ。そして君たちが死んだら、永遠に、永遠に、永遠に、
今ある君たちがくり返されることはない。たとえ無限の時間が経ったとしても・・・。』

進化が神様といっていい。成長が。成熟が。

そして、そして、一番さいごのカルマを通じてね。自分がほんとにそのカルマにたいして全力をかけたなら。
一番最後に至る。神自身に、俺自身に。
その時、すべての答えがそこにある。今まで不可能だった安定と自由の欲求。その二つが同時にそこに在ることがわかる。
しかも、それは絶対の安定であり、絶対の自由だ。
つまり、絶対の喜びであり絶対の安心なんだ。その時、もうどんな方向も君はつくりだす必要がない。

君たち、まともにホントに鏡見てごらん。
自分でさえ、ちっとも知っちゃいないってことがわかるさ。知ってるつもりになってるだけだ。
よーく、見てみろ。初めてみるようなもんさ。ほんとにマジで見たら。
「あれ、この人だれだろ」それぐらい神秘なんだよ、君たち一人一人が。
そして宇宙っていうのは、君たちのそういう神秘さと同じだけ、神秘だ。
それは正に一つの、一本の花だ。一本の野の百合だ。
そして、それは花開こうとひとりでに動いている。

よく、誤解するのはね。なにか努力しないでリラックスしたら物がひとりでにさ、整うっていう考えかただ。
それはね、ある成熟の段階ってのを超えたときに言える言葉だ。それ以前は断じて努力だ。
断じて自分の誠意をそこにかけなきゃいかん。じゃなきゃ、ほんとに花開かないで死んじゃうよ。
人間にかかってるんだ、宇宙ってのは。いや人間なんて抽象的だ。きみにかかってる。

が、何れにせよ一番この世の中で大きい出来事っていうのはね、たった一人の人間の中で花が開くってこと。
だが、とにかくこの三十年のうちに君たち、の花を開かせなくてはならない。
で、花が開くって事はね。すべての存在っていうのが存在自身を祝福するっていうか、賛美するっていうこと。
その時、すべてが分かる。すべてが。

—–

唯、肝心な事はね、君がよかれ。より良く、より良く、より良く、っていう気持ちでもっているってことだ。
それはもちろん迷いだ。究極の立場から見れば。
が、ね、それ以外に究極まで行き着く方法はないんだ。
「誰でもやはり?」
そう、誰でも、その迷いの中から出発する。
そして、そのよりよくってものを捨てて、うん、もう、問題ないって言ったらね。そ
れはもう、なにも生まない。淀んで、つまらない、ろくでもないものしかそこには出てこない。
花は開かない。

じゃあ、何のために花なんか開く必要があるのか?これには二つのこたえがある。
もちろん、「花なんか開く必要がないよ」って君たちが朗らかに言えるとしたら、君たちは花が開いているんだ。
が、何か理屈ぶって「花なんか開く必要ねえじゃねえか」、って言うんだったらね。
君たちはさ、まさに花を開く一過程としてその経験をしているとしか言えない。
なぜなら、君たちに宇宙があるんじゃないんだ。君たちにこの『もの』。名づけようもない、この『もの』。
この全体があるんじゃないんだ。この名づけようもないすべてといのが君たちを在らしめているんだ。

宇宙は花開こうとしているんだ。そして君たちは今、俺という花を見ているんだ。
そして今君たちは俺という花と一つになっているんだ。頭がなんと言おうとね。

—–

帰っておいで

自分が存在しているという世界の存在は 結局あらゆるものに 悪意をもっている

新宿駅で飛び込み自殺があった 係員がレールのあちこちに散った 肉体のかけらをひろっていた

人間は無限のかけらにすぎない・・・
これが最もごうまんなる人間の 至高のセンチメンタル・エゴイズムだ

人間は無限なるものの一部にすぎない・・・ かけらと一部とは似たようなものだが
貝とコカコーラ程の違いがある たいした違いじゃないけれどね・・・

人間は無限なるものの一部に過ぎない・・・
これが 人間性の究極の深遠である
これが人間の魂の基調音である これが人間にしての最初にして最後の美
あるいは人間性そのものという何ものか

君は果てしなきものの一部にすぎぬ
だから 果てしなきものに帰るがいい!
もっとも、その頃には、君という人間性の夢も 夢の中へ跡形もなく消え去っている

とにかく どういうわけか、超えていくのさ 超えていくんだ
石を超え 山を越え 彼女を越え いとしい娘子を越え スモッグを越え 文明を越え
ニルヴァーナを越え 越えることを越え・・・

そして 帰っておいで  今 ここに

—–

実際のところ・・・

実際のところ帝王とは奴隷である。だから宇宙の奴隷になるがいい。

支配者はつねに被支配者とファッキングしている。
創造主はつねにつねに被造物とファッキングしている。
―この認識が、すでに。
誰かと誰かのファッキングなのだ。

だから本当に破れかぶれになればいい!
それは一つの素直さであり得る。

信頼とは何だろうか?
それは、信頼なぞ どうでもいいということにほかならない。

低いものはどんなに高きものも秘めている。

瞑想が瞑想を戯れている!
だが副主人公である。君には戯れはないんだ。

私はエクスタシーである。だからして、私が死ぬ時
神に返さなくていいものが一つだけある。
「神様、ああ、あなたは私だったのですね」という自覚。

それはそうと思えばそう思える。こうと思えばこう思える。
すなわち絶対の孤独ということだ!

—–

すべては不可能であると知ること― それが自殺と発狂と悟りへの出発点である。
充分以上の情熱のみが、不可能と可能との区別を忘越せしめる。

思考は常に解答を出したがる。たとえば「不可解」だとか「全体性」だとか。
こんなものどもは、ガラクタでさえない。快楽こそ悟りなのだ!

快楽が、あなたのものでもないように悲しみも不安もあなたに属しはしない。
では、あなたとは何だ?

完全はね、君達以外の誰に代わってもらうこともできない。
完全なんて言葉は言う必要がない。
本当に納得した、本当にすてきな、本当におおらかな、本当に深いこまやかな人生。
君達は本当に自分の大好きなことに向かって進むことしかありえない。

『正法眼蔵』が深遠なんじゃない。釈迦の教えが深遠なんじゃない。
キリストの教えが深遠なんじゃない。ハイデガーの哲学が深遠なんじゃない。
そうじゃない。 君たちが、深遠なんだ。君達の中が深遠そのものなんだ。
それ以外に完全はない。いい?

忘れ果てるがいい

何を語れば、いいというのだ。
語るべきなぞ 何一つとてない。
石ころは、何を語っているのだろうか。
形あるものは必ず死ぬというのに。
すべてのすべてを見破ったら、
おろかに、 なにもかも忘れ果てるがいい。

私は髪の毛、一本 白くも黒くもできはしない・・・

—–

私はとこしえに楽しく生きたい!
天馬・空を行き 行くところ可ならざるはなしという 人生の達人だからとて
本当にわかるものなど何一つなかろうよ
死の悟りを開き 神と霊のカラクリを つぶさに体験したからといって
実際のところなにがわかったと言うのだろう
光明以上の光明 至悦以上の至悦 わかることのわからないことの彼方の
サマディーを体験したからとて それが何だというのだ
庭先にマーガレットの花が咲き乱れ すずめの鳴き声はすずめの鳴き声らしい
そして わたしは生きているらしい・・・ 時には不安にめいり 時には極楽のエクスタシー酔いながら
私はどこからどこへ行くか知らないばかりか
こう書いていることも こう書いている私とやらも ぜんぜん知りはしないらしい・・・
やれ観念的だ抽象的だ やれ実質がある実行がある やれ現実だ夢だ
私たちは何て馬鹿げたゲームにうつつをぬかしているのだろうか
草花が初夏の風にゆれることが現実であろううか?ノイローゼ青年が見た空飛ぶ円盤は幻覚だというのか?
誰も何も知りはしないさ・・・
私はとこしえに楽しく生きたい! たとえ、それが、まっかなウソであろうと。

永遠の旅に出る

あらゆるものが そのままで 絶対なのだ。
だから あらゆるものは 夢としては相対し愛し合っている。
一つの雨だれの音声がエメラルドの海と完き解放の太陽を誘う。
バランスがパラノイアであればパラノイアはこの上ない甘美なバランス。
もっとも弱きものは神となってこの地をつぐ。
複雑で不安な頭脳はこの上ないシンプル。
とうとう私は神になった。
あなたが神であればどうして私が神でないことがありえよう。
さあすべてが終わった。 私達は今永遠の旅に出る。

—–

愛は愛を楽しんで

私は愛したから この世に産まれてきた 愛がすべての形を創り
年老いた老人であろうと 失恋自殺の少女であろうと
帰減する直前の 一微塵の生命の中にも 一つの形があり その形には限りがない
愛がすべての多様世界を編み 諸行無常・諸法無我の説法も
決して真理などとなったためしはなく 釈迦の編み出した一つの世界にすぎず
この世を忘越した 胡蝶荘周も そのようなこの世への愛を生きた
生きているものには 生命のみが与えられ
死は生命のみが編み出すことのできる 一つのドラマ以外のものではない
あなたはあなたの生命をくまなく愛し切り
私は私の生命を すでに愛している以外にない
一切生類の宿業と無明とは 一切生類自身の愛に他ならず
不治の業病に苦しみ 自らの命を断った青年は
自己の生誕を呪ったヨブに等しく それぞれの愛を演じている
つきることなく 宇宙の終りにもつきることなく 愛は愛を楽しみ続け
愛によって仮現する一切万物の嘆きは しかし決して愛にとどくことはない

