気づきの言葉

■ 苦しみは何故、人生に必ずついてまわるのでしょうか?

恐れや不安、嫉妬、怒りなどを作り出す、思考(想念・考え)が原因でしょうか。

例えば、将来、ガンになって苦しんで死ぬのでは、と考え、恐れ、あるいは不安になる。

成功している、あるいは物質的に恵まれていると思われる他者と自分を比較する考えが現れると嫉妬が現れる。

自己のプライドを逆撫でするような言動をした人のことを考えると怒りが沸いて来る、等々。

それとも、その思考に対する「気づき」がないからでしょうか。

おそらく、思考に対する「気づき」がないために、思考に巻き込まれ(捉われ)、
更に、その思考が生み出す不安や恐怖、嫉妬、怒りなどの感情に巻き込まれるからではないでしょうか。

思考に気づけば(想念を見れば)、思考に巻き込まれ、振り回されることはなくなります。

感情にも気づくようになるでしょう。

すると、あらゆる感情は、愛や至福や慈悲に変わります。

気づきの力によって、感情は焼き尽くされ、純粋なエネルギーに変換するからです。


どんな欲望も、「大いなる存在とひとつになる喜び」の代用品として、外界に満足を求めることから始まります。

この次元に留まっている限り、「自由になりたい」「悟りを開きたい」という思いも「欲望のひとつ」になってしまいます。

ですから自由になる方法を追い求めたり、悟りを開こうと努力したりしないで下さい。

ただひたすらに、「いま、この瞬間」という時を生きるのです。

「思考を観察する人」になって下さい。

エックハルト・トール


■ おまえはおまえでちょうどよい

お前はお前で丁度よい
顔も体も名前も姓もお前にそれは丁度よい
貧も富も親も子も息子の嫁もその孫もそれはお前に丁度よい
幸も不幸も喜びも悲しみさえも丁度よい
歩いたお前の人生は悪くもなければ良くもない
お前にとって丁度よい
地獄へ行こうと極楽へ行こうと行ったところが丁度よい
うぬぼれる要もなく卑下する要もない
上もなければ下もない死ぬ日月さえも丁度よい
仏さまと二人連れの人生丁度よくないはずがない
これでよかったと頂けた時億念の信が生まれます

南無阿弥陀仏

この「お前はお前でちょうどよい」という言葉。
この言葉は、一婦人の信仰的自覚の言葉ですから、その人においては生き生きとした告白であっても、それを聞く私共が無自覚な形で聞いてしまったら、とんでもないことになる。(そのまま悟り)
自覚の言葉を、凡夫が無自覚に(そのままに)聞いてしまったら、外道語になります。
それこそ、「何でも丁度よい」で、あきらめムード、肝心の歩みが出ないことが致命傷になります。
そこで、このご婦人が、なぜこう云う言葉を綴ったか聞いてみたいと思います。

嘆き

両親ほど、うっとおしいものはない
だから私は早く離れたかった
兄弟ほど、うるさいものはない
だから私は逃げまわった
子供ほど、やっかいなものはない
だから私は早く一人立ちして欲しかった
夫ほど、平凡で薄情なものはない
だから私はよその芝生がよく見えた
姑ほど、邪魔なものはない
だから私はいない方がよいといつも思った
男ほど、自分勝手なものはない
だから私は軽蔑した
女ほど、愚痴っぽいものはない
だから私は嫌いだった
知識者ほど、邪見なものはない
だから私はその言葉が信じられなかった
お金ほど、私を縛るものはない
それなのに私はお金が大好きだった
一番最後に、大嫌いなものは自分自身だった
こんなことしか思えない自分自身だった
生きている価値のない自分だと思っていた
それは、何の夢も希望もない真っ暗な地獄をはいずり回っているような気持ちだった
死ぬに死なれず生きるに生きられず斜にかまえた捨て鉢の人生
そこに聞こえた仏の真言

