理論と現実

宗教、政治、歴史観に始まり、個々人の生活における意見の相違まで、異「教義」間、異「思想」間、異「世界理論」間で繰り広げられ、繰り返される、果てしない貶しあい、相互無理解と相互嫌悪・憎悪、自教義(自理論)の一般化・絶対化・普遍化と、他教義(他理論)に対する恣意的で一面的な読み取り・読み込みと、批判、こき下ろし、嘲笑。
自教義(自理論)の普遍化(布教)による世界平和・世界統一を言う者同士の果てしない戦い、終わりのない地域紛争の現実。

それらを見たとき、思わず、こう問うてしまう。

なぜ、人間は、「同じ」世界を、こうまでも異なったものとして(異なった意味の体系として)認識してしまうのだろうか?

これら異教義(異理論)間を見渡すことができる、ある超越的な視点を確立できないものか?
せめて、議論を可能とするための共通の土台・土俵を作ることはできないか?
それによって、この「神々たちの戦い」を終わらすことはできないのか?

そのような思想的試みは、これまで繰り返し行われてきました。

これから行いたいのは、(私なりの)そのような試みの一つです。

これは、主に「私の根本問題」の3番目(世界イメージ防衛)に関する主題です。そして、その根は、おそらく2.の「自己イメージ防衛」の問題圏にあるのでしょう。

骨子となる三つのアイデア

1. 理論と現実の循環構造

2. 理論の相互包摂 (多極的-重層的世界モデル)

3. 理論の透明化作用論

他者の発見

普通、平均的環境で育った子供は、「自分は、世界と云う一つの広場のような場所に、自分含め、多くの人たちが住んで暮らしている」と云う、世界像を漠然と持つ。
改めて、「世界の客観的認識の可能性」とかを考えたりはしない。=知覚的認識の同型性

「他者=他なる世界の開けの原点」などと云う問題を考えるのは、幾ら話し合っても理解できない異教義(異理論)の持ち主の存在を知り、この世界を自分と全く異なった仕方で捉えている個人(あるいは集団)が存在することを知ったときから始まる。=理論的・意味的認識の異質性

それは知覚のレベルで始まるのではなく、世界の意味(意味づけ)のレベルでの違いを知ることから起こる。

その意味で「他者」とは、

・世界を「他」のように捉えている者
・世界に「他」なる意味を見出す者
・「他」なる意味のうちに生きている者
・「他」なる理論を持って世界を定位する者
・世界を「他」なる意味の体系として眺める者=「他」理論の信奉者

のことであろう。

理論・教義の選択

Q: なぜ、「同じ」世界に住みながら、異なる世界像を築いてしまうのか? 異なる現実を見てしまうのか?

ある人が、ある理論・思想にコミットし、あるものにはしない。
その選択は。何によって為されるのか?

A: 個々人の持つ過去、条件づけ、カルマが世界の認識・理解・観察に影響してしまうから(を支配してしまうから)。

カルマ・条件づけの自動展開としての思考=認識

遺伝

・生物種のレベルでの条件づけ(人間・ヒトと云う限定)
・個体レベルでの条件づけ(限定)
・遺伝レベルでの条件づけ(限定)

環境

・歴史的=時代的環境(条件づけ・制限)
・社会=文化的環境(条件づけ・制限)、家族環境など
・情報=知識的環境(条件づけ・制限)
・偶然的遭遇(因果の網の目、奇遇なる出会い)

遺伝+環境が全てを決める。

条件づけ(カルマ)と、見えている現実・世界の相互依存(相互産出)、循環構造。

この「条件づけ」の問題

間-主観的に<真>

世界の在り方に関する「真理」「事実」と云う言葉は、基本的に「間-主体」「間-現実」において<真>、誰にとってもの<真>と云う意味を含む。

私の世界理論は、他者と、その現実をも含んで適用されるのでなければ、<真>とは言えない。

そして、この「世界の真の姿を捉えたい、定位したい」と云う心理的欲求・運動は、「わからない、定位できない」ことに対する、不安・動揺・恐れを原動力としている。
故に必ず、自己の掴んだ<真>、真理、真の世界理論の、他者に対する暴力的適用、普遍化、「精神の侵略主義」になだれ込んでしまう。

自己の掴んだ「メタ理論」を世界全体に適用し、その理論の持つ<原-文節>によって、他者(他-理論)を位置づけ、裁く。

私のこの世界理論が、「私の現実」のなかでのみ<真>であるなどとは、考えられない。(本心では考えていない)

もし仮に、「私の世界理論は「私の現実」のなかでのみ<真>である」と考えている人がいるとしたら、その人は、「本当は他人の世界においても、そうであることは真実なのに、多くの人は、そう考えていない」いないと考える。それは、つまり「私の理論は、間-主観的に<真>だと考えていることになる)

故に、私の世界理論に外(外部)はない(存在しない)。

自教義内への他教義の飲み込み・位置づけ

他「教義」に出合った際の典型的な態度。

自らの教義(言語ゲーム)内に、他「教義」を飲み込み、位置づけ、批判・批評する。

幾つかのパターンがある。

万教帰一的飲み込み型(J・ヒックなど)

同じ山を違う道から上っているだけ。登る道は違えども、頂上は一つ。

真理は一つ、賢者はそれらを様々に呼びなす。

我々と彼らは、実は違う言葉(概念枠組み)で同一なる実在・真理を語っているだけ。

「群盲、象をなでる」

階層型(K・ウィルバーなど)

仏教では、教相判釈と云うかたちで行われた。

教相判釈 – Wikipedia

同質の深層構造型(井筒俊彦など)

いかなる理論的枠組みをも抜け出た、一切の文化的・時代的・個人的な先入見・条件づけにも汚染されない「絶対的なるリアリティ、事実の体験」の認識によって、一切の理論の検証・基礎付けを行えるチン点を確立しようとする→ 禅などの実践家


全ての他-理論を包摂できるメタ理論を作る試みこそが、宗教、思想、哲学の歴史である。
全ての他-理論を飲み込み、説明でき、位置づけることができ、かつ、自身は、如何なる他-理論によっても説明されない(飲み込まれない)絶対的・超越的理論を作る試みが。
しかし、その世界理論は、あっけなく暴力装置に転化する。

二つの世界認識(無極的・多極的)

関連文献

私が「相対主義」という言葉を、どのような意味で使っているのか明確にするため、私にとって「相対主義」的な問題を扱っていると感じた著作や論文を挙げてみます。

野家啓一 『科学の解釈学』『無根拠からの出発』 後半部
橋爪大三郎 「ダブル・リアリティ」論文 『身体論 (橋爪大三郎コレクション)』 所収
入不二基義 「相対主義の追跡」論文 『相対主義の極北』所収
伊藤春樹 「自己理解―相対主義、そしてそれを超えて」論文
永井均 「他者」論文、 『〈子供〉のための哲学』 前半部
柄谷行人 「日本的『自然』について」論文
深澤英隆 「『体験』と『伝統』」論文 『宗教体験への接近 (現代宗教学)』 所収
星川啓慈 『言語ゲームとしての宗教』 第五章