私は愛しているから 今生きている
私がどうなろうと あなたがどうなろうと
愛は愛を楽しんで つきることがないのだ

本質的な問いには、解答というものはない。 にもかかわらず、
あなたは、問うことをやめてはいけない。 少なくとも問いも答えも、
あなたも世界も、消え果るまでは・・・

—–

見性においては、あなたは、限りない「何ものか」が、あなたと一体不二であったことを体験する。
それは根源的な納得・充実・自由・歓喜・安心・生命力の爆弾と称せられるものだろう。

私は絶対無の光明とあらゆる多様多元の宇宙が、何もかもが私だったことを生きていたことを知った。
・・・そして、それも忘れ果てることだろう。

君はかくありたいというイメージ、あるいは様々なイメージや、主観的イメージでないビジョンさえも、
さらには見性さえも、答えにはなり得ないことに気付く時がくるだろう。

だが、この絶対不可思議な、限りない「夢」と「真実」、この生々化々千変万化この者を、
実現することは唯一絶対の不可能だ。----君にとっては。

誠実であるのがいい。それは平穏無事の安心を与えてくれる。

—–

今でない今、ここでないここで

一刹那の生涯でもよい クリシュナとして生き クリシュナとして死にたい

あらゆる演戯を越えた一つの戯れ
根本無明の演戯がなければ 神は神自身を観照することができぬ
根本無明のこの移し世が 神自身の唯一の演戯道場
神は人間の作り出した どんな思想の中にも 宗教の中にもいない
人間自体の死の虚無性が 人間からすべてを奪い 人間をも奪う
無限の中には 時間も空間も因果律さえも存在していない
無限の中に 宇宙の果ては 私の小指の長さにあり
千億光年の天体生命の光芒が 私の肉体の心臓の一鼓動とともに 生まれ来たり滅び去る
熟したリンゴの樹の果実が 地面から枝へと昇る
神の絶対無の中に 夢見続ける宇宙
夢の宇宙はこのように戯れ 夢の宇宙はあのようにも戯れる

ソロモン王の英知が ソロモンの栄華と幸福を実現し
そして又 ソロモンの英知が その英知ゆえに 愚迷のうちに滅亡したように死のないどのような生もあり得ない
愚かさを持たぬどのような智恵もなく 安心のある所に不安があり
愛のある所に憎悪が 勇気のある所に恐怖が
幸福のある所に不幸があり 快楽は苦痛の種となる
老衰と病のない どのような健康もあり得ぬように
善は悪とともにいつもあり 宿善の功徳は 天人の天国を実現するが
その天人にも 五つの衰亡を避ける手だてはない

—–

一刹那の生涯でよい 神の御意のままに生き 神の御意のままに死にたい
一刹那の神の御意は すべての生命達の生涯とすべての生命達のそれぞれの宇宙であった
神のみが絶対無の中に久遠の安住を続け あくびひとつも神には無縁だ
私は私という心身の 異郷の客であり
何一つとして私のかつて見知った事柄はない
この悲しみが 人間に理解できるだろうか

私達はこの世では孤独であり続ける
私達の眼は私達の故郷を見知らぬものとして眺め 私達の家族を初めて見る
これは私達の眼がかすんだゆえではない 私達の眼がより透明になったせいだ
何もかもが常に未知なものとしてあり 何もかもが常に新しい 何もかもが未知な新しさであれば
私達の脳髄は 尽虚空中に粉砕する
死はなんと私達の身近にあったことだろう 最も身近な死だけが
人類の唯一最大の教師だ手足を放ち去ろう未知の虚空にもともとありもしない手と足を
精神の広大さも物質宇宙の戯曲も 私には何のかかわりもない
私は私の瞑想の旅を続ける旅は方向をもって続けられるが
その旅は私に理由のない確信を与えても 決してどこかに行き着くことはない
私は私自身の中を旅し続けている

私は一瞬間を聖クリシュナとして生き 一瞬間を梅毒病みの娼婦として生きた
梅毒の苦痛が陣痛と出産の苦痛であり 性愛の享楽が聖者の清らかな解脱である
そしてすべては去ることもなく去り また来ることもなく 新しい生涯が来る

止まることのない生々流転よ
私は生々流転のあったためしのないここでゴーヴィンダ・クリシュナの美しい横笛の音を奏でる

今でない今、ここでないここで
私はクリシュナとして生きクリシュナとして死んだ

—–

なまじ、悟り、見性っていうのを幾度かやるとね、かえって普通の人よりもどうしようもなくなる。

「うんとね、瞑想寺院ってのはさ、避難所みたいに考えていいわけ?」

もちろん、どういう風に考えてもかまわない。
唯、基本的にはね、それは、あの、社交場でもあるが、ある時期まで社交場でもあり、
何故なら社交って言うのは君たちの精神健康にとって、とても大切な事だ。
君たち余りにもぬけがけしたいと思いすぎるがためにね、人と人との関係さえ満足にできない。
だから社交場、大いに必要だ。
唯、その前提は例外が唯一つも無いということ。みんな、同じなんだ。
それさえ分かっていたらとても楽しい社交場になるよ。
ところが君と俺とは違う、俺のが一段階悟りは深い、なんてやりだすからおかしくなる。
俺は恐怖を感じない、君は恐怖を感じているなんて振りをするから、いよいよやりづらくなる。

みんな同じなんだ。一番最後の最後。
すべてが終わった所に到達しない限り、人間はどんな風に上手いことトリックを使って暑い仮面を被ってても皆、同じ穴のムジナだ。
同じだけ不安に悩み、同じだけ内面では恐れ。
そして、その違いといったらさ、上手く内面の不安や恐れをだまかす事が出来るタイプの人間とさ、
それが出来ないタイプの人間との差に過ぎない。

『一度きりの君たちだ。そして君たちが死んだら、永遠に、永遠に、永遠に、
今ある君たちがくり返されることはない。たとえ無限の時間が経ったとしても・・・。』

—–

瞑想

詩人は一輪の野の花を 野の花と歌っている

年老いた夫は日々に その年老いた妻の名を呼んでいる

クリシュナは水浴びしている小麦色の娘達の衣を樹の上に隠し戯れ

道元は今もなお息をととのえて只管打坐する

虎にわが身を与えた王子は釈迦として生まれ変わってもまだその身を与え続け

果てしない瞑想は つねに われら一切のもののもとに開かれる

—–

老婆は聖者に 正真正銘の真剣さでたずねた
「どうしたらこの地獄から解放されましょうか?」

聖者は素直に答えた
「地獄へ落ちろ、クソ婆ばあ!」

そういうウソツキ

—–

タオ

これは絶対でも相対でもない 流れているわけでもないし 久遠の静寂というわけでもなし

これはこれだろうあれはあれなんだ

静かじゃないかい・・・うれしいじゃないか 哀しくもあるしね
もちろん 恐ろしくもありんす

みんな生きてる なにもかも死ぬ

そんなにツッパルなよ! もっともっとどうしようもなく、ツッパレ、ツッパレ、ツッパレ!!

無が有を産んだのだろうか? 有が無をあらしめたのだろうか?
それとも、無と有が同時にからまっているのか?

ニルヴァーナが真実なのだろうか?マーヤが真実なんだろうか?
それとも、
ニルヴァーナもマーヤも真実なのか?
それじゃなきゃ、
ニルヴァーナもマーヤもありもしないのか?

いいじゃないか?
断じてよくない!!
いいじゃないか!
いいやだめだ!!
・・・・・・・・

秋の虫たちが鳴いているよ・・・

—–

プレイボーイ

オレはプレイボーイで 近いうちに極地のコオリを溶かすつもりだ・・・

なにしろ、この頃の彼女ときたら!

彼女のオナラの臭いこと。だから極地がこごえいるのさ・・・

あんたは、オレの思いなぞナンノソノ・・・
それでも、オイラはプレイボーイ 新しいあんたを産むために
オレのペニスは極地を燃やす・・・

ガイド・ストーン
私は親愛なる同友諸君に言う。
今、君の持っているその理想心を取り去れ、
かくあれかしと望む心を取り去れ。
よりよくなろうという我欲心を取り去れ。
それは君らの愚からきた迷いにすぎない。

かつて私のメディテーション・ガイドの一人だったタオの体得者・無為隆彦先生はそのように語った。

クリシュナムーティ流に言うとイメージがどうしたこうしたということだろう。

諸行は無常である。そこから神様と悪魔が出てきたらしい・・・
いづれにせよ、楽しい話ではないかい?

—–

伊福部隆彦先生の言葉

ある一つの理想状態を考え、そこへ到達しようとすることが、私たちの生活を地獄かさせるものである。
こいつあ、マッタク、どん底だい。思考作用は問題かい?
ふと見ると 地獄にもなにやら光明がある。ああ、その悲痛をどうすることができよう。
ああ、この絶対をどうすることができよう!