「汝、わがはからいを超えたいのちを
今そこで生きよ、とてかく生かしめられている私
人間は生きているだけで尊いのだ」

光といのちを蔵したこの言葉に遇わせていただいて、目が覚まされた
私がどうこう変わったわけでもないが
それ以後、私の中の八万四千の煩悩と仲良くつき合っていけそうな道が見つかりました
それは細い細い道ではあるが
人さまの煩悩とも徐々に仲良くつき合っていけそうな道が見つかりました
それは遠い遠い道のような気もするが

ありがとうございました

南無阿弥陀仏


人間は機械だ。
彼の行動、行為、言葉、思考、感情、信念、意見、習慣、これら全ては外的な影響、外的な印象から生ずるのだ。
人間は自分自身では、一つの考え、一つの行為すら生み出すことはできない。
彼の言う事、為す事、考える事、感じる事、これらは全てただ起こるのだ。
人間は何一つ発見することも発明することもできない。全てはただ起こるのだ。
ウスペンスキー「奇蹟を求めて」p44

自己を観察する際に(中略)自分の行為・思考・感情・言葉などは外的影響の結果生じたものであり、何一つ自己の内からは出てこないという事実に気づくだろう。
彼は自分が事実、外的刺激の影響の下で働いている自動機械だという事を理解し納得するであろう。
(中略) 完全な機械性・・・すべては<起こり>何一つ<為す>ことは出来ない。
・・・外からの偶発的ショックで左右される機械なのだ。  「同」p185

人間の精神に独自のものは一切存在せず、すべてが模倣によるか、既成のものの組み合わせに過ぎない。 グルジェフ


一冊の本しか読んだことのない人を恐れよ


私自身の、これまで生きてきての経験上の信念は、「良い経験であれ、悪い経験であれ、どんな過酷な状況であれ、それら、すべてを気づきと受容性を持って経験し抜き、逃げずにそこに留まり、味わい尽くし、それと共に流れ、通り抜けることができるなら、それは(あとで振り返ってみれば)、自分を成長させる大きな恩恵(神の思し召し、神意)であったことに気づくだろう」と云うものです。

今は大変な状況でしょうが、その今の心身の状態をできる限り味わい、頑張って下さい。

表面的には、もっとも受容しがたい、過酷な状況でさえ、そのヴェールの下には、もっとも深遠な意味での「善」が隠されています。あらゆる災難のその内に、慈愛の種が託されているのです。


いまの環境は、与えられたものだと思って、
(楽な道を、場所を探すのではなく)
一所懸命、そこで頑張ってみたら良い。

環境を変えようとする前に、
まず自分の心を変えれば良い。

(嫌なことばかり自分が被ると思うなら)
人の犠牲になれるようになった自分を、喜べる心になれば良い。


空虚感や孤独は、自己中心的な活動をする <私> という心によって作り出されたものなのです。
ですから、その心が中心を持たずに見つめる時、自己中心的な活動は終わります。そこに淋しさはありません。

そのとき心は自由自在に働きます。執着と無関心の全構造、苦痛と快楽の運動を見つめるとき、どのようにして、<私>という心がひとりで砂漠を作り出し、また、ひとりでそこから逃げようとしているかが解ります。

<私>という心が静まるとき、砂漠も逃避も消え去るのです。


母は百人の教師に勝るものなり


■ 陰徳積みのお奨め

「あなたは施しをする場合、左の手のしていることを右の手に知らせるな。それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いて下さるであろう」 (マタイによる福音書)

○「言葉の項」

今から二十五年程前に大阪中之島の図書館で、中国の唐の時代の陰徳に関する文章を見たことがあります。
その中に人の善を言うことは陰徳であり、反対に人の悪口をしゃべることは過悪であると書かれてありました。

その後、良く注意しておりますと、その事実のある無しにかかわらず、他人の悪口を常に平気で口にする男子であれば出世の出来ない人であり、それが女子なれば、夫の出世のさまたげとなり、また未亡人なれば人々がその人とつき合いするのを嫌がられる立場の人となるということが分りました。

