気づきの瞑想コース10日間 42歳女性

● 参加の動機

十数年ほど前から精神世界や宗教に興味を持ち、その教えを諸々の問題や人生の悩みなど実生活に生かそうと試みてきた。
その過程で自己観察の重要性を認識した私は、5年ほど前に初めてゴエンカ氏のヴィッパサナー・コースに参加し、以後何回かコースに行ったり自分で瞑想を実践してきた。

だが瞑想を続けていても、大して何かが変わったという実感が伴わない。
そして精神世界の教えを知ることで、返って世間の中で生き辛くなることさえある。

世の中には修行(瞑想)を日々実践することを勧めるものもあれば、努力は要らない(むしろ妨げとなる)のような矛盾する考え方があって、凡人の私は頭が混乱してきた。
それでも自分の信じる道を行こうと瞑想に励むのだが、心のどこかに疑念も出てきて悶々としてしまうのだった。

自分のやっていることが雲をつかむような、心許ない状態が続いていたので、これを解消したい、何とか突破口を開きたいとの思いからいろいろ調べているときに見つけたのが霊基さんのサイトだった。
理論がしっかりとしていて説得力がある。
私の悩みどころの答えがあるような気がした。
こうして研修を受けることを決めるに至った。

● 研修序盤

他の流派の瞑想技法として、ラベリングのことは知っていたが、特にやってみようと思ったことはなかった。
感覚の観察に言葉を使うということに何となく抵抗があった。
しかし、ここの研修ではラベリングを使うということなので、先入観は捨てて取り組んでみることとなった。

1~2秒間隔でラベリングを入れ続ける、
6つの門が変化するごとにラベリングを入れる、
止まっているときは中心感覚に集中しラベリングを入れる、など、
霊基さんに指示を受けていよいよ開始する。

だが思うよりも難しい。
心の動きに言葉がついて来ない。
感覚ばかりに神経を注いでしまうと言葉が途切れる。
咄嗟に適切な言葉が浮かばず頭が混乱する。

これまでやってきたゴエンカ氏のヴィッパサナーでは徹底的に身体感覚に集中する。
それ以外に入ってくる情報は可能な限りバッサリ切り捨てる。

一方、ラベリングを使うヴィッパサナーでは、身体感覚を感じながらも、意識の動きを追っていく。
前者が完全に閉じた状態を目指すのに対し、後者は閉じつつも開いているというか、2段構えの観察という感じがした。

どちらにしても強敵はやはり思考だった。
意識の隙間から忍び込んできて、気づいたときは獲物と化している…。
そしてラベリングが切れている。
「今度こそは」と決心してから1分もたたないうちに思考に取り込まれて、また最初からやり直し…。
その繰り返しだった。

自分が思考まみれだということが改めてよく分かった。
霊基さんも最初は「力ずくで」とのことだったので、とにかく集中することに全力を注ぐ。
見た目は瞑想だったが、頭の中では「意識 対 無意識」の大バトルが展開していた。
私はずっと劣勢だった。

めげずに作業を何度も繰り返す。
こうした苦戦のなかでも感覚が少しずつはっきりしてきた。

● 研修中盤

半断食が効いてきたのか、少しずつ集中力は高まっているようだ。
体調も良かった。
だけどまだ思考や妄想に陥る。
思考をなくせなくても、もっと少なくするにはどうしたらいいんだろう…?

歩く瞑想の間に、自分の意識がつねに動作の先に行っていることに気がついた。
気持ちが完全に「今」にない。
そうか、ここに思考が入り込んでくる余地が出てくるんだ。
動作を細かく分解し、それぞれを「最初で最後」のつもりで集中し、ラベリングを入れていくよう努めることにした。

これにより、すべての動作が遅くなった。
食事には半日ぐらいの時間がかかった。
動作に伴う感覚を細かく感じ取りながら言葉で確認していく。
手の動き、茶碗を持つ指、口のなかでは舌、頬、唇などの細かい動きに至るまで、無意識レベルで快・不快に応じ多数のインテンションが起こり、それに基づいて動作していることを実感した。
自分の身体が、自分の気がつかないところで勝手に動いていると思った。
自分の身体ではなく、もはや違う生き物のような感じさえした。

この頃からラベリングの効用みたいなものが理解できるようになってきた。
間断なく言葉を入れ続けることで対象から意識が離れないよう繋ぎ止める。
そして言葉が感覚を呼び起こす命令となる。
例えば、足裏に意識を集中し「感覚、感覚」とラベリングを入れていくと、曖昧だった足裏の感覚が確実に鮮明になってくる。

また、言葉によって感覚の質が変化することも分かった。
茶碗を持っている指の感覚に集中しながら、「冷たい」とラベリングを入れると磁器の冷たさが、「重み」とラベリングを入れると茶碗の重みが指に伝わってくる。

だが、いつもなんらかの気づきがあるという訳ではない。
霊基さんに「何かレポートすることは?」と聞かれても、言葉に詰まることもあった。
そんなときは自分がひどく愚鈍に感じられ、気持ちがへこむ。

もっともっと集中力を高めようと思った。
それに伴い、動作はさらにゆっくりになっていった。

● 研修終盤

終盤に入ると、ささいな用事を済ませるのに相当の時間がかかる。
着替えも面倒になり、起きているときも寝るときも同じ服を着たままだった。
このころの様子はまさに、私が身体の不自由な病人で、霊基さんはそれを世話する介護人のようだった。

