理論と現実の循環構造

第一階層

1. 瞑想宗教の構造 -帰納法-

無心に虚心に世界を眺めれば、世界はミズカラその真相を語ってくれる。
一切の理論的前提=先入観なしに、言葉なしに世界を観察すれば、オノズカラ、その真の構造が立ち表れる。→その「虚心」「無心」に世界を眺めるための技法としての瞑想。

<帰納主義>=(理論を前提としない)観察データの集積のなかから一定の法則性(深層構造)を見出す(抽出する)ことによって、理論が形成される。

2. 科学の構造 -仮説演繹法-

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3. 理論と現実の循環構造

観察データによる、理論の検証/反証の不可能性。

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「理論」が{データ(現実経験)」を産出し、そのデータが理論の客観性を証明し、理論への依存・確信を強める。
その理論を持って世界を眺めれば、至るところに、その証拠を見つけることができる。つまり、理論の外はない。

理論は、世界のうちに姿を表さない(身を隠す)かたちで、その人の見る世界を構成し、成立させる。→理論の透明化作用論

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第二階層

しかし、こうして私に把握・認識された「理論/現実の循環構造」と云う世界の構造・有り様、それこそが、まさに、この理論(理論/現実の循環構造)による観察なしには有り得ない「理論的産出物」に過ぎないのではないか?

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ある理論が分かるとは、その理論による現実の編み直し、組み換えであり、その理論を眼(視覚機構)として世界を眺めてみることなのではないか?

もし、ある「理論」によって編み直され、編み上げられた「現実」を、当の理論によって分析するのであれば、その分析は、必然的に正しいのではないか?

ある理論を眼(視覚機構)として、その視覚世界のなかに、「他-理論」を位置づけ、一面的、かつ恣意的な解釈をすることによって得られる(自-理論にとって都合の良い)断片を取り出し、それを収集する。
その断片を積み上げて、より堅固なる防御壁を作り上げる(より緻密な織物を編み上げていく)。

全ての経験する出来事が、この「理論=防御壁」によって、速やかに/鮮やかに解釈され、説明され、位置づけられていく。

自-理論にとって不整合・不調和な(動揺を起こし、脅威となりうる)情報(データ)は、瞬間的に回避され、意識に上らない、あるいは、無害なものへと変形・解釈された上で経験される。→取るに足りない意見だ、あるいは、表面的である、など。

自己の理論と整合的な理論のみが「深い」と呼ばれ、そして、こう言う。
「世界中の深い思想家は、みな、(自分と同じように)そう言っていますよ」と。
この循環を見よ!

それは、ちょうど全面鏡張りの部屋に閉じ込められ、閉じ篭って居ながら、それを全く自覚していない人に似ている。彼は、至るところに自分の顔を見る。しかし、彼にとって、それが世界=他者の姿なのだ。

そのとき、生きること(経験すること)は、過去の反復、理論の追試に過ぎない。

彼は、世界が、よりクリアーに見えてきた、より認識が深まってきたと感じる。

「まるで、眼からウロコが落ちたようだ!」と。

しかし、「眼からウロコが落ちたのと、眼にウロコが飛び込んだのと、どう見分けられるのか?」


ある「理論」を持って「観察」するならば、、その理論の予想した(と整合的な)現実経験が得られる。
つまり、「観察データによる理論の検証/反証は不可能である」
理論がデータを産出する。

しかし、それならば、この「理論と現実の循環構造」と云うアイデア=理論を持って世界内の様々な教義、思想、理論を観察した場合、それらがことごとく、この循環に(無自覚に)ハマッテしまっているものとして見えてくるのは当たり前であって、それは自己回帰的な観察を行っていることにしかならない。

この行き詰まりの解決は何処に見出せるであろう?

この循環の中に出口はない。

これは、この構造を内破する以外、道のない問いであり、それを突破したとき、理論の外部、他者が姿を現すであろう、Art of Awarenessの唯一の<公案>(impossible question)である。

最初で最後の公案