「五蘊皆苦」と「五蘊皆空」―テーラヴァーダと大乗仏教

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なぜ、一般的な瞑想宗教では、あるがままの現実を観察したとき、「五蘊皆空」―現象は空である、すべては私である、となるのに、真性のヴィパッサナー瞑想では「五蘊皆苦」―あるがままの現実は「苦(ドゥッカ)」であるとなるのか。

これは、単なる言葉や文化、時代の違いで説明できるレベルの問題ではなく、修行法、到達地点全体に関わる深刻なズレであり、重要な問題です。

このことについて書いていきます。

・生物学的一瞬

『動物は世界をどう見るか』

p.182~
サンプリング時間 カメラの露出時間
500分の1秒と15分の1秒 単位時間当たりのコマ数
映画 1秒に24コマ

CFF(臨界融合頻度)=視覚での時間的分解能(解明度)
ミツバチの視覚的一コマは人間の5分の1程度。

『意識のなかの時間』 エルンスト・ペッペル

『生物から見た世界』 ユクスキュル

サマタは空間的な心の集中、サティは時間的な心の集中・分解

悟りとは、過去・現在・未来に渡って変わらない私が存在するという誤解を解くことです。
この誤解は、時間的に微細な、非常に速い、心の認識レベルで起こっています。
ですから、認識を時間的に詳細に分解するサティが必要になるのです。

サマタで心をいくら空間的に絞り込んでも、時間的な誤解を解くことはできません。
サマタで心が一点に集中しても、身体が消えたとか、気持ちいいとかで終わってしまいます。
瞬間瞬間の自分が別人であるという事実を納得するには、微小な時間間隔で思考を切り捨て続け、
「いまここ」の感覚だけに集中する、サティが必要になるのです

◆ 空間的融合と時間的分解 禅とヴィパッサナー samadhiとsati

◆ 包括的意識→satiと、排除的集中→samadhi

● 包括的意識、排除的集中

我々の意識において、注意の向け方には、その方向性には大きく言って2通りある。包括的な意識(Inclusive)と排除的集中(Exclusive)である。前者は全体的な、偏らない方向性を持ち、後者は限定された、狭い範囲への方向性を持つ。実際の意識はこれらが適当に混合されている状態である。

周りで起こる全てのことに注意が行き届くように意識をすること。それが包括的な意識。パソコンでキーボードをたたいていても、後ろの音がちゃんと聞こえていて、ディスプレー以外のものも目に入っているならば、それは包括的な注意集中。

一つのことに注意を集中して、他のことが気がつかない状態の時、それは排除的集中。読書をしてそれに没頭していて、ご飯を食べる時間が過ぎているのも忘れているなら、それは排除的集中。

時に応じてふさわしいやり方が選べればよい。

仕事などしていて、いろいろなことに気がつく人は、包括的な意識が得意である。料理などが得意で手際よく調理していくには、周りのことを全体をよく注意できるこの意識が役に立つ。

あることを達成するためには、痛みを忘れて没頭する必要がある場合もある。痛みを排除して集中することが必要になる。

◆ 気づき(Awareness)と集中(concentration)~集中しないと進歩しない~

キ:OSHOによれば、気づき(Awareness)とは集中(concentration)ではないと語っていますが?

ア:それは目覚めた存在にとっての真実だ。

キ:目覚めた人、ですか?

ア:そう。目覚めていない人の事ではない。

キ:どういう事ですか?

ア:つまり、意識が安定すればもはや集中する必要はない。それはもっと自然に機能する様になる。
しかし目覚のプロセスにおいては、気づき(Awareness)の中心をたえず覚えておく必要がある。
だから焦点を合わせ集中する必要があるのだ。
その(OSHOの)言葉は誤って受け止められやすい。今あなたがその文字通りにやって焦点を合わせないでいるとあなたは単に進歩しない。

*サニヤシンの一般的常識のワナとして、「瞑想は集中ではない。」というOSHOの言葉がある。
目覚のプロセスのどのレベルにワークするのかによって、この言葉を誤って使いがちなので要注意。
OSHOも晩年の講話;禅シリーズでは、特に最後の瞑想リードの時に、徹底的な集中を要求した。
「目を閉じなさい。あなたの身体が完全に凍結するのを感じなさい。今があなたの内側に
入る正しい時だ。エネルギーの全てを集めて、あなたのトータルな意識を針先のように尖らせて、
あなたの存在の中心に突入しなさい。とてつもない緊急性が必要だ、あたかもこれが最期の瞬間
であるかのように、、、。」

◆ ヴィパッサナーと禅

理論なき観察をしたとき、なぜ一方は、空で、もう一方は、苦なのか

見る目の訓練に、理論が前提されているから

(前段階で、動体視力の違い(時間分解能の違い)と云う結論が出てる上で)

理論を離れた「あるがまま」

では、どちらが「あるがまま」に近いのか?

レントゲンとMRIの喩え

細胞を染めるときの染料の違い

観察するための器具(装置)が、観察される内容をきめてしまう。

理論(偏り、条件づけ)なしには、視力を上げられない

あらゆる思考・理論を排除しての観察を目指す禅・ヴィパッサナーにおいても、
観察の理論負荷性の問題はなくならない。

あらゆる条件づけをなくした理論は、具体性を失い、最終的に、何も言えなくなる。
するどい観察には、限定が必要。

あらゆる理論を脱け出た観察は無理
では、何が最善か?

