2ch ダンテス・ダイジ スレ2-2

2chの「ダンテス・ダイジ」スレ2です。
おそらく、1と同じ方が投稿されているのだと思いますが、価値ある仕事だと思います。
埋もれてしまうのは惜しいので、此処に置かせて貰います。
長いファイルですので、4つに分割してみました。
もし、此処に置くことに問題ある場合は、お手数ですがご連絡ください。(霊基)

ダンテス・ダイジ2


悟りという体験の思い出―何という足かせだろうか!

恐怖があることを恐怖するから、あんたは、あたりまえの恐怖を生きられなくなっちまったんだ。

「どうでもいい!」と君は本当に叫べるか?

悟りは悟りとは何の関係もない。犬が鳴いている!ワン・ワン・ワン・・・

人間という奴はつねに小便一部を残している。

それでいいんだ。すべてがすべてになるのは、すべてだけだ。

ああ、あなたはそれほどまでに不安という観念を愛しているのですね。

無駄口ばかりたたいている。

そうなっていくそれでいいというのに。

久遠の戯れは続く。何のためでもなく。

—–

真理に至る道などない。
それが真理の真理たる所以である。
部屋の片すみに坐って
朝から晩まで、
真理について思索していたら、
真理に目覚めることもある。
そこが又
真理の面白いところである。

決して情熱をやめないこと
情熱なんぞどうでもいいなぞと
カタイことをいわないでくれたまえ
何ものかへの情熱こそ
世界を世界にしているのだから
君はあらゆるものとともに死ぬ
君も世界も
もともとありもしないここに
あらゆるものが戯れている
いうなれば君達は体験でない体験
それ自身を
再体験しようとしている

それが、外的なものでも内的なものであっても救世主には気をつけなさい。
タナからボタモチは落ちてきはしない。うまい話にはウソがある。急がばまわれ
君自身がたどる道は、君の心すべてが、たどる道なんだ。

—–

私は一人のサニヤーシン

現代文明は私を不適応者と呼び 時に生活無能力者として唾棄する

私の目的は生活を便利にまた豊かにしたりすることではなく

人間が人間である限り決して避けるすべのない人間生命の不如意と不条理を

また病いと老衰と死の虚無とを越えること離脱すること久遠の愛という至福を生きること

何かに対しての自由ではなくすべてのものからの自由を実現することだ

それゆえ私は衣食住に執着することなく因縁に従って出で来る一切を受容し祝福する

私の世界への愛情は人々へ深い安らぎと不滅の智慧とを示唆するばかりだ

私の目には肉体の死は映らずそれゆえ私はこの慈愛に生かされて

餓死も十字架上の死も毒杯もいとうものではない

愛と自由の顕現は自己保存のあらゆる合理性を無視し

私自身の思いのままに大宇宙のいとし子なる私を生かしめる

偉大な社会人たちよ時に私の生き方に見られる非情や狂気を許したまえ

あなた達偉大な社会生活者がいなければ私はないのだから

ただ私は私の道を行く以外にないそれは私だけの道であり決してあなたの道ではない

私は一人のサニヤーシンにすぎない

—–

私は一人の社会人である

人間の経済物質世界のバランスのためにこの無数の糸織り成す大社会の中一人の社会人として生きるのみ

私のテーマは常により豊かな衣食住の維持と発展だ

願わくは豊かな物質の恩恵があまねく一切衆生に及ばんことを

相互扶助こそ社会人としての私の理想だ

私は豊かな生存のために私の知力と体力との一切を駆使して行動する

そして 時には戦い

わが家族、わが一族、わが世界の安定のために死するもまた悔いはない

私の頭には常に未来へのより豊かな計算があり

私の四肢は豊かな収穫の日のために力みなぎり飛翔する

—–

だが私は知っている

愛なきパンは人々に本当の幸福を決して与えないことを

それゆえ私は戦う愛に死ぬ私はパンと化してあらゆる生命達の上に降る

社会を越えて生きるサニヤーシン達よ

私はあなたがたにどのような供養も惜しまぬ

あなたがたの智慧がもしこの世になくば社会は弱肉強食と生存競争の機械に成り果て

豊かな物質は火に油をそそぐがごとき魂の飢餓となって社会をくさらせるから

私は一人の社会人私の全心身は 愛にはぐくまれて豊かな物質と魂のパンとなって実る

社会人たちよ 戦え

愛のためにわがしかばねを乗り越えて戦え

—–

もはや、
すべての苦しみと悲しみは
過ぎ去った。
今と同じように
21世紀も
まったく新しい
楽園となるだろう。
疑いの余地なく・・・
福生の飲み屋街は真夜中を迎え
それゆえ
永遠の光は輝き続けている。
あなたの愛がすべてであるように
21世紀の光もまた
あなたにおいて花開き続ける。
この大いなる死のなつかしさにおいて・・・

    21世紀とあらゆる時代に限りない感謝をこめて
              DANTES DAIJI

――師ダンテス・ダイジの意志に基づき、
            その大悲大慈がより正しく
                  伝わらんことを祈りつつ

七つのチャクラを通過し、七つのローカを通過したとしても、
禅の十牛図をたどり尽くしたとしても、それが、すべてではない。

誰が、私とは誰かということを、知りたがっているのか?

—–

腰を入れて定力をつけよ。尾テイ骨を燃え上がらせよ。
ムラダーらの中のクンダリニーには、君とこの世とのクサレ縁をほどく、無限のパワーが秘められている。
そして、もちろん、無限の地獄も。

神から見れば君は地獄を避けて通り抜けるわけにはいかない。
地獄とは、あらゆる個生命達の欲念相続のことだ。地獄とは花開く直前のツボミのことだ。
今や、君が地獄だ。

人間自我という欲望には、いかなる解決もない。そこで、解決不可能を徹底させて、
全体性の愛自身に目覚めるか、それとも、自我と肉体とを死滅させるかということになる。
あらゆる宗教は、以上二つの方法論の観念体系、もしくは、イデオロギーである。
禅とクンダリニー・ヨーガは、この二つの現実的実践方法である。

—–

まるで一輪の野の花のように・・・

何が何だと言うのだ これはこれなんだ いいや、これはこれだという必要もない

何もかも何もかもいいんだ こんなことを言うのも愚かしい それ位これはこれなんだ

生命はジグザグに進む 絶対の到達点などありはしないからだ この静けさを分かってくれるだろうか?

しかも、生命は流れる ニルバーナといったところで

それもまたひとときのふるさとにすぎない

何もかもがすてきだ 何もかもが、時間でない今を楽しんでいる

極楽の極楽と極限の地獄とを戯れている

私は何と無駄なことを書いているのだろう とことん無駄だと知りながら・・・

まるで 一輪の野の花のように・・・

—–

精神病院内の異様な哲学的凡景

シーク教徒は、鉄製のハンドリングをその手首につける。
そのハンド・リングは、火星を意味する。

日本人種は、現在、地球上で 最も知的な民族であり、
かれらは、四六時中読書にふけている。

ブレインダメージは、もうなおらないんですか?ドクター。
ドクターとは、ドッグ・スター、すなわち犬星を現している。

犬星とは、条件をほどこされ 地位・名誉・権力・金・セックスという牢獄である。

彼は戦場で愛の死を見た。死の前にはすべてが、ナンセンスであった。

君は何が欲しいのかい?それ以上。

—–

瞑想の窮極において、一切の現象は終息する。
時間、空間物質は仮象であり、その本来の無に帰し去る。
瞑想には自己と世界とのあらゆる対立抗争は存在せず、
それゆえいかなる人間的争いも苦悩もない。
瞑想そのものは、どのような制約限定をも越えた愛と歓喜の広がりであり、
そこに、私達は久遠の自由を生き、
またあらゆる愛を生きている。

様々な瞑想行によって私達が純粋に瞑想自体を体得してゆくに従い、
私達は、絶対の愛や安心や自由が何であるかを知る。
瞑想には何ものも存在せず、何もないと認識する自己も存在していない。
しかも、瞑想は瞑想自体で久遠の光明を自覚している。
私達は瞑想においてあらゆる自由を生き、
不安と不満とによってエゴイズム的に成り立っている現代物質文明の暴走を否定超克する。
不安と不満はいかなる物質的繁栄によっても解消することはない。
不安と不満との原因である個的自我という妄想から私達は解放されねばならない。
その時、私達は無我の限りなきさわやかさを生きる。

—–

西洋的都市文明の物質的暴走は、不安による逃避的あがきをくり返し、
今その終末を向かえている。
物質は本来私たちの肉体生命を維持するのに必要なだけあればよいのであって、
物質が私達に本当の幸福をもたらすことはない。
農業こそが、もっとも非エゴイズム的な文明形態であり、
この現代商工業都市文明が、その物質的暴走ゆえに崩壊したあとに、
農業重視の新しい精神文明が起るであろう。
農業は、私たちの肉体生命の基礎であり、商工業都市文明には存在しない。
個的自我という妄想から自由である私達は、欲望と不安とから解放され、
もっともあたり前に農業を尊重する。

私達はあらゆる経験の中で、現実そのものに何の恐れもなく直面し、
自我意識という妄想の非存在を確認する。
坐禅も祈りも、感謝報恩も、現実の絶対性の前に無心になることもすべて、
愛と自由の瞑想そのものの自己開示なのである。
私達は、夢も理想もエセ・ヒューマニズムも、理屈思想もいらない。
あるがままの無想無我なる私達は何ものに制約されることもない。
自己も世界もない世界には平和運動などという欲求不満のヒステリー的暴力も存在せず、
ただありのままの平和を私達は生きている。

—–

例えば、霊的中心太陽は一つの実在であり、
この現象世界は、その最も外側を右回りに旋回している。

ブタが空を飛んでいる完全な無意味さを愛してるのは誰か?

