池上吉彦 内観文集

佐賀・多布施内観の池上吉彦先生の講演と文章から

はなのはじめ

目的地に向かって走る新幹線の中で、私の胸は「大魚が釣れる」という確信に満ちていた。
今度こそ目的が果たせるのだ、と。

それまでの十八年間、私は、奈良県大和郡山市にある吉本伊信師の内観研修所に通いつめに通った。何がそれ程までに私を引きつけたのか。

私の最初の内観研修は、学校教育に内観を導入するための研修だった。
だが内観は「己を知る」技法なので、真の自分の姿を見せられ、その余りな惨状に愕然とし、
わが身の建て直しをする必要に迫られたのが一つ。
草木鳥獣魚ではなく、人間に生まれ得たその目的が己を知ることにあると分かったことが一つ。
そしてもう一つは、わが師吉本伊信の若き日の悟りの瞬間の何物にも代え難い喜びの様を聞き知るに及び、私も同じ体験をして死にたいと心から憧れたことである。

内観は日本生まれの精神療法として国際的な評価を得ている技法であるが、出自は仏道の修行で、寝食を断ち水も飲まずに数日間、自分の過去におけるあらゆる行為の善悪を問い、己が後生や如何にと問い詰める難苦行であった。これを「身調べ」と言う。

この難苦行によって絶対の喜びに出合った吉本伊信は、この喜びを世界中の人に体験して欲しいと願い、「身調べ」から宗教的要素の本尊・教義・教主・修行・組織・布施を廃し、「内観」と名づけて世に問うた。
そのことが結果的に、日本生まれの精神療法として世界に広がるもとになったのである。

だから内観は断食断眠断水を要求しない。
要求しないのに私は憧れゆえにそれを繰り返した。
一週間の断食断眠断水は十五キロの体重減と脈拍の乱れをもたらす。
それは死への道行きである。
論語に「朝に道を聞かば夕に死すとも可なり」とある。
私にとって、この憧れの達成は死よりも重かった。

若き日の吉本伊信は丸一年四回の「身調べ」の結果、喜びを得た。
私も最初の一年やはり四回挑戦した。
が、事は成就しなかった。
機が熟していないということはまことに悲しいことだ。
師は言う、「わしが名産婆であったとしても陣痛の苦しみが始まらんことには産ませられない」と。禅で言う碎啄同時だ。

手を拱いていたのでは機の熟そうはずはない。
私は、毎日内観をするかたわら、僧侶になるための通信教育を受け、異端といわれる僧の説法にも通い、いわゆる精神界分野の本を読みあさった。
しかし機は熟することなく十年は瞬くうちに過ぎ、師の急逝という最痛恨事が起こった。
私は虚脱した。
その後二年間の空白がある。
さいわいだったのは、師の遺された次の言葉に出合ったことだった。
「機が熟したとき、私が死んでいても、うちの家内が詳しいことを知っておりますから、頼み込んでみたらよろしい」。
師の奥方は、十八歳のとき、師が悟入する半年前にすでにあの喜びを体験しておられた。

私に定年退職の日が来た。
その日からわが内観研修所の面接専一の生活となる。
私は思った。
もし私のように内観の究極を求めてわが研修所の門を敲く求道者が現れたとき、
自分が求め得られていないことを伝えることは不可能である。
それでは本物の内観研修所所長とは言えない。
考えようでは退職後の時間は求道のみの時間だ。
求め得られるまでじっくり座ろう。
それで死んでも本望ではないか。

死んで帰るかも知れない私を妻はいつものように優しく送り出してくれた。
私の内観が断食断眠断水であったために妻はいつのときも死んで帰るかもしれないと思っていたと述懐したことがある。
それでも止めろとは一度も言わなかった。
わが志の真の理解者であったと心から思う。

機は熟していた。
乗った新幹線の中で「大魚が釣れる」という確信が私の胸底に満ちていた。
通い慣れた内観研修所に一室に屏風を立てて内観を始めた私はなかなか深くならないことに驚いていた。
気負い過ぎか。
二週間が経つと「また駄目なのか」という諦めのようなものが頭をもたげる。
三週間、事実は外に求めるものではなく、うちに湧くものだという実感を得る。
が、それも湧いては消える。
その上、己の悪行も罪悪も暴かれて目前にさらされていても、梃でも動かぬ自分がいる。