オナルティックに

この中有界タイプの世界文明は、20世紀末に終わる。

現代文明とは、マニピュラ・チャクラとアナハタ・チャクラとのバルドのことである。
欲望満足と愛との上下運動のことである。

文明の終末なぞ、別にどうということはない。この世のあらゆるものは生まれ生き死ぬ。

呼吸は出息で死に入息へと再生する、入息は終り出息が始まる。
そのように、あなたは死ぬのだ!

おお、限りなく愛しいマーヤよ!六道のつじよ!  さよなら・・・・

すべては、あなたのためにあるのではない。

—–

ざん悔

存在する何もかもに

私はざん悔しすぎるということはない

すべての存在の苦悩は 他ならぬ私が見ているのだから

このままでいいなぞと思うのは 良心を昏ますことでしかない

願うべきは 身の切れるような ざん悔ではないか

もはや良心もざん悔もない あるのは一切生類である私だけが

そして又再び

私はどうして一切生類と自己自身とに

ざん悔しないでいられようか

身の切れるようなざん悔のみが

私に私を忘れさせる

—–

現代西洋工業都市文明の私達人類は、知性を中心として人間性の統合を果たさなければならない。
ウサンクサイ、まやかしのオカルティズムや単純な自然回帰という退行的願望や、
センチメンタルな意味での愛情や友情やカウンター・カルチャーなどに逃げ込むことなぞできはしないのだ。

だからこう言える、20世紀末の現代人は、その知性ゆえに誰も彼も死のやすらぎを願っているのだと。
これは決して異論ではない。花が花としての限界に来た時、実が出てこざるをえない。
それは花にとっての絶体絶命の闇である以外になく、実にとっては新しい未知なる実への第一歩なのだ。

もっとも、知性・理性・自我の虚無ゆえに肉体的な意味で死んだとしても、そこに、ほんとうのやすらぎなぞありはしない。
それは肉体的に死んでみたら納得できることだろう。

どうやら、欲望相続としての現代人類は、知性理性を「智慧」にまで進化させ全人的統合を
果たさねばならぬらしい。
それも、いかなるルールも保証もなしで・・・
私は私に直面しよう、知性を英知に変容せしめる『何ものか』を。
あなたはあなたに直面しよう、理性を知恵に変容せしめるサムシングを。

なぜなら 欲望の遊戯に終りはないだろうから
なぜなら マーヤのゲームに果てはないだろうから

—–

チーズ入りの味噌汁

ヨガ行者であるインド人と ヒッピー風の青年とが 瞑想について話しをしていた

――魂が肉体を離れてね  あっちこっちをね……

――それよりももっと深まると  三昧という経験があって……

不思議な憧れがヒッピー風の青年をいよいよ話に熱中させる

私は二人の熱心な話し合いをそばで聞いておかしくなった

青年が作ってくれたチーズ入りの味噌汁は変わった味がした

—–

私は何の中にもいない

私は何の中にもいない

母への幼き日の愛着や その優しいやすらぎもわたしではない

恋の眼の昏むような快美も 風雪によってたどり着く 妻との穏やかな和合も 私ではない

今私は私の生涯をかける仕事を 見出しつつある

それによって私は生きようと思う だが それも私ではない

私はどのようなものの中にもいない そのものがどれ程激しく 真実となって打つものであっても

それが限りなき愛着であり 私の愛情がそこにそそがれようとも

それは私ではない

むしろ私は歩き続ける

どのようなものの中にも私はいないで

私はただ歩き続けている

—–

そうだ うれしいんだ生きる よろこび
なんのために 生まれてなにをして 生きるのか
こたえられない なんてそんなのは いやだ!
今を生きる ことで熱い こころ 燃えるだから 君は いくんだほほえんで
そうだ うれしいんだ生きる よろこびたとえ 胸の傷がいたんでも

—–

『やっぱり君らしくしてることじゃあないのか』
「具体的処方箋とか、そういうのは(笑)ない?」
『うん、だったら本当に素直にとことん話し合ってみることだ』
「常に絶対的、完全な。うん。そういたものを求めて、やっぱり全体へ集中していくこと」
『うん。そう。ただし、一つだけ大切なことはね、人間にとって絶対や完全は絶対にあり得ないってことさ。
だからそれに向かってより良く生きてく。いい?絶対や完全があるのは人間の次元じゃあないんだ。
これを間違えるととんでもないことになっちまう。とんでもないぎこちない人間になっちゃう。
いい?人間の世界では常に無数のもの、釈迦がさ、胃腸が常に悪かったとかさ、道元は肺結核で死んだとかさ、
そんなもんきりが無い。ラーマクリシュナもなんだ、ちょっとした坂も登れないくらい虚弱だったとかさ。
イエス・キリストは十字架に掛かっちまったとか。いい?人間の目で見ちゃあそれしかないじゃないか。
人間の目っていうのはさ、そういうふうにしかものを見れない。常に相対的にしか。
そして絶対っていうのはさ、瞑想そのものにある時だけなんだ。
そして瞑想そのものっていうのが、より自分自身になればなるほどね、今度は現われてくる世界でもって、
余計なところに引っ掛からないから、とても美しく見える。人間的な世界が。
そして、本当に一番的確なボタンを押すよ。つまり何故かって言うと、自分の中に気負いとかさ、しこりとか何にも無いから、
ものすごいストレートだ。『うん、俺は水飲みたい。はい』てなさ。
そして結局は瞑想っていうのは、少なくともこの人間世界の中に貢献できることっていうのは、
そういうふうなストレートな人間達っていうのを、生み出す働きがあるっていうことだね。

—–

「まあ、暇な時やるって感じだね。隙間を縫うって感じだよな。そう」
『うん、でもそれは、逆転を知ってるっていうことなのさ。
つまり瞑想が展開しているってことを知ってるっていうことなのさ。
そして瞑想が全てに展開しているっていうことを知ってる時、出来ることなのさ。
ただね、ひとつだけ言えることは、人は瞑想っていうのを人間である限りやめてはならない。
どんなに自分がハッピーだと感じていても。それは人間ていうのはそういう性質を持ってるからなんだ。
瞑想をやめるといつしか必ず何かが出て来る。とても忘れやすいし、とても頑固なんだ。
自分との闘い、自分との甘えとの闘い。
カスタネダが言う。カスタネダが言うようにね『ああー、どうやってさ、克服できるのよ』って。
『とてもそんなすぐには僕にはできそうにないよ』ってたら、
ドンファンが『馬鹿者。精神があるための道は一生の道なんだ』って。
一生かけてその内うまく行くかも知れん。行かないかも知れん。
でも、俺達はそれに向かって行くしかないんだ。もちろんいいよ。忘れてしまうのもまたいい。
そう、忘れてしまったんなら忘れてしまったんだ』
「やっぱり知的に考えるとさ、えらいきつそうに見えるんだよね。実際はきつくないんだけどさ。瞬間も逃さないっていうあれなのかなぁ」
『でも、瞬間を逃さないっていう形で追い詰めても意味はないよ。それよりは自分の死ぬことを考えた方がずっといいよ』
「自分の死ぬこと?」
『うん、結局は死ぬんだっていうこと。年老いて、あるいはいつ死ぬか分からないっていう』
「うん」
『そりゃあ、自分が本当に気に入ったっていう方向にどんどん進んで行けばさ、同じように瞑想に出会う。うん。必ず」
「それは形とか瞑想っていう言葉を超えた、いわゆる瞑想でしょ?」
『ううん。と、言うより瞑想っていうもの自体が本当は形を持ってない。だから座禅瞑想ってわざわざ、座禅瞑想ってつけたりさ』
「座禅瞑想って組んでる時以外の日常生活も、瞑想的な生活ってのはある?」
『て、言うよりも瞑想の生活になるっていう形以外にさ、人間の生活はあり得ない。いわゆる瞑想的生活って、
いろんな規律立てていろんなことをやるっていう意味ではないよ(笑)』

—–

『一番楽な方法とったらいい』
「楽な方法より楽しい方がいい」
『うん』
「バグワンじゃあないけど降参が楽だっていうかね、降参が素晴らしいっていうのが分かるね」
『ああ、ただし、降参するんだったら本当にどうにもならないものに降参して欲しいよ。
どうにかなるものに降参しても、意味ないからね。
あるって!必ずあるって。どんな問題が、ものすごい問題が起こったって、
必ずそれを超える道があるって。生きてる限り』

『絶体絶命の時はすぐに入れ替わってくれるから大丈夫だよ』
「何が入れ替わる?」
『うーん、超えた世界っていうものに入っていくんだ。そんなことは考える必要ない』

『瞑想って、そんなに自分をさ、狭めないでほしい。いい。本当に素直になった時、その人間とって浮かぶ想いでさ実現しないものは何一つない。
そういうふうに出来てるんだ。どうしてか説明出来ないけどね』