ニルヴァーナも、もちろん夢の戯れである。
これを知れば、君は、君自身が久遠の人間であり、
君という人間性が、無限少の一細胞であったことに気づく。

もちろん、悟りそれ自身は、霊的中心太陽の光でさえもないし、
また、実在しているとも言えない。

私は誰か?誰かとは誰か?
君という何らかの自覚が、根本無明であり、そして同時に神の戯れそのものだ。
誰が、私とは誰かということを、知りたがっているのか。
永遠を通じて、ただ一度だけの全面的絶望は、君が欲望以外の何ものでもないにもかかわらず、
君自身が、神であるがゆえに起こる。
私が、どのような生き様をしようと、私という何者かは、一回限りの生を生きている。
転生というものは、あるにはあるが、それは、心霊学的なものではない。
いずれにせよ、一度しかない人生なのだ。

—–

俺たちが絶対そのものになったら、絶対って言葉はもう必要なくなっちまう。
だけど実在のひとつ手前がね「菩薩」って言って一番大切な場所なの。
なぜならそれは人間と神とをつなぐものだから。神の子たちの世界だから。

そして・・・いいよ、実在そのものになったやつなんて、全部向こうに任しとけよ。
あんな奴ら、なんの役にも立たないから。オレもなりかねないけど・・・
とにかくなんの役にも立たない。とにかく充足して宇宙の一切と、同時に存在しているだけだ。
で、一番素敵なのはね、生きていて、生きるって言う意味とさ、
生きるものを越えてるっていう意味を同時に持ってるのは、その中間に位置している存在なの。
その人にとって「絶対」があるわけ。絶対の愛の喜びっていうのがある。
絶対の自由の触れ合いっていうのがある。で、それを有想三昧っていうんだ。
無想三昧と有想三昧と分けると。

ラーマクリシュナがまさに嫌ったところっていうのはさ、
実在そのものになってしまうことなの。弟子のヴィヴェーカーナンダに言ってるでしょ?
「お前、絶対ニルヴァーナは経験するな・・・」って。
ニルヴァーナ、無想三昧なんかに入ったってなんの役にも立たない。
だって、それは死ぬことなんだよ。すべてが終わってしまうことなんだ。
完全な死って言ってもいいね。肉体の死でさえない、完全な死だ。
例えばシャカがね、無想三昧っていうのを知ったとき、
説くのを止めてもう死のうと思ったっていう伝説が残ってるでしょ?
つまり全く、それくらい人と関係ないんだ。多くの人と。
おそらく、人間の99パーセントと無関係の話しだよ。いい?
だって人間の99パーセントは何を求める?
深いふれいあいでありさ・・・触れ合いじゃないか?何より。
で、それは物語なんだよ、ひとつの、美しい。触れ合いの世界っていうのは。

—–

そしてシャカの行き着いた世界、つまりニルヴァーナの世界っていうのはね、
触れ合いが全くない世界。それは触れ合わないって意味じゃないよ。
触れ合うことも、触れ合わないこともない世界だ。
始まりも終わりもない世界だ。
でもたいていその世界を知ったとしたら、(そこへ)入る人はほとんどいないだろう。
なぜならその時突然こみ上げてくるから。愛が、慈悲心が。

だってねこの世に物語がなかったら、神はこのマーヤの世界を作る必要はないもん。
いろんなものがあったり、いろんな出会いがあったりさ、合わさったり、
離れたり無数の物語があって・・どうしてそんなことやってる?
神は戯れるのが好きなんだ。

—–

そう まるで いま話していることは一つのたわむれだ
でも この世にはふたつしかない たわむれかたわむれを包んだぜったいか
そして君たちが生きているってこと 君たちの心臓が動くってこと
ひとつのグラスのなかにビールをつげるってこと それは かけがえなくきみたちが
戯れているってことだ それでこの戯れを恐ろしいっておれは言いたいよ
なぜなら ほんとうの戯れってのは おそろしさそのものとぶつかり合った時に
分かるものだから さあ ちっぽけな君から抜け出すんだ
君は何がそんなに怖いんだい? 君はまるでこの宇宙とひとつのように生きればいいんだ
君しかいないせかいに どうして何かが君に害をあたえるようなことがある
さあ、放して 何もかもはなして ときほどくんだ
そして 俺の中に帰っておいで   それは 君の中に帰ることだ

—–

それだけだ それ以外に何もいらない 生きていれば君にふさわしい技術が君に身につくよ
でも 技術だけだったら君はぜんぜん生きた感じがしない
ただ 愛だけが どんな流行歌だって歌っているじゃないか 愛については
愛だけがすべてだ きみは愛なしには一瞬間も生きることあたわずって

俺が天国から降りてくる時 天国にいる元締めの親父さんから言われたよ
おまえ 行って愛せって そして この世でも かの世でも
現われるどのようなものにもよることなく 汝 生きて 愛せ
地上のなにものにもとらわれる事無く

とらわれる必要はないんだ みんな一つながりなんだから

そしたら君はきっといい音楽をうたえる そしたら君はきっといい野菜をつくれる
そしたら君はきっといい自動車整備工になるよ

きみ達は物語を演じている その物語をどんな筋にしようと それは
君たちのもっとも深い思いも自由に委ねられているけど
もし この世という戯れのドラマにテーマがただ一つだけ テーマがあるとしたら
それは愛というテーマだ でも、この愛というテーマに目くじらたてて
そうしなくちゃならないなんて思う必要ないんだよ

愛のテーマっていうのは 既に生きている君のすがたなんだから
きみは生きている この絶対の愛のなかを愛にむかっていきてる。

—–

すべてがニルヴァーナだとしたら なぜニルヴァーナに目覚めるための瞑想修行という
果てしなき苦難の道を歩かねばならぬのか すべてがニルヴァーナだからだ

君は救世主でいる あらゆるものと同じように もし君が救世主でないのなら
君はパン屋にも自動車修理工にも 農夫にも遊び人にもなれはしない

この世には様々な栄光や満足や快楽がある だが人間は ただ遊び人として戯れるのみ

救世主とは君が死んだ君自身のことにほかならない
救世主とは 救済すべき何ものもないことに
目覚めた君自身のことにほかならない

救世主になるための瞑想修行は 余りにもイージーすぎて
渇望と情熱が豊すぎない人達には 迷惑千万、危険きわまりないものとなる

危険とか障害とかは エゴのみにとってのものである
それゆえ現代においては 真実の瞑想は反自然的行為に見られる

いうなれば、君達は、体験ではない体験それ自身を再体験しようとしている

君達こそ あらゆる素晴らしい体験と あらゆる醜悪な体験との
演じ手であると同時にそれ以上のものであるにもかかわらずだ。

プロセスもテクニックなぞもないことを体現している あらゆるあなた達に捧げる

—–

仏界、入りやすし。
魔界、入りがたし。
ここ、入りやすいか、入りにくいか?

—–

すべてはすべてだ。

トートロジー(同語反復)が 思想的には究極の真理になってしまう。
だが、同語反復とは何だろうか?

死の刹那に私は知る―――
人間と称する何ものかの一生とは、一刹那の夢の戯れであったことを。

回わる回わる 回転木馬 まわるまーわーるー かいてんもくば

神の戯れ、私自身の私自身

人生は長いようで短い、なぞと言わないでくれ。
こんな言葉は、
一度も本当に生き切ったことのない バカモノがほざくまっかなドウソだ。

まことにまことに言う、人生はただただ短い。 人生は、ただただ短いというのも まだ妥協だ。

人生と称されている何ものかは 一刹那 無限のいっしゅん

本当のことを言えば、人生なぞないのである。

われもなくうつし世もなく なにもかも なにもかもなしなにもかもなし

—–

クリシュナ イエス・キリスト 釈迦 老子 すさのをのみこと

臨済 道元 ババジ パドマ・サンバヴァ クリシュナムーティー 無為隆彦………

こいつらは、ウジ虫であり、タバコであり、はなくそであり、クソであり、快苦であり、

あなたであり、わたしであり、 神であり、悪魔であり、 太陽であり、月であり、

地球であり、海であり、 砂漠であり、宇宙であり、 オナラであり、ニルヴァーナであり、

新宿の売春婦であり、 すべてのすべてであり、 それ以外である。

そういうわけで、太郎も花子も ミーちゃんもハーちゃんも

この只一人の無限なる私自身というわけだ。

われもなくうつし世もなく なにもかも かみのなかなるかみのたわむれ

—–

何事も、これで終りだということはない。

孤独を、ほとんど絶対的なまでの孤独を感じる時もあり、
すべてを超越して、すべてのすべてである時もある。

私は私だけの私 私はあなただけのあなた 私だよ…… おれだ!

