道を歩む、道を進む

道を歩むということ、修行が進むということ、師と弟子(先生と生徒)との関係などをめぐって。

修行は、必ず否定的な形で進む。
修行の進展は必ず否定的な形で自覚される。

必ず、「自分は、何と、こんなに分かっていなかったのか! こんなに見えていなかったのか! 何と云う大馬鹿者だったのだろう!」と云う形で理解・認識は進む。分かる、見える、賢くなる。

スランプのとき(うまくいってない、と思うとき)は、必ず、以下のどちらかの比較を行っている。
「現在の自分と過去の自分との比較」か、「人と自分との比較」のどちらかだ。
聞いた話(悟った人、良い経験をした人)と、自分との比較か、
あるいは、過去の自分の良い経験(の記憶)と、現在のっ自分の状態との比較かのどちらかがある。
それに気づき、それをやめれば、即スランプなど消える。そもそも存在しない。
そして、いまの、この自分の事実と云う、比較を絶した真実・答えだけがある。

内なる師 真我 ハイアーセルフ チャネリングについて

慢の問題 3つの慢

・体験の強度、純度と定着率

ただ、「見性体験」と言っても、その強度とか純度とかでは、かなりの幅があります。
どの程度の強度・純度を持っていれば、「見性」と認めるかは、指導者・人によって、かなり違います。
なので、凄く甘い判定基準の道場・指導者もあり、そういう道場では、見性者がバンバンでます。

たとえば、これなんかも見性体験ですが、かなり強烈です。
(ここで再見性と言われてるのは、あまり気にしないで良いと思います。
厳し目の基準では、過去の見性体験は、見性と言えるほどの内容ではないとか考えられるからです)

山田耕雲老師 『再見性の大歓喜』(抄)

これも、見性体験と言えると思います。

玉城康四郎 『冥想と経験』より

あと、体験の強度・純度とは別に、より重要なのは、「その体験の定着率」です。
幾ら、ブットビの凄い体験をして宇宙と一体になろうとも、その体験が、そのときだけのもので、後に大して残らなければ、あまり意味は無いでしょう。

ですので、私の夕日の体験なども、強度の面では、まあ、割と甘めの基準では、見性体験と言えるかもしれないですが、当時、大して定着しなかったですから、それほどの価値は無いと言えます。(ただ、この道に入るきっかけになったと云う面での意味はありますが)

その後、本格的な修行に入り、何度か、そういう体験はありましたが、いまだに、「その状態」に暮らして居る訳でないので、とても自分が悟ってるとは思えません。日々、色々な悩み苦しみがあり、それに懸命に、瞑想・内観・ボディワークを駆使して対処している状態です。

そういう体験をすることは、頑張れば可能だけれで、それを日常化する(意識に構造化する)というのは、何倍も困難なことと感じます。

ただ、自分がこれまで歩いてきた道筋と、見定めている方向性は、そう間違っていないと思うので、死ぬまで、できるところまで進めたらなー、と感じて生きています。

今年で修行始めて20年目なのですが、瞑想や内観やボディワークは、凄い世界だなー、との思いは強まっています。
少しずつ、その深み、面白さは分かってきた感じがしています。
それが、ささやかな喜びです。

盤珪さん、沢水禅師の言葉

努力(精進)と無努力(おまかせ)

修行の行程

・水平的な道行きと、垂直的な恩寵

道の行程を説明するとき、水平的な(横向きの)漸進的な説明と、垂直的な(縦に断ち割る)頓悟的な説明とが可能です。
ヴィパッサナーは主に水平的な、禅やアドヴァイタ・ヴェーダーンタは垂直的な説き方を好みます。

水平的な歩み

今後、自分の人生の多くの時間をかけて、この道を歩んでいくつもりであれば、段階的なココロの成長(取り組む順序)を考えて、そのときそのときの課題や技法を決めていく必要があります。

「無我の体験」「自我からの開放」「さとり、見性」を願う前に、まず、そもそも壊されるべき自己・自我が、健全に、倫理的に、バランス良く形成されていなければ、「自我を壊す修行」は危険なものとなり得ます。