竹谷は、墓地に立ち入りしましても、その墓の施主の運命について良いことは言っても悪いことは言わない。また、他の墓相家が指導された墓の相については、一切ノーコメントを守っております。昭和十三年ごろのこと、京都市仁王門のある寺へ行った時、そこに○○氏指導の吉相墓というのがあった。同行者に自慢らしくその墓の施主の現在の状態をおしゃべりした所、同行者はその施主の家庭を知っている為に驚きの目をみはって聞いておられました。午後の三時ごろ、伏見の宅へ帰って一時間程経ったころ、家族の者が、二階から落ちて背骨を打ち一ヵ月程入院したことがあります。

図書館にて、言葉の陰徳や過悪という文書を見た数日後のことで今更の様に言葉の過悪の恐ろしさに驚いたことがあります。
調子の低い人でいつもにこにこし、人の悪口を言わない人は必ず事業に成功すると昔から言われているのも、万更空文ではありません。

人の悪口を言ったからと言ってその人の身分が良くなるではなし、かえって聞く人に悪感情を抱かせる場合が多いものです。
むやみと批判したり悪口を言うことは慎しみましょう。

○「金銭の項」

金銭の陰徳で一番注意しなければならないことは、他人の借金保証引き受けの印を押すことであります。
自分が現金でその借金を全部支払いするだけの予備金のある人は別、
予備金のない人が泣きつかれて保証印を致しますと、一回、二回は都合良く行っても、三回目には保証のため自分の今住んでいる家も売らねばならないことが世間に数多く常に起っております。

誠に借金の保証印は過悪中の過悪であります。

神社や寺の修繕に寄付金を出すことは、陰徳積みでありますが、
新しく建立する(古いのを解体して新しく造るのは別)新設に寄付を出すことは陰徳にならない。

また寄付金は無名で寄付すべきもので、本名を出して寄付すべきものではありません。
本名でなかったならば受け付けない相手ならば、寄付金を出さない方がよろしい。

また、生活困難者に無記名で寄付するのは陰徳になりますが、
特定の人のみ、例えば、兄弟とか親類の人とかにいつも金銭を贈与するのは過悪となります。

金銭を勝負事に使用することもまた、過悪であります。

神社や寺の修繕をするための寄付金は断ってはならない。
その額が多ければ、少しにしてでも出して下さい。

職業とする乞食に金や、物を与えることは陰徳ではなく、過悪になります。

○「無形の項」

旅館に宿泊して、夜中あかあかと電灯を付けている人があります。
電灯代は旅館経営者が支払いするため平気で、むしろ電灯を使用しなければ損だと言う考えだからでしょうか。
室内の不要な場所でも、電気をあかあかと付けたままで寝る人がいます。
実にもったいない話しです。
旅館に限らず、夜通し電気を付けている人を見受けますが、
もったいないことであると共に、泥棒に這入られやすい家の様に思われます。

ある新聞に、夜の盗難避けは室内を暗くし、家の周囲を明るくすることは、泥棒避けの一つの方法である、
と書いてあったのを、見たことがあります。

竹谷の知っている所で、三方道路になった大邸宅があります。
その邸宅はたくさんの個室が有る様子です。
そのうち数個の個室には夜通し電灯がついてあかあかとしておりますが、
屋敷外の三方の道路は夜になると、まるでタヌキでも出そうな暗さです。
また、一年に数回は夜ふけに婦女子がキャット大声を上げるのを聞きますが、
暴漢におそわれたか、暗いので何かに驚いた声でしょう。
これ程、御立派な屋敷なれば、室内の電灯を半分に減らして、道路と広い庭さき兼用に、せめて午前一時ごろ迄でも外灯をお付けになったならば、大衆の人は、まして婦女子は安心してその道を通ることが出来ます。
しかもその電灯代は別にたくさん支払う必要のない電力です。

さき程から述べましたように、電灯に限らず他人のものだから無駄使いをしたり、
只だからといって暴飲暴食したりすることは、その人の徳をなくすることになります。

■ 運をつける生き方「陰徳」を語る

オリンピックのファイナリストには実力差はないが、運の強さの違いはある。

田口信教という水泳選手を知っていますか。
1972年オリンピック、ミュンヘン大会、平泳ぎの代表選手です。
100メートル男子平泳ぎで金メダル、200メートル男子平泳ぎで銅メダルをとりました。
以前、先生は田口選手の講演会で話をお聞きしました。