戯れたわむれたはむれ……

恐怖・不安・デカダンス・悲しみ・苦悩
まわる……回転木馬……
ワオ、ワオ、ワオ
たわむれ……

悟り・迷い・シッチャカメッチャカ 秋の虫が、鳴いている。

—–

月並みな言葉だが、ねえ、あんた、愛は愛を愛している。

—–

究極講座 ダンテス・ダイジ テープより。

なまじ、悟り、見性っていうのを幾度かやるとね、かえって普通の人よりもどうしようもなくなる。
「うんとね、瞑想寺院ってのはさ、避難所みたいに考えていいわけ」
もちろん、どういう風に考えてもかまわない。
唯、基本的にはね、それは、あの、社交場でもあるが、ある時期まで社交場でもあり、
何故なら社交って言うのは君たちの精神健康にとって、とても大切な事だ。
君たち余りにもぬけがけしたいと思いすぎるがためにね、人と人との関係さえ満足にできない。だから社交場、大いに必要だ。
唯、その前提は例外が唯一つも無いということ。みんな、同じなんだ。
それさえ分かっていたらとても楽しい社交場になるよ。
ところが君と俺とは違う、俺のが一段階悟りは深い、なんてやりだすからおかしくなる。
俺は恐怖を感じない、君は恐怖を感じているなんて振りをするから、いよいよやりづらくなる。

みんな同じなんだ。一番最後の最後。
すべてが終わった所に到達しない限り、人間はどんな風に上手いことトリックを使って厚い仮面を被ってても皆、同じ穴のムジナだ。
同じだけ不安に悩み、同じだけ内面では恐れ。
そして、その違いといったらさ、上手く内面の不安や恐れをだまかす事が出来るタイプの人間とさ、
それが出来ないタイプの人間との差に過ぎない。

—–

進化が神様といっていい。成長が。成熟が。

そして、そして、一番さいごのカルマを通じてね。自分がほんとにそのカルマにたいして全力をかけたなら。一番最後に至る。神自身に、俺自身に。
その時、すべての答えがそこにある。今まで不可能だった安定と自由の欲求。その二つが同時にそこに在ることがわかる。
しかも、それは絶対の安定であり、絶対の自由だ。つまり、絶対の喜びであり絶対の安心なんだ。
その時、もうどんな方向も君はつくりだす必要がない。

君たち、まともにホントに鏡見てごらん。自分でさえ、ちっとも知っちゃいないってことがわかるさ。知ってるつもりになってるだけだ。
よーく、見てみろ。初めてみるようなもんさ。ほんとにマジで見たら。
「あれ、この人だれだろ」それぐらい神秘なんだよ、君たち一人一人が。
そして宇宙っていうのは、君たちのそういう神秘さと同じだけ、神秘だ。
それは正に一つの、一本の花だ。一本の野の百合だ。
そして、それは花開こうとひとりでに動いている。

よく、誤解するのはね。なにか努力しないでリラックスしたら物がひとりでにさ、整うっていう考えかただ。
それはね、ある成熟の段階ってのを超えたときに言える言葉だ。それ以前は断じて努力だ。断じて自分の誠意をそこにかけなきゃいかん。
じゃなきゃ、ほんとに花開かないで死んじゃうよ。
人間にかかってるんだ、宇宙ってのは。いや人間なんて抽象的だ。きみにかかってる。

が、何れにせよ一番この世の中で大きい出来事っていうのはね、たった一人の人間の中で花が開くってこと。
だが、とにかくこの三十年のうちに君たち、の花を開かせなくてはならない。
で、花が開くって事はね。すべての存在っていうのが存在自身を祝福するっていうか、賛美するっていうこと。
その時、すべてが分かる。すべてが。

—–

唯、肝心な事はね、君がよかれ。より良く、より良く、より良く、っていう気持ちでもっているってことだ。
それはもちろん迷いだ。究極の立場から見れば。が、ね、それ以外に究極まで行き着く方法はないんだ。
「誰でもやはり?」
そう、誰でも、その迷いの中から出発する。
そして、そのよりよくってものを捨てて、うん、もう、問題ないって言ったらね。
それはもう、なにも生まない。淀んで、つまらない、ろくでもないものしかそこには出てこない。花は開かない。

じゃあ、何のために花なんか開く必要があるのか?これには二つのこたえがある。
もちろん、花なんか開く必要がないよって君たちが朗らかに言えるとしたら、君たちは花が開いているんだ。
が、何か理屈ぶって「花なんか開く必要ねえじゃねえか」、って言うんだったらね。
君たちはさ、まさに花を開く一過程としてその経験をしているとしか言えない。
なぜなら、君たちに宇宙があるんじゃないんだ。君たちにこのもの。名づけようもない、このもの。
この全体があるんじゃないんだ。
この名づけようもないすべてというのが君たちを在らしめているんだ。

—–

ほんとうに勝手にしてみろよ。
君たちがさ、ほんとうに大丈夫だから。
ああ、神なんだよ。神。分かる?神。
あの神様って言ってるだろ、色んな教会かなんかで、あそこに祭ってある全てであり、それを超えたものだよ。
ひとりひとりが。
ほんとに勝手にやってくれよ、ほんとに開いてみろよ。自分を。
そしたら分かるさ。何をオドオドするんだ。勝手に自分で造り上げるな。
ほんとに開いてみたらばさ、そしたらわかるよ。
無理しないで、全然無理がなく、自分の好きな事を自然にできるよ。
まるで一番静かな流れのように、豊かな流れのように。

どんなに人間っていうのがね、鏡、鏡っていうことに騙されるか分からない。
つまり勝手になにか自分でさ、縛るものがあると思い込むんだ。

だけど、どっちにしてもさ、一番自分のすきなものを選べるって事さ。
そして好きなものを選ぶって事はね、あらゆるものを背負うことになるけど。
だけど、ほんとに好きなものを選んでいる時はさ、背負ってるって意識がね。
普通の背負ってるっていうかたちではない。

—–

最も学ぶべきことは それを君は最もうまく 生きたり教えたりできる

学習者として実行者として教育者として以外に救世主はあり得ない

君の行為や表現が 世に公表されたとしても 決して恥じてはならない 例え公表されたものが真実でないとしても決して恥じてはならない

世の人々が 君を自分勝手な奴だと非難したとしても 君が本当に好きなことをしたのであれば
本物の救世主である 君は自分に忠実に生きること以外に生きることはできない

—–

瞑想とは、全次元と絶対的非在との、最終的結末であり、

それと同時に、その中間であり出発点である。

それゆえに、人類の全努力は、

純粋瞑想に打ち込むための余暇を作ることにある。

人生と存在との根本的疑問なしで、公案禅を修行するのは、愚かさ以外の何ものでもない。
公案とは、あなたから自発的絶望として出て来るものであって、
いかなる覚者も、あなたに公案を作り出して上げることはできない。

—–

光が神の霊的ヴィジョンであり、
あらゆる霊的存在次元の諸形相は、光と闇との多様多元な結合による
あらゆる種類のリアリティーにすぎない。

例えば、霊的中心太陽は一つの実在であり、この現象世界は、その最も外側を右回りに旋回している。

もし霊的中心太陽を、大日如来の中心としてとらえるならば、十の次元を見下ろすことができる。

霊的中心太陽とその最も下層に属するこの世との間にいわゆる神霊界が実在する。
したがって、神霊界が、この世の原型であるという言いかたもできる。

もちろん、悟りそれ自身は、霊的中心太陽の光でさえもないし、また、実在しているとも言えない。

ニルヴァーナとは不二一元でさえもない。
神とは、ニルヴァーナの中なるマーヤの流出源にすぎない。

ブタが空を飛んでいる。完全な無意味さを愛しているのは誰か?

私は誰か?誰かとは誰か?

—–

体験という用語を使うのなら

とにかく、ニルヴァーナは体験した方がいい。

なぜなら、一切生類は、ニルヴァーナから生まれ、ニルヴァーナを再体験するためにあらしめられているからだ。

もっとも、体験されたニルヴァーナは、ニルヴァーナではない。

いとし子よ、どのように過酷で冷たい冬も、初春を迎える時が必ずくる。
ただし、
君が、あくまでも正しく生き続けた場合には。これがヨブ記の単純な答えである。

正しく生きるとは、君が正しいと思った、
観念や信念やイデオロギーを生きることではない。
まちがったと思った時に、ただちに、そのまちがいを認めることである。

初心者にとって、

瞑想とは、永遠をかけた全面的努力である。

そして、純粋瞑想が開示されるのは、時節が熟した、ほんの一刹那の瞬間。

君という欲望は、結局、一つのものしか求めてはいない。
それゆえ、君とは、苦そのものに他ならない。

この世の出来事は、それが、どのように長い時間に思えても、一刹那にすぎない。
あの世の出来事についても同じである。

霊界の中心太陽とは、創造の光の発出源にすぎない。
個生命体達は、顕界と霊界とに交互に転生しながら、
果てしない旅の途上のどこかで、中心太陽へ飲み込まれていく。

—–

すっかり疲れ果てたように 男が眠っている
かすかな笑いが顔に浮かぶ
――私はとうとう 喜怒哀楽の悪夢から醒めたぞ
男はそう夢見ていたのだ

すずめが鳴いている 久遠の夢がすずめとなって鳴いている

あの清澄な歓びである解脱 それへの求め

人間を超越し去った三昧 三昧を修しいかんとする心
結局それらも夢であるだけだ 人生は死ねば醒める夢ではない 死んでも醒めることのない夢である
生は夢である 死は夢である
もし夢以外のどこかに 現実というものがあるとしたら それもまた夢であるにすぎない
限りないという夢があり 永遠に続くという夢がある 根も葉もない夢である 夢も所詮は夢である

