グルジェフ断片

人間は機械だ。
彼の行動、行為、言葉、思考、感情、意見、習慣、これら全ては外的な影響、外的な印象から生ずるのだ。
人間は、自分自身では、一つの考え、一つの行為すら生み出す事はできない。
彼の言うこと、為すこと、考えること、感じること、これら全てはただ起こるのだ。
人間は何一つ発見することも発明することもできない。全てはただ起こるのだ。

この事実を自ら確証し、理解し、真実だと納得するということは、すなわち、人間に関する無数の幻想、つまり自分は創造的で、自らの生を意識的に生きている等々の幻想を放棄することに他ならない。
そのような物は何一つとしてない。全ては起こるのだ。
大衆運動、戦争、革命、政権交代、全ては起こるのだ。
それらは、個人の人生で全てが起こるのと同じように起こる。
人は生まれ、生き、死に、家を建て、本を書くが、それは自分が望んでいるようにではなく、起こるに任せているに過ぎない。
全ては起こるのだ。
人は愛しも、憎みも、欲しもしない。それらは全て起こるのだ。

しかし、君が誰かにあなたは何もすることができないと言っても、誰も信じはしないだろう。
それは、君が人々に言うことの中で最も侮辱的で不快なことだ。
それが特別不快で侮辱的なのは、それが真実だからで、そして誰一人真実を知りたいとは思っていないのだ。

君がこれを理解すれば、話がしやすくなるだろう。
しかし、心情で理解するのと、<全身全霊>で感じ、心底確信し、決して忘れないのとは別の事だ。

質問者「為しうることは何一つ、絶対に何一つないのですか?」

絶対に何一つない。

質問者「では、誰一人として何かをすることはできないのですか?」

それは別の問題だ。「為す」ためには「存在」しなければならない。
そして第一に「存在する」とはどういう意味かを理解しなければならない。


生活における知識の道と存在の道の乖離、また、その乖離の部分的には原因であり結果でもある理解の欠如は、一つは人の話している言語に由来する。
この言語は、過った概念や分類、過った連想でいっぱいだ。

そして重要なことは、普通の思考法の本質的な特性、つまりその曖昧さと不適切さの為に、個々の語は、話し手が好き勝手に出す話題と、その時に彼の中で働いている連想の複雑さに従って、何千という違った意味を持ちうるということだ。

自分達の言葉がどれほど主観的であるか、つまり同じ語を使う時でも一人一人がいかに違うことを言っているかを人々ははっきりと認識していないのだ。
彼らは、他の人の言葉をただ曖昧に理解するかもしくは全く理解せず、また自分には未知の言葉を話しているなどとは考えもせず、それぞれ自分勝手な言葉を話しているということにも気づいていない。

彼らは、自分達は同じ言語を話しており、互いに理解しあっているという強い確信、あるいは信念を持っている。
実際にはこの確信には何の根拠もない。

彼らの話している言語は、実際の生活の中でだけなら何とか使い物になる。
つまり、実務的な性質の情報であれば彼らは互いに意思疎通ができるのだが、少しばかり複雑な領域に踏み込んだとたんに道を失い、気づかない内に互いに理解することをやめてしまうのだ。

彼らは常に、もしくは殆どの場合、自分達は理解しあっている、少なくともちょっと頑張れば理解し合えるという幻想を抱いている。
あるいは読んだ本の著者を理解したと空想し、また他の人々も理解しただろうと思う。

これも彼らが自分で生み出した幻想の一つに過ぎない。
彼らはその幻想の真只中に生きているのだ。
本当は誰一人、他人を理解してはいない。

二人の人間が、共に強く確信して同じことを言っているのに、ただ言葉遣いだけが違う場合とか、二人とも全く同じことを考えているなどとは夢にも思わず、果てしなく議論する場合もありうる。
かと思えば逆に、二人は実際は全く別の事を言っていて、ほんのこれっぽっちも相手のいっていることを理解していないのに、同じ言葉を使うのでてっきり同意見で、互いに理解しあえたと思い込むこともある。

話の中によく出てくる簡単な単語をいくつか取り上げ、手間を惜しまずにそれらに与えられている意味を分析してみればすぐに、人は誰でも一瞬ごとに、他の人は決して与えないばかりか想像さえできないような特殊な意味を、個々の語に与えていることに気づくだろう。


探究者は誰も、知識を持つ先達を夢想し想像をめぐらすが、自分自身については、指導される価値があるのか、道に従う覚悟ができているのかということを客観的に誠実に問うことはめったにない。 『グルジェフ・弟子たちに語る』