問題は、多くの場合、一時的・突発的な無我の体験を、再び戻って来た自我が、「所有化」「私物化」することにあります。 そして、その戻ってきた自我は、その人が元々持っている性格上の癖・欠点を全てそのまま持っている上、普通の人間には中々できない、無我の体験、悟りを経験したと云う大きな記憶を持っています。 故に「俺ほど凄い(深い)無我の体験をした奴は何処にも居ない! この俺さまほどの!」と云うジョークのような状態になりかねないのです。

それぞれの行法には、するべき順序があり、それを飛ばして高位の修行に取り組んでみたところで、(仮にそれを実現できたとしても)、お城の基礎をキチンと組まないままに天守閣の造営に入るようなもので、危うさ、バランスの悪さがあり、壊れ、崩れやすく、人間としての歪みを後に残します。

また、修行の順序と云う、時間的な問題とは別に、全体の中での成長のバランスの問題もあります。

もし右腕だけが異常に成長し、肥大化した赤ん坊が居たとしたら、私たちはそれを異様に思うでしょうし、本人にとっても、それは健康な発育のため、好ましいことではないでしょう。

それと同じように、感情、身体意識、社会性・他者との関係性、家族との関係性、異性との関係性など多くの側面で、自分のどの部分が弱いのか、発育不全なのかを自覚認識し、その部分に 重点的に取り組み、全体をバランス良く成長させていく―う
そのような客観的な自己対象化と、それに基づいた着実な修習が必要です。

垂直的な力、恩寵

漸進的な歩みを進めるなかで、不意に、垂直的な力・恩寵とでも云うしかない、絶対的な体験を与えられることもあるでしょう。
自己も世界も砕け散った、時間を越えた絶対の今に、突然、投げ出されるような体験です。
そのとき、これまで歩んできた「漸進的な道」「時間の中でのアプローチ」の根本的な誤りに気がつくでしょう。 「段階的な修行など、何と馬鹿げたことを考え、行ってきたのだろう!」と、独り、笑うでしょう。
その高揚した意識=存在の明晰さは何日か続くかも知れません。
あるいは、何ヶ月か掛けて、ゆっくりと徐々に現実に離陸することになるかも知れません。
あるいは何時間かで、余韻を残してあっさりと消えていくかも知れません。

その体験の最中には、「これで自分の歩みは全て終わった」「全ては成就した」「煩悩即菩提、無くすべき煩悩もなければ、得るべき悟りも無い、これ、このままでOK!」と感じられることでしょう。

しかし時が経ってみれば、その経験によって与えられたものは、自身を見る眼
―今まで見えていなかった、より微細で潜在的な、多くの未解消問題、煩悩の動きに気づくことができる眼― でしかなかったことに気づくでしょう。

そして、そこから再び、残る問題と取り組む漸進的な道のりが始まります。

その歩みは、より微妙に、精妙に、また途方も無くダイナミックに、人知れぬものとなっていきます。(習気、ヴァーサナ、随眠、正念相続、潜行密用)

※ この垂直後の水平期は、垂直体験によって見たもの(見させて貰ったもの)を深化、安定、定着させる重要な時期でもあります。 ※
禅宗の伝統では、この水平的・垂直的という話を「六祖慧能と神秀の詩対決」で説明します。
神秀=水平的、慧能=垂直的で、どちらが正しいと云うことではなく、どちらも無ければ足らないのです。

慧能 – Wikipedia  慧能【本来無一物】

※ 内観研修ひとつを取ってみても、第一段階の「愛されて許されていたことの再確認、親、家族との和解・許し、自己受容」と「倫理的な自己形成、自我確立」「恩と愛の再確認」に主眼を置いた研修もありますし、その先の「自我そのもの本性としての、うそと盗み」「人間存在そのものに根ざす煩悩の凝視」から「絶対他力」へと至る、多くの行程段階に応じた研修が実際には行われています。

禅、ヴィパッサナー瞑想、内観と、それぞれの伝統が磨き上げられた「自己を見る(見破る)ためのシステム」を持っており、これは実際に時間をかけ実習し、体認・体得していく以外、近づきようもない道です。