すずめが鳴いている もはや人間も死もなく 久遠の夢が すずめとなって鳴いている

喜怒哀楽の夢を見るという夢があり 夢から醒めるという夢がある

すずめが鳴いている 久遠の夢が すずめとなって鳴いている

—–

哄笑

不幸なもの 深刻なものには
滑稽がともなう
たとえそれがいかに
人間そのものの深みに根ざした
言語を絶する不幸であろうと
虫のよい人間という生きものは
やはり滑稽ではないか
私はその人間不幸の滑稽を笑う
高らかな哄笑を愛する

—–

死は克服すべきものでもない
死は死ぬものだ

つぼみはどうして花開かねばならぬのか
つぼみはつぼみでいいではないか
それでもつぼみは
花開こうと苦しむ

波の音が聞える
この波の音は私しか知らない
やがて誰も知らなくなるだろう

—–

私はクリシュナ
この現象宇宙そのものの化身 生成流転という愛の幻力の子
私は果てることなき世界とともに 永遠に遊び戯れるもの
私の微笑は 傷つき倒れた兵士の中に歓喜の光を与え
神を呼び叫ぶ苦行者の孤独の中に 大宇宙そのものの愛となって現われる
私の遊戯三昧は
あらゆる戦いと修行のいばらの道を 一瞬に光り輝く大道と化せしめ
ヴィシュヌ=マーヤーの遊戯は その無限救済も意識することなく
いつまでもいつまでも 果てることなき大生命とともに くり広げられる
私は抱くともなく ブリンダーヴァンの森で 牧女達に愛撫を与え
その甘美な愛撫は いつしか肉体と世界を超える
牛飼いである私は 牛を生命そのものの安心で包み
戦士となった私は 言語不倒の脅威となって あらゆる恐怖と不安を粉砕する
サニヤーシンと聖者達すべては 私の手足であることの至福に 自己と宇宙を忘れ
時空物の三元の無い私自身は 時空物という果て無き華を
戯れに咲き乱れさせ 戯れに私の胸の中へ 吸い込み憩わせる
それでも私は一人のクリシュナにすぎない
鹿と間違えられ獲師の矢に死んでも 私の遊戯は尽きることがない
私はクリシュナ
私は私のクリシュナの道を生きる以外になく
そしてサニヤーシンの道も
社会人の道も私は生きる以外にない
私はクリシュナであり
私は私の大宇宙の
化身である他はないのだから

—–

悲しみについて

鳥が天を飛んでゆく

あれは悲しみなのだろうか
しかし鳥は飛ぼうとせずに飛び
花は開こうとせずに開いている

草は芽吹こうとせずに芽吹き
石ころはころがろうとせずにころがっている

人の子は生きようとせずに生き
その悲しみを悲しもうと思ったことはない

—–

瞑想十字マップ狂言

空間的進化とは、あなたが神へ回帰していくプロセスの非空間的狂言である。

時間的進化とは、神の七つの身心の非時間的な歴史の遊戯である。

ところで、ニルヴァーナの概念的理解によって、
あなたが、
ニルヴァーナであることに気づくはずはないのだから、
私は空間的進化の概念についてだけ、
狂言すればよい。

あなたの空間的進化とは、
そのまま非時空連続的な深化であり、
単純に言えば、坐禅あるいはクンダリニー・ヨーガの修行のことである。

—–

ステップ1・有想定
仏教なんぞでいう欲界定と四色禅定のこと。
単純に言えば、平静さ・さわやかさ・注意深さ・やわらかさ・歓び・直感・幸福感・清らかさ・安心感・静けさ・力強さなどなどが、
ある調和した身心として生じているということ。
低級あるいは、ポピュラーな神通力なんぞは、欲定界あたりで起こり得る。

ステップ2・無想定
仏教なんぞで言うところの四無色禅定のこと。
すなわち、
空無辺処定・・・限りない広がりがあるという意識。
諸無辺処定・・・あらゆるものが限りない広がりにあるという意識。
無所有処定・・・何もかもがないという意識。
非想非非想処定・・・何もかもがないという意識もないという状態・

スッテプ1・有想定と、スッテプ2・無想定とは、あなたが修行することによって体験する事ができる。
しかし、有相三昧と無相三昧は、あなたの体験ではない。
単純に言えば、三昧とは、そこに絶対者の 七つの顔・七つの次元・七つの宇宙、七つの絶対、七つの全体、七つの瞑想が、瞑想している、
あるいは、瞑想していないという、そのことであり、このことである。

—–

したがって、あなたが、もともと、ありもしないことにより、

非ステップ3・有相三昧
絶対者が絶対者だ。絶対者があなただ。全体が全体に目覚めている。全体があなただ。
絶対者が絶対の力だ。この絶対とは絶対に絶対なのである。
絶対の意志は、全体の生命だ。絶対の情熱は、全体の至福だ。
絶対の愛は、全体の慈悲だ。絶対の調和は、全体の自由だ。
絶対の智恵は、全体の覚醒だ。
一切万象、多様次元自身が、目覚めている。

非ステップ4・無相三昧
闇の夜に鳴かぬカラスもない。父母未生以前の本来の面目もない。
仏教なんぞの滅尽定でもない。禅なんぞの無でもない。
隻手の音声なんぞ夢のまた夢。ヨーガの解脱なんぞでもない。
いわゆる概念的には、ニルヴァーナのことだが、真のニルヴァーナは、いかなる概念内容も持っていない。

これは、完全に生きている。これは、完全に死んでいる。これは、生きても死んでもいない。
これは、初めであり中間であり終わりである。
これは、初めも中間も終わりもない。

—–

ここまで来たら、ついでに、時間と空簡に分割できぬ、神との非時間的な歴史的進化についても、狂言しよう。

アトランテス密教・アメンティー・タントリズムでは、アトランテス文明を人類の初めとする。
したがって、人類進化の周期は、第三周期から第九周期までの、七つのステップを持ち、第十周期は、新しい鳥の、第一周期となる。

第三周期
力とは肉欲のことであり、肉欲とは、根本無明の渇望のことである。
力の鳥とは何かを求めて鳴く。
(肉体は肉体を求めて行為する。)

第四周期
意志とは生命意志のことである。生命とは意欲のことである。
生命の鳥はあたりまえに鳴く。
(それゆえ、汝は世界を生きる。)

第五周期
情熱とは権力欲のことである。権力欲は愛憎を通過して、愛情に変容する可能性を持つ。
情熱の鳥は甘美に鳴くが、今や激しく叫ぶ。
(叫びは、一つの産みの苦しみだ。)

第六周期
愛とは、あなたさえも含んだあらゆるものである。愛の鳥は石ころの微笑だ。
いつまでも、あなたの死を待っている。
(神は悪魔とファックしている。)

—–

第七周期
調和とは、本当の自由だ。自由とは、闇の夜のカラス。
自由のカラスは恐ろしい静寂の中で、大声で笑って世界をくだく。
(沈んだ大地を嘆く鳴かれ。)

第八周期
智恵とは、無限の光だ。無限の光は、無限の直感だ。
智恵のイーグルは、柔和なるハトに変容としようとしていて、すべての終わりを慈しむ。
(終息とは、何か新しいものへの予感だ。)

第九周期
もともと語るべき鳥はいない。
(何と多くの鳥達が戯れていることか!)

第十周期
サイクル・クンダリニー・ニルヴァーナ・マーヤー、果てしなき空即是色。
(限りなき空の中に、新しい鳥が、密かに降りて来る。)

浮世狂言は語られ続けている。
あの世狂言も語られ続けている。
あらゆる時と場に、
まるで、
狂言ではないかのように。
いくたびとなく…
いくたびとなく…

—–

さて、狂言まわしは、このぐらいにして、私達人類の緊急課題をここに提示する。
それは、いかにして戦争をなくして、平和を得るかではない。政治経済の混乱でも、
人間性の超管理下や堕落の問題でもない。エネルギーや公害の問題でもない。
人類の最終目的や意味や価値の発見でもない。現代物質科学文明の崩壊でもない。
それらは、症状であって、病因そのものではない。それ以前の根本原因が、
人間の内にあることの結果にすぎない。
私達人類全員は、この私という根本原因を、何よりも先に、探求せねばならない。

私とは何なのか? 私の死とは何なのか? 私の生とは何なのか?
この究明はいかなる観点を持ってしても解答を出すことはできない。
あらゆる観点と立場が、すでに、私という欲望の混乱だからである。
にもかかわらず、私の正体を開示しない限り、私達人類は、とめどもない混乱と
崩壊の中に悲惨な死滅を死滅するだろう。
私達は、何はさておき、私自身というこの根本前提の暗黙の了解を否定して、
私とは何かを、まったく新しく究明し直さねばならないのである。
これが、この終末の時代の全人類的な最重要問題なのだ。
私の正体を見破り、神に目覚めるのだ。

こころみに問う。
欲望とは何か?
人間とは何か?