複数の観察機械による画像を見ることで、よりリアリティの近似値に近づける。
相対化できる。

そのためには、いま自分が見ているものが、理論依存的なものだとの了解が必要。

相対化

観察の理論負荷性

http://www.geocities.jp/gakumon_mutofu/01rironhukasei.html
http://www.geocities.jp/gakumon_mutofu/01rironhukasei2.html

究極の境地として万物と一体となるのは、ヴェーダンタに限らず、世界の多くのシャーマニズムで語られています。それに対し、仏教のような完全な止滅を説く教えはなかなかありません。

ウイルバーの成長論を簡単に述べるなら、アイデンティティの脱同一化と同一化(統合)という言葉がキーワードになるでしょう。
例えば私達は自分の身体を客体として見て、自分の心(自我)に同一化しています。この段階では心と体が分裂しています。この自我から脱同一化して、自我と身体を統合することが次の段階です。
同様に身体から脱同一化して、世界と同一化することが次の段階です。
つまり、狭い自己からの離脱は広い自己との同一化と同義ということです。

ただしウイルバーは最後の段階でこの二つを区別しています。
Witness、目撃者、元因の段階は、すべての顕現からの離脱を意味しています。しかしこの段階では、あらゆる主体への同一化を解除しているものの、未だ目撃者と目撃されるものという微妙な二元論が働いているとしています。
最終段階は、One Taste、心のレベル、非二元的領域、統一意識、といろいろと表現を変えていますが、この段階はすべての顕現と統合します。「目撃者の中で静かにくつろぐにつれて、この内なる目撃者であるという気持ちが完全に消え去り、そして目撃者は結局目撃されているあらゆるものだとわかる。形は空であり、空は形である。目撃者とすらも脱同一化し、すべての顕現と統合する。」

ただ、ウイルバーはこの段階を、自己と全自然界との間に分離がない自然神秘主義の段階と区別しています。「自然との一致体験と違い、単なる外なる粗い形との間でだけでなく、内なる微細な形すべてとの間でも体験される。」

非二元派では、integration,統合がキーワードですが、テーラヴァーダで言及されないのは、目指しているものが違うからでしょうか。
前者では、あらゆる顕現を心の本質(もしくは仏性、アートマン、ブラフマン、一者、空)の投影と見て統合することを重視しています。
どちらも現象に対して一切思考による編集作業をやめるという点においては共通しています

ただあるのは依存して生起する無常のセンセーション、感覚経験だけであって、「私」とか「ブラフマン」とかいうのは妄想の産物に過ぎないというのが仏教の立場でしょうか。

>> Witness、目撃者、元因の段階は、すべての顕現からの離脱を意味しています。しかしこの段階では、あらゆる主体への同一化を解除しているものの、未だ目撃者と目撃されるものという微妙な二元論が働いているとしています。

>> 最終段階は、One Taste、心のレベル、非二元的領域、統一意識、といろいろと表現を変えていますが、この段階はすべての顕現と統合します。「目撃者の中で静かにくつろぐにつれて、この内なる目撃者であるという気持ちが完全に消え去り、そして目撃者は結局目撃されているあらゆるものだとわかる。形は空であり、空は形である。目撃者とすらも脱同一化し、すべての顕現と統合する。」

私には、〈超個的観察者〉の確立の後、その「観察者」が、一気に万物の側になだれ込み、崩れ込み、「分離なき、見ること」が起こる―そこでは、〈見るもの〉は〈見られるもの〉である―というケン・ウイルバーの立論自体は、なかなかいい線いってるのではないかと思えます。

もし、完璧なサティ―完璧な内/外現象の対象化・観察・離脱―が確立されたならば「目撃者と目撃されるもの」との二元性は、完全に払拭されているはず。

なぜなら、その二元性、その分離感を作りだしているのは、他ならぬ、対象化(自覚)することができていない内面のうごめき―思考・感情・判断などの微細なうごめき―であるだろうからです。

つまり、vipassana・禅・クリシュナムルティなどが求めている「観察」とは、

完全な対象化・自覚(それが生起したことに―たとえ、それが、どんな微細な想念であれ―気づいていること)―サティ―と、全面的な(その観察対象との)融合、無分離性―サマーディ―との混ぜ合わさった特殊な「観察」である、ということなのでしょう。

禅ではこの特殊な観察状態を、「“そのもの”に“なり切ること”」などと表現します。
聞こえている音になりきり、感じた感覚になりきり、自分の思考、感情になりきり、なりきりしていく。それによって、あらゆる問題を破砕していく―それが禅の行き方ですね。

だとすると、
> しかし、この段階では、あらゆる主体への同一化を解除しているものの、未だ目撃者と目撃されるものという微妙な二元論が働いている・・・

というのは、実際には、微細なレベルでの「同一化」の「解除」―つまり、あらゆる内的/外的現象の自覚と対象化、離脱(捨)―はできていないのではないか? (つまり、完全な観察、全的な観察ではない。見落としがある。)
できてないがゆえに、「目撃者と目撃されるものという微妙な二元論が働いて」しまうのではないか、と云うことになります。

Krishnamurti 分離なき観察

「現象に対して、一切思考による編集作業をやめ」たとき、そこに見えるのは、一切行の「苦(ドゥッカ)」性である、とテーラヴァーダは明白に言明し、「苦でも楽でもない、苦楽を超えた、あるがままだ」と、大乗仏教は確約する―この明らかな不整合を、「‥‥結局悟りの境地を言語化する際に違いが生じているだけなのではないか」と言って済ますことはできないのではないか、というのが現在の時点での私の見解です。

> 分からないのは、一切の存在の本質を苦(ドゥッカ)とし、煩悩を厳しく否定する立場です。そして、大乗仏教が巧妙に煩悩を肯定しているとする批判です。

> サティとは、苦とか快とかという判断以前にありのままに気付きを入れて行くことではないのか、というのが私の素朴な疑問です。そして、煩悩のありのままに気付き受容するとき、煩悩への囚われから解放されていくのではないか。大乗仏教の中には、そういう考え方が在ると思います。それは、煩悩の肯定ではなく気付きと受容による、煩悩からの解放なのではないかと思うのですが。

> テーラヴァーダ仏教が、煩悩を否定と肯定というレベルで語るところがよくわかりません。生起するあるがままに気付きを入れるサティの考え方と、私の中でうまく整合しないのです。

この疑問の解消は、偏に「行‐苦(サンカーラ・ドゥッカ)」―五蘊皆苦―の理解に懸かっていると思います。
そして、その理解が生じるか否かは、結局、(厳密な意味での)「ヴィパッサナーの実践」に懸かっていると思います。