—–

『俺がいない時は何?』
「うん」
『Sがいない時はないよ』
「うん、そうなんだ。それに気付いた」
『いい?ここに集まってるだろ。これだけのために宇宙はあるんだ。
うん。全く常識的には馬鹿げたことかも知れない。でもたったここに四人いる。
ここに集まって、そしてここに座っている。それだけのために宇宙は出来た』
「宇宙にいるのはただ一人っていうこと?」
『うん』
「それをやっぱり自覚しなければいけない?」
『うん。そして、それは幾たびもなく幾たびもなく自覚するんだ。それにはきりがない』
「終りはないんだ」
『うん。終りはない』
「悟りに終りはない」
『うん、終りは』
「究極に終りはない」
『うん。だから究極。究極って(笑)』
「うん。やっぱりイメージがあるんだよね。一番最後にさ、死に出合ってさ、ぶち抜けたらさ、うん。それからもう」
『うん、確かにぶち抜けるっていうつまり、大悟っていうかな。大いなる悟り。
あるいは無想三昧の境地っていうものを完全に体得するっていうことは確かにある。
だけど、それはほんの始まりに過ぎない』
「また次に」
『それはこの世が生まれてきた理由だ。俺は君達がグル、いや神であることを知っている。
君達は神なんだよ。いつも何かに追われている君達っていうのは、本当にはありやしない。
君達は神なんだよ。一つ一つ神なんだ。一人一人神なんだ。そこにはどんな比較もない。
聖者が神である、神だっていうんじゃあないんだ。どんな人達も、どんなものも全く同じだけ神だ』
「どんな人達も何?」
『どんな人達も、全く同じだけ神なんだ。それは理屈ではない。そこにはどんな優劣もない。どんな比較もなく、競争はない』

—–

「でも、好き嫌いっていうのはある?」
『もちろん』
「憎悪は好悪は?」
『好き嫌いはあっても、憎悪はない』
「やっぱり自分の中にある高慢さを殺したいんだ」
『うん。それも一つの観念に過ぎない。いい?今君達はここにいる。
君達が果たすべき唯一絶対の事柄っていうのはね、もう、今果たしてるんだ!
ただ、観念(頭)だけが『そうじゃあない、そうじゃあない』って言ってる。
どうだい、見てみろ、ほら。風が入ってくる。電気がついてる。
そこに何が、どんな足りないものがあるっていうんだ?』
「居心地がいいか悪いかも関係ない?」
『それは(笑)、居心地がいい方がいいだろう(笑)さぁ、坐ろう』

『力むな』

『素直であれ』

『みな何かを分かったためしはない(笑)』
「わかろうとすることは?」
『わかろうとして生きるんだ』
「わかろうとして生きる?」
『うん。そして『分かったかなぁ』っていう感じのところへ、そのすぐ側に行き着くときがあるかも知れない。
でも、本当に分かるっていうことは、人間にとって絶対にあり得ない』
「結局反対の意味かも知れないっていうこと?」
『うん、そう。本当に分かってるものはね、人間ではなくてね、命だ。命だけは永遠に分かってる』

『どんな能力をつけてね、人を思い通りに操ろうと何しようとね、絶対本当の安らぎは来ないからだよ。
本当の安らぎっていうのはね、自分を超えた自分が、自分より遥かに超えた無限に向かって奉仕した時、
献身した時初めて来るんだ』

—–

みんな一つの方向に流れている この店に来ている一人一人の人間達も
目の前にあるビール瓶もコップも 隣にいるメガネもこのテープレコーダーも
一つの方向に流れている 愛に流れているんだ 愛に向かって流れているんだ
それ以外に何も無い 付け足す必要も無い 愛に向かって進んでいる
もともと全てが愛から出て来たから そして俺がこうやって見ると
ほんとに完全なんだな 何もかもが ものすごく美しくて
それが ひとりひとり それから ひとつひとつのものが 限りない物語を持っていて
そして ものすごく 素敵なんだ 物語を持っていながら それは言いようの無い
愛そのものなんだ だけど愛って何てつまらない言葉だろう
これを表現する言葉が無いんだ だから俺は愛って言う みんな神なんだ
もし、死ぬのが怖かったりしたら 一度死んでみたらいい
もし、この世に生きていることが色々な悩みが一杯あることだと思うなら
一度この世を死んでみたらいい   みんな死んでる みんな生きてる
死ぬ事を この世を捨てる事 それが体験だなんて思わないでくれ
そうじゃないんだ もうみんないるんだ 生きることも死ぬことも超えて
生きたり死んだりしている それは同時だ 同時に起こっている

愛してるよ  君、愛してる あなた、愛してる おまえ、愛してるよ

いまどこかで死刑囚が死刑になってるかもしれない
いまどこかの病院で重病の患者が死んだかもしれない
そして 今おれたちは 酒飲んでる

なあ、今を見てごらん。 今だ いま それは頭で見るんじゃなくて 今なんだ
そしたら どのような時間も どのような世界もないところで
俺たちは全てを経験している すべてと付き合っている さあ、よく見てみろよ
おれはあらゆる生命の目であらゆる生命の姿をみている
おれはあらゆる物質のすがたであらゆる物質の感触を味わっている
おれはこの宇宙や、この宇宙の外や、そのまた宇宙や、そのまた外の宇宙へすべてを経験するように今、いる

—–

さあ 時にはこどものようになるんだ 時には子どものように他愛なく泣いたらいい
さあ 時にはおとならしくしよう 立派な大人なように毅然と振舞おう
そして 時には そう まるで聖者の様に不可思議な微笑を顔に浮かべて
すべての中に調和を味わおう
さあ 時には君はたたかう人だ 戦士だ 君の中から湧き上がるどのような薄汚い情熱も
怖れる必要はない!! ただ 素直に出すんだ

悟りとか解脱とか神秘体験とか恍惚境とか法悦とかそんな言葉に騙されちゃいけない
釈迦なんていうろくでもない奴が出たばかりに何か悟りがとても大切なように考え違い
しだした君たち 大切なのは君だよ そう君のなかに流れているその愛だ
君の中に流れているその命だ いつでも流れている いつでもある
でも こんなほのぼのとしたものだけじゃ無いんだぜ
そうじゃない まるでガンにかかった患者がたった一人きりでどこかで死ぬように
そういうのだって在るんだ でも 君たちは知るよ どのような触れ合いが無い所でも
愛 それ自体が満ちわたっている事を 全ての言葉ってのは繰り返しなんだ
もうあることをもう一度繰り返すだけなんだ でも 大切にしてほしい
君たち 一人一人の命を きみたちにはきみたちにふさわしい生きる場所が与えられているから それは精一杯生きなくちゃならない 精一杯生きることを詰まらながるなよ
そのなかに どんなよろこびが響きわたっているか 君はしるんだから
精一杯っていうのは 素直なこと きみのいちばん深い思いに素直であること

—–

とらわれる必要はないんだ みんな一つながりなんだから

そしたら君はきっといい音楽をうたえる そしたら君はきっといい野菜をつくれる
そしたら君はきっといい自動車整備工になるよ

きみ達は物語を演じている その物語をどんな筋にしようと それは
君たちのもっとも深い思いも自由に委ねられているけど
もし この世という戯れのドラマにテーマがただ一つだけ テーマがあるとしたら
それは愛というテーマだ でも、この愛というテーマに目くじらたてて
そうしなくちゃならないなんて思う必要ないんだよ

愛のテーマっていうのは 既に生きている君のすがたなんだから
きみは生きている この絶対の愛のなかを愛にむかっていきてる

—–

なんかある?

「どうしたら、自由になれるの?」
自由になる方法はひとつだけある。たった一つだけ。それはね。今、自由になることだ。
「どうしたら、殻がとれるの?」
君が、殻がとれるっていうような余計なことを、考えなくなる時、
殻はとれるものでもないし、存在するものでもないのさ。
君を阻んでいるものは何一つないんだ。
だから、君を阻んでいるどんなものも無いって思う限り。
せいぜい君を束縛するものと付き合えばいい。
それもちょっと付き合うなんていうさ、何かその、こころのこりの付き合い方しないでほしい。
ほんとに付き合ってくれ。
君の限界や、君の束縛や、君の不条理や、君の不如意と。
そしたら、そういったものがさ、きみが描いている夢にすぎないことが分かる。

さあ、今でいいんだよ、いま、うん、いま自由でいいんだ。
そしてその自由の中をね、さらに自由を求めて生きていくっていうのが人間の戯れなの、この宇宙の戯れなんだ。
そんなカタイこと言うなよ。
今、自由なんだ。自由だからこそ君は精一杯生きることが出来るんだ。

「それは愛なの?自由ってのは?」
愛は自由。愛は愛でもないし、自由は自由でもない。
でも、言葉にしたらそうとしか言えない

—–

愛は自由だ。
愛はすべての生命、すべての存在物が求めてやまない、そのものだよ。
しかも、それぞれの存在物ってのは、みんな愛の中にあるんだ。
「愛情ってね、執着するじゃない。でも、自由になるとさ、何ていうか、愛情の中から飛びぬけてしまって、そういう事はないの?」
うんと、自由ってのは、例えば愛情とかなかにはさ憎悪が時におこる時もあるし、嫉妬がおこる事もある。それから執着が苦しくなる時もある。
だけど自由ってのはさ、部分的にあるんじゃないんだ。
例えば、愛情ってものや執着ってものを消した時に、自由が出てくるなんてそんなチンケなものじゃないんだ。
まず、自由があるんだ。自由があるからその中で、自由に愛情を注ぐ事ができるんだ。