これは、哲学的あるいは宗教的あるいは、どうのような一定の立場の命題にも
なり得ない。

—–

今やプラトン周期約二万五千年の内の半周期約一万二千年の下降サイクルが終わろうとしている。
キリスト教黙示的に言えば、至福七千年期の始まりに到達できるかという時節である。
真の占星学は、クンダリニー・ヨーガの完成なくしてはありえない。
それゆえ、本当の占星学はアトランテス文明のアメンティー・タントリズムの中に包含されていた。

それはともかくとして、いずれにせよ、西暦二千年前後に、双魚宮の時代は、
宝瓶宮の時代へ完全に移行することは、現代の占星術師達の共通見解であろう。

願わくば、アクエアリースへの終末と新生とが成ぜんことを・・・・

—–

すべてに対する全面信頼、それが瞑想の出発点であり帰着点である。

おお、限りなく愛しいマーヤよ!六道のつじよ!  さよなら・・・・

すべては、あなたのためにあるのではない。

君が今、どのような状態でいようと、この今を愛は、考えられないくらい愛している。

『一番楽な方法とったらいい』

『力むな』    『素直であれ』

『うん、そう。本当に分かってるものはね、人間ではなくてね、命だ。命だけは永遠に分かってる』

もし、あなたが、どんなものにも納得を見出せないということが確実になったならば、
私のもとに本当に素直に帰ってきてください。

あなたに真実の出会いが
       起こりますように

—–

おめでとう 君は 君自身の旅を終わらせた
おめでとう 君は 君自身の旅を始めた
おめでとう 君は 今・ここで 絶対の終りと絶対の始まりとを見破った

さようなら君自身 さようなら君自身の旅

さあ、今でいいんだよ、いま、うん、いま自由でいいんだ。
そしてその自由の中をね、さらに自由を求めて生きていくっていうのが人間の戯れなの、この宇宙の戯れなんだ。
そんなカタイこと言うなよ。
今、自由なんだ。自由だからこそ君は精一杯生きることが出来るんだ。

とらわれる必要はないんだ みんな一つながりなんだから

愛のテーマっていうのは 既に生きている君のすがたなんだから
きみは生きている この絶対の愛のなかを愛にむかっていきてる。

神秘が今ここに歩いている  神秘が今ここに坐っている

私が対象を探すのが不安であり、対象を聞かせてもらうのが愛である

人間が 人間のものではない人間性を自覚する途上において 言葉は無効だなどと
今さらとやかく言うにはおよばぬ 人類すべてが すでに求道者としてしかありえぬ 時節に入って久しい
ことばとは実体験とは別のものだと 言いたい人は言えばいいし そのように生きたらいい

この現在の 様々な姿をとった求道者達にとっては 言葉は一輪の野の花であり
瞑想体験の一つともなる どんなことも結局は あなた次第なのだから。

—–

この本は、
今や死のうとしている君と
今や死んでいる私との
果てしない果てしない果てしない戯れである。

そして君は冥想を決して止めてはならないし、
君が冥想を止めることはできないのだ。

この本は、私という存在もしない夢幻
が雲をつかむようなあなたに、
法悦の酔いのなかで書かれた。
「カキクドキ」の文句の集まりである。

あなたは、魂のどん底から、この世とあの世を楽しみたいと思わないか?
だとしたら、あなたは”あなた”という乞食を、
私は”私”という乞食を捨て去らねばならない。
そして、あなたと私は、乞食以下の乞食になるのだ!!!

—–それが冥想である
—–これが冥想の戯れである。

ねえ、あなた、
あなたという たった一人のあなたを死んでください。

—–

帰っておいで

自分が存在しているという世界の存在は 結局あらゆるものに 悪意をもっている

新宿駅で飛び込み自殺があった 係員がレールのあちこちに散った 肉体のかけらをひろっていた

人間は無限のかけらにすぎない・・・
これが最もごうまんなる人間の 至高のセンチメンタル・エゴイズムだ

人間は無限なるものの一部にすぎない・・・ かけらと一部とは似たようなものだが
貝とコカコーラ程の違いがある たいした違いじゃないけれどね・・・

人間は無限なるものの一部に過ぎない・・・
これが 人間性の究極の深遠である
これが人間の魂の基調音である これが人間にしての最初にして最後の美
あるいは人間性そのものという何ものか

君は果てしなきものの一部にすぎぬ
だから 果てしなきものに帰るがいい!
もっとも、その頃には、君という人間性の夢も 夢の中へ跡形もなく消え去っている

とにかく どういうわけか、超えていくのさ 超えていくんだ
石を超え 山を越え 彼女を越え いとしい娘子を越え スモッグを越え 文明を越え
ニルヴァーナを越え 越えることを越え・・・

そして 帰っておいで  今 ここに

—–

タオ

これは絶対でも相対でもない 流れているわけでもないし 久遠の静寂というわけでもなし

これはこれだろうあれはあれなんだ

静かじゃないかい・・・うれしいじゃないか 哀しくもあるしね
もちろん 恐ろしくもありんす

みんな生きてる なにもかも死ぬ

そんなにツッパルなよ! もっともっとどうしようもなく、ツッパレ、ツッパレ、ツッパレ!!

無が有を産んだのだろうか? 有が無をあらしめたのだろうか?
それとも、無と有が同時にからまっているのか?

ニルヴァーナが真実なのだろうか?マーヤが真実なんだろうか?
それとも、
ニルヴァーナもマーヤも真実なのか?
それじゃなきゃ、
ニルヴァーナもマーヤもありもしないのか?

いいじゃないか?
断じてよくない!!
いいじゃないか!
いいやだめだ!!
・・・・・・・・

秋の虫たちが鳴いているよ・・・

—–

パラノイア

パラノイアはおもしろい 私たち人間は、みんなパラノイアだ。

欲望が標テキを仮作する 人間コメディーの幕が上がった

果てしなき流れは終りがない 無限の大海のまっただ中にいるのも知らずに

そこで物語が尽きることなく演じられているというわけだ

大いなるマーヤ・・・ 甘美なる欲念相続・・・ 不可思議な神の遊び 不可知な神の戯れ・・・

さあ、さあ、物語はすでに進行してるんですぜ!
この演技の唯一の観客は、神様ただ一人
あの、ニンマリと微笑を浮かべた   あいつだ!

だが、あいつもまた 一人ぼっちの役者に過ぎないかもね・・・

夢を夢と見るも夢
 夢を夢なる夢のまた夢・・・・・・・・

三神歌―――
われもなくうつし世もなくなにもかも
 夢の中なる夢のたわむれ

われもなくうつし世もなくなにもかも
 神の中なる神のあらわれ

われもなくうつし世もなくなにもかも
 なにもかもなしなにもかもなし

—–

一刹那の戯れ

一刹那を戯れなさい。
次の刹那なぞありはしないのだから!

これは、刹那主義ではない。
刹那主義という、永遠の欲求不満のトリックではない。

一刹那の戯れとは、
夢にだに見ることのできぬ、あなた自身のことだ…

あなたは、恐怖を怖れてはならない。
あなたは、あなた自身を恐怖してはならない。

—–

サッパリわからん

おれは、死のトリックを見抜いたぞ!

死は闇でも光でもなかった…  悟りでも迷いでもなかった…

死は、生でも死でもなかった… 快楽でも苦痛でもなかった…

ニルヴァーナでもマーヤーでもなかった…

死は死ではなかった。
それは、考えられないほど素敵で
想像することもできないほど邪悪な時のない久遠の戯れだった。

おれは、すべてを見抜いたぞ!

けれども、おれは、何が何だかサッパリわかりはしない…

ああ、おれが、おれになった刹那よ!

われもなくうつし世もなくなにもかも
 夢の中なる夢のたわむれ

われもなくうつし世もなくなにもかも
 神の中なる神のあらわれ

われもなくうつし世もなくなにもかも
 なにもかもなしなにもかもなし

サッパリわからん!

—–

何と人間らしいことか

人間を超えようとする
意味づけることのできぬ永劫の情熱
それがいつ人間性の極限をもつき破って
無時間の神秘を実在せしめたのかは
誰も知ることがない
死を初めから超えていた情熱が
すべてを忘れた炎となって燃える
一つぶの雨滴にもかじりついて号泣し
そしてまた泥沼の中に浸り切る
もう時間も現象も神秘さえもいらない
いのちが いのちの中に完結している
完結をも忘れて
何と人間らしいことか
何と人間らしいことか

—–

窮鼠

猫でなくてよい

大きな力を持った猫でなくてよい

鼠でいいと思う

ただ窮鼠でありたい

あの窮鼠の捨て身でありたい

あのどたん場の自己を忘れ果てた
真剣さでありたい

もう猫をかむかどうかを

問う必要もない

—–

虚しさを見切った人

芸者であろうが売春婦だろうが
殺人狂だろうが聖者だろうが乞食だろうがサラリーマンであろうが
この人間世界のあるがままを見切った人達のその深く静かな眸が美しい

釈迦の酒飲み修行は
人間と人間世界とを忘れ切ったところから始まり
誰を見ても神様に見えるほど
へべれけに酔いつぶれて終わった

—–

私とは誰か?すべてが私だ。すべてとは何か?
「何か?」とは何か?これ何者ぞ?

一つの時が満ちた時、なにもかもが、得体の知れぬものと化す。
それはもはや、恐怖でさえない。

七つのチャクラを通過し、七つのローカを通過したとしても、
禅の十牛図をたどり尽くしたとしても、それが、すべてではない。

誰が、私とは誰かということを、知りたがっているのか?