>ヴィパッサナー瞑想の修行法には非常に強い共鳴を感じる。しかしその背景をなすテーラヴァーダ仏教については、引っかかりがあってすんなり受け入れられない。

>一番の引っかかりは、やはり現象の一切を苦(ドゥッカ)として完全に否定することだ。

> ヴィパッサナー瞑想は、生滅変化する現象の在るがままに気付いて確認するサティの修行に励む。サティによって現象をあるがままに受け入れる訓練を続けると、やがて心が作り出すものと真に実在するものとの違いがはっきりと分かり、現象の真の姿が洞察される瞬間が来るという。
> また、心が描き出す妄想・幻影・現実の歪曲のたぐいがはっきり見えると、同時に自我(エゴ)が、元来は存在しない幻影であり錯覚であることが分かるという。
> 以上は納得できる。大乗仏教も基本的には同じことを言っていると思う。凡夫は言葉と思考を介することで「対立と区別の相」の下のこの世界を見る。しかしそれは世界の真実の相ではない。蜃気楼のごとき幻の世界を真実と見間違えているに過ぎない。言葉による区別・対立・分別を超えた世界のあり方が空性と呼ばれる。

> わからないのは、テーラヴァーダ仏教では、幻影を振り払ったときに洞察される世界が、苦と捉えられ、大乗仏教ではそれが、空と捉えられるとことだ。ヴィパッサナー瞑想もエゴや言葉による歪曲以前のありのままの世界を見るという点は、大乗仏教と同じであるはずなのに、なぜそれは、空ではなく快や幸福と対立する苦なのか。現象を苦と規定したとき、それはもう「対立と区別の相」での見方ではないのか。

まず、理解しておかなくてはならないことは、
テーラヴァーダで言う「苦」には、

・苦‐苦
・壊‐苦(変易苦)
・行‐苦

の三つのものがある、と云うことです。(これらは、単なる形式的な教理・分類ではないはずです。)

そして「五蘊皆苦」の根拠は、最終的には、この、存在の「行‐苦」性にあるのだと思われます。掲示板での議論は、この三つの「苦」が入り乱れ、少々混乱しているように見受けられます。Noboruさんの引っ掛かっておられる問題は、「行‐苦」のレベルでの問題であるはずです。

「生滅」「壊滅」を目の当りにしてに、怖れ、おののき、戦慄す、という「行‐苦」の体験は、vipassanaの修行行程のなかでは、(たいてい)預流道になる(つまり、悟る)直前に初めて起こることのようです。

ここで言われている「苦」が、常識的な意味での「ああ、苦しい~、苦痛だ~」と感じることであるとは思えません。

つまり、(今の時点での)私たちにとって「行‐苦」とは、「話としては分かるけど、受け入れられない」ものではなく、「話としてすら理解できていない、まったく見当のつかない」タイプの苦であるはずです。

前に、どこかで、誰かが「苦の理解こそが、仏教(原始仏教、ブッダの説いた教え)の全てである。苦を理解できたなら、解脱する」と言っているのを聞いたことがありますが、まさに、その通りなのでしょう。

「苦」の理解こそが重要なのでしょう。

「思考停止して、現象世界をあるがままに観察したとき(如実知見)、「一切行‐苦」を感ず、「一切行‐苦」を感じるが故に、「厭離」が生ず(この「厭離」と云う言葉、言葉どうりに読むなら、厭い離れるということですよね。決して、「淡々と」とか、「あるがままに」とか「受容する」とかではなく)、「厭離」が生じたが故に解脱する」と云うのは原始経典に繰り返し現われる表現であり、これ自体を、「これはブッダの言ったことではない! ブッダの死後、小乗仏教徒が捏造した話だ!」などというのは、あまりに無理があります。

この、「如実知見→「一切行‐苦」の洞察→厭離→解脱」を否定するならば、ブッダも、原始仏教も否定しなければならないでしょう。

それに対し、「苦なる世界→如実知見→苦/楽の超越(無自性・空の洞察)→現在涅槃(当処即ち蓮華国)」というのが、大乗仏教一般の悟り観でしょうか。

—–

「体験者」と「体験」との二元性が崩れ去り、分離なき《見ること》が起こるとき―
そのとき、その「体験」を、「体験者」がなくなって「体験」のみが残った(「体験」のみに“なった”)、と表現することも、分離した対象としての「体験(内容)」がなくなって、「体験者―真実の自己・本来の面目―」のみが残った(が、露わになった、顕現した)、と表現することも、あるいは、「体験者」も「体験」も、何もかもがなくなった(限界線、境界線のないemptiness)、と表現することも可能だと思います。

自己がなくなって、無我になった―無我になって見れば、全てが自己だった、というのは禅宗の決まり文句―たとえば、こんな感じです。

「禅の真髄は自己を忘ずるにある。真修功成り、身心自然に脱落して、真箇自己を忘ずる時、天地皆自己ならざるなきを自覚して、手の舞い、足の踏むを知らずじゃ。
されども無始却来粘着縛着の自己を忘ずるの容易ならざることを、忘れることはできぬ。」
表詮(肯定的表現、生かす)と、遮詮(否定的表現、殺す)―そのどちらが使われているのかは、(禅の場合)文脈によって判断するしかないですね。

そのことを踏まえたうえでなら、おっしゃっていることには何の抵抗も感じません。
多分、同じことを言ってるのでしょう。

私は、通常「体験」と云う言葉を肯定的には使いません。
大体、カッコつきの意味で使います。

ですから、この話題を引き続き続けるなら、
「経験」と「経験者」と云う(私に使い慣れた)言葉に切り換えて進めることを望むのですが・・・
いかがでしょうか?