それは、同時にあるんだよ。

それは、人間として生まれた計り知れない喜びを味わうことだし、
人間として生まれた計り知れない悲しみを味わう事なんだ。

さあ、もうすべては終わったんだよ。
・・・・・・そして、すべてがはじまる。

—–

「でも、好き嫌いっていうのはある?」
『もちろん』
「憎悪は好悪は?」
『好き嫌いはあっても、憎悪はない』
「やっぱり自分の中にある高慢さを殺したいんだ」
『うん。それも一つの観念に過ぎない。いい?今君達はここにいる。
君達が果たすべき唯一絶対の事柄っていうのはね、もう、今果たしてるんだ!
ただ、観念(頭)だけが『そうじゃあない、そうじゃあない』って言ってる。
どうだい、見てみろ、ほら。風が入ってくる。電気がついてる。
そこに何が、どんな足りないものがあるっていうんだ?』
「居心地がいいか悪いかも関係ない?」
『それは(笑)、居心地がいい方がいいだろう(笑)さぁ、坐ろう』

『力むな』

『素直であれ』

『みな何かを分かったためしはない(笑)』
「わかろうとすることは?」
『わかろうとして生きるんだ』
「わかろうとして生きる?」
『うん。そして『分かったかなぁ』っていう感じのところへ、そのすぐ側に行き着くときがあるかも知れない。
でも、本当に分かるっていうことは、人間にとって絶対にあり得ない』
「結局反対の意味かも知れないっていうこと?」
『うん、そう。本当に分かってるものはね、人間ではなくてね、命だ。命だけは永遠に分かってる』

『どんな能力をつけてね、人を思い通りに操ろうと何しようとね、絶対本当の安らぎは来ないからだよ。
本当の安らぎっていうのはね、自分を超えた自分が、自分より遥かに超えた無限に向かって奉仕した時、
献身した時初めて来るんだ』

—–

そのことについて考えよ、どこから来てどこへ行くのか、
最初の地で、君が自ら投じた混乱の渦がある。
その混乱を引き起こした理由が何であったか、忘れてはいけない』

ダン『そこで、一節切れるんだ。そのことについて考えよ。どこから来てどこへ行くのか。
このことがわかれば人間がどこへ行こうと決して離れないことがわかる。いつでも自由で。
そうすると、例えば心霊科学者等は言うわけよ。
そもそも何とか霊界から出て来てね、そして死んだ後には、またそこに戻るというようなことをね。
でも、それはね、本当の部分じゃないんだよ。人間の表面的な性格を形作っているある部分が、
霊界へ行ったり現象界へ来たりするだけなんだ。
いい?本当の俺達、ここにいる俺達っていうのは光なんだ。
だからどこから来てどこへ行くっていうことの答えは、光っていうことなんだ。
それは、来もしなければ、行くこともないんだ。いつでもいっぱなしなんだ。
いい?そしてそれはさ、光という言葉より、もっと明確な形で言えば、光っていうのはシンボリックな言い方だからね、
それは、そのものずばりで言えば 愛 なんだ。
人間は愛の中から来て、また愛の中へまた帰ってゆくんだ。
しかも、愛の中から出て来ながら、その、一緒に、愛といるんだ。愛が合いの中から出て来る。
いい?君という愛の中から愛という子供が生まれるんだ。その次』

—–

あのー、『新・救世主入門』、『メシアンハンドブック』、それは何のために書かれたんですか」
『何のために?』
「はい」
『それは世界の遊戯に貢献するためだ』
「貢献するってどういうことですか」
『例えば、君は今何のために質問したかっていうことさ。その時君はさ、俺の言葉通りにさ、
世界の遊戯に貢献するためだって答えてもさ、俺は多分『ううん、それじゃあないんじゃない?』
っていうかもしれないよ。で、こういうふうに俺が今喋ってることがさ、世界への遊戯の貢献だ。
つまり、俺が世界への遊戯に貢献するって、喋った時にさ、俺にとってさ、神っていうものがさ、
ここにいるわけだよ。今。そして遊戯に貢献するっていう答えを、そう、かなり品よく答えてるわけだよ。
この答え方は。上品な答え方だ』

—–

「一つの教えは、その時その人に応じてしかあり得ない。どのような神秘不可思議な教えも結局、愛と自由の自己確認につきるんだ。
君が秘密結社のようなものを作って支配欲という不安にかられた時は、思い出して欲しい
君が一番身近な愛をどんなにも忘れてしまったかを。君は元々愛の救世主としてこの世に生きている
そして、愛と自由とは君の思い込んでいる人間性の中にはない
君が救世主であるということは、君の永遠の自己訓練としてのみあり得る
あるがままのすべては救世主だが、あるがままである自己訓練ほど、君にとって恐ろしいものはない
それは、君のすべてを必要とするからだ。
君は君の全てを解放することによってのみ永遠の自己訓練つまり久遠の戯れと戯れることができる
死ぬことは最も恐ろしいことだ。でも君、死になさい」

そしてもう一度思い出そう。『救世主入門』の最後の章句を。
これは君だけに語りかけている。『完全』は、君以外の誰にも代わってもらうことはできないのだから。

「この本に書かれていることほど無責任なことはない。
この本に書かれていることを信じない方がいい
書かれていることはすべて逆の意味かもしれないから」

—–

悲しみについて

鳥が天を飛んでゆく

あれは悲しみなのだろうか
しかし鳥は飛ぼうとせずに飛び
花は開こうとせずに開いている

草は芽吹こうとせずに芽吹き
石ころはころがろうとせずにころがっている

人の子は生きようとせずに生き
その悲しみを悲しもうと思ったことはない

—–

君が今、どのような状態でいようと、この今を愛は、考えられないくらい愛している。

—–

どうしようもない・・・

どうしようもない今は、どうしようもない。

これも過ぎ去る。すべては過ぎ去っていく。これではない・これではない・これではない。!

どうでもいい なんでもいい シッチャカメッチャカ!

わたしはただこれになり切ろうとするのみ。

念ずれば、私もすべてもなくなってしまう。
オーム・オーム・・・オーム!!

私が対象を見ようとすることが不安であり、私が対象を聞かせてもらうのが愛である。

禅定にはいれない今は、入れない今だ・・・・・・

—–

すべては不可能であると知ること――― それが自殺と発狂と悟りへの出発点である。
充分以上の情熱のみが、不可能と可能との区別を忘越せしめる。

思考は常に解答を出したがる。 たとえば「不可解」だとか「全体性」だとか。
こんなものどもは、ガラクタでさえない。快楽こそ悟りなのだ!

快楽が、あなたのものでもないように悲しみも不安もあなたに属しはしない。
では、あなたとは何だ?

完全はね、君達以外の誰に代わってもらうこともできない。
完全なんて言葉は言う必要がない。
本当に納得した、本当にすてきな、本当におおらかな、本当に深いこまやかな人生。
君達は本当に自分の大好きなことに向かって進むことしかありえない。

『正法眼蔵』が深遠なんじゃない。釈迦の教えが深遠なんじゃない。
キリストの教えが深遠なんじゃない。ハイデガーの哲学が深遠なんじゃない。
そうじゃない。 君たちが、深遠なんだ。君達の中が深遠そのものなんだ。
それ以外に完全はない。いい?

—–

忘れ果てるがいい

何を語れば、いいというのだ。
語るべきなぞ 何一つとてない。
石ころは、何を語っているのだろうか。
形あるものは必ず死ぬというのに。
すべてのすべてを見破ったら、
おろかに、 なにもかも忘れ果てるがいい。

私は髪の毛、一本 白くも黒くもできはしない・・・

いつでも家の中にいるよ、今君たちは。
だから君たちが疲れたらいくらでも安らげる。
それからね、君たちが死ぬっていうことは君たちがパーフェクトな理由なの。
おかしな言い方かもしれない。
それはね、君たちの命が君たちの自分勝手な方向で出てきたんじゃないっていうこと。
既に君たちは、与えられて出てきてるんだってこと。

—–

例えば死そのものが目の前に現れた時にどうするかってことさ。

その時ね、自分っていうものの観念を持っててさ、
自分て言うものを保っておこうと思っていたらね、死はあり続けるよ。
なぜなら死って言うのはね、自分と宇宙との摩擦の間に起こる幻だから。
その時宇宙そのもののパーフェクトって言うものを認めれば、死は消えるよ。
もともとひとつながりの命であってね、それが君たちになっていることがわかる。

自分勝手なものは通用しないんだってことを教えようとしたわけ、宇宙は。

つまり何をそんな頑張ってんのって言うのさ。

夢想する事もできないだろうが、君自身は、すべてと、
すべてのすべてをと知り尽くしている。けれども、それも又、どうということはない。
君が、本物の悟りをかいま見る、それが、本物の煉獄の出発点だ。
全体性の回復とは回復ではない。あたりまえなことだ。
すべてが、完全だと言うも、すでに手遅れだ。
恐怖を恐怖すれば、恐怖という恵みをだいなしにしてしまう。
現実として、一切万象の中に単独として存在しているものはない。
重要なのは、万象の一体性が、絶対愛だということにある。
神から見れば、君は地獄を避けて通り抜けるわけにはいかない。

—–

今は君はバッタで 僕はどうやら人間というものらしい
この次の出会いでは 僕は一ぴきのバッタで 君は天使になっているかもしれない
バッタよ、君よ、愛しているよ バッタよ、君よ、未来の天使よ、私自身よ