君が君自身を手に入れることは、絶対に不可能だ。

純粋瞑想とは果てしなき修行であり、限りなき戯れである。

言葉を言葉として聞けば言葉にしかならない。

神は恐怖で失神するほどの、ジョークやトリックやアイロニーが好きだ。
だから神は悪魔でもある。この戯れ自身が、自分自身に目覚めること、
それを、解脱・大悟・ニルヴァーナなどと名づけているらしい。

如何にして煩悩世界を尽滅させるか?如何にして愛であり続けるか?
如何にして自我を死ぬか?如何にして解脱を得るか?
これが
君たちの学んでいるオカシナ・テクニックであり、
君たちの遊んでいるオカシナ・トリックである。

—–

大悟

見性とはなにもかもいいんだ!という、理解ではない。
見性は、なにもかもよい!というそのことだ。

大悟にはいい! いやだもない。
なにしろ大悟には悟りも迷いもありはしない。

だが、今のところ、
心の底から本当に愛着できる
何ものかが欲しい…

悟りなぞと、つっぱらないのがいい。

—–

悟りのテクニシャン

私は宇宙のカラクリを見抜くテクニシャン。
すべての道術家がそうであるように
私はこのテクニックに、すべてをかけているつもりだ。

そして
すべての答え——
私自身の愛と全知全能とをいくたびか知り
そして、それと合一した。

が、
私は何も知らない。
尾テイ骨が痛むように・・・

—–
 174    神も仏も名無しさん 2010/05/25(火) 22:31:12 ID:Vvi0S4XM

私の歌をわかってくれた
たった一人のマーヤ。
求めて尽きることのない情熱よ。

しなやかな美しさを秘めた
おまえ——私自身よ。

私は神秘な恋の囚人だ。
牢獄は、私自身。
おお、マーヤよ。マーヤよ。

帰しておくれ
おまえの何ものかのもとへ。
今や、私の情熱は尽きんやもしれぬ!?

—–

感情とそれからにじみ出す想像力は、欲望として以外にありえぬ個生命——人間にとって実に巨大な力を与えていた。
アトランティス文明の黄金時代は、人類の感情・想像・記憶を司るアストラルパワーの開拓の時だといってよい。
自我意識、合理的理性が今だ発達していないアトランテス人種は、合理的科学法則とは合理的科学法則とは
まったく異質の多くの夢を現実化することができた。
しかし、人類の進化は、そこでとどまることを許さない。
あらゆる個生命は、欲念を原動力として流動転変せざるを得ないからである。
欲念相続には、完全満足なる到達点はあり得ないことはいうまでもないだろう。

欲望は欲望を尽滅させるために欲望としてある。欲望は、充足と苦悩というゲームの作り手なのだ。

現代西洋文明の合理的理性から見た仮説としての人間観からの人間進化を位置づけてみよう。

そうするとレムリア人種は、意欲人間、アトランテス人種は、感情人間、現代西洋人種は、知性人間ということになろう。
現代西洋人種とは、地理上の西洋、東洋を意味するのではなく、紀元前三一ニ年以後の人類全体のことである。

—–

現代西洋工業都市文明の私達人類は、知性を中心として人間性の統合を果たさなければならない。
ウサンクサイ、まやかしのオカルティズムや単純な自然回帰という退行的願望や、
センチメンタルな意味での愛情や友情やカウンター・カルチャーなどに逃げ込むことなぞできはしないのだ。

だからこう言える、20世紀末の現代人は、その知性ゆえに誰も彼も死のやすらぎを願っているのだと。
これは決して異論ではない。花が花としての限界に来た時、実が出てこざるをえない。
それは花にとっての絶体絶命の闇である以外になく、実にとっては新しい未知なる実への第一歩なのだ。

もっとも、知性・理性・自我の虚無ゆえに肉体的な意味で死んだとしても、そこに、ほんとうのやすらぎなぞありはしない。
それは肉体的に死んでみたら納得できることだろう。

どうやら、欲望相続としての現代人類は、知性理性を「智慧」にまで進化させ全人的統合を
果たさねばならぬらしい。
それも、いかなるルールも保証もなしで・・・
私は私に直面しよう、知性を英知に変容せしめる『何ものか』を。
あなたはあなたに直面しよう、理性を知恵に変容せしめるサムシングを。

なぜなら 欲望の遊戯に終りはないだろうから
なぜなら マーヤのゲームに果てはないだろうから

—–

パンドラの箱

パンドラの箱は あけないにこしたことはない 智慧の樹の実は 食べないにこしたほうがいい
けれども どうゆうわけか種子は花開き果実になってゆく そうなって行くそのままにまかす以外ないじゃないか

何と完全なんだろう!

見知らぬ未知に飛び込むのは本当に恐ろしいことだ
そしてそれよりもっと恐ろしいことは君がすでに未知だということだ
私はなにも知らないとも言えまい 何と完全なんだろう!

—–

過ぎ去る夢の夢よ・・・

楽しみが一ミリもない時はどうしたらいいのか?

何もかもがわからないということに気づいたときはどうしたらいいのか?

私はそうである以外にない。

何もかもが全く見知らぬものと化す。不安は意味もないのに不安と感じられる。

重苦しい今の夢よ・・・  過ぎ去る夢の夢よ・・・

なにもかもいいんだよ

マーヤとは無常を内に秘めた 甘美なるものへのたんできだ

なにもかもがないと知ったら なにもかもが輝いている 底知れぬ闇さえも光り輝く

ああ、生命力よ!情熱よ!あこがれよ!クンダリニーよ!マハー・マーヤよ!

なにもかもいいんだよ・・・

—–

決して情熱をやめないこと

情熱なんぞどうでもいいなぞとカタイことをいわないでくれたまえ

何ものかへの情熱こそ世界を世界にしているのだから

君はあらゆるものとともに死ぬ

君も世界も

もともとありもしないここに
あらゆるものが戯れている

いうなれば君達は体験でない体験
それ自身を再体験しようとしている

—–

ここに、グルにして戦士なるよき家庭教師クリシュナが王子アルジュナに語った言葉をバガヴァット・ギターから引用してみよう。

恐れるな、アルジュナよ
戦え、アルジュナよ
殺せ、アルジュナよ
人間の本性は
決して生まれも死にもしない

人々がいかなる方法で
私を求めようと
私はその願いに答える
人の旅するいかなる道も
すべて私の道だ
どこを歩いたとしても
すべては
私に帰ってくる

そのとおり。
トスといいダンティスといいクリシュナといいアルジュナというも、皆あなた自身のことなのである。

—–

本性を 忘れた人間は、
決して 本性を忘れ果てはしない
しかし、本性に帰るには、いのちがけの行為が必要であり、
そこには、人間の苦はもうない。
生きることが 耐えることだとあきらめのつく人はそれでいい。

だが、完全を絶対至福を求めざるをえないほど
苦悩している人には、自己と世界を捨てて
そこに至る道すじがある。

だが、その完全なる知恵と愛のやすらぎとは、
現代人にとっては、危険きわまりないものになったようだ。

自殺もまた完全なるやすらぎへのあこがれなのだろう。
人類よ 気づけ!

ありがとう すべての ありとしあらゆるものよ・・・

—–

黒は白なのだ

黒を白と言いくるめる そうすると黒は間違いなく白だ
これが人間世界という狂気ありさまである

それは暗示とかイメージとかのことではない
潜在想念界のトリックのことでもない
ただ 黒と白が別れる以前からの 断言にすぎない
夢、気の持ちようだだとか 信念の力だなぞと考えるなかれ

夢でしかない世界は黒は白なのだ

されば、汝、人間よ、
進め、進め!
限りない黒と白と混沌の中を・・・

ところで・・・黒でも白でもいいじゃないか

—–

かのように・・・

あらゆるものは そうなる以外ないかのように生々変化する。

そうなってゆくそのままで完全にいいのだ。

不安や苦痛や恐怖でさえ神の中なる神の戯れ。

それでよくない!と言ったところで、ストーブの上のヤカンのお湯はうなっている。

欲念相続

悟りへの修行
これもまた他のあらゆる人間営為と同様に
欲望の一形式であり、したがって、欲望のあるところに苦しみがあるのは、当然である。

解脱への修行は

他の一切の人間の欲念の戦いと変わることなく、苦あれば楽ありである。

ああ、それにしても、余りの戯れよ!夢よ!

セイナルものという夢

本ものもニセものもない。
あなたがたは、聖なるものという夢を見ている。
絶対に信じられないほどの聖なる体験はある。
だが、
聖なるものなぞどこにもない!

—–

一つの夢が終わり
新しい夢が始まっているはずだが
悟りが夢であるように
私には何一つ
つかまえるものが見えない

私の眼がくもってしまったのか
新鮮な何かを私は
なおかつ、待ち続ける

神よ、
「何もかもなし」それ自身よ、
悟りが夢であったように
私という夢をことごとく

あなたの中へ消し去りたまえ

神よ「なにもかもなし」それ自身よ、
私自身よ

—–

メシアン・ハンドブックの序言

アメンティーに近づけば近づくほど、あなたにとっての現象宇宙は、深い闇に包まれていく。
あなたが存在すると妄信している現象宇宙は、仮象にすぎないからである。
あなたの見ている現象宇宙が希薄になればなるほど、絶対そのもなるアメンティーの光明が、あなたを包む。
そのアメンティーの光明の中に、すべての答えならぬ答えが実在している。

私の言葉は、あなたの知的理解を求めてはいない。どのような崇高な教説も、結局はあなた自身の全生命をかけた霊的な解説によるものだ。
この「救世主入門(メシアン・ハンドブック)」という小冊子は、まだるっこしい逆説に満ちていると感じるかもしれない。
だが、私は、あなたの気やすめのためにいるのではない。