気づきがもたらされるようにと、食事の前に請願をかけるよう霊基さんに勧められる。
今日も気力・体力が持つ限り、集中してやってみようと心に誓う。
一瞬一瞬を感じ取れるように、手を伸ばし、茶碗に触れて持ち上げて、寄せて…とやっていくうちに、ふっと意識が遠くなるような瞬間があった。
茶碗を上げようとしているのか下げようとしているのか。
「私はこの茶碗を持って何をしているんだろう」
こんな不思議な感覚に陥る瞬間が何度かあった。
インテンションがなければ、個々の瞬間はすべて等価なのだと思った。

8日目に食事の様子を霊基さんにチェックしてもらう。
そこで思いっきりダメ出しを食らった。
「時間をかければいいってもんじゃないですよ。ちゃんとポイントを抑えてなければ」
なんでも重要な箇所がきちんと抑えられてなく、無駄な動きが多いとのこと。
気を取り直してもう一度初めからやり直す。
だが途中で疑念が沸いてへたってしまう。
ほとんど食事が進まないまま、時間ばかりが過ぎていった。

再び霊基さんが様子を見に来たときにも、まだ食べ物がほとんど残ったままだった。
よくポイントが分からなかったことを伝え、もう一度説明してもらう。
なるほど、まだ無意識に動いている部分があるのだ。
指の1本1本にいたるまで、すべての動きを意識の遡上にのせる必要がある。
何だか気が遠くなってきた。

別のときには、「(もし本当に輪廻転生と云うものがあるならば、という前提で)ここで研修する機会を得たというのは前世でかなりの徳を積んできて叶ったことなのに、ここで全力を尽くさなようでは、来世はもっと低い地位に落ちるということですよ。今回で結果を出すという意気込みで臨まないと」というような趣旨のこと(ほんとはもっと長かったが)を言われた。

ひぇっ。また檄が飛んできた。霊基さんはときどきおっかない。
要するに甘いということか。確かに私にはまだ余裕がある。限界まで行っていない。
ここにきてようやくお尻に火がついた。
よーし、結果はどうでもいい。やれるところまでやってみよう。

亀のような動きで歩く瞑想を始める。
言葉によって感覚がしだいに明確に、鋭敏になっていく。
磁力が働いているかのように、足裏が床に吸い付く。
もはや感覚が皮膚の内側に収まっているような気がしなかった。
ラベリングの言葉もついてくる。
だんだん楽しくなってきて、夜半過ぎまで瞑想を続けた。
布団に入った後も身体のビリビリ感が鮮明だったので、そのまましばらくラベリングを続けた。

そして最後の食事。
今回こそポイントを押さえてやろうと気合を入れる。
食事の途中でくたばってしまい、いったん休憩して少し寝た。
その後再開するが、何気ない細かな動きまで見張れるようになってきたような気がした。

食後は多少疲労感が出てきたが、気力と集中力を最後まで維持するよう努める。
ラベリングが続くので、動きの中で言葉を入れる微妙なタイミングを見計らってみた。
ベストの瞬間に言葉が入ると気持ちよかった。
対象に小気味よくジャブが入る感じだ。

こんな調子で最後まで続けた。
幸い、体力・気力がそれほど衰えることはなかった。
まだまだ行ける感じもした。
だが夜の時点で研修は終了となった。
霊基さんが夜食のうどんを用意してくれた。
もう時間をかけてあんなにゆっくり食べる必要はない。
なんだか妙な感じがした。
しばらく、うどんを目の前にただボー然としていた。
「そうか、もう普通に食べていいんだ」
気を取り直してうどんを頂いた。
意識を向けると手足にはまだジンジンとした感覚が鮮明に残っていた。

● 研修が終わって

研修終了後の翌日は、今までの体調のよさが疲労感の塊に一変した。
身体がずしっと重く感じられた。
また、帰宅を目前に控え、現実の日常生活におけるあれやこれやのややこしい状況や問題が、ラベリングの合間を縫って脳裏にチラチラと浮かんできた。
少し気が重くなった。
このあたりの心髄観については、これからの課題だと思っている。

空港で霊基さんと別れてから、飛行機の機内でちょっとおもしろいことがあった。
飛行機が出発し加速するに伴い、自分の身体がシートに押し付けられる感覚を感じていた。
機体が地面から離れると、身体もふわっと浮き上がる。
そのとき気持ちも一緒に軽くなったような気がした。
「なんだ、すべて今のままでいいじゃん。今の状況も、まわりの人々も、私も。ぜーんぶこのまんまで」
今まで塞がれていたものがぱっと開けたような、安堵のような不思議な気持ちだった。

その後、なぜかおかしさがこみ上げてきた。
私はこれまで何をやってきたんだろう。
精神世界の周りをちょっとウロウロしていただけじゃないのか。
自己観察もスカスカだった。
今までやってきたことは単なる助走だったんだ。
ようやくスタート地点に立ったという気がした。
必要なツールは授かった。
あとは自分しだいだ。
鈍い私がどこまで行けるのか、やれるだけやってみようと心に誓った。

● 最後に

研修の間、霊基さんから修行時代のエピソード、さまざまな流派・テクニックに関することなど、色々な話を聞かせていただき、どれも興味深く、引き込まれるように聞き入りました。
その中で霊基さんご自身の考えなども伺うことができ有意義でした。
でも何よりの収穫は、修行者としての態度、心のあり方みたいなものを改めて認識したことです。
やはり人は人にインスパイアされるものですね。
色々とお世話していただいたこと、熱心に指導してくださったこと、檄を飛ばしていただいたことも、ぜんぶ感謝、感謝です。