意識の極北に言葉は無用だ あらゆる生命達は 永遠にそれを知ることはない
「あれ さきまっでの夜が朝になった」 「パン屋のオヤジさんが死んだからだよ」

私は神という夢が好きで 神は私という夢が好きだ そこで私は
何不自由なくすべてを実現し すべてのすべてを愛し尽してしまった
たぶん君は神という夢が好きなんだろう
だから決して 神という夢さえも無くなったら何がある?などと問いはしないだろう

もう闇さえも忘れたこのいのち いかなる緊張も持たぬ情熱が
いのちの限りない広がりへ 命を回帰させる
「あなたは誰ですか?」 私は、魚よ、君自身だ
この限りない海そのもののいのちだ 君、魚よ、私自身よ、海よ

私を産み 私を育て 私を私自身によってかみ殺させる汝 ナーガよ 私自身よ
ナーガよ 応身仏の千変万化よ ナーガよ 神に創られた悪魔よ
ナーガよ 神を殺す蛇 ナーガよ 永遠に解けぬ逆説
ナーガよ 私自身 ナーガよ 神自身よ
ナーガ その秘められた夢 ナーガ その秘められた究極実在
ナーガ 全智全能なる私自身よ

如意第慈 瞑想三昧は 愛を越えた愛と
自由を超えた自由の私の自己確認であり その完全が 神が
私に私の天命を生かしめる
夜の享楽の町も 夜明けの大自然の風光とまったく同じに 私の中にある
どうしても私は世界を破壊し 自己を破壊せざるを得なかった
私の考える自己も世界も 決して私自身の家ではないのだから
帰る家などを問題にするのはやめよう 何もない所で
私はわが家に安座している

—–

―君は本当に、宇宙が一大生命体であり、
その歓びと暖かさとを感じたことがあるかい?

―君は、君の身心の死後、私とは一切の創造主兼それ自身であり、
すべてのすべての戯れであることがわかるかい?

あなたが、どんなに素晴らしい体験をしたと言い張ったところで、それは、
何やらわけのわからぬあなたと称するものの一経験にすぎないのではなかろうか。
依然として、あなたは、わけのわからぬあなたなのではないか。
『これ』は『これ』なのだ。
この事実に目覚めることを、私は神秘体験と仮に名づけるばかりだ。

まったく、花も実もありゃしない。まったく、不粋だ!

君が瞑想者である限り、君は愛も歓喜も卒業する時がくる。
が、自分が自分なら、卒業などありはしない。

君が意識をはっきりさせたまま人生を終える時には
君は知るだろう― 何もかもがいいということを。

―君は道元のニルヴァーナの中のすべてであることがわかるかい?

—–

愛のないところはどこでも 見知らぬ世界だ
見知らぬ世界という不安を 私は歩いていた
宇宙も私自身も愛さえも ぜんぜん知らないという私自身だ
本当に見知らぬ私自身は 私のいかなる不安な感情とも無縁だ

神秘が今ここに歩いている  神秘が今ここに坐っている

おめでとう 君は 君自身の旅を終わらせた
おめでとう 君は 君自身の旅を始めた
おめでとう 君は 今・ここで 絶対の終りと絶対の始まりとを見破った

さようなら君自身 さようなら君自身の旅

神の絶対無の中に 夢見続ける宇宙
夢の宇宙はこのように戯れ 夢の宇宙はあのようにも戯れる

あらゆる宇宙や生命達が こんなにも私の身近かにある

あなたを生かすために 生命はあらゆる条件をあなたに与え
私が生きる所に 大気が生き太陽が生きあなたが生きる
太陽はあなたに 仕事を与え妻子を与えまた嘆きを与える
太陽はあなたに 命を与えまた命を奪う

この宇宙もやがては死に そしてまた宇宙が産まれ来る
一つぶの雨の生涯が あらゆる人々の生涯であり
かげろうの生命の営みが 宇宙の生命の営みとなる
そしてそれが すずめのさえずりの一小節

—–

忘れ果てるがいい

何を語れば、いいというのだ。
語るべきなぞ 何一つとてない。
石ころは、何を語っているのだろうか。
形あるものは必ず死ぬというのに。
すべてのすべてを見破ったら、
おろかに、 なにもかも忘れ果てるがいい。

私は髪の毛、一本 白くも黒くもできはしない・・・

 いつでも家の中にいるよ、今君たちは。
 だから君たちが疲れたらいくらでも安らげる。
 それからね、君たちが死ぬっていうことは君たちがパーフェクトな理由なの。
 おかしな言い方かもしれない。
 それはね、君たちの命が君たちの自分勝手な方向で出てきたんじゃないっていうこと。
 既に君たちは、与えられて出てきてるんだってこと。

—–

私はとこしえに楽しく生きたい!
天馬・空を行き 行くところ可ならざるはなしという 人生の達人だからとて
本当にわかるものなど何一つなかろうよ
死の悟りを開き 神と霊のカラクリを つぶさに体験したからといって
実際のところなにがわかったと言うのだろう
光明以上の光明 至悦以上の至悦 わかることのわからないことの彼方の
サマディーを体験したからとて それが何だというのだ
庭先にマーガレットの花が咲き乱れ すずめの鳴き声はすずめの鳴き声らしい
そして わたしは生きているらしい・・・ 時には不安にめいり 時には極楽のエクスタシー酔いながら
私はどこからどこへ行くか知らないばかりか
こう書いていることも こう書いている私とやらも ぜんぜん知りはしないらしい・・・
やれ観念的だ抽象的だ やれ実質がある実行がある やれ現実だ夢だ
私たちは何て馬鹿げたゲームにうつつをぬかしているのだろうか
草花が初夏の風にゆれることが現実であろううか?ノイローゼ青年が見た空飛ぶ円盤は幻覚だというのか?
誰も何も知りはしないさ・・・
私はとこしえに楽しく生きたい! たとえ、それが、まっかなウソであろうと。

永遠の旅に出る

あらゆるものが そのままで 絶対なのだ。
だから あらゆるものは 夢としては相対し愛し合っている。
一つの雨だれの音声がエメラルドの海と完き解放の太陽を誘う。
バランスがパラノイアであればパラノイアはこの上ない甘美なバランス。
もっとも弱きものは神となってこの地をつぐ。
複雑で不安な頭脳はこの上ないシンプル。
とうとう私は神になった。
あなたが神であればどうして私が神でないことがありえよう。
さあすべてが終わった。 私達は今永遠の旅に出る。

—–

その中から、 すべての力と
自分の個性にふさわしい生き方とが
ひとりでに流れ出す。
逆なんだ。
俺の友達が昔、言った事がある。
「本当に安心して、 そして何もない
そのものになりきったら、 あとは
どうなる?」

あとはどうなる?、 だって?
あとはどうなる、 なんて考える必要はない
そこから流れ出す。
その時、 初めて自然さ、 がわかる。
雨のように。

本当にあるんだ!

本当にあるんだよ!

もう、苦しもうったって苦しめない、

そういう生き方ってあるんだ。

それが、 本来の姿だ。

もう何一つ問題ないそれがある。

それは、今——-。

『月並みな言葉だが、ねえ、あんた、愛は愛を愛している』

—–

人はなぜ苦しむのか?
人はなぜ虚しいのか?
人はなぜ大らかで楽しくないのか?
人はなぜ生き生きと血湧き肉踊っていないのか?

それは自分が自我意識満足を求める欲望だ、と錯覚しているからである。
全人類は、今や、自我から出た虚しさを如何にだますかにきゅうきゅうとしている有様である。
やめなさい! やめなさい!
自我は虚しさと欲求不満と苦悩を生む以外にはないのだ。
それらの虚しさ不満苦悩が、それなりに素敵だと思うのであればこれ以上この文章を読む必要はない。

ああ! エクスタシー! おお! エクスタシー!
自我にとって果てしなく遠く彼方にあり、そして常に今この場にピッタリくっついているものよ。

注意せよ! エクスタシーとはあなたのエゴがあこがれているエクスタシーではないのだ。
そんなエクスタシーは単なるまがいものにすぎない。
しょせん一時的な自己満足なのだ。
真実にして絶対なるエクスタシーとは あなた、すなわちエゴが消滅するところに花開く神秘にして不可思議なるなにかなのだ。
その時、一切の苦悩も一切の喜びも完全に終わり、苦悩でも歓喜でもない完全無欠なる至福が無限に満ちわたっているのである。
エクスタシーはあなたを成熟せしめ、一輪の野の花にも、海のさざ波にも、山の中の静じゃくにも、大空の広がりにも、風のささやきにも、
しとしとぴっちゃんしとぴっちゃんの雨ふりにも、便所のこえだめのうじ虫にも、一服のタバコにも、ほんのかすかな肌の触れ合いにも、
限りない味わいがあることを生きることになるのだ。

さて何故、死がエクスタシーになるのであろうか。
答えは簡単だ。
あなたというエゴがなくなること、ナチュラルになくなること、そこに唯一実在しているエクスタシーがあらわれるから、というにすぎない。

—–

今、私にふと何か欠けているといった思いが浮かんできた。もとより神自身なる身に何の欠けたるところはない。
では私に欠けているのは何か?
それは私の人生であった。私には私の人生というものがない。私には、ただあらゆる情景の転変があるばかりだ。
それは何一つ確定したものを許さぬ。
なぜなら、それが私の戯れかただから---

あなたの寿命が永遠だろうと一刹那だろうと、それはどうでもいいことだ。
あなたは、古い束縛多き人間性の非存在を知って、まったく新しい愛と自由の人間として甦るのだ。

「救世主入門(メシアン・ハンドブック)」は、新しい黄金文明の種まきであり、そして、何よりもあなたというかけがいのない一つの個性が、
十全にこの世とかの世とをおおらかに戯れるために書いたものであり、そしてまた何よりも、私自身の果てしない遊びである。

さあ、神を戯れよう。

私は神という夢が好きで 神は私という夢が好きだ

そこで私は 何不自由なくすべてを実現し すべてのすべてを愛し尽くしてしまった

たぶん君は神という夢が好きなんだろう だから決して神という夢さえ無くなったら何がある?