たぶん、この小冊子を読んで曲解や自分勝手な誤解をする人々が出てくるであろう。
だが、それは、どのように厳密に表現された教説についても言えることだ。

ここに書かれた言葉は、それがどのような印象をあなたに与えようと、「愛」そのものの自然な表現にほかならない。

私は、二元対立の人間性を決して肯定しない。「救世主入門(メシアン・ハンドブック)」の言葉のすべてはことごとく絶対愛なるあなたを示しているのだ。

このアトランティスの黄金文明の終末も近い。しかし、あなたの寿命が永遠だろうと一刹那だろうと、それはどうでもいいことだ。
あなたは、古い束縛多き人間性の非存在を知って、まったく新しい愛と自由の人間として甦るのだ。

—–

現在のアトランティスは、トウラスの周期にあり、そして、あとすこしで崩壊しようとしている。
次の人類の華は、アクェアリスの時代の終りに起こるであろう。それは、この地球精神の周期的な絶頂期の最大のものになろう。

真の黄金文明とは、その外見的繁栄のことではない。すべてのものが、「愛」の流れの中で調和している世界をこそ黄金文明と呼ぶ。

「愛」なくして万物万象は、一瞬も生きるあたわずである。

このアトランティス文明末期のように、精神物理エネルギーの誤用による崩壊のにのまいを踏まぬことを祈るばかりだ。

「救世主入門(メシアン・ハンドブック)」は、新しい黄金文明の種まきであり、
そして、何よりもあなたというかけがいのない一つの個性が、
十全にこの世とかの世とをおおらかに戯れるために書いたものであり、
そしてまた何よりも、私自身の果てしない遊びである。

さあ、神を戯れよう。

—–

「一つの教えは、その時その人に応じてしかあり得ない。どのような神秘不可思議な教えも結局、愛と自由の自己確認につきるんだ。
君が秘密結社のようなものを作って支配欲という不安にかられた時は、思い出して欲しい
君が一番身近な愛をどんなにも忘れてしまったかを。君は元々愛の救世主としてこの世に生きている
そして、愛と自由とは君の思い込んでいる人間性の中にはない
君が救世主であるということは、君の永遠の自己訓練としてのみあり得る
あるがままのすべては救世主だが、あるがままである自己訓練ほど、君にとって恐ろしいものはない
それは、君のすべてを必要とするからだ。
君は君の全てを解放することによってのみ永遠の自己訓練つまり久遠の戯れと戯れることができる
死ぬことは最も恐ろしいことだ。でも君、死になさい」

そしてもう一度思い出そう。『救世主入門』の最後の章句を。
これは君だけに語りかけている。『完全』は、君以外の誰にも代わってもらうことはできないのだから。

「この本に書かれていることほど無責任なことはない。
この本に書かれていることを信じない方がいい
書かれていることはすべて逆の意味かもしれないから」

—–

「私の知人に悟り薬を作ってる人がいた。
一粒飲めばたちどころに悟りを開くというわけだ。
ところでその完成した悟り薬を飲んだ連中の言うことには、三日間とても素敵なんだそうだ。
ところが三日過ぎれば元の木阿弥とあいなる次第。
知の宮のある科学者は宇宙意識と合一して超人化するための、最もイージーなテクニックを組織的に研究している。
全く人間という夢は、夢ゆえに何でも夢見るらしい。
私の超人仲間であるケイルーンのよく言う言葉を思い出す。
『君にとって簡単に見えるものが困難のはじまりである。君を死滅させるほどの難しさが、簡単のはじまりなのである』
確かに超人達はイージーそのものだ。
しかし、イージーそのものはあなたに属するものにはない。
安楽な戯れは、あなたが元々ありもしないここにある。
私が出版した『救世主入門』を読んで、『自分こそ三歩先を行く精神だ』などと妄想する人々が出だしたようだ。
このアトランティス文明も長くはない。

あなたの肉体も意識も、あなたの宇宙も宇宙意識も
あなたの記憶ビジョンも神秘知覚も、もういい。
あなたの何かなど、もうどうでもいいのだ。

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それより戯れよう。
三歩先を行く精神の中を、私であるあなたが、愛を戯れている。
三歩先を三歩先を行く精神もへったくれもありはしないのではないか。
言葉は、瞑想行法や、密教学や、精神変容剤や畑を耕すこと、パンを焼くことと同様に、
宇宙意識なる本来の自己を自覚するのに役立ちはしない。
だが、今更言葉の無効性をとやかく言うには及ばない。
人類の全てが求道者としてしかありえぬ時節にはいって久しい。
ここに言葉は、一輪の野の花や、最愛の者の死や極限の情況と同じだけ、宇宙意識を開示せしめる火花となる。
あなたはどうなのか?
言葉が夢の中での戯れであるのは当たり前のことだ。
それであなたはどうなのか?
夢といい、現実といい、全てはあなた自身にかかっている。
あなたがどのように生きるかによっては夢もまた現実以上の現実そのものともなりうる。
いつでもあなたはとぼけている。
やれ、幸福だ、不幸だ。
やれ、悟りだ、迷いだ。
やれ、生まれて働いて死んだ。
やれ、鳥が飛んでいる、石ころが笑っている。
やれ 人間だ。宇宙だ。瞑想だ。密教だ。神通力だ。平凡だ。
そんなふうにとぼけている。
では、あらゆるとぼけをやめたとしたら、そこに何がある?
この疑問もまたあなたのとぼけに違いはない。
それでも神はとぼけによって、愛という宇宙ゲームを戯れて尽きることがない。
悟りを開いたとか、神を見たとか、神を見たと頑張るとか、
死やこの世の果てに直面したとか、言いようもない素敵な体験を持ったとかしても、それらがあなたの・・・

—–

あのー、『新・救世主入門』、『メシアンハンドブック』、それは何のために書かれたんですか」
『何のために?』
「はい」
『それは世界の遊戯に貢献するためだ』
「貢献するってどういうことですか」
『例えば、君は今何のために質問したかっていうことさ。その時君はさ、俺の言葉通りにさ、
世界の遊戯に貢献するためだって答えてもさ、俺は多分『ううん、それじゃあないんじゃない?』
っていうかもしれないよ。で、こういうふうに俺が今喋ってることがさ、世界への遊戯の貢献だ。
つまり、俺が世界への遊戯に貢献するって、喋った時にさ、俺にとってさ、神っていうものがさ、
ここにいるわけだよ。今。そして遊戯に貢献するっていう答えを、そう、かなり品よく答えてるわけだよ。
この答え方は。上品な答え方だ』

私は神という夢が好きで 神は私という夢が好きだ そこで私は
何不自由なくすべてを実現し すべてのすべてを愛し尽してしまった
たぶん君は神という夢が好きなんだろう
だから決して 神という夢さえも無くなったら何がある?などと問いはしないだろう

大切なことは君がどうかいだよ。君がどうかい?いい?

君がどうなのかということさ。

そして、君が生き生きしているか、君がOKか。

君がOKならさ、君は今度は共通の約束事の中でさ、本当に役立つことができるよ。

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冥想それ自体というのは、完全にその人をその人自身に自覚させているということを確認しているものだ。

であって、それは全くカラーがない。どういう風に生きなくてはいけないということを全然与えてくれない。

それは宗教でさえないから。もし宗教なら、宗教的人生を生きたいとか生きなければならんとなるかもしれない。

そうすれば、いろんなそれらしい姿というのを選んでいかなくちゃあならない。だけど冥想そのものはそうじゃないんだ。

だから冥想から宗教家になる人もいる。冥想から詩人になる人もいる。冥想から遊び人になる人もいる。冥想から武人になる人もいる。

冥想から政治家になるやつもいれば、冥想からパン屋になるやつもいる。冥想から乞食になる人だっている。

ただ冥想というのは、完全にその人間というのが絶対そのものである、絶対というのも愚かなぐらい絶対そのものであるということを確認させるもの、そしてそこから自然に流れ出して彼自身の人生を歩ましめるもの。

ただその限りにあるだけなんだ。あとどのような生き方をしようともう全然関係ない。

それはその人自身が持って生まれた本性。冥想を冥想自体の中で戯れる人というのは主に、禅で言えば魔境、意識のレベルの中でいろんな世界があるわけ。

霊の世界と言っていい。その中だけで充分もう楽しめるというのかな。

早い話が誰にも会わないでさ、こもって、今日は仏界の方に旅したとかさ、今日は、金星の方に幽体でもって行って来たとかさ、それだけでもう充実しちゃっているというの。

そういうのは、冥想の冥想者にあたるわけだ。幻想家と言ってもいい。神秘家と言ってもいい。

だから冥想の何々、という風になるわけ。冥想のパン屋さん。冥想のおまわりさんとか。

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この宇宙やかの宇宙の、いかなるものにも、もはや、愛着も憎悪も抱かぬ時、
絶対愛の流れとなってそれは開示される。

悟りと迷いとは同じだけ真実だ。それゆえに私達は悟りの方法だけを問題にすればいい。

真実 存在しているのは 真実 非在しているのは ニルヴァーナのみである

神聖なる書物は、すべて ニルヴァーナが、神ロゴスと顕われたものを、
仮に言語化したものにすぎない。それらは、一つの天体・地球や 一人の人間・人類に
聖なる進化をうながすための刺激を与えるためのものである。

ニルヴァーナとは、あらゆるものの終極のことだけではない。それは、
あらゆる生命達の久遠の始まりである。この時でない時に、あらゆる宇宙生命体達が、
あらゆる多様多元のリアリティー達が、終わりながら始まっている。

何もかもなしということは、なにもかもなしという絶対充実である。

ニルヴァーナはマーヤだ、否! ニルヴァーナはニルヴァーナだ、否!
ただただニルヴァーナ、否!! ニルヴァーナ、否!!!!