田口選手は次のように言います。
「オリンピックのファイナリストになれば誰が金メダルになってもおかしくはない。実力の差はない。しかし、金メダルになる人間は、いつも金メダルになる。そして、8位になる人間はいつも8位である。実力差はないのに、不思議とこうなる。実力以外の何かが、そうさせるとしか考えられない。」

また、次のようにも言います。
「金メダルと銀メダルでは、天と地ほどの差がある。一般の人にはわからないと思いますが、たとえば、日本で一番高い山は富士山ですよね。では、2番目に高い山は? 世界で一番高い山はエベレスト山です。では、2番目に高い山は? このように、1番と2番では違うのです。世界一位と世界二位では、有名さも、その後の経済活動などにも差が出てくるのです。それで、オリンピック選手は金メダルを目指します。しかし、本当に「運」としかいいようのないことが起きるのです。ゴールのタッチが爪の差で、金メダルと銀メダルに決まってしまうことも、たくさん見てきました。」

さらに言います。

田口選手が実行した運を強くする方法
「そこで、オリンピック選手になってから、どうしたらこの「運」というものを身につけるのか考え、実践しました。
そして、金メダルをとったのです。」

田口選手は、どのようにして運をつけてきたのでしょうか。

彼は、オリンピックの代表選手の合宿所の生活のことを話してくれました。
それは一言で言えば、「善い行いをする」ということです。

ただし、田口選手がすごいのは、ただ善い行いをするのではなく、人に知られないように善い行いをするということだったのです。
彼は、毎日、誰にも知られないように、合宿所の皿洗いを続けたそうです。
合宿所のおばちゃんに見られそうになっても、うまくごまかしました。

それから、落ちているゴミも人に知られないように拾ったそうです。
まわりをキョロキョロしながら、人に知られないようにサッと拾ったそうです。
このようなことを昔から次のように言います。

陰徳(と黒板に書く)
「いんとく」と読みます。陰はかげです。徳とは善い行いのことです。
つまりは、人に知られない善い行いのことです。

先生はこう思います。同じ善いことをするのなら、人に知られないほうがいい。
なぜか?
人に知られた善い行いのご褒美は人から来ます。
「ありがとう」と言ってもらって場合によっては、御礼の品も受けますよね。
人から直接ご褒美をもらったので、そこでお仕舞いです。

しかし、陰徳を積めば、ご褒美はおてんとう様から来ると思うのです。
陰徳は人が知らないので、人からはご褒美はもらえません。
だから、おてんとう様が、その人の「運」として貯金してくださると思うのです。

■ 隠徳

体の健康と心の健康、幸せで健康に暮らすには、自分の身近な人たちを思う心を持つことだと私は考えます。

「してやっているのに・・・」

私たちの生活に欠かせないのが日々の食事です。毎食毎食経済と相談しながら献立を考え、買い物をし、料理をする。これが延々と続くのですから奥さんは大変です。

私は若い頃、主人と夕方同じ時間まで働いているのに、主人はテレビを見て、私は休む間もなく夕食の準備。食事が終われば、また私が後片付けです。
「とても割に合わない」と、どれほど思ったか知れません。
その上、当時は「美味しいね」とか「大変だったね、ご苦労さん」等の言葉も掛けてはくれませんでした。
また、男性の立場に立ってみますと、家族のことを思って一生懸命働いて得た給料も銀行振り込みのせいか「お父さんのおかげで生活させて頂けます」「お父さん、今月もお疲れ様でした。給料を使わせて頂きます」等の感謝や慰安の言葉がとんと少なくなったと聞きます。

私の家では毎日母が洗濯をしてくれますが、以前は「毎日毎日お世話になります」「ありがとうございます」とは、私も言っておりませんでした。
母が皮肉たっぷりに「お礼も言わずによく着られるものだ」と言ったことを思い出します。
その母がこの頃では「洗濯させてもらってありがたいことだ」と言うのです。
何が変わったのでしょうか。