己との血みどろの闘いである。
そしてついに地獄に堕ちる自分を見た。
世界中の人が皆助かっても、わが行く末は地獄だ。
そう心底分かった瞬間、私は喜びの真っ只中にあり、涙にむせんでいた。
師の喜びはこれであったか。
言葉では何も分からない。
同じ体験して初めて分かることだ。
今生のうちに求め得られた喜びは何にたとえようもない。
「魂の夜明け」と言い慣わされている瞬間である。
もういつでも死ねる。
苦闘五週間、逸せざる大魚の無限の太さに酔い痴れていた。

数えの六十一歳を華甲という。
はなのはじめである。
こうして私の人生の花は開いた。

 釈天愚 (注 池上先生のペンネームです)

限りなき内観の歩み

内観初体験

九十六年五月二十三日は私の第二の誕生日です。
私の内観が本物になったと吉本キヌ子奥様に認めて頂いた日です。
それは集中内観を始めて十八年目のことでした。

私の集中内観は、「退学しないさせない」運動の一環として学校に内観を採り入れて、一週間の宿泊内観を処分の代わりにおこなっていましたが、一年半ほどやって、今一つぴったり来ない感じがあり、これは自分に体験がないためだと思い、大和郡山の内観研修所に赴き十一日間の体験をしたのが始まりでした。

生徒指導に内観をどう使うかという目的だったのに、内観は「己を知る道」であるゆえに自分の情けない姿を如実に見、教師だ生徒だとどこを見ても言い得ない人間だと分かり、この己を内観によって立て直そうと決心しました。

吉本伊信は私に、「わしより二十も若い熱心な人が来てくれて有り難い」とおっしゃり、
「今度来るときは、飲まず食わず寝ずでやる気、有りますか有りませんか」と問われました。
私は反射的に「あります」と答え、以降ほとんどの集中内観を断食水眠一週間で臨みました。

人生の目的

二回目の集中内観のとき、面接に来られた吉本伊信は私にこう尋ねられました。
「先生は何のために生まれ、どういう目的で生きてはるんですか」
気の利いた答えが用意できなかった私は、「分かりません、教えてください」と頼みました。
すると威儀を正して、すかさず、
「それは己を知るためです。それには内観が一番の近道です。そう思いまへんか」とおっしゃいました。
私は、「そう思います」と答えていました。

その瞬間から私の人生の目的は「内観」になりました。
それは吉本伊信二十歳の体験を自ら体験するということが目標となったということです。

吉本伊信はその体験をこう語りました。

「世界中の人が皆助かっても、私だけは堕ちて行かんとならん、救われようがないということが本当に分かったときにですね。もおうワンワン泣いてよろこんだですね。コロンコロン転がり歩いて」
この底抜けのよろこびを体験することに憧れて、集中内観を繰り返したのです。

今生では無理

傲慢な私は、吉本伊信は四回の身調べ(内観の前身)で宿善開発と呼ばれる絶対歓喜の世界に出られた、彼も人、我も人、四回の内観で到達するぞと、日常内観に集中内観にいそしみました。
しかし扉は開きません。

「経論釈はいりまへん」とおっしゃるが、身調べ以上に仏教の勉強を死ぬほどなさっているのが功を奏したに違いない。

私は本を読みあさり、西本願寺の通信講座に通い、浄土真宗親鸞会の聴聞に励み、教職に携わっているのを幸いに、教育相談関係で催されるフォーカシングや、エンカウンターグループの実習を体験したりしました。

日常内観はテープに吹き込んで大和郡山に送って怠けを防ぎました。
毎夜三時まで日常内観をしていた睡眠不足がたたって交通事故を起こしたことがあり、
ちょっと緩める一幕もあったほど熱心な時期もありました。

達せざるままの私を置き去りにして吉本伊信は彼の世へチロチロと鈴の音を聞かせながら旅立たれました。

私の憧れは憧れのままで喜びの世界への道は閉ざされ、今生ではもはや達成されないことになったと思いました。

吉本対機面接

吉本伊信没後も、このお師匠さんに内観をお尋ねするとすれば、その著書と残された膨大なテープによる他はないと思った私は、自分の内観を深める手段として、優れた内観者を面接しておられる部分を起こすことにしました。

それぞれの内観者の懺悔の部分はのけて、面接者吉本伊信の言葉を残す作業です。
これを、「吉本対機面接」と名付けて第四回内観懇話会から懇話会の仲間向けに発表し始めました。
『医師』というテープの伊原先生。『福田様』の福田和仁さん。『罪』の長島先生。『子に対する父』の池上のと『四年』のわが娘のもの。
『真宗』の宇佐美先生。『嘘と盗み』の宇佐美婦人。
これを九十九年まで十二年がかりで発表させて頂きました。