で、結局、問題は、
「覚醒を体験したときには既にその体験者がいない」ということを、如何にしてこの身で実験し、
検証(あるいは反証)するか、と云うことに尽きるでしょう。

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◆ 「大乗仏教とテーラヴァーダ」  Herenowさん

…. 合宿の最中にあった地橋さんの「大乗仏教及びヒンドゥとテーラヴァーダの比較」の話は私にとっても深刻です。私の現在のレベルでは究極の境地は先のことなので,今は大した違いではないと思っているのですが。お互いの相違点ははっきりしているが、結局悟りの境地を言語化する際に違いが生じているだけなのではないかというのが、現在の私の解釈ですが、なかなかの難問です。

 ケン・ウイルバーなどはこの点について
1.witness
2.one taste
の二つにはっきり段階分けし、one taseteの方がレベルが高いとしています。
 ただ阿羅漢がウイルバーの言うwitness、目撃者に該当するのか難しいところです。

 大乗仏教側としては、涅槃の中に消え去るのはエゴであり、究極の悟りではない。サンサーラとニルヴァーナの二元性を超越した菩薩が理想であるとしています。
 それに対しテーラヴァーダでは、生存への欲求があるから菩薩という思想を作り出しているのだと批判しています。

 どちらの言い分ももっともです。究極の境地として万物と一体となるのは、ヴェーダンタに限らず、世界の多くのシャーマニズムで語られています。それに対し、仏教のような完全な止滅を説く教えはなかなかありません。

 ただ仏教の説く涅槃を、一神教で説く永遠の天国とははっきりと区別すべきでしょう。
どう思いますか。

> 妄想の働きとは、サティによって私達に気付きを与えることなのですか?
> 妄想の変化に常に気付いていることは自分を知るという意味があるのでしょうか?
> サティすることで、妄想と同化しない自分を確立する為必要なのでしょうか?

 もちろん、最終的には、妄想によって、妄想を通して何かを見るのではない、あるがままの認識にいたることを目指しているのですが、しかし、その過程では、妄想にも意味が、働きがある。
 何らかの妄想が出るということは、必ずそこにその人特有のひっかかり、とらわれがあるということでしょうから、それをサティによってしっかり自覚していくと、妄想の原因となったものへの洞察につながっていくのでしょうね。
 しかも、それは排除や抑圧ではなく、気付きによる洞察であり、受容であるといってよいと思います。
 ただ、「妄想」「妄想」とサティを入れているだけでも、やがて重要な洞察につながるイメージが出現したりして、転換することがあるようですよ。大切なのは、気付き続けるということでしょう。

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◆ 「Re:大乗仏教とテーラヴァーダ」  Noboruさん

・・(略)・・・・

> 合宿の最中にあった地橋さんの「大乗仏教及びヒンドゥとテーラヴァーダの比較」の話は私にとっても深刻です。‥‥結局悟りの境地を言語化する際に違いが生じているだけなのではないかというのが、現在の私の解釈ですが、なかなかの難問です。

 私も、体験は同じで言語化の違いと思いたいですね。しかし、地橋先生ははっきり否定するでしょうね。私は、これからテーラヴァーダを学んで整理していかなくてはなりません。

> ケン・ウイルバーなどはこの点について
> 1.witness
> 2.one taste
> の二つにはっきり段階分けし、one taseteの方がレベルが高いとしています。

 1と2の違いを、簡単に説明してもらえますか。

> 大乗仏教側としては、涅槃の中に消え去るのはエゴであり、究極の悟りではない。サンサーラとニルヴァーナの二元性を超越した菩薩が理想であるとしています。
> それに対しテーラヴァーダでは、生存への欲求があるから菩薩という思想を作り出しているのだと批判しています。
> どちらの言い分ももっともです。究極の境地として万物と一体となるのは、ヴェーダンタに限らず、世界の多くのシャーマニズムで語られています。それに対し、仏教のような完全な止滅を説く教えはなかなかありません。

 なるほどね、しかし私は止滅ということがまだよくわかりません。

> ただ仏教の説く涅槃を、一神教で説く永遠の天国とははっきりと区別すべきでしょう。はい、これは本当にその通りだと思います。ただ、「一神教で説く永遠の天国」との違いは歴然としているにしても、では大乗仏教で言う悟りの境地と何が違うのか、私にはまだよくわかりません。

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◆ 「Re(2):大乗仏教とテーラヴァーダ」 Herenowさん

> > ケン・ウイルバーなどはこの点について
> > 1.witness
> > 2.one taste
> > の二つにはっきり段階分けし、one tasteの方がレベルが高いとしています。

> 1と2の違いをかんたんに、説明してもらえますか。

 ウイルバーの成長論を簡単に述べるなら、アイデンティティの脱同一化と同一化(統合)という言葉がキーワードになるでしょう。
 例えば私達は自分の身体を客体として見て、自分の心(自我)に同一化しています。この段階では心と体が分裂しています。この自我から脱同一化して、自我と身体を統合することが次の段階です。
 同様に身体から脱同一化して、世界と同一化することが次の段階です。
 つまり、狭い自己からの離脱は広い自己との同一化と同義ということです。

 ただしウイルバーは最後の段階でこの二つを区別しています。
Witness、目撃者、元因の段階は、すべての顕現からの離脱を意味しています。しかしこの段階では、あらゆる主体への同一化を解除しているものの、未だ目撃者と目撃されるものという微妙な二元論が働いているとしています。
 最終段階は、One Taste、心のレベル、非二元的領域、統一意識、といろいろと表現を変えていますが、この段階はすべての顕現と統合します。「目撃者の中で静かにくつろぐにつれて、この内なる目撃者であるという気持ちが完全に消え去り、そして目撃者は結局目撃されているあらゆるものだとわかる。形は空であり、空は形である。目撃者とすらも脱同一化し、すべての顕現と統合する。」
 ただ、ウイルバーはこの段階を、自己と全自然界との間に分離がない自然神秘主義の段階と区別しています。「自然との一致体験と違い、単なる外なる粗い形との間でだけでなく、内なる微細な形すべてとの間でも体験される。」
 非二元派では、integration,統合がキーワードですが、テーラヴァーダで言及されないのは、目指しているものが違うからでしょうか。
 前者では、あらゆる顕現を心の本質(もしくは仏性、アートマン、ブラフマン、一者、空)の投影と見て統合することを重視しています。
 どちらも現象に対して一切思考による編集作業をやめるという点においては共通していますが、仏性やアートマンといった我を想定させる言葉で究極の状態を表現することを一切拒絶したのがテーラヴァーダの考え方かもしれません。中観派の帰謬論証派もこの点は徹底しており、究極の体験に対するいかなる仮定も排除します。余計な形而上学は要らない、ただあるのは依存して生起する無常のセンセーション、感覚経験だけであって、「私」とか「ブラフマン」とかいうのは妄想の産物に過ぎないというのが仏教の立場でしょうか。
 簡単にと言われながら長々書いてしまいました。後半は私の個人的見解であって責任は持てません。

