内観法へのご案内

昭和48年に、奈良の内観研修所から初版発行された小冊子、『内観法へのご案内』より。


苦悩はどこからくるのか

人は誰でも、一生のうち一度や二度、死にたいほどの苦しみを体験します。

それほどでもないとしても、さまざまな人間関係のなかで生きてゆかねばならない私たちにとって、毎日が悩みのなかの生活である、とさえ言えます。

私たちのこころは、弱く、歪みやすいものであり、ともすれば、ひがみ、ねたみ、うらみ、怒り、慢心…などが渦巻く暗い洞窟に閉じ込められてしまいがちです。

そして、そのような自分が、知らぬ間に他の人を傷つけ悲しませていることに、なかなか気がつきません。
知らず知らずに隣人の心を傷つけ、踏みつけにしたりして、いつの間にか隣人との間もうまくいかなくなることが、私たちの毎日にどれほど多いことでしょう。

そして、この傷つけ合いは、自分の心の歪みが原因になっていると云うことに、なかなか気がつかない場合が、どれほど多いことか。

人の心を傷つけた刃が、返す刃で自分の心をも突き刺していると云う、この悪循環のなかで、私たちの心は蝕まれていくのです。

火の車 作る大工はなけれども
己が作りて 己が乗りゆく     (* 己=おの=自分)

悲しみや苦しみは決して他からやってくるのではなく、自分の心のなかに潜んでいる我執や虚栄心がもとになっているのですが、なかなかこれに気づくことができません。

実は、これに気づくことが、苦しみや悩みから脱出するうえで、いちばん大切なことなのです。

この、闇につつまれた自分の心をとらえるには、どうすれば良いのでしょうか。

ソクラテスの「汝自身を知れ」と云う言葉は有名ですが、どうすれば自分を知ることができるのか。

この具体的方法を提示したのが、この小冊子にご紹介する「内観法」なのです。

内観法の意義

さて、闇につつまれた自分の心に光を当てるには、どうしたら良いのでしょう。

それには、まず自分の心と向き合わなければなりません。

それは、勇気のいる、苦しい仕事ではありますが、その苦しみは「産みの苦しみ」なのです。

ともすれば自分自身を偽ってでも生きていくのが人生なのだと思い込み、いつのまにか、それに慣らされている世の中にあって、改めて真実の自分を直視することは容易ではありません。

たいへん努力のいることですが、これをしない限り、心に光を当てることはできません。

自分自身と向き合うこと、謙虚に自分の過去を見つめることこそ、内観法の出発点であり、すべてなのです。

普段、私たちは、自分の力だけで生きてると思いがちです。

もちろん、他人に対して多少の恩義や感謝の念は持ってはいても、本心では自分の力を過信して生きています。

これが、「俺が、俺が」と云う我執や慢心を招くもとであり、裏を返すと、失意のどん底にあるとき、「自分は、一所懸命努力したのに、あいつの為にこうなったのだ」と云う、うらみ、ひがみにつながる原因にもなるのです。

しかし、私たちは、自分の生活史をさかのぼって考えるとき、すなわち両親をはじめとして自分の生活史に登場してくる全ての人々との関係を詳細に思い起こすとき、自力で生きてきたと思い込んでいた自分が、実は、他の多くの人々によって「生かされてきた、生かされている」ことに気がつきます。

過去の事実によって浮き彫りにされた自分が、いかに我執にとらわれ、無明の闇を生きてきたのかを痛いほど思い知ることができるのです。

「自分の過去を思い起こすことが、なぜ現在の苦しみ・悩みの解決につながるのか」と云う疑問を持たれる方も多いと思いますが、これは後に述べる内観の実例をお読みになれば、ご理解いただけるものと思います。

また、「自分はいつだって、そのくらいのことは反省している」とおっしゃる方も多いと思います。

もちろん、「内観」も「反省」も、だいたい同じと考えていただいて結構ですが、普通に云う「反省」は、ともすれば頭で考えたり、理屈に走りがちで、観念のカラまわりに終わってしまいがちです。

