少林窟法語抜粋

以下の抜粋は、まったくそのままのかたちで印刷物等に存在する訳ではありません。
抜き書きした後に、要約し、表記を現代風に改め…と、ずいぶん手を加えてあります。
その点は了解の上、ご覧ください。
大智老尼の法語は、その大部分を「照庵大智老尼語録断簡」に取材しています。

飯田トウ陰老師

禅の真髄は自己を忘ずるにある。
真修功成り、身心自然に脱落して、真箇自己を忘ずる時、
天地皆自己ならざるなきを自覚して、手の舞い足の踏むを知らずじゃ。
されども無始却来粘着縛着の自己を忘ずるの容易ならざることを忘れてはならぬ。

本当にやらねば、みな嘘じゃ。
雑念が混じりてなかなか本当になれぬものじゃ。

念起是病、不続是薬。
本当にそのものばかりになればそのものばかりにして、自己の無き事が自覚される。
坐禅も本当にやらねば何の役にも立たぬ。

井上義光老師

只見、只聞き、只歩き、念々続くことのない以前のところで工夫するのじゃ。
この工夫こそが、やがては只管となり、すべてを真実たらしめてくれるのじゃから、
熟し切って打発するまで、とにかく一念心、菩提心でやり抜くだけじゃ。

如是修行が真実であるならば、見聞覚知の一切万象、皆、悟りの縁ならぬはない。
見る底、聞く底、即今そのものじゃ。
元来がそれであるからクセを落とせば明白になる。
その時、その物に、なり切り、なり切りしてクセを尽くせよ!
必ず真箇にブチ当たる時節はある。

いかに忙しくとも志と着眼さえ正しければ必ずやれる。
仕事が修行だ、
我を忘れて単調に単調に、自己を運ばないように運ばないように、
注意深く見守ってやっておればよい。
仕事の他に修行を求めるの愚をやってはおらぬか。

正念を正念で破らねばならぬ。
つまり正念になり切るのじゃ。
その時節は只々、正念を純一に相続するの外にはない。
何の道理も入る余地なく、只、修し、只、行ずるのじゃ。

社会がどう変化してみても、見る底には何の変わる所もない。
聞くところは、やはり耳に音声である。
それら一つ一つに着してしまうと悉く迷いとなる。
時代には関係ない。
では一体何が着せしむるのか。
縁そのものに原因があるのか。
それとも、自己の見聞覚知の作用自体にあるのか。
あるいは覚知の一刹那のところに迷悟を分かつ大切な所があるのではないのか。…等々、
自己の存在のギリギリのところを、一度徹底して調べてみるがよい。

故に別段の事ではない、日常間断なく精魂を尽くして今に徹せよ!
自己をなくすとは、ただ凡情を切り尽くすこと。
今、只、縁ばかり、
そうあるためには、そうあらしむるべく努力しなければならない。
本来既に今そのものであり、縁の真っ只中、故に悉くこれ仏法底、道丸出しじゃ。
既に自他を超え、生死を脱しておる。
その大自覚が無いということは自我のヘダテがあるからじゃ。
故に自我のヘダテの入る余地のない今でなければならない。
我を忘れて、今なすべきことに徹して、只やるばかりよ。
ヘダテが出たら捨て、出たら捨てして只やる工夫じゃ。

今を離してはいけぬし、今を認めてもいけない。
前後裁断された今に気づくと修行が楽になる。

凡情が残っておるから前後裁断のままにいかぬ。
どうしても自由の分が無い。
そこに、どこまでも只管の練りを怠ってはならない道理があるのじゃ。

余念出たら捨て、出たら捨てしては、この即今底のみを練ってゆく。
そのものを徹底守り、かつ余念なくさえあれば、必ずそのものに徹することはできる。
信じて、行ぜよ!
諸仏諸祖、千辛万苦されしも、只、この一法を證せんがためのみ。
徹と不徹とは、只々、人々の菩提心によるのみじゃ。

只管とはタダじゃ。
タダになった者でなければ、その自由さや有り難みは分からぬ。
まず、木人になれ石女になれ。

井上大智老尼

この道には、年もなければ学問もいらない。
一心不乱に只々、単たるのみ。
自己の天職に専念する。そうして暇を見つけては一心に打坐する。
別に理屈も道理も無し。

頭で知った法理はかえって迷いの種となる。
そこで頭の無いロボットになるのです。
そうして今の足元のみを充実して只、行ずる。
この空しい修行をしていくのが禅者なのです。
他を見ずに、一心に、心の動く源に立ち返ってゆくのです。

坐禅とか只管とかに心を置かず、常に今に在る、相手無し。
物の上に考えや念いを添えねばその物のみ。
この心得を中心に、決して今を離さぬこと。
要はこの、意の全くない一念を護持し通す菩提心の強さの問題なのです。