などと問いはしないだろう

私が地獄なのだ。それにマチガイない。宇宙が地獄なのだ。それに間ちがいない。

私は宇宙のトラワレビトで頼るものなぞ何一つとしてない。

私の言葉は、あなたの知的理解を求めてはいない。
どのような崇高な教説も、結局はあなた自身の全生命をかけた霊的な解説によるものだ。

われ神自身時々おもえりニルヴァーナこそサクランではないのかと---

—–

いとしい人よ あたたかい生命よ 私自身の私自身よ

お前もまた 疲れ年老いて死んでいく

いとしいお前よ 死ぬべきさだめのお前よ

いとし子よ 死にゆくものなるいとし子よ

いとし子よ 死ぬのだ!

私はすべてを見た。
それは、私の最初にして最後の個別性であった。

何と表現したらよいのだろうか?

私は終わって……
私はもともとなく、ありとあらゆる戯れそれ自身だ。
――これは詩的表現ではない!

私は、ありとあらゆるものそれ自身だ。
ニルヴァーナと、一本の鼻毛とは同じそれ自身だ。
あいうえおは、ニルヴァーナだ。
ニルヴァーナは、オナラ・ブーだ。
スモッグは、ニルヴァーナだ……

このことを、断じて理解し、自分勝手に納得するなかれ! 咄!!

—–

生老病死全体を含めた
いわゆる人間の人生というものの中に、
納得したと言う必要がない程
納得したという経験はありません。
そして、人間の人生というものが、
ただそれだけのものだと言うのであれば、
それはそれでいいでしょう。
ただし、本当に素直に
自分の心に直面してください。
結局、いわゆる人間性と言われているものの基本原理は、
自己中心の
決して満たされることのない欲望にすぎません。

あなたは、本当に、
そういう人間の人生と
妥協することができるのですか?
本当の心の底では
決して妥協できないことを
知っているはずです。

絶対無限の宇宙を越えて、
ただ一人とも言えない
私自身がある。

—–

あらゆる人間達は
その無限人間の、
ただ一人のその無限人間の中の
ちっぽけな、ちっぽけな細胞にすぎない。

本当に正直になれば、
完全に納得できるものを求めざるを得ないということを
誰でも知っているはずだ。

なまじ、自我が唯一の自分だと思ったが故に、
ありとあらゆるバカげたことがおこっているのだ。

今、大切なことは
ただ一人の
絶対完全、永遠無限人間であることが
自分自身であることに
目覚めること以外にありません。
そして、それには
いわゆる人間と称するものの限界性を
とことん知り尽くさなければなりません。
なぜなら、本当に正直になれば、
その限界をいやという程知っているに違いないからです。

理屈ではなく、
生きているということ
死んでいくということ
そして、それ以外のすべてのすべて
それだけがわかれば、
すべての問題は消えるのです。

—–

私は、すべての問題がないことに
目覚めました。

私は、絶対というもおろかなほど
絶対それ自身です。

そして、本当は
誰にとっても同じことなのです。

もし、あなたが、
どんなものにも納得を見出せないということが確実になったならば、
私のもとに
本当に素直に帰ってきてください。

あなたに真実の出会いが
      起こりますように

—–

本当にあたりまえな人
人間であることのあらゆることを味わい尽す瞬間、
その瞬間只一つの無限のよきものにつながっている
瞬間は時が消えるとき
私達が、人間として、神秘として、
発展していく小さな入り口
それは、
何ものでもない、完全であると同時に、
どうあろうともすべてである汝、
すべてで、同時にあたりまえな旅人
神秘な旅人
私へ帰っていく旅人

あんたは、本当は消えたいんだ。
けれども、うわっつらでは
死にたくないと思っているわけだ。
それでも、あんたは消えたいんだ。
余りにも素晴らしいことを予感するから、
あんたはブルブルふるえる。
欲望は、欲望を消すことを欲望する。
消えたところが、至福であることを
あんたは、ほんとは知っている。

至福に至るメカニズムは
もう、出尽くした。
そこで、君達は君達なりに生きているだけだ。

君が意識をはっきりさせたまま
人生を終える時には
君は知るだろう――
何もかもがいいということを。

—–

本当のこの世との一切の別れは、
本当のこの世のすべてを理解するのは、
あなたが、あなたの肉体の頭部の光にに導かれて、
限りない道の広がりへ出てゆく時である。
つまり、あなたは、
唯一の限りない出会いと一瞬一瞬に
別れを告げているということなのだ。

それが愛の始まりであり、
それが愛の終わりなき終わりなのだ。

—–

ダンテス・ダイジの初転法輪、救世主入門。

君の命が動く時新しい時代が動き始める。

君は救世主でいる あらゆるものと同じように

『世界の遊戯に寄与する
君達の使命が 終了したかどうかを判断する簡単な基準がある。
もし、君たちが生きていれば
瀕死の重傷でかすかに息がある場合でも生きていれば、まだ使命は終わっていない。
たとえ君が死んだとしても 君は終わることはないから
結局、君は 世界という遊戯に 寄与し続けるしかない』

もし君が救世主でないのなら 君は、パン屋にも自動車修理工にもなれはしない

救世主はすべての場所と時間を通じて 只一人しかありえない
それゆえ救世主は 一つの肉体や人格でないばかりか どのような決まった形態も持っていない

この世界にもどのような世界にも 救世主しかありえないというのに救世主になろうとする君は
どうしようもないもの好きと言える

君の幸福と不幸は 君が死ぬことから来ている 君は間違いなく死ぬ
君の人間としての生涯は 君がすでに死んでいることを 学ぶためにある

君が愛を感じたり 君が何かを愛したりすることはない 君がすでに死んでいるのなら
愛のみが感じている 愛のみが愛している

何ものも救うことはできないし 救う必要もない このことを頭によらずに理解したら
君は救世主であり すべてを救うように生きている

—–

常に三歩先を行く精神を心がけること 何歩先でも何歩後でもいいが 常に三歩先を行く精神を心がけること

どのような君も どのような宇宙も 君自身の描いた夢であり 夢から目覚めるという夢を見ようと
 どのような夢を生きようと それは君の好き好きである

君に現われるどのような出来事も 君自身の鏡であって 君の責任である

いかなる夢にも君が惑わされなければ 君はいかなる夢をも 惑い楽しむことができる

過ぎ去ってしまった 出来事や言葉を信じないこと たとえそれが 天使のものでも悪魔のものであっても 今以外に 君の居場所はない

救世主は 救世主につめのあかほどの価値も置いていない

三歩先を見る能力を常に活用せよ さもなくば 常に三歩後を歩むことになる

そのことについて考えよ どこから来てどこへ行くのか
最初の地で 君が自ら身を投じた混乱の渦がある その混乱を引き起こした理由が何であったか、忘れてはいけない

君達は恐ろしい死を遂げる それもまた忘れないように

君にふりかかることは全て訓練である 訓練であることを自覚しておけば 君はそれをもっと楽しむことができる

君はすべてと付き合わねばならない 君が常にすべてとつき合っていることを知れば 君はすべてである

しかし死に際しては 厳粛に取り組まねばならない
三歩先を歩くことのできない生物たちは ギロチンに首を突っ込んだまま笑う君のことを理解できないだろう 君は狂人と呼ばれる

君は本当に好きなことをすればよい 本当に好きなこと以外 君にすることはない
だがおうおうにして単に自分にとって好きだということと 本当に好きだということとは正反対に見えることがある

君が天使のようだろうと 悪魔やそれ以外の何者のようだろうと
君自身は 天国にも地獄にも 決して長くは住まない 場所も時間もなく 君は 今・ここに・いる

—–

人間というものはどこにもいない 人間というものが 君のイメージの一つにすぎないように
 時間の持続としての永遠もまた 永遠の夢にすぎない 永遠とは場所も時間もない 君自身のことである

学習はすでに知り尽くしていることの発見 行為は学習の証明
教育とは被教育者に 君らも教育者と同じ程度のことを 知っているのだと気付かせること

君はもちろん 学習者であり実行者であり教育者であって
いかなる種類の 生や死を選ぼうと自由だが 義務というものがあるとすれば
自分に忠実でなければならないということ それ一つだけである

他人や他の事情に忠実であることは 不可能なばかりでなく 偽物の救世主であることの証明となる

最も単純な疑問が 最も深い意味を持っている なぜ君はいるのか? 君とは何なのか?
君の頭は 決してこれらの単純な疑問に答えることはできないが 君自身はすでに答えている