モラロジーで『陰徳』ということを教わりました。

私たちは生まれてから今日まで、育ててもらい、着せてもらい、教育してもらい、親からも社会からもお世話になりっぱなしの人生です。
その上腹を立てたり、人を言葉で傷つけたりしています。これらを合わせたものが『道徳的な借財』となると言われています。

「借りを返すと幸せが」
よりよい人生を歩むには、この借財をいかに返すかが問題です。
「借財を返させて頂きます」という謙虚な心で、人知れず行動することが『陰徳』となり、価値ある行いになります。
陰徳を積み借財の返済が出来、道徳的借財の少ない人ほど運命の良い人、幸せな人としてよりよい人生を歩むことが出来ることになるのです。
誉めてもらいたい。認めてもらいたい。良く思われたい。分かって欲しい。してやっている。等の心でする行為はどんなに人に親切にしようと、どんなにお世話役を勤めようと、またどんなに大金を寄付したとしても、何れも『陽徳』となり、苦労の割には効果 が少なくなってしまいます。

例えば、料理を作るにしても、
(1)「皆に美味しく食べてもらいたい。明るく健康でいて欲しい」と、心を込めて料理を作る。
(2)「うちのお嫁さんはよくやってくれる」と言われたい。
(3)「こんなに大変なのに、美味しいともありがとうとも言わないなんて、何で私ばかりが」と、不平不満で嫌々ながら料理を作る。

これらは作る姿は同じでも、
(1)は大きく陰徳を積むことが出来、他は苦労したにも関わらず陽徳となってしまい、効果が少なくなってしまうか、場合によっては不徳を積んでしまうことにもなりかねません。

陰徳とは、なるべく人に気づかれないよう、相手の負担にならないよう心を配り、
その心遣いは「借りを返させてもらう。させて頂く」心でするものと言えるでしょう。

人知れず陰徳を積むことが出来るようになれば、心が穏やかで、楽しく幸せな暮らしが待っています。


■ 良い出来事、悪い出来事

人が、その人生の中で経験する、状況・出来事が、究極的・絶対的な意味において、良いものであるのか悪いものであるのかは、どの時点で結論を下すかによって、どのようにもなり得るものだと感じています。

一年前に起こった、自分の人生をメチャクチャにした災難・災いと思っていたことが、一ヶ月後には、自分の人生を劇的に変換させた、最高の祝福・神の恩寵と感じられているのかもしれません。

そのように、ある出来事が、魂の成長と云う観点において、究極的に「善なる」出来事であるのか、「不幸なる災い」であるのかは、最終的に、人生の終わりの最後の瞬間(あるいは、更にその先に)になるまで分からないことなのかもしれません。

あなた様が現在見舞われている過酷な状況が、祝福すべき良き出来事であるのか、同情されるべき不幸なる事態であるのかは、私には分かりません。

ただ、そういう大変な状況が日々の生活に起こっている以上、その出来事に、そのつど、自身の中心(奥底)の声に耳を澄ませ、耳を傾けながら、瞬間瞬間、自身を通して最善の対応が為されることを神に(あるいは運命に、あるいは何かは分からない絶対なるもの somethingGreatに)祈りながら、一瞬一瞬、泳ぎ抜いていくしかありません。

その、為した対応が、良きものであったのか誤ったものであったのかは、誰にも、どこまで行っても分からないことです。

今、自分にできる、自分に考えられる最善だと思えることを、祈りを持って、愛を持って為すしかありません。

結果は神に任せ、また成功か失敗かの判断も、自分の限定され、短いスパンで考えられた、小さな頭で出すことなしに。

ただ、私自身の(これも正しいかは分からぬ)印象で言えば、最終的な決断(実際行動)は、内観研修を受けられた後に、もう一度、再度熟考されてからにした方が良いのではないかと思います。

内観後に、もしそれまで考えられていた「最善なる対応」とは異なった「最善・解決策」に思い至ったときに、それを方向修正できるだけの余地を残された形で屋久島に来られることをお勧めしたく思います。

以上、私の書きました提案が、良いもの・適切なものであるか間違ったものであるか、私自身にも分かりません。また、責任も取れません。
しかし、今の私に思いつける、最善だと思える提案を書かせて頂きました。


□質問

もし私が自分の嫉妬に気づけば、嫉妬は消え去るのでしょうか?