世法とは、物とヘダテの心なり。
ヘダテなければそのまま正法なり。
正は即ち「一に止まる」とある。
見る時、見るに止まれば正見也。聞く時、聞くに止まれば正聞也。
息の時、息に止まれば正息也。歩く時、歩くに止まれば正歩也。
しかしながら何ものか一に止まらざる。

仏道修行というのは相手を見ないことに重点を置いてやるのです。
仕事の上に立っても、小さな物事一つの上に立っても同じことです。

思慮分別を入れない今にちゃんと在れるようになると、
娑婆の縁に触れても、只、縁の働きのままに、それに応じていく力が付いてくる。
相手が入ろうが入るまいが、それが気にならない。
こっちが拘ると向こうが引っかかったように見える。見えるだけなんです。
それを殊更相手立てて、私を立てる。
私があるから相手がある、と、こう見ればいいんです。
こっちが全然無かったら相手はそのまま私になっているんです。
相手は無いと、こう言明することができるんです。

理屈を捨てて、只管の当体としてこれを味わうんです。
味わうにはもう一歩捨て身でね、
百尺竿頭進一歩で、更に捨て身になって只管を練って行くんです。

良いことにしろ悪いことにしろ何か心に引っかかる時があるでしょう。
その要りもしない、考えても仕方がないものを切るのに、今に帰るんです。
ほっと今に帰る、即念で切る。
事実の今のみになって、そうして今の世界で浄化していくんです。
そうすると、そういう用のない過ぎ去ったことに自分が引っ掛かっていた
ということが良く分かるんです。

生活の一々に当たって自分が本当にその如くにあれるか、
只、単々とできるかということだけを追求していくんです。
そうすれば何をしていてもそのことには関係ないでしょう。
それが何であろうと、何でもみな自分をその物のみに乗せていくんです。
初めからそうなれなくても、それを信じてそうなるべく努力していくんです。

修証義に「受けがたき人身を受け、遇い難き仏法に遇い奉れり、
徒らに露命を無常の風に任すことなかれ。命は光陰に移されて暫くも止み難し」とある。
そう云う風に、常に切実に自分をもっては即念を練っていく。
この切実さがないから悠長にもなるんです。

仕事なら仕事をしていることに、只々参じていく。
小さい事でも大きい事でも同じ事です。
色々に先のことを考えることもいらないし、他のことを考えることもいらない。
只、今、切実な現在のものに渾身で持って参じていく。
それのみに渾身を打ちこんで練っていくんです。

色々と雑務は多いだろうけれども、朝夕のこの只管打坐だけは必要ですわ。
そのなかでも、打坐なら打坐、呼吸なら呼吸の一つを中心にね、
大いに練られると、なおその活動が鮮明になって、そいでスムースに行くですわ。
それを密にやることが難しいんです。
これが一番難しいです、本当云うたら。
常にそれが離れないということがものをいいますよ。
離れるもんです、本当云うたら離れるんです。
続けることによってそれが離れなくなるんです。
まだゆとりがあるんです、
吸う吐く、吸う吐くの際どいところまで抜けないんですよ、願心が。

ですから、常に「今」「今」ということで自分の心を叩くんです。
自分を急き立て、急き立てしては即念を練っていくんです。
時は瞬く間に過ぎていきます。
どうか瞬時を軽率にせず、一心に練って下さい。

それはね、一心に努力すれば単調になるんです。
まだ坐の努力が足らんということです。
その努力と云うことはね、添え物をしないということです。
それがちょっと気が抜けるとすぐ何かが入ってくるでしょう。
だから始めはとにかく徹底守らなければいけないのです。
あの『只管工夫』を何遍でも読んで見てごらんなさい。

ですから、とにかく無駄な時の方へ自分を落とさないようにして、只々、単を練るんです。
歩くとき、食べるとき、掃除するとき、御飯を研ぐとき…
とにかく、いつでも、それだけの単になっていればいいんでしょう。
そうやって、この身を単にさせていくんです。
いいですか、見性したいんでしょう。
そうしなきゃ安心して死ねないですわね。

それで今の一呼吸のところでね、
私の入らないことを一所懸命やりさえすればできるんです。
実がのれば一切が明らかになるんです。
そういうようにして、人知れず努力しなさい。
始めからそうは成れませんが、
これが熟すれば、人に接するときは自然に只、接するようにおのずからなります。
いいですか、只管を練ればですよ。
病気なら病気に成り、時には御飯なら御飯を食べる。
工夫の要領は他にはないんですから。
我々がその物のみにあった時を禅というだけなんです。
単を示すんだから、身をもって示すんだから、理屈のいらない工夫をしていけばね。
そこは練らにゃいかん。
そこが修行なんです。
頭ばっかりが先にいっちゃいけません。
それでね、よくよく味わってごらんなさい。
御飯を食べるにしても何をするにしても、今そうやっているもの、
その物のみにおられるかおられんか。いつも静かに味わってみるんです。