内観法がいちばん大切にしていることは、過去の事実をできるだけ詳しく、細かく、思い起こすと云うことです。

そこには理屈もなければ、いたずらな観念のカラまわりもありません。

いままで闇に閉じ込めたままになっていた対人関係の過去の事実を掘り起こし、詳細に調べることによって、この掘り起こされた事実が、法廷における検事のように現在の自分に迫ってくるのです。

そして、くり返しくり返し、深く、より深く記憶をたどることによって、思いがけない事実にぶつかり、まるでカミナリにでも打たれたような、劇的な体験をします。

なぜ、こんな大切なことを忘れたまま生きてきたのだろう、と云うことを、数え切れないほど思い知らされます。

思うに、私たちは現在の自分に都合の良いことだけを覚えていて、そうでないものは、いつの間にか闇に葬り去っているのです。

そのために、自分の姿を正確にとらえることができず、常に動揺と不安を繰り返すことになるのです。
葬り去った事実のなかにこそ、現在の自分の姿を正確に位置づけ、評価づける素材が隠されているのです。

内観法は、方法としては至って簡単なものです。

「自分は、母に、いつ、どういうことをしてもらって、そして、いつ、どういうことを母にしてあげたか」と云う事実だけを粘り強く思い起こすのです。

同じようにして、現在までに接触のあった全ての人に、そうします。

哲学や論理的な考え方は一切不要です。

ごくありふれた日常的な対人関係の事実を思い起こすことによって、今までの人生に大きな忘れ物をしてきたことに気づき一刻も早く、その埋め合わせをしなければ、と云う、苦悩と不安を乗り越えた意欲的な人生が、内観体験のあとに待っています。

記憶の底に沈められた過去の事実を、現在の自分にぶつける努力のなかに、私たちの人生を大きく変えるカギが隠されていることを内観法は教えているのです。

内観の目的

いかなる境遇にさいなまれても、「ありがたいなあ」「幸せやなあ」と受け取れる心境になる方法が内観です。

他の人から見て、「あの人はかわいそうやなあ、気の毒な境遇の人やなあ」という立場であっても喜んで暮らせる、そういう精神状態に転換すること。
どんな地位、境遇、立場、状況にあろうとも、「ありがたいなあ、わしみたいな悪い奴が今日も元気で達者に、こうして暮らさせてもろうて、幸せやな。どこ痛い、どこ痒いっちゅうことあらへん。本当に私は幸福やなあ」と、感謝の気持ちで暮らせる、そういう心のすみかに大転換すること。

それが内観の目標であります。(吉本伊信師の言葉)

この言葉の味わいの深さに、内観のすべてがあるように思えます。

「わしみたいな悪い奴が」と云うところに、「罪と悪、煩悩の自覚の深さ」と「感謝、有り難さ」が互いに逆照射し合い、共に高まり深まる、内観独特の「懺悔-感謝」の構造が有ります。

そして、また、それが倫理的・道徳的な説教(方向づけ)によってではなく、前提無しの、冷徹な自己(事実)観察、自己(事実)認識によって引き起こされるところに、内観法の凄さがあるのでしょう。


(内観は)

自分についての事実を調べ、
それに基づいて物の見方を修正するだけですから、
鏡を見て髪を直すのと一緒です。

実に適切な喩えだと思いました。

親・兄弟・家族・職場の人間関係など、身の回りの他人を鏡として、そこに映った自分の姿を正確に見る。

正しい観察による、自己認知・自己認識の修正。

それが、内観の基礎であると言えるでしょう。

それを自己による内省だけではなく、他人と云うを使って行うところに内観の特徴が有り、自己防衛的な認識パターン、自己正当化の物語からの脱出が容易である秘密もあるのでしょう。