■バガヴァン

はい、そうです。
気づきがあるとき、このエネルギーは嫉妬を破壊します。
なぜなら、気づきによって、
嫉妬が利益をもたらさないことが分かるからです。

実際、嫉妬は皆さんをきつく締めつけています。
皆さんのエネルギーを浪費しています。

皆さんは、有能なビジネスマンですから、
自分に有利ではないとわかれば、相手にとって不利になるようなことをするでしょう。

皆さんが嫉妬に気づけば、それがいかに人間関係を壊し、
エネルギーレベルを損ねているかが、とてもはっきり分かります。

皆さんにとって、何も都合のいいことはないのです。

それを見れば(それが分かれば)、皆さんは自由です。

ですから、私がいつも話しているように、
そこには時間も必要なければ、努力も必要なければ、エネルギーも必要ないのです。

私がいつも取り上げる話しとして、ロープを蛇と間違える例えがあります。
最初、皆さんは恐怖におののいています。
そこへ突然誰かが明かりを持ってきます。
明かりに照らされて、それがロープであって、蛇ではないことが分かります。

この明かりが気づきなのです。
気づきがあるとき、「何だ、ただのロープだ。」と分かります。
その瞬間、恐怖は消え去ります。
時間もかからなければ、エネルギーも使わなければ、努力もいりません。

同様に、怒りや嫉妬があるとき、気づきは懐中電灯のようです。
懐中電灯をつければ、正確にそれが一体何なのか、その原因は何なのかが分かります。

そして、それがストーリーを話し始めます。
そしてその嫉妬に関して、完全な真実が分かるでしょう。

いったんその真実が分かれば、
嫉妬がいかに自分を破壊しているかが分かり、
たちまち嫉妬は消えてしまいます。
なぜならマインドは、役立たないことは何もしないからです。

それが、私が皆さんに、時間もエネルギーも努力も必要ないといっている理由です。

必要なのは気づきです。
この気づきは、ちょっと練習すれば得られます。

bそれは、ちょうど自転車や自動車の運転を習ったり、音楽を習ったりするのと同じです。

特別な行法が必要なわけではありません。

それは、学校で教えられるようなことですし、
もし、皆さんが自分の子供に教えれば、あっという間に覚えてしまうようなものです。

残念なことに、私たちの社会ではこのことを教えませんし、
これが分かったときには、かなり年をとっていて遅すぎるのです。

それはちょうど、ある種の技能は、年をとってからではなく、
若いときに学ばなければいけないことと同じです。
ですから、これは特殊技能のようなものです。

技能が身に付けば、少しずつですが、
とても自然にしかも簡単に身に付いていきます。


□質問

人間関係を扱うことについて、
あるいは、人に対して安心のより所を置くことについて、
悟っていない人は、どのように立ち向かっていかなくてはならないのでしょうか?

人間関係の中でうまく安心感を保つのに、どのようにしたらいいのでしょうか?

