「見えること」と「見えないもの」-理論の透明化作用論

見ることは、見えないものによって成り立つ

人が眼前に広がる世界を眺めるとき、その視覚的現成のうちには、自らの視覚的機構も、見ている主体=私も、私の脳も、姿を現しません。
それらは端的に、「透明である」「非在である」ことによって機能しています。
(その機構自体を、<外に立って><外から眺める>ことはできません。
それは、検証すべき対象を使って、検証する道具(眼)としていると云う循環を免れないからです)

このことは、望遠鏡を使って遠くを眺めるときにも同じで、それらは<見えないもの>であることによって、<見ること>を可能としているからです。

人が世界を、ある意味を持った存在として認識するとき、理論もまたそのような形で働いている、との考えが、「理論の透明化作用論」です。

ある理論・教えを完全にマスターし主体化したとき、その人は、自分が、ある理論(と云う眼鏡)を通して、世界を分節していると云う自覚・認識を持つことができなくなります。

世界を、何の理論・理屈を交えずに、直接に、あるがままに認識しているとの感覚に至ります。

そのことを、以下、順を追って説明していきます。

1 視覚

私たちの眼(視覚機構)を考えてみます。

それは、「正常に働いているとき、それ自体は見えない」と云う特徴を持っています。

つまり、

視覚機構が正常に働いているとき、(眼球の仕組みなど)見るための機構自体は見ることができず、視覚対象のみが現成する。

故に、(自分の)視覚機構自体を「見る(視覚の対象とする)ことはできない。

「見ること」を実現している「見る機構自体」は見えない。
それは、「透明化」されて存在することによって「見ること」を成り立たせている、

と言えます。

しかし、それをもって、「自分は目を使わないでものを見ている。視覚機構を使わないで視覚認識を行っている」とは言えません。

2 脳

次に、脳のハタラキを考えます。

私たちの脳が正常に機能しているとき、脳は、それ自身の存在を認識(意識)しません。

ただ、明晰に、(自己身体を含めた)環境世界を認識するのみです。

「自分が脳を持っている、脳を使って認識している」という感覚は、脳に問題が発生したときのみ感じられます。

これは、たとえば、眼のなかに砂が入ったり、イボができたときのみ、眼を違和感を持って感じる(認識する)のと同じことです。

「脳が最高度に機能している状態」として、私は、瞑想中の意識状態(「気づき-洞察モード」ではたらいている脳)を考えます。

このとき、脳は、自身の存在を普段以上に認識しません。

そして、認識できないが故に、その(瞑想中の)意識状態が「物質としての脳」無しに成立しているという感覚を強く抱きます。

ここから、「物理的な肉体死の後も(つまり、物質としての脳が無くなった後も)、この意識状態(原初的な純粋意識-気づき)は無くならない(失われない)」との考えに至る可能性があるでしょう。

これは、いわゆる臨死体験(体脱体験)中やサイコアクティブドラッグの使用時などにも共通して感じられる直感であるようですが、これらの変性意識体験においても、人の脳の大部分は通常通り働いており(普段と違う働き方をしているのは、脳全体の、ほんの少しの部分でしかないでしょう)、もし、その「脳に依存しないと感じられる意識体験中」、脳の動きを(外部から、誰かが)止めてしまったならば、その意識体験自体も停止・消失してしまうでしょう。

以上から、次のように考えられます。

生きている人間が経験する、どのような意識体験(瞑想、臨死、ドラッグ、突発的な変性意識)も、すべて物理的な脳が働いている状態で起こっているのであり、それらの体験によって、脳の外(脳を超えた世界)を語ることはできない、と云うことです。

このことは、死後(肉体、物理的な脳の無くなったあと)の意識世界(状態)のことは、生きて脳みそを使っている私たちには知ることができない、との考えにも結びつきます。

物理的な脳を働かして世界を認識している私たちには、脳がなくなった後のことは知ることができない― なぜなら、その知覚・思考・推測・理解・洞察のすべてが、物理的な脳の存在によって(それが正常に働いている条件のなかで)成り立っているからです。

また、このようにも考えられます。

私たちの通常の認識-「世界があり、そのなかに(顔を持ち、脳を持った)私が居る」と云う認識様式- は、「(世界と云う)知覚対象(情報)の中に自分の影が映りこんでいる」と云う意味では、「視覚情報の中に、眼球機構の一部が見えてしまっている」と云うのと同じく、不具合のある認識なのではないか、と。