君はどこで生まれ どこで育ち どこで何をしようとしているのか?これらの答えは 君達自身と共に 常に変化しているはずである

このことを憶えておく必要はない 君はいつも見知らぬ世界に いつも見知らぬ旅人としてある
君達は常に今からまったく新しい旅へ出発する

最も学ぶべきことは それを君は最もうまく 生きたり教えたりできる

学習者として実行者として教育者として以外に救世主はあり得ない

君の行為や表現が 世に公表されたとしても 決して恥じてはならない 例え公表されたものが真実でないとしても決して恥じてはならない

世の人々が 君を自分勝手な奴だと非難したとしても 君が本当に好きなことをしたのであれば
本物の救世主である 君は自分に忠実に生きること以外に生きることはできない

束縛好きの生物たちは とかく本物の救世主を悪魔と思いたがる

責任を回避する一番の方法を教える「私はすでに責任を果たした」そう大声でいいたまえ

—–

君の中は何種類もの生き物によって構成されている
君がある方向への一歩を踏み出すのは その中の 学習意欲旺盛な一匹によるものである

君が現実から顔をそむけなければ あらゆる現実が君の夢であることがわかる

君達にはいつでも選択が任されている 別の未来 別の現在 そして別の過去も
自分は救世主であると 信じていること それ以外に 救世主の あり方などというものはない

行って愛したまえ 君が愛するのに 地上の何ものにも頼る必要はないし
天国の何ものにも 頼る必要がないのは 言うまでもない

理由のある安心を持ってはならない 絶対の安心には どのような根拠もない 君の素直さが君を安心させる

救世主はいつも一番らくでいる ちょっとらくでいるのではなく 一番らくでいる
一番らくでいることが どれほど恐ろしいものであっても 君は恐れてはならない

君がこうだと断言すること それが 君という役者が演じているドラマであり
君はどのようなドラマを演じることもできるが ドラマのテーマがあるとしたら
それは愛というすべてしかない

いかなる種類や程度のものであっても 困難は君達に何かを与える

君達は言うなれば 困難さを捜しているのである
困難さが与えてくれるものには 価値があることを知っているからである

君が変化せずにあるのだと信じ込みたがること それが困難さの原因であり困難さから解放される原因でもある

—–

君は自分の中に 救世主が住んでいるのを知っている
救世主を閉じ込めてはいけない それは絶対に避けるべきである

友人は君について君の知人が千年かかって知るよりはるかに多くのことを出会いの一刹那で知るだろう

君が愛人と出会う時 そこにはどのような意味での必然も偶然もない
時を忘れた時の中で君は思い出すだろう 愛人との いくたびもの戯れのすべてを

物語の登場人物に なろうとしたことはなかっただろうか?
もしそういう経験があるならば 君達にもわかるかも知れない
時として 虚構の中の登場人物の方が 心臓の鼓動をもつ人間よりも 強く真実を語ることを

エゴのない救世主は 空中に描く花よりも 不確かな存在である

良心とは尺度である 君が自分のエゴに どれだけ忠実であるか それを決定する尺度に他ならない

君達すべての者に告げる 君達が遭遇する事件はすべて 君達自らが招き寄せたものである
その事件の発展の方向を決めるのは もちろん君たちであって 神ではない

君が 生きたり死んだりするのは 君が選んだ 無数の見方のうちの一つにすぎない
君がその見方を 気に入ってるのなら 生きたり死んだりすればいい 気に入らないのなら 捨てればいい

愛は姿のない君自身 そして 君の姿がどのようなものであろうと自由は君の姿である

—–

君達が自己に忠実に話す時 そこに過去や未来に関わりなく 真実が永久に光り輝く
自己に忠実に話す それのみが 真実の正当な在り様なのである

自由に生きるためには退屈と戦う必要がある
退屈を殺して灰にしてしまうか 退屈に殺されて家具になるか
激しく根気のいる戦いである

君が消えてしまったとしても 君は永遠に生き続けている 人々が死体と呼んでいる生きものの上に
太陽がある世界には太陽が輝き 海はいつまでも波打ち続ける

この世界に生きている人間は 一人の例外もなく いかさま師である
本当の自分ではないものになりすまして生きている もちろん 救世主も例外ではない

二つは比例する 君達の知性と 君達が悲劇の存在を認める度合い
毛虫が終末と思う その形態 救世主は蝶と名付けた

おめでとう 君は救世主でいる どのような救いの叫びにも どのようにも答えることができる

この本に書かれていることほど  無責任なことはない  この本に書かれていることを  信じない方がいい
書かれていることはすべて  逆の意味かもしれないから

ニルヴァーナも、もちろん夢の戯れである。
これを知れば、君は君自身が久遠の人間であり、君という人間性が、無限少の一細胞であったことに気づく。

すべてがオーケーだと考えたら、すでに手遅れだ。あなたは、もう、ほとんど救われようがない。

—–

便利さ快適さは、決して幸福を産まない。能力や技術、決して真実を明らかにしない。
真実に到達するためのいかなる修行も、あり得ない。
だが、真実の中には、方法も修行も、能力や技術も、幸福も便利さも快適さも含まれている。

黒は白なのだ

黒を白と言いくるめる そうすると黒は間違いなく白だ
これが人間世界という狂気ありさまである

それは暗示とかイメージとかのことではない
潜在想念界のトリックのことでもない
ただ 黒と白が別れる以前からの 断言にすぎない
夢、気の持ちようだだとか 信念の力だなぞと考えるなかれ

夢でしかない世界は黒は白なのだ

されば、汝、人間よ、
進め、進め!
限りない黒と白と混沌の中を・・・

ところで・・・黒でも白でもいいじゃないか

—–

これしかないもんだ

人も浮世も猫もシャクシも そんなものありゃせん これしかないもんな・・・
これしかないもんな そうゆうわけで一切万物は 恐ろしく恐ろしく
甘美で至福なる これしかないもんだ
苦しいより楽しいほうがいいのはもっともだけれど・・・
それを超えるのは、もっといい

なにしろ これしかないもんな・・・

バイクの ケタタマシイ戯れ
ああ ヘドロがあるヘドロがある ああ 花がある花がある
完全なるニルヴァーナがいる 完全なるマーヤが今っている
どっちがいいといったものでもない
メイッテ、メイッテ、メイル
ステキで、ステキで、ステキだ
秋の虫が鳴いている
老子はおさな子のように泣いている

なにもかもがいいという言う必要もないだろう

—–

距離

距離などというものはない 遠い遠い昔も未来も『これ』にしかない。

すべての二元対立を悪戦苦闘して 私の最後の疑問に到る。
私は何か? すべてをすべてと認識しているわたしとは何か?

誰が私などというものを現しているのか?

こう現われている このわたしとは何か? こう書いている私は何か?
私を忘れている時の私とは何か?

そもそも すべてとは何なのか?それさえ まだるっこしい。

これは何だ?これ何者ぞ?  これは何だ??

ああ、人間の果てまで来てしまった――というこれは何だ?

そんなことどうでもいいという――これは何だ?

これは何だ???という――
これは何だ?

断じて知的疑問ではない

—–

すべてが
こうである以上にこうである
そのすべてがすべてでいいんだ
いいや、いいんだ以上のいいんだ

聖人タイプは、すべてのすべてのすべての絶対を欲望する

相対と対立する絶対ではなく
絶対即絶対に至れば もともとなんということもない。

人様にメイワクかけ、世界にメイワクかけ、自分にメイワクをかけ続ける、
いわゆる俗人様つまり恐れ多くも御ブタ様々タイプは、
喜んでいるのか悲しんでいるのか・・・
楽しんでいるのか苦しんでいるのか・・・
ガンにかかってシチテンバットウしている人がミジメなのだろうか???
モグラの近視眼で、国をウレエ、世界をウレエ、だが自己をウレウルことだけは、さけて、
立派な偉大な事業に励んでおられる。
私は心の底から頭の下がる思いだ!

どういうわけか、私は苦しいのより楽しいのが好きな性分ときている。

さて、
何もかもが、ありとあらゆるもの、まったくないといったもの、
シッチャカメッチャカのすべてのすべてが、生命なわけだから、
生命ゆえに、価値も意味も方向もありはしない。

それが、どのようなプロセスを得たニルヴァーナ・エクスタシーであろうと、
それでも、あるのなら、何もいうことはない・・・・・・・・・・・

チェッ!オレは行っちまった!

—–

大志をもて。
かつて男にも大志があった。

地位・名声・権力―――
それらは、一種のオルガズムであり得た。
あるいは、知的探求・芸術的創作―――
少なくとも幾ばくかの陶酔を与えてくれた。

男の性的快楽なぞ淡いものだ。
だから男はいつの日か英雄になることを夢見た。
だが、自意識の頂点では、英雄の夢は破れる―――それは生物学的必然なのだ。

破れた夢は、一つの暴力と化す戦争はすぐまじかにある。

人間を大自然に憩わしめるのは、オルガムズ以外にない。

悟りは究極的なオルガムズなのだ。

今や文明は終わった。究極的オルガムズに帰るに最適の時だ。

女はと言うと、女は女でなくなった。

現代女性は自意識的に快楽を求めつつある。
だが、自意識のあるところに全身全霊的オルガムズのあったためしはない。

独立した女は、もう奴隷になることができない。奴隷になれなければ、本当の性的悦楽などありっこない。

性的欲求不満の女達は、自分の産んだ子供を愛することはできない。

おお、宇宙よ!女には性的オルガムズを、男には宇宙的オルガムズを与えたまえ!