■バカヴァン

皆さんが知っているように、私たちには二種類のやり方があります。

ひとつは悟った人のためのもの、
もうひとつは悟っていない人のためのものです。

悟った人には、教えは必要ありません。
なぜなら意識状態が自動的に彼を導きます。

悟っていない人には、私たちは「自分自身でいて下さい」「どんな自分であろうと、そのままでいて下さい。」と言っています。

例えば嫉妬についてです。

私は何度も何度もこのことを繰り返しお話ししています。

なぜなら、これは最もよくある一般的なことだからです。

今もし、皆さんが悟っていないなら、「自分」があります。

「自分」があれば、比較が始まります。

なぜなら、比較することは「自分」が生き残る手段からです。

そして比較のあるところ、嫉妬が始まります。

さて、問題が始まるのは、「嫉妬してはいけない。」と皆さんが思ったときです。

つまり、皆さんは「嫉妬のない状態にならなければならない」などと、いつも目の前に目標や理想を掲げます。

これこそが問題の始まりなのです。

嫉妬から嫉妬のない状態へは移ることはできません。

嫉妬の何が問題でしょうか。

自分があれば、嫉妬があって当然です。

これが唯一の真実です。

今、皆さんが嫉妬から逃れようとせず、嫉妬を非難せず、自然にあるものだと受け入れるなら、不思議なことが始まります。

つまり、闘いが終わるとき、喜びが始まるのです。

ですがその喜びは、悟った人の喜びとは違うものです。

まったく違う喜びです。

この二つを比較しないで下さい。

ここで言う喜びとは、悟った人の喜びとは異なる種類の喜びです。

ですが、悟りまで行かなかったとしても、ある程度心の開花があり、人生はとても素晴らしいものになります。

つまり、単に自分自身のままでいる状態です。

ここでは、深淵で偉大で根本的なものを意味して話しているわけではありません。

「自分のままでいて下さい」と私たちは言っていますが、そのような深淵な意味はありません。
b
つまり単に、そのままの自分を受け入れると言うことです。

そうです。

皆さんは怒りがあることが自然なのです。

嫉妬があって自然なのです。

暴力的であって自然なのです。

それが生(なま)の自分なのです。

皆さんはそれを変えられません。

それがハプニングとなって皆さんに生じなければなりません。

変わろうとするどんな努力も、問題を作るばかりです。

それは問題を複雑にし、さまざまなトラブルの原因になります。

皆さんはそこで真実を見落とします。

bですから、変わろうとするのではなく、
むしろ嫉妬や心配、恐れを抱きしめ、恋してみて下さい。

そうしたら何が起こるかを見て下さい。
やってみて下さい。

何がどうやって起こるかなど考えずに、とにかくやってみて、見てみて下さい。

何か驚くべきことが起こるでしょう。

それは悟りにまでは導かないかもしれませんが、
それでも確実に、皆さんをとても素晴らしい状態へと導きます。

ですから同じように、皆さんは、
自分が安心感を必要としているという事実も受け止めなければなりません。

皆さんは、父母、兄弟、妻、夫、恋人、自分の知識や富や権力などから安心感を得なければなりません。

どんなものからでも構いません。

ここで私たちが、この手法の中で提案したい大切なことは、
皆さんが安心感を得ていく中で、安心のより所をうまく配分すべきだということです。

bひとつのバスケットに卵を全部入れてはいけません。

父や母、恋人、誰でも構いません。

あるいは学歴でも美貌でも、何でも構いません。

安心のより所をいくつかに配分すべきなのです。

これは安心感というものに対しての上手な取り組み方です。

もし皆さんが悟っていないのなら、安心感が必要なのです。

皆さんは、隙だらけになるべきではないのです。

逆に、自己を無くした人は自ずと隙だらけです。

なぜなら、その人にとって保護するもの、守るものは何もないからです。

つまり自己・自分がないからです。

逆に、もし皆さんにまだ自己があるなら、抜け目なく、現実的に自分自身を守らなければなりません。

自分の安心のより所を創り出さなければなりません。

そして、そのベストな方法は、安心のより所を配分することです。

卵をいくつかのバスケットに配分します。

これが皆さんのすべきことです。

そしてもし、そこに関わっている相手が、あまりに移り気な人なら、少し注意すべきです。

もし彼が浮気心を見せ始めたら、皆さんの側でこの人間関係を終わらせる覚悟をしなければなりません。

そして他の誰かに乗り換え、しがみつくべきです。
これをうまく実践すべきなのです。

