仏教の解釈学

存在・認識・言語

以下、主に、仏教(初期、テーラワーダ、大乗、密教)、ヒンドゥー教に含まれる、地理的にも歴史的にも多様な瞑想理論と技法とを統一した視座のもと眺めるための土俵作りです。

歴史上存在してきた瞑想宗教の間には、主要な問題設定(問いのかたち)に違いがあります。

1 存在論

存在論的な宗教においては、「何が本当に存在するのか?」「世界を構成している最終的(究極的)な実体は何なのか?」との問いが中心にあります。

その問いに対する答えは、地水火風の四大元素、(あるいは五大元素)、さらに梵我一元論、神一元論であったりします。

これは西洋哲学で云えば、「古代ギリシャ哲学」の時代に対応します。

2 認識論

次に、認識論的な宗教の時代がやってきます。

そこでの主要な問いは、(世界そのものがどうなっているかは置いといて、そもそも)「認識の仕組みはどうなっているのか?」「われわれは世界をどのよう認識しているのか?」と云うかたちをとります。

原始仏教は、まさにこのタイプの宗教であり、「サンユッタ・ニカーヤ」中の「一切経」は、ブッダの認識論的立場の表明として、代表的なものと言えます。

みなさん、わたしは「一切」について話そうと思います。よく聞いて下さい。

「一切」とは、みなさん、いったい何でしょうか。

それは、眼と眼に見えるもの、耳と耳に聞こえるもの、鼻と鼻に匂うもの、舌と舌に味わわれるもの、身体と身体に接触されるもの、心と心の作用、のことです。

これが「一切」と呼ばれるものです。

誰かがこの「一切」を否定し、これとは別の「一切」を説こう、と主張するとき、それは結局、言葉だけに終わらざるを得ないでしょう。

さらに彼を問い詰めると、その主張を説明できず、病に倒れてしまうかも知れません。

何故でしょうか。

何故なら、彼の主張が彼の知識領域を越えているからです。

(Sanyutta-Nikaya 33.1.3)

釈迦が説いた世界観、「一切経」。 – 釈尊は何を教えたのか?@和井恵流 より

これは西洋哲学で云えば、デカルトに始まり、ヒュームバークリーカント、マッハの「感覚要素一元論」に至る流れに親しいものがあります。

故に、マッハ哲学に対する他陣営からの批判が、経量部によるアビダルマ心識論の批判に酷似していたりします。

また、現代の脳科学、認知科学の問いの立て方にも良く似ています。

3 言語論

次に、言語論的な宗教の時代がやってきます。

ここでは、「言語は(知覚)認識にどのように関わっているか?」が主に問われます。

ナーガルジュナ『中論』に始まる大乗仏教運動全体が、この「言語論」的な問題設定のなかにあります。

そして、インド瞑想宗教においては、この問いは主に、「言語は如何に、現実のあるがままの認識を汚染するか?」と云う「言語批判」のかたちをとり、実践技法としては、「いかにして、自分の意識のなかの言語の動き(概念化のハタラキ)を停止させるか? そして、言葉以前の、言葉によって汚されていない真実の相のもと世界を認識するか?」とのかたちをとります。

これは、西洋哲学で云えば、ソシュールの言語論に影響を受けた論者の思想に良く似ています。

故に、ソシュールの影響を受けた学者さんが禅仏教について書くと、非常に馴染んだりします。

● 参考

井筒俊彦の「有本質的文節→絶対無文節→無本質的分節」『意識と本質』、

古東哲明の「言語と沈黙」(論文) 『ハイデガー=存在神秘の哲学』

上田閑照の「言葉から出て、言葉に出る(禅的言語)」 『禅仏教―根源的人間』

丸山圭三郎の「身(み)分け構造」「言(こと)分け構造」

他者を他者として理解する

以上の話は前振りで、ここからが本題です。

現代に生きている私たちは、特にそういう自覚もないままに言語論的なものの見方のなかで育ち、言語論的な理論を基盤とした瞑想理論や技法に親しんでいます。

元々、存在論的な傾向の強かった不二一元思想も、長きに渡る仏教との論争や交流のなかで、言語論的な要素が混ざり込み、いまでは、もはや、アドバイタ・ヴェーダンタ思想と大乗仏教との実質的な違いは、ほとんどないように感じられます。

禅仏教もまた、中国で老荘思想と云う存在論的思考と出会ったことで、独特の言語論と存在論の融合体となっおります。

なので、いま私たちが本屋で出会う「悟り系」の本は、ほぼすべて存在論-言語論ベースのワンネス思想であると言えます。

「言語が、あるがままの認識を妨げている」と言われても、「ありきたりの話」と感じるだけで、特に驚きも目新しさもないでしょう。散々聞いてきた「よくある話」に過ぎないからです。

しかし、その無自覚的な感受性(前提)のままに、それとは違う(異質)の理論・技法に触れたとき、慣れ親しんだ(との自覚すらない)言語論的な発想で、その「新たなるもの」を理解・認識しようとします。