救いの言葉がこの中にありました。
長島先生のテープには、「その時私が死んでおらなくても、その時にはまた私に代わるどんな人が、もう、できてるかも分かりませんし。で、本当はうちの家内でも詳しいことを知っておりますから、私が死んだ後、家内に、そのあんたの姿さえ熟しておれば、十分いけると思いますから、あんたはその時どこでどんな生活をしておっても家内と連絡を取っておって、もしあんたが真剣にその時機がきたと思われるならば、会いに行かれて頼み込んだらよいと思いますがいかがですか」とあります。

そうか、まだ間に合うぞ。
キヌ子奥様が亡くなられたら皆目分からなくなる。
今しかない。
しかし“時機が来たってない”状態では面接受けても辿り着けないという。

時機来たる

時機が来たってないとか来たったというのはどういう状態なのでしょうか。

私の集中内観のおり、そのことを妊娠にたとえて度々おっしゃった言葉があります。
ちょっと長い引用になりますが、大切なことなので引きます。

「私がいかに名産婆といえども五ヶ月や六ヶ月の妊婦では産ませようがない。十月十日月満ちて、持った青竹を握り潰すような、額に置いた米粒が御飯になるようなそういう状態にならんと産ませることができません。死んだらどこ行くやろ、恐いなあ、と畳にしがみついて号泣慟哭して、飯食うても砂噛むようでジャリジャリして食えん、水飲んでも喉越さん、寝ようとしても恐うて恐うて目がカッと開いて眠れんということにならんとあかんので、食いとうても飲みとうても我慢する、眠とうても我慢するっちゅうのではあかんのです」

キヌ子奥様のご面接を受けるようになっても食事や水は遠慮し、寝ないでやっていました。

が、ついに定年退職し、明日から、内観研修所専一になるという時が来てしまいました。
もし、内観による宿善開発を体験したいという内観者が見えたらどうだろう。
体験していないから恐らくどう対処すべきか分からず心は右往左往するだとう。
それでは無責任過ぎる。
求め得られるまでは多布施内観研修所を再開するわけにはいかない。
まず五週間を持って臨んだ。

不思議なことに、集中内観に向かう新幹線の中で、「大魚が釣れる」という確信が心の中にあることに気がつきました。

魂に点る明り

今から思い返しても苦闘の三十余日間です。
これ程に悪い自分の事実が見えても、悪人の自覚が出ない苦しみ。
面接者に答える口先と、心の離れ。
地獄に堕ちると思っても怖さが立たない苛立ち。
眠れなければそのまま暗闇でじっと己を見続ける。

後生がかかっているか、死ぬのが怖いか問い続けるエネルギー消耗の激しさ。

そのうち、それは、外に求めるのではなく内に湧くものだ、ということが分かってくる。
分かっても、湧きかけては消え、消えてはまた湧くという微妙な神経戦。その緊張。

屏風に南無阿弥陀仏の文字がくろぐろと浮かび、そして阿弥陀仏が薄れて、南無は消えずにしばらく残った。
夢ではない覚めている自分を確かめる。

食事は摂ったり摂らなかったりで迷惑を掛けながら、体力温存を心がける。
衰弱死しては得られない。
いや得るのではなく湧くのだ。
私がどうとかするのではない任せるほかはないのだろう。
そして突然やって来た。
極重悪人は私だ。
助けてくださいなどと言えもしない。
堕ちるほかない。
救われようがない。

キヌ子奥様がしきりにうなづいておられる。
号泣慟哭の声とよろこびが同時に溢れている。
魂にあかあかと明りが点りました。
お師匠さん有難うございました。
奥様のおかげです。
父よ母よ妻よ子よ、有難う。

信後相続

私は舞い上がってしまいました。
「それは入門式に過ぎないのであって、卒業式ではない。ここまで来るとよりその後が難しいのです」という吉本お師匠さんの言葉の重大さがその時はわかっていませんでした。

気がつくと二年余の間、集中内観を怠けていました。
奥様が「主人は信後二年、ほちゃほちゃ喜んでおられましたが、百人のうち三人しか助かっていないと駒谷のお師匠さんから言われて目を覚まされた」と伺ったことを思い出し、キヌ子奥様亡きあとの新たな集中内観の面接者を求めて模索しました。

一つのきっかけを得て、石井光先生のご面接を得ました。
馬鹿の一つ覚えで、厳冬下断食水眠でやってしまい六十三歳の身には大変こたえました。

これで踏ん切りがつき、翌年長崎の教会で岡神父のご面接を得ました。
このとき神や仏のおわすところで内観すべきだなあとしみじみ思ったものでした。

次の年は、たまたま東横インの内観研修所の面接当番だった週、急なキャンセルで面接が出来なくなり、独悔悟(ひとりかいご)をやりました。
「独悔悟は甘えが出ていかん」という吉本伊信の言葉を思い出します。