プロセスもテクニックなぞも ないことを体現している あらゆるあなた達に捧げる

この限りない空間
この限りない時間
私は私だったんだ
すべてはすべてだったんだ
さあ、お前、何が言いたい
ある人がこう言った
「わからん」
何という美しい言葉

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『月並みな言葉だが、ねえ、あんた、愛は愛を愛している』

いつでも家の中にいるよ、今君たちは。
だから君たちが疲れたらいくらでも安らげる。
それからね、君たちが死ぬっていうことは君たちがパーフェクトな理由なの。
おかしな言い方かもしれない。
それはね、君たちの命が君たちの自分勝手な方向で出てきたんじゃないっていうこと。
既に君たちは、与えられて出てきてるんだってこと。

愛は自由だ。
愛はすべての生命、すべての存在物が求めてやまない、そのものだよ。
しかも、それぞれの存在物ってのは、みんな愛の中にあるんだ。
「愛情ってね、執着するじゃない。でも、自由になるとさ、何ていうか、愛情の中から飛びぬけてしまって、そういう事はないの?」
うんと、自由ってのは、例えば愛情とかなかにはさ憎悪が時におこる時もあるし、嫉妬がおこる事もある。それから執着が苦しくなる時もある。
だけど自由ってのはさ、部分的にあるんじゃないんだ。
例えば、愛情ってものや執着ってものを消した時に、自由が出てくるなんてそんなチンケなものじゃないんだ。
まず、自由があるんだ。自由があるからその中で、自由に愛情を注ぐ事ができるんだ。

それは、同時にあるんだよ。

それは、人間として生まれた計り知れない喜びを味わうことだし、
人間として生まれた計り知れない悲しみを味わう事なんだ。

さあ、もうすべては終わったんだよ。
・・・・・・そして、すべてがはじまる。

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人が絶対の至福を求めた時が、絶対の至福を失うときだ。
それが恐怖だ!それがわけのわからぬ不可解だ!それが人間のものでない久遠の至福だ!!

死が恐ろしいものだと誰が決めた?
あなただ。
不安と不満と苦悩と苦痛とをいけないものにしてしまったのは誰だ?
あなただ!!

意味だけが生きるのだろうか?

なぜ生命は何の意味もないというのに生きているのか。
あらゆる流れがひとりでに静まる
何の理由もなくかすかな解放への呼び声

もう生々化々の流れも消えた無想定

静寂
喜怒哀楽は消え果てた。
秘められたさわやかさ

突然の爆発!マーヤとブラフマンのファッキング!
あなたは神に貫通されたのだ。
鳥飛んで鳥のごとし、魚に泳いで魚に似たり石ころは笑う!

完全に終わった!!あなたは初めてあなただ 絶対者にして絶対無!!
我もなく現し世もなく何もかも何もかもなし何もかもなし

そしてこれもどうということはない。

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血わき肉おどる

何か確信といったもの・・・ 血わき肉おどる何者か。 存在をも忘れ果てたそれ

それぞれにいいんだなあ、すべてはOKだといった思いの流れ。

私は私なんだなあ、といった感嘆!

永遠に未知なるものへの旅!!

詩的直感

つねに詩語は古く、詩情は新しい。

詩語に新しきものなし、この人生と同じように・・・詩情はつねに新しい。

時には時さえもない。

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なにもかもいいんだ

人間に与えられた至上の喜悦は なにもないというなにもないという体験だ
快楽の中の快楽の中の快楽・・・
まるで、この12月の暖かい一日のよう まるで一目ぼれのようなもの

LSDで、デッド・トリップして、すべてのすべてを生きるのも素敵だよ

マリファナぼけはマリファナぼけだし
アフェタミンはワォワォワォでイカス!
阿片やヘロインは、それでいいというわけだ・・・

隻手の音声を聞けば、それはさわやかでエネルギッシュ極まりない

只管打坐の坐禅は、なにもかもいいなにもかもいい・・・と来たもんだ

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どうして死人たちは死のうとがんばるのか?
たぶん、すでに死んでいるからだろ
いいや、たぶん、生きても死んでもいないからだ
なにもかもはなにもかもだ

チャクラ・ヨーガもいい
頭のテッペンのサハスラーラ・チャクラが
覚知されれば、すべてが滅尽し久遠の至福が至福だ

神秘体験はいいものよ
すべてを越えた快楽はいいものよ
絶対無・空・解脱・ニルヴァーナ・神は、いいものよ

もっともガンでノタウチまわっている、必死の苦痛の絶望の絶望が、素敵だと同じようにね・・・

すべてが終わった!もっとも、終りなぞありはしないけれどね・・・

それでも私は求めている
尽きることなく 尽きることなく
果てしなく 果てしなく

なんとかいうチンピラ禅師のたまわく「求めるは苦なりだとさ」・・・・・・・
笑っちゃったよ

—–

どこまで行ってもきりがない・・・
あなたと言ったらすでにわたしが含まれていた
地獄と思ったらもうそこには天国が花開いている
思うがままに生きるのだ 思わないままに生きているのだ
快楽と苦痛とは 果てしない戯れを戯れている この神秘のカオスのただ中には
永遠に答えなぞない
私はどこにも行き着きはしない どこに到達する必要もない
ニルヴァーナとマーヤの 混合歓喜は続き続ける
これが至福だとも知らずに これがやすらぎと生命力だとも知らずに
あなたが何をしたところで あなたにわかるものなぞ一つとしてない
死がわからないと同じように わたしの言葉もわかりはしない
わたしは小麦色の肢体が好きだ 太陽と輝くエメラルドが好きだ
ニルヴァーナを愛し マーヤを愛している

どこまで行ってもきりがない・・・

たとへ、あなたがどのような存在であろうと、完全に、意味なく、価値なく、生きる時もある。
このあらゆる世界、あるいは宇宙は、夢なのだ。
時は絶対者のあらわれのひとつであり、それは一つの法則であるが、法則には例外というものがある。

私のことも、私のまわりの出来事と称せられるものについても、
本当に、あるいは、真実にはまったく知ることはできない。
その絶対は起こる。その至福でない至福は起こる。
その確信ではない確信は起こる。

だが、私は、これが、何であるかを、知ることは決してない。

すでに知っていると思いこんでいることと、未知であることとには何の違いはない。

—–

宇宙は君たちを餌食にしようとしているんだ。

真理に至る道などない。
それが真理の真理たる所以である。
部屋の片すみに坐って
朝から晩まで、
真理について思索していたら、
真理に目覚めることもある。
そこが又
真理の面白いところである。

すべては、神の夢の戯れであり
すべては、神の真実それ自身である。

肉体・エーテル体・アストラル体・メンタル体・コザール体が、死に果てれば、
アートマンは、ブラフマンに直結する。
死とは神である。
神とは七つ、もしくは十の無限次元を持つ全体者それ自身のことである。
創造の光とは、この全体者の中心次元のことである。

—–

人のからくり

肉体→エーテル体
エクトプラズムは、エーテル体の流出のことであり、肉体とエーテル体は死とともに崩壊する。
エーテル体は、漢方医学の経絡に相当する。

アストラル体
7つ、あるいは10個の光輝くチャクラからなりたつ死後にも一定期間存続する本人と類似する光明体である。

霊体(メンタル体)
人間の最初にして最後の個性であり、永遠不滅の実相身である。
各人、各様の形象をとっていて、一定の型を持っていない。原型イデアである。

キリスト・ブッダ・クリシュナ等の霊体は絶対無・絶対光・変幻自在である。
善人においては、イデア相応の最高の美的形象をとった人間的な形を持っている。
悪人においても、その裏返しとしての最高の形を持っている。

サタン・ルシファー・悪魔などの霊体は絶対無それ自身で完結している絶対の暗黒・
そして変幻自在の形象を取り得る。そのイデアは鉱物に近いといってよいだろう。

神の化身としてのアヴァタラと、悪魔の化身としてのサタンの実相身は、
そのイデアの面から見れば、他のあらゆる人々との霊体と同様に絶対的な原型であることに違いはないが、
神の化身は、悪魔を包むことができるが、悪魔の化身は、神以外のすべてに変容することができても、
神・絶対全体に成ることができない。

もっとも神も凡人も悪魔も、たいした差のありようはずもない。

コザール体
肉体から数えて第五番目の身体であり、肉体と世界を作っている原因体である。
それは肉体のような身体の形式を持たず、霊眼で確認すると、球形の光と見える。
そして、個別性を作り出す原型的な生命光である。

以上のように、神の似姿としての人間の全貌から見れば、人間身体は重層的複合体であり、
例えば、あるチャクラが開けたなどといっても、厳密にはどの身体のどのチャクラのことであるか
というような精密なものである。

神・すべてのすべてそういうわけで、神などと言ってるうちは、ぜんぜん楽しくないのである。

つぼみへと成熟する時 君は不可思議な喜びに包まれている。
つぼみが破裂して花開く時、君は 君を失う言語を絶した恐怖と法悦にいるだろう。
やがて、君自身という花が散る時が来る 透明なやすらぎが すべてに満ち渡っている
そして 何もかもが忘越された刹那 たった一つの果実が結ばれていた
君は 君ということのない 君自身だったのだ。

君は、心を捨て身を捨て魂を捨てて、
ただただ一つの真実を発見せねばならない。  なぜと問うなかれ。

これは、七重の至福の世界
これは 十種類の
まったく違った無限次元
これは
神としての私自身の照応
これは
私自身の久遠に続く最初にして
最後の夢