故に、言語論的な宗教の総本山である大乗仏教の国で育った私たちが、原始仏教-パーリ仏教(アビダルマ心識論・ヴィパッサナー瞑想)を自分たちに引き寄せないで理解することは非常に難しいのです。

自分自身の過去を考えても、現在ネット上で見ることができるヴィパッサナー瞑想やパーリ仏教に関する文章を見ても、それを強く感じます。

その真価・真意を理解するには、自分の側の自明な前提を一時保留にして、実践するなり、勉強するなりしないといけないのですが、その(保留すべき)前提が、私たちの考え方の非常に深いところに存在しているせいで、それが相当に難しいのです。

一つ、例を挙げてみます。

『中論』は、説一切有部を中心とした諸部派の論(アビダルマ)において、様々に考察され論じられてきた、形而上的実体としてのダルマ(法)を想定する説(五位七十五法、三世実有・法体恒有など)を、常住・常見を執した逸脱・矛盾したもの、釈迦の説いた教えの本義から外れたものとして論駁していくことを目的としている。 (中論 – Wikipediaより)

とあり、これは大乗仏教からなされた部派仏教批判の典型的なタイプのものですが、

(ここまでの議論を踏まえて考えれば)

「諸部派の論(アビダルマ)において、様々に考察され論じられてきた」のは、「形而上的実体としてのダルマ(法)を想定する説」ではなく、「認識論的実体としてのダンマ(法)に基礎をおいた理論」であると理解すべきなのです。

初期仏教-部派仏教で云う「法-自性」は、存在論的実体でも、言語論的実体でもなく、認識論的な実体(単位)であるからです。

ですので、この批判そのものが、相手が言っていないことを言った主張して攻撃する「わら人形攻撃」みたいなものなのですが、このような理解が仏教の世界でも社会的通念(常識)のようにまかり通っています。

また、ここから逆に、「ヴィパッサナー瞑想(ブッダの教え)は、現代の科学的(存在論的)な原子論や素粒子論を予言していた。仏教が現代科学によっても証明された」などと言うのが、おかしな話であるのも分かるでしょう。

そこには、存在論的原子(法-自性)と認識論的原子(法-自性)の混同があります。

このように、「法、自性、無常、苦、無我」など、最も基礎(基盤)となる言葉自体の意味が、大乗仏教になると大きく違ってきているのです。

「神は存在するか?」と云う議論において、その「神」と云う言葉の内容(概念規定)が互いに違っていれば建設的な議論の成り立ちようがないのと同じように、いま世に見られるヴィパッサナー瞑想に対する批判は、「そもそも互いが使っている基本的述語の概念規定が違う」と云うレベルにあり、多くの場合、不毛で、無意義です。

私にとって、ヴィパッサナー瞑想の技法と理論は、それまで触れてきた大乗仏教的なもの、ワンネス思想的なものとは異質な、なにか異様なもの(異物)です。

そうであるが故に、一般的な瞑想法を照らす他者(外部性)として、希少な価値あるものと信じます。

この素晴らしい技法に触れることのできた人間の一人として、こんな特殊な精神技術が存在するのだと云うことを、僅かでいいから、後の世に伝え、残したい、と思っています。

これから書くつもりの、

「五蘊皆苦」と「五蘊皆空」―テーラヴァーダと大乗仏教

「ラベリング論」

「カニカ・サマーディについて」

などの文章においても、ヴィパッサナー瞑想の特異性・特殊性(希少性)は深く絡んできます。

The biggest hindrance to discovery is,

not not understanding something,

but imagining falsely that you understand it.

*この格言の私約。

(新たなるものの)理解を妨げる最大の障害は、それについての情報の不足にではなく、

自分はそれについては既に知っている(既に理解できている)と思ってしまうことにある。

特に初期仏教を理解しようとする場合、この態度は重要です。

歴史的人物としてのゴータマ・ブッダの教え(真性ヴィパッサナー)は、瞑想宗教全般に対して、「異物」と言ってもいいほどの特異性を持っていると感じています。

これは、私が、その道を歩み抜いた(悟りを開いた、涅槃を見た)と云う意味ではありません。

私自身は、預流道ですらない、そんな段階には遥かに及ばないレベルですが、それでも、そのレベルの理解(見晴らし)ですら、私にとっては驚異的な内容です。だから驚いているのです。

先に進めば、もっと凄いのだろう、との予測はつきます。

そのことを自分にできる限りで、書き、残しておきたいと思っています。

このページで示した枠組みは、その作業に掛かるための、最初の足場作りです。

続き

以上の、存在論→認識論→言語論、と云う流れの後に、解釈学的な段階(展開)と云うのを考えます。
私にとってクリシュナムルティの教えは、その段階にあります。

その先に、生物論的-進化論的な段階(展開)があり、
Art of Awareness @ Awarenessismは、それを理論化・実践技法化しようとしています。

参考

以上の瞑想宗教の「歴史的な」捉え方には、リチャード・ローティ
トマス・クーンの哲学が大きく影響しております。

日本語で読める紹介・解説としては、

『増補 科学の解釈学』など、野家啓一氏の著作をオススメします。

『はじめての分析哲学』 大庭健も、楽しい入門書です。