それでね、「ただ聞く」いうことが大切です。
いいですか、修行の時はね、なんであろうと私をさし挟まないで、ただ聞くんです。
ただ、聞く―鳥の声であろうと、風の音であろうと、人の話であろうと―何でもいいんです、
只のみですわ。
自分を虚にしとればただ聞ける。
自分が偉いとそれがぶつかって、色々と言うことが出てくるんです。
その偉いものを打ち抜くんです。
偉い人が馬鹿になるのは難しいことですよ。

それで、この一呼吸を一心不乱におやりになればね、それが教えてくれるんです。
これが工夫の無い工夫になってくるんですわ。
それを一心不乱にやればいい、私の入らないことをですよ。
入ろうとしたらいらんことじゃから、即、捨てるんです。
これだけを守られたら、もういいですわ。
一々にこれを守ってやってごらんなさい、大きい効果がありますわ。
本など見られんほうがいいです。
本見られる余地をこの熟練に専念されたらね、私は実力つく思います。
それを信じて、熱烈に自分を磨く人が少ないんですね。

過去の色んな体験や経験を持ち出すんではない、今からです。
今の一呼吸のみが問題なんです。
それをどこまでも、今から、たった今から始めるだけなんです。

物知りになったり、気位を高く持つんではないのですよ。
本当に馬鹿になる修行です。
西を向けと言われれば「はいっ」、東を向けと言われれば「はいっ」と、
只、縁に従って自己無きを証明していくんです。
日々の自分の生活のなかの何に向かっても只やれるか―本当に只やれるか。
そこにもし自己があるなら、おのずから只になるように修行していくんです。

只を智恵で知って、この知ったと思う気持ちを建て前にして自分と他人を比べてみたくなる。
本当に自己が無いのなら相手に「なる」ことができます。
法友に会えば法友となり、母に向かえば母になる。
本当に只管になれないと味わいがなく、
いたずらに只管を振り廻し、自他の見が出て、この正法を汚すことになる。
只管を振り廻し相手を認めるのが法我見です。
只管を実地に踏んでいくのが禅者なのです。
だから、転た悟れば転た捨てて、
只を繰り返して差別に生まれ切るまでは大いに練るんです。
単を練るんです。
皆、単を練ることを知らない。
法を重くして、自分の悪い癖は自分で取るようにしなさい。
とにかく皆法だから何をするのも同じであると云うのは至り得た人の言葉です。
未悟の人は、わがままに陥る時を惜しんで一生懸命やらないと兎と亀のようになりますよ。
とにかく頭で考えた事は一切不是なりと決定して、只々、法に従っていきなさい。
これが少林の宗風なのです。

参禅者:単調になるとはどういうことですか。
老 尼:余念が無いということです。
何でもやっていることだけになれば余念は無いはずでしょう。
余念が入るということはそれ自体になっていない、
誠一つでないということの証と思えばいいですね。
余念無しにいくと嫌でも単調になるんです。

どうしても比較をするでしょう。
それは心のなかに対象物があるからです。
つまり、単でないんです。
心に何もなかったら比較はできないでしょう。
要するに単を練るのが主旨なんですからね。
それは、家庭にあっても、職場にあっても、どこででもできるんです。
それが菩提心です。
菩提心とは余念無きことなり。
その物以外に物を認めていく、それを余念というのです。
だから何にでも只それのみにあれば、
いつだって菩提心の模様されるままに活動していることになるんでしょう。

ふいふいと出てきては邪魔をするものがあるでしょう。
そこをよくよく気を付けていかないと何十年かかっても駄目ですよ。

この少林窟は仏の実習道場です。
仏とは即ち只なり。
そこで何でも只を主体に一心不乱に練って下さい。
一心何事かならざらむ。
食事の時は只喰らえばよろしい。放尿の時には只放尿し、眠る時には只眠る。
こうして一切の縁において只々練るとき、自然に本当の只に達することができる。
つまり本来の大自然にめざめるのである。
何事にも努力あれかし、是れ即ち菩提心なり。

只は仏の世界ですから考えるものではありません。
縁に応じて「只」あるのみ。
どうせ死する身なれ、一心不乱におやりなさい。
本当の大自然には何の入りようもありません。
それをあれこれ考える故に不是なり。
菩提心とは努力心なり。
一心不乱に考えることをやめること、
これが修行にてほかにはございません。

 思わじと思うもものを思うなり
  思わじとだに思わじな君