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◆ 「「大乗仏教とテーラヴァーダ」をめぐる話題を拝見して」 rei

はじめまして

「大乗仏教とテーラヴァーダ」をめぐるやりとり、
興味深く拝見させて頂きました。

>> Witness、目撃者、元因の段階は、すべての顕現からの離脱を意味しています。しかしこの段階では、あらゆる主体への同一化を解除しているものの、未だ目撃者と目撃されるものという微妙な二元論が働いているとしています。

>> 最終段階は、One Taste、心のレベル、非二元的領域、統一意識、といろいろと表現を変えていますが、この段階はすべての顕現と統合します。「目撃者の中で静かにくつろぐにつれて、この内なる目撃者であるという気持ちが完全に消え去り、そして目撃者は結局目撃されているあらゆるものだとわかる。形は空であり、空は形である。目撃者とすらも脱同一化し、すべての顕現と統合する。」

私には、〈超個的観察者〉の確立の後、その「観察者」が、一気に万物の側になだれ込み、崩れ込み、「分離なき、見ること」が起こる―そこでは、〈見るもの〉は〈見られるもの〉である―というケン・ウイルバーの立論自体は、なかなかいい線いってるのではないかと思えます。

もし、完璧なサティ―完璧な内/外現象の対象化・観察・離脱―が確立されたならば「目撃者と目撃されるもの」との二元性は、完全に払拭されているはず。
なぜなら、その二元性、その分離感を作りだしているのは、他ならぬ、対象化(自覚)することができていない内面のうごめき―思考・感情・判断などの微細なうごめき―であるだろうからです。

つまり、vipassana・禅・クリシュナムルティなどが求めている「観察」とは、

完全な対象化・自覚(それが生起したことに―たとえ、それが、どんな微細な想念であれ―気づいていること)―サティ―と、全面的な(その観察対象との)融合、無分離性―サマーディ―との混ぜ合わさった特殊な「観察」である、ということなのでしょう。

禅ではこの特殊な観察状態を、「“そのもの”に“なり切ること”」などと表現しますね。
聞こえている音になりきり、感じた感覚になりきり、自分の思考、感情になりきり、なりきりしていく。それによって、あらゆる問題を破砕していく―それが禅の行き方ですね。

そのことを、「煩悩即菩提」などという独特な言葉で表現するところに、外部のひとの誤解を招く要因があるのではありましょうが….。

だとすると、

> しかし、この段階では、あらゆる主体への同一化を解除しているものの、未だ目撃者と目撃されるものという微妙な二元論が働いている・・・

というのは、実際には、微細なレベルでの「同一化」の「解除」―つまり、あらゆる内的/外的現象の自覚と対象化、離脱(捨)―はできていないのではないか? (つまり、完全な観察、全的な観察ではない。見落としがある。)
できてないがゆえに、「目撃者と目撃されるものという微妙な二元論が働いて」しまうのではないか、と云うことになります。

参照→ 青野敬宗老師語録  Krishnamurti 分離なき観察

>> どちらも現象に対して一切思考による編集作業をやめるという点においては共通していますが・・・

「現象に対して、一切思考による編集作業をやめ」たとき、そこに見えるのは、一切行の「苦(ドゥッカ)」性である、とテーラヴァーダは明白に言明し、「苦でも楽でもない、苦楽を超えた、あるがままだ」と、大乗仏教は確約する―この明らかな不整合を、「‥‥結局悟りの境地を言語化する際に違いが生じているだけなのではないか」と言って済ますことはできないのではないか、というのが現在の時点での私の見解です。
これは「なかなかの難問です」、私にとっても。

> この点は、大乗仏教の内部でも論争のあるところなので、大乗仏教とテーラヴァーダ仏教との本質的な違いとはいえないでしょうね。
> この主張自体は、なんら反対すべきことは一切ありません。大乗仏教もこうした主張は、明確にしていると思います。

そうそう、そう感じてしまう、批判になっていない批判って、よく聞きますよね。

> 分からないのは、一切の存在の本質を苦(ドゥッカ)とし、煩悩を厳しく否定する立場です。そして、大乗仏教が巧妙に煩悩を肯定しているとする批判です。

> サティとは、苦とか快とかという判断以前にありのままに気付きを入れて行くことではないのか、というのが私の素朴な疑問です。そして、煩悩のありのままに気付き受容するとき、煩悩への囚われから解放されていくのではないか。大乗仏教の中には、そういう考え方が在ると思います。それは、煩悩の肯定ではなく気付きと受容による、煩悩からの解放なのではないかと思うのですが。

> テーラヴァーダ仏教が、煩悩を否定と肯定というレベルで語るところがよくわかりません。生起するあるがままに気付きを入れるサティの考え方と、私の中でうまく整合しないのです。

この引っかかりは、よくわかります。

この疑問の解消は、偏に「行‐苦(サンカーラ・ドゥッカ)」―五蘊皆苦―の理解に懸かっていると思います。
そして、その理解が生じるか否かは、結局、(厳密な意味での)「ヴィパッサナーの実践」に懸かっていると思います。

そういう私自身、未だすっきりしないのですが。

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◆ Re: 「「大乗仏教とテーラヴァーダ」をめぐるメール、ありがとうございました。」  Noboruさん

メールありがとうございました。
興味深く拝見しました。

> 私には、〈超個的観察者〉の確立の後、その「観察者」が、一気に万物の側になだれ込み、崩れ込み、「分離なき、見ること」が起こる―そこでは、〈見るもの〉は〈見られるもの〉である―という、ケン・ウイルバーの立論自体は、なかなかいい線いってるのではないか、と思えます。
> もし、完璧なサティ―完璧な内/外現象の対象化・観察・離脱―が確立されたならば「目撃者と目撃されるもの」との二元性は、完全に払拭されているはず。