ビデオ録画中に、撮影しているビデオカメラ自体(あるいは、撮影者自身)が常に、チラチラと写り込んでしまっている状態-それが私たちの日常意識です。

本来、「対象世界のなかには、自身は一切姿を現さず、(「見ている私」なしに)ただ、世界だけが存在(独存)している」のが自然な認識であるはずであり、その意味においては、瞑想宗教の云う覚醒意識の方が、機能的に正常な状態であり、私たちの日常意識の方に機能的な問題があるとも考えられます。

E、マッハの「現象学的自画像」、これこそが「正常な」見え方なのかも知れません。「本来の面目の肖像画」と言っても良いでしょう。

mach

● 参考→ D・E・ハーディング Headless Way「頭がない方法」

「理論」と「現実」

次に「理論と現実」と云う場面に進みます。

ここまでの、眼、脳と同じ構造を考えます。

「完全に、その理論(教え)をマスターした人にとって、その理論(教義)は存在しない(見えない)。
ただ、(その理論が言うとおりの)剥き出しのリアリティが存在するだけ」

「完全に、その理論(教義)を(見る機関そのものとなるまで)内面化(内在化)した人は、自分が、その理論(教義)を通して世界を認識していることは自覚・認識できない」

たとえば、ある宗教(の心識論)なり、思想なり、瞑想技法なりを、完全に内面化(内在化)したとき、その当人には、自分が、その理論を通して世界を認識しているとの自覚はなくなります。

なので、その当人には、その内面化(内在化)達成の瞬間、「すべての理論・知識・教義が滑り落ちて、自分の前には、あるがままの真如、理論・概念・言葉以前のむき出しの事実そのものが現成した」と感じられます。

しかし、それは、理論を超えたのではなく、理論を完全にマスターし、その理論が「見られる対象」ではなく、「見る器官そのもの」にまで内在化されてしまった結果であると言えます。
そのとき、その理論は、自分にとって透明なものとなり、姿を消します。

私は、これが、多くの宗教・思想・瞑想法などで実際に起こっていることだと考えています。

なぜ、「理論を超えたあるがまま(真如)」を語っている理論・技法同士に、ここまで深刻な相互不理解が存在するのかを問うなら、このような「見ることを成り立たせている見えないもの」の介在・存在を考えるしかありません。

宗教的な回心体験(開眼体験)を云うのに、「眼からウロコが落ちたような」と云う言い回しがあります。

ここには、「ウロコ(理論・先入観)が落ちる(無くなる)ことによって、ものごとは(世界は)よりハッキリと見える」「理論は、視力を鈍らせる」「人は本来、世界を明晰に見るだけの視力を持っている」との前提が存在します。

しかし現実には、ウロコが眼から落ちたのと、眼にウロコが飛び込んだのと、その当人に、どうやって見分けられるでしょうか。

先ほど言った「理論(教義)の完全な内在化」とは、それが、一生、手入れ・交換不要のコンタクトレンズのようなものとして自分の視覚器官に組み込まれることを意味します。

もし、生まれつき視力があまり良くない人間が、コンタクトレンズを入れて世界を見たとき、異様にクッキリと見えるに違いありません。

世界は情報量が多く、単純な、分かりやすい意味を持ったものとしては認識できません。
認識を超えた雑多な、曖昧なものです。

理論こそが、その膨大な情報量を縮減し、意味を抽出することによって、世界の明確な輪郭を浮き上がらせ、見るべきものを指定します。
それによって、明らかな、クッキリした構造・意味が見えてきます。
「わかった」と云う感じがしてきます。

誰もが観察者であり、誰もが最大限の鋭さを持って、しかも、他の誰よりもよく見るのだが、しかし、ひとつの(理論的)盲点を必要としている。

      W・ジェイムス 『人間の盲目性について』

この、完璧な理論的循環性―つまり、誰もが、特定のものが良く見え、見えないものを見ることができず、そして、見えないものを見ることができていない、ということを見ることができない。

こうした事態そのものを、理論に組み込むということ。
そこに、私の理論的関心は向けられているのです。

      N・ルーマン (共に、正確な引用ではありません)