そして今年、十二月一日から八日まで、専光坊の宇佐美和尚のご面接を得ました。
事前に、「自己の地位をはじめ、学問的理解、宗教体験としてすでに会得しているもの等々、一切を捨て去り、只白紙になって、佛法僧の三宝に相対する」という姿勢を厳格に貫くように、と手紙でご忠告頂いていたこともあって、この一週間、少年の如き心で、専光坊流を体験させてもらいました。
この期間が釈尊成道の日に当たることを宇佐美和尚の提唱によって知り、何だか嬉しくなったことを覚えています。

限りなき内観の道、吉本伊信お師匠様のお導きのままにこれからも歩ませていただきます。

さあ、まいりましょう

死はそこに抗ひがたく立つゆゑに
 生きてゐる一日一日はいづみ     上田三四二

死が現実味を帯びて迫るほど、生の営みは真剣になります。
上田三四二(うえだ みよじ)は、医師・歌人・作家・評論家として高名な人ですが、
43歳のとき結腸癌の手術をし、からくも生還、以降、癌と闘いながら立派な作品を発表します。

この歌は、生死の境に立ち生還した直後の感慨です。
死は抵抗できないもの、それが心底からわかってみると、
「生きてゐる一日一日はいづみ」なのだと、心底からわかるのでしょう。

内観の創始者吉本伊信は、「わしみたいな悪い奴が、どこ痛うもないどこ痒うものうて、無事で達者で、息さしてもろてるだけで、有難うて嬉しゅうて」と喜んで喜んで一分一秒を暮らしておられました。
「わしみたいな悪い奴が」という認識を常に持っておられたのは、常に内観しておられたことを伺わせるのに充分です。

あるとき私が吉本伊信に、人生の目的は何かと質問したとき、
「それは己を知ることです。それには内観が一番の近道です。そう思いませんか」と答えて下さいました。

また、長島正博氏が、無常を取り詰めるにはどういうふうにしたらよいかとお尋ねになると、吉本伊信は、「罪悪感をもっと深くすること。その罪悪感と無常感とが交互に作用しながら深まっていくわけです。二つは離れたもんでなしに、罪悪感が熾烈になればなるほど無常感も真剣に考えられるわけです」と、お答えになっています。

己を知るというのは、罪悪の己を知るということで、それが人生の目的だというのです。

「わしみたいな悪い奴」ということが徹底的にわかったとき、
「有難うて嬉しゅうて」という心境、つまり絶対の幸福が得られるのです。
内観を知っている大方の人がご存知のように、吉本伊信の罪悪感は、「世界中の人がみな助かっても、わし一人は地獄に堕ちんならん」というほどの罪悪感だったのです。
そこから吉本伊信が得たものは、「生きてゐる一日一日はいづみ」どころか、
ワンワン泣いて、コロンコロン転がり歩いて喜ばなければならないほどの喜びでした。
噴き上がる喜びに耐え得られない喜びです。
死の現実味に加えて、罪悪の自己ゆえの死後への恐れが真の幸福を生むのです。

「わしみたいな悪い奴」という罪悪感が深まるということは、それだけ良心が目覚めるということに他なりません。
良心の目が開けば開く程、輝けば輝く程、「わしみたいな悪い奴」はますます罪悪深重の度を増すのです。
吉本伊信は、「内観はそのまま念仏の姿であり、祈りの姿です」とおっしゃっていますが、それは、内観を深めるということが、良心の目覚めを促し、仏性の現れを促すことになるからです。

噴き上がる喜びの泉を抱いて、世界中の人の心に喜びの泉を湧かすために生涯を賭した吉本伊信。
私がこの師からいただいた内観の法は、できるだけ真の姿のままで伝えていきたいし、自らも実践し続けていきたいと思っています。

師に、問い詰められ問い詰められしたように「後生の一大事ですよ。死んだらどこ行きますか。死ぬのが怖いになりましたか」と問い詰めるのが、内観の大チンドン屋吉本伊信のビラ配りに過ぎない池上吉彦せめてもの役目です。

「後生は今今の今です」という師の言葉は、世紀の移りも、日のうつろいも、時間の経過もなく、現在只今の己を、わが後生に責任を持てる己かと問い詰めよということでしょう。

ちる花はかずかぎりなしことごとく
 光をひきて谷にゆくかも         上田三四二

永遠の命を求めて、さあ、まいりましょう。

 (『やすら樹』 NO.65 特集 21世紀を迎えて)