「完璧なサティ―完璧な内/外現象の対象化・観察・離脱」ですか。
そうだとすると、私はまだサティということが全然分かっていないようです。
私には、対象化が同時に「あるがままの受容」と切り離せない状態で結びついているのが、サティだと感じられます。
多分、reiさんも、根本のところでは同じことをおっしゃっているような気がしますが。

> なぜなら、その二元性、その分離感を作りだしているのは、他ならぬ、対象化(自覚)することができていない内面のうごめき―思考・感情・判断などの微細なうごめき―であるだろうからです。

サティを上のような意味で捉えるなら、ここで述べておられることは、よくわかる気がします。

> つまり、vipassana・禅・クリシュナムルティなどが求めている「観察」とは、完全な対象化・自覚(それが生起したことに―たとえ、それが、どんな微細な想念であれ―気づいていること)―サティ―と、全面的な(その観察対象との)融合、無分離性―サマーディ―との混ぜ合わさった、特殊な「観察」である、ということなのでしょう。

うん、やはり同じことですね。わかるような気がします。

>禅ではこの特殊な観察状態を、「“そのもの”に“なり切ること”」などと表現しますね。聞こえている音になりきり、感じた感覚になりきり、自分の思考、感情になりきり、なりきりしていく。 それによって、あらゆる問題を破砕していく―それが禅の行き方ですね。

はい、これは慣れ親しんだ表現です。ヴィパッサナーも、根っこのところでは、同じことをしているという理解があります。

>だとすると、
>> しかし、この段階では、あらゆる主体への同一化を解除しているものの、未だ目撃者と目撃されるものという微妙な二元論が働いている・・・

> というのは、実際には、微細なレベルでの「同一化」の「解除」―つまり、あらゆる内的/外的現象の自覚と対象化、離脱(捨)―はできていないのではないか? できていないがゆえに、「目撃者と目撃されるものという微妙な二元論が働いて」しまうのではないか、と云うことになります。

これも、何となくですが納得できます。

・・・・・

> 「現象に対して、一切思考による編集作業をやめ」たとき、そこに見えるのは、一切行の「苦(ドゥッカ)」性である、とテーラヴァーダは確言し、「苦でも楽でもない、苦楽を超えた、あるがままだ」と大乗仏教は主張する―この明らかな不整合を、「‥‥結局悟りの境地を言語化する際に違いが生じているだけなのではないか」と言って済ますことはできないのではないか、というのが現在の時点での私の見解です。

実は私も言語化の際の違い以上の差を感じています。

> > テーラヴァーダ仏教が、煩悩を否定と肯定というレベルで語るところがよくわかりません。生起するあるがままに気付きを入れるサティの考え方と、私の中でうまく整合しないのです。

> この引っかかりは、よくわかります。
> この疑問の解消は、偏に「行‐苦(サンカーラ・ドゥッカ)」―五蘊皆苦―の理解に懸かっていると思います。
> そして、その理解が生じるか否かは、結局、「ヴィパッサナーの実践」に懸かっていると思います。
> そういう私自身、未だすっきりしないのですが。

私自身、実践が深まることで二つの仏教の違いについての引っ掛かりが解消すると言う自信はまったくありません。というより、分かりたくないの方が正確ですが。
実践の方法論には、まったく共感していますので、続けて行きたいという強い気持ちはもっていますが。

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◆ Subject:「五蘊皆苦」と「五蘊皆空」―テーラヴァーダと禅仏教  rei

「作者のダイアリー」にて、「空と苦」拝見しました。

>ヴィパッサナー瞑想の修行法には非常に強い共鳴を感じる。しかしその背景をなすテーラヴァーダ仏教については、引っかかりがあってすんなり受け入れられない。

>一番の引っかかりは、やはり現象の一切を苦(ドゥッカ)として完全に否定することだ。

> ヴィパッサナー瞑想は、生滅変化する現象の在るがままに気付いて確認するサティの修行に励む。サティによって現象をあるがままに受け入れる訓練を続けると、やがて心が作り出すものと真に実在するものとの違いがはっきりと分かり、現象の真の姿が洞察される瞬間が来るという。
> また、心が描き出す妄想・幻影・現実の歪曲のたぐいがはっきり見えると、同時に自我(エゴ)が、元来は存在しない幻影であり錯覚であることが分かるという。
> 以上は納得できる。大乗仏教も基本的には同じことを言っていると思う。凡夫は言葉と思考を介することで「対立と区別の相」の下のこの世界を見る。しかしそれは世界の真実の相ではない。蜃気楼のごとき幻の世界を真実と見間違えているに過ぎない。言葉による区別・対立・分別を超えた世界のあり方が空性と呼ばれる。

> わからないのは、テーラヴァーダ仏教では、幻影を振り払ったときに洞察される世界が、苦と捉えられ、大乗仏教ではそれが、空と捉えられるとことだ。ヴィパッサナー瞑想もエゴや言葉による歪曲以前のありのままの世界を見るという点は、大乗仏教と同じであるはずなのに、なぜそれは、空ではなく快や幸福と対立する苦なのか。現象を苦と規定したとき、それはもう「対立と区別の相」での見方ではないのか。

まず、理解しておかなくてはならないことは、
テーラヴァーダで言う「苦」には、

・苦‐苦
・壊‐苦(変易苦)
・行‐苦

の三つのものがある、と云うことです。(これらは、単なる形式的な教理・分類ではないはずです。)

そして「五蘊皆苦」の根拠は、最終的には、この、存在の「行‐苦」性にあるのだと思われます。掲示板での議論は、この三つの「苦」が入り乱れ、少々混乱しているように見受けられます。Noboruさんの引っ掛かっておられる問題は、「行‐苦」のレベルでの問題であるはずです。

「生滅」「壊滅」を目の当りにしてに、怖れ、おののき、戦慄す、という「行‐苦」の体験は、vipassanaの修行行程のなかでは、(たいてい)預流道になる(つまり、悟る)直前に初めて起こることのようです。(で、あってると思うのですが、どうでしょう?)