ですから悟っていない人、悩んでいる人がやって来たとき、私たちの対応はまったく違うのです。

そういった人たちに、ここでプロセスを受けて下さいとは言いません。

私たちはただ会話をし、安心のより所を再配分するだけです。

そうすればその人はとても幸せになって帰っていきます。

これは二つのレベルで働きます。

若者に話す場合、自己が解放されること、隙だらけになること、愛を発見することなど、そういった内容には言及しません。
そんな話しはしません。

私が話すのは、シンプルな愛の発見です。

つまり、恋することを話し、私たちはそのお手伝いをします。

もう一方で悟りたいと思っている人たちには、彼らの愛を高めていきます。

これら二つは別々のものです。

愛と言っても異なるものです(訳注:愛と恋)。

ですから、皆さん(訳注:青少年向けコース参加者を指す)の場合、私の祝福は、皆さんが恋するのを助けます。

今日、人々は恋することさえ難しそうに見えます。

だからこそ、私たちはそれを助けているのです。

なぜなら、それは皆さんが必要としているものだからです。

そしてもし、皆さんが本当に恋に落ちるなら、本当に嫉妬するなら、本当に欲深くなるなら、どうなるでしょうか。

私からはっきりお伝えしましょう。

そういった人こそ、遅かれ早かれ悟りに至ります。

逆にもし皆さんが、「いえいえ、私は嫉妬はしません」「自己中にはなりません」「私はとても素晴らしい人間です」などと、ゲームを続けていく限り、つまり、悟っていないのに悟った人のように振る舞っている限り、哀れな人間です。

あらゆる生き地獄を味わい、惨めな人生になるでしょう。

それとは逆に、「私は、悟りを得ていません。これが私の性格です」「これが私です」というスタンスを取ってみて下さい。

それの何が悪いのでしょうか。

そのまま生きて下さい。

そのときこそ、皆さんはたくさんの幸せを発見するでしょう。

私はb、高い幸福状態について言及しているわけではありません。

そこまで行かなくても、たくさんの幸せがあります。

ある種の愛と喜びがあります。

こういったすべてのものが皆さんに訪れます。

このようにして生きるべきなのです。

これこそが悟りへのベストの準備方法です。

私たちのもとにはよく、世間的に不健全だとか堕落していると呼ばれている人たちがやって来ます。

私たちが「プロセスに参加しませんか?」と訊ねると、彼らから「何か楽しいものがあるのかどうか教えて下さい」などと問い掛けられます。

それで私たちは彼らに問い返します。
「言い換えるとそれはどんな意味ですか?」と。

完全に堕落した彼らはこう訊ねます。
「何か不便なことはないですか?」と。

さらに「何日間、禁煙を守らなければならないのか?」、「何日間禁酒を守らなければならないのか?」、「その間に飲酒はできるのか?」などと。

そんな風に一見彼らは実にひどい人々に見えるでしょう。

しかし、私から言わせてもらえば、彼らはとても早く悟れます。

なぜなら彼らはとても素直だからです。

彼らはまさにありのままです。

彼らは努力なしに悟れます。

皆さんはきっと、それを見て唖然とするでしょう。

その逆で、善行を実践し、美徳を養おうとしている独善的な人たちはどうでしょうか。

善行や徳というものは、自然にそこにあるべきです。

もし皆さんが美徳を養っている限り、それは悪徳だと私は思います。

皆さんが知ってのとおり、美徳を養うことは実にひどいものです。

なぜなら、皆さんはまったくそうでないのですから。

好きでもない相手に、皆さんは笑顔を振りまき、とても優しく対応します。

知ってのとおり、それはものすごい重荷です。

皆さんはすごく嫌いな相手に対して「あなたのことをこんなに愛しています」と言い続けています。

皆さんは心地よいですか?

皆さんは本当のところどちらなのでしょうか?

皆さんのバックグラウンドが嫌悪感であれば、それはとても難しくなります。

他方、もし皆さんが弱い者いじめで、「お前が憎い」と言って、相手に喧嘩を売るような人なら、その人は恐らくよりふさわしい悟りの候補者だと私は思います。

なぜなら、その人は真実を話しているからです。

ですから、自分自身に真実でいて下さい。

すると不思議なことに自分が良い人間になっていくのに気づくでしょう。

ここbで「良い」という言葉の意味は何でも構いません。
そこに葛藤はありません。

ある種の愛が自然に育ちます。
たくさんの素晴らしいことが始まっていきます。

……
Oneness on the earth vol.2 (有)カルキ・センタージャパン発行より 抜粋