ここで言われている「苦」が、常識的な意味での「ああ、苦しい~、苦痛だ~」と感じることであるとは思えません。

つまり、(今の時点での)私たちにとって「行‐苦」とは、「話としては分かるけど、受け入れられない」ものではなく、「話としてすら理解できていない、まったく見当のつかない」タイプの苦であるはずです。

前に、どこかで、誰かが「苦の理解こそが、仏教(原始仏教、ブッダの説いた教え)の全てである。苦を理解できたなら、解脱する」と言っているのを聞いたことがありますが、まさに、その通りなのでしょう。

「苦」の理解こそが重要なのでしょう。

まあ何にせよ、

「思考停止して、現象世界をあるがままに観察したとき(如実知見)、「一切行‐苦」を感ず、「一切行‐苦」を感じるが故に、「厭離」が生ず(この「厭離」と云う言葉、言葉どうりに読むなら、厭い離れるということですよね。決して、「淡々と」とか、「あるがままに」とか「受容する」とかではなく)、「厭離」が生じたが故に解脱する」と云うのは原始経典に繰り返し現われる表現であり、これ自体を、「これはブッダの言ったことではない! ブッダの死後、小乗仏教徒が捏造した話だ!」などというのは、あまりに無理があります。

この、「如実知見→「一切行‐苦」の洞察→厭離→解脱」を否定するならば、ブッダも、原始仏教も否定しなければならないでしょう。

それに対し、

「苦なる世界→如実知見→苦/楽の超越(無自性・空の洞察)→現在涅槃(当処即ち蓮華国)」というのが、大乗仏教一般の悟り観でしょうか。

>ヴィパッサナー瞑想は、「一切は苦」という思考・判断・規定をどうサティするのか。 とりあえず、ここが一番大きな疑問だ。

ヴィパッサナー瞑想の修行の過程で起こる「一切は苦」という理解は、「思考・判断・規定」に属するものなのでしょうか?
私にも、よく分かりません。

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昨今、巷では、ヴィッパサナー瞑想が広まりつつありますが、その問題点を総括

・サティをする側(自我)とサティ対象の主客の固定化。(瞑想は主客未分です)
・ラベリングにより、思考、雑念、怒り等を排除する時、自己嫌悪感という瞋(怒り)が自然発生してしまい、かえって、それらへの執着を深めてしまう点。(わずかの執着でもあれば、瞑想は出来ません)
・ラベリングそのものは、意志的、意図的なものであるのに対して、瞑想は、徹底的なこれらの排除によって成り立ちうるという矛盾点。

そもそも、仏陀の唱えたヴィッパサナー瞑想とは何だったのでしょうか。
深い禅定によって、己を空としたのち、観る。
その場合、観る者は、卑近な自己や自我では、決してなかったはずです。
それに対して、観る者を自己や自我で良いとした所に、昨今のヴィッパサナー瞑想の致命的過ちがあります。
それによって得られるのは、自己満足感か、自己優越感しかないでしょう。
自我も肥大化することはあれ、無くなることは無いでしょう。
その状態では、絶対に瞑想はできません。不可能です。

1.主体と客体のさらなる分離、自我の強化がされるような感覚があること
2.そもそもの土台が自我から始まっているので、気づきという意識のセンサーも、その自我から発せられるような感覚がある。

土台をぶっ壊さなければいけないのに、土台を強化する自己矛盾。

と、云う意見、など。

以下、、それに対する、私の見解を書きます。

「体験者」と「体験」との二元性が崩れ去り、分離なき《見ること》が起こるとき―
そのとき、その「体験」を、「体験者」がなくなって「体験」のみが残った(「体験」のみに“なった”)、と表現することも、分離した対象としての「体験(内容)」がなくなって、「体験者―真実の自己・本来の面目―」のみが残った(が、露わになった、顕現した)、と表現することも、
あるいは、「体験者」も「体験」も、何もかもがなくなった(限界線、境界線のないemptiness)、と表現することも可能だと思います。

自己がなくなって、無我になった―無我になって見れば、全てが自己だった、というのは禅宗の決まり文句―たとえば、こんな感じです。

「禅の真髄は自己を忘ずるにある。真修功成り、身心自然に脱落して、真箇自己を忘ずる時、天地皆自己ならざるなきを自覚して、手の舞い、足の踏むを知らずじゃ。
されども無始却来粘着縛着の自己を忘ずるの容易ならざることを、忘れることはできぬ。」
表詮(肯定的表現、生かす)と、遮詮(否定的表現、殺す)―そのどちらが使われているのかは、(禅の場合)文脈によって判断するしかないですね。

で、結局、問題は、「覚醒を体験したときには既にその体験者がいない」ということを、如何にしてこの身で実験し、検証(あるいは反証)するか、と云うことに尽きるでしょう。

カニカ・サマーディについて

質問1
> ヴィパッサナーの修行で言われる瞬間定(カニカ・サマーディ)とは?

まず、「何をもって“瞬間定を経験した”と言えるのか」というのが一つの問題です。

多分、「カニカ・サマーディ」と呼ばれるものは、以下の三つの要素の組み合わせによって成り立っているのでしょう。

1、「心一境性」という要素。
平たく言えば、主客未分、完全な対象との融合、脱落、見るものなくしての観察、見られる対象だけの独在、などといわれる意識状態。

それが起こっているかどうか?

「全面的な観察」においては、その瞬間のその対象だけが全宇宙であり、その生起の瞬間、宇宙開闢し、その消滅の瞬間、宇宙滅尽す、といった感じになる。

それを見ている“自分”と云う感覚も、「絶対的観照者、超個的観察者がいる」と云った感覚も、まったくない。

そのことが、一つ一つの内外の知覚対象―五感からの感覚知覚刺激、思考、イメ―ジ、感情、欲求―とのあいだで、むらなく、無差別的に起こっているかどうか?

2、スピード、というか動体視力のようなもの。

一秒に一個の対象と融合し脱落を起こしていても、カニカ・サマーディとは言えないでしょう。なぜなら、一秒間も持続する知覚対象は(我々人間の知覚システム上)存在しないはずだからです。

*このことに関しては、
「意識のなかの時間」E・ペッペル (岩波書店) を参照。
あと、
ユクスキュルの「生物から見た世界」の第三章「知覚時間」のなかにも少しでてきます。

今、読み直して見るのは面倒なので、大雑把な話でいきますが、ここで言われていることは、つまり、

人間にとってこれ以上分割できない“瞬間”というのがある。
それは、だいたい20分の1秒ぐらいの単位である、ということです。
(感覚器官によって少し違うのだそうですが….)

この「20分の1秒」という単位は、カニカ・サマーディの時間的限界が、多分、二〇分の一秒くらいの所にあるのではないか、という地橋先生の話にも符合しています。

で、言いたいことは、カニカ・サマーディをやったと言えるには、少なくとも一秒間に五つから十、あるいはそれ以上の数の対象との融合・離脱を繰り返していなければならない、ということです。

「一秒に一個」という場合、おそらくは観察眼がピンぼけで、多くの物を見逃してる(経験していることに気づいてない、無自覚的に経験している(しかし当然影響は受けているはず))か、
あるいは知覚経験の直後に考え事をしている(微妙な仕方でその経験を味わっているか、「やったー、ついに“それ”が起こったー」などと記憶と照合しつつ考えているか、
どちらにしても現実生起に眼を瞑っている)かのどちらかではないかと疑われます。
*こういう場面でこそ「ラベリング」という補助的技法(杖)の有効性が実感されるはずなのですが….。

3、持続時間
単純計算で、一秒間に10個のペースのサティが、10秒続けば100個、60秒続けば600個の「自性=法」の観察が行われることになります。

「「カニカ・サマーディ」が起こった、でもそれは0、2秒しか続かなかった」というのでは、それはカニカ・サマーディとは呼べないのかもしれません。

しかし、この第三の要素は、第一、第二の要素に比べたら重要ではないのかもしれません。

たとえ、それが三秒間のものであっても、
完全な心一境性(対象との融合)と、研ぎ澄まされた動体視力・観察眼(瞬間瞬間の離脱)をもっての“観”であれば、充分衝撃的であろう、と考えられます。

で、私に対する質問―
>マハシメソッドで瞬間定の状態になられたことはありますか?

この三つの条件を完璧に満たしたものを「瞬間定」と呼ぶとするならば、私は未だ、その経験はしておりません。
なんとなくうっすらと、「確かにこの話、嘘ではなさそうだなー」と感じている程度です。
まあ、せいぜい「瞬間定っぽい」状態をチョロっと経験したことがある、という程度でしょうか。

それは結局、カニカさんの現在の問題―
> 瞑想の状態は定力がいま一つで、サティの高速化が連続して起きない….というのと同じで、定力不足の問題です。

「ヴィパッサナーに一点集中力は必要ない、《拡散性の気づき》で充分だ」とは、よく云われる話ですが、本格的にやろうとすると、どこかで定力不足の問題に足を引っ張られますね。

そして、どうして定力がない(つかない)のか、ということを考えるなら、もっと根っこに潜む、より本質的な障害要因に思い至らなくてはならないのかもしれません。

> スリランカメソッドとかも習得なさっているんですか?

ええ、ひと通り習いはしましたけど、私には少し早かったです。
力不足を痛感して、もうこの二年くらいはやってません。
基本に戻ってマハーシを基礎からボチボチやり直しています。
ただ、私のこの言い方で分かるように、スリランカシステムは「メチャすげ―」ですよ。
その凄さ(全貌)が解かってくると唖然とします。

ただ、マハーシという基礎がしっかりしてないと、スリランカシステムをいくらやっても、結局“スリランカもどき”にしかならない、と感じている訳です。

最初に習ってから四年経過した今ごろになって、「いやー、マハーシってやっぱり凄いなー、やっぱりラベリングだなー」とか言っている現状です。

> 個人的にはヴィパサナー以上にクリシュナムルティ方式?だと天才的な素質が要求されると思うんですが・・・

ええ、これは私もそう思いますが….
しかし、スリランカシステムの実質・内容を知れば、ヴィパッサナーの印象も変わりますよ。

スリランカシステムは最終的に(クリシュナムルティの話とほとんど見分けがつかないような)無作為、無選択、無限定の絶対受動的観察―勿論、ラベリングも中心対象もなし、サティすらしない―といった所まで至ります。
そうなると、「ヴィパッサナー」と云うもの自体に対するイメージが変わってしまいます。

ただ違うのは、その“無技法”に至るまでに、技法を尽くしての、段階的な、体系だった基礎訓練が用意されているというところです。
(う~ん、まあ、この言い方、お前はクリシュナムルティが分かっちょらん、とか言われそうですけど….まあ、ホントそうです。自信ないです。)

しかし、まあ、私としては「技法を尽くした後、無技法に至る」というのの方が現実的、実現可能なものに感じられるのです…. 「人事を尽くして天命を待つ」みたいな。
まあ、天才的なひとにとっては、無用なことなんでしょうけども。

> 後は、無常、無我、苦か無常、無我、至福かってところですか。
> まあ、この辺は頭で考えてもしかたないですけどね。

このへんの話は、結局、例の、消滅智だ、壊滅智だ、という話を実際に経験してみない限り、何とも言えないこと。
おそらく、原始仏教の使用法での「無常、無我、苦」という言葉は、我々が普通に理解し使っているようなものとは全く異なった意味であろう。

その直接経験なしに、「一切皆苦論はおかしい、厭世的で歪んだモノの見方だ」などと言ってみたところで、仕方がない。

ヴィパッサナーは、結局、顕微鏡下の世界の話であり、
その顕微鏡覗いたことのない人間が何言っても仕方がない、と云う感じはあります。

眼の前にある紙を、肉眼で見ればつるつるだし、触ればすべすべだし。
でも、100倍率の顕微鏡で覗けば、でこぼこで穴だらけかもしれない。どっちが“あるがまま”の真実で、どっちが妄想かという問題ではないでしょう。
肉眼で見れば、つるつるに見えなきゃおかしいし、顕微鏡で覗けば、でこぼこの穴だらけに見えるのが当然。
そのような食い違いであるような気がします。

しかし、まあ、我々としては、
判断保留して、言われた通りに、しかも批判的精神を働かせ、“不確実さ、わからなさ”に留まりつつ、修行を続けて行くしかないですね。