嫉妬と支配欲、愛

主に男女間において、相手に対する「愛情」と「嫉妬」は相伴う関係にあることが殆どである。
「情が深い」人柄ほど「嫉妬」も強烈で、あることを切っ掛けに、疑い、さびしさ、傷つけられたとの思いが暴走し、そのことで却って相手の心を萎えさせ、冷めさせてしまう。これは、嫉妬するのが男性の側の場合でも、女性の側の場合でも、構造は全く同じである。
嫉妬を伴わない、嫉妬を相方としない愛、情の深さ、相手に対する思いの深さはあるのか。
支配欲、相手をコントロールしたい欲求に、自身が支配されない形での相手への思いやりはあるのか。
嫉妬と支配欲の二つが心に起こることが「相手を好きである証拠・愛している証拠」とされているのが現状であり、その先は、なかなか見えない。
これは、師匠と弟子、先生と生徒、教団と信者との間でも、まったく同じことが頻繁に起こる、自我固有の問題である。
嫉妬を伴わない愛、相手に対する支配欲を伴わない愛はあるのだろうか。

修行者のインターネット利用作法

パソコンが、常時、アンチウイィルスソフトによって監視されていないと危ないように、私たちの心もまた、「気づき」と云う「アンチ煩悩ソフト」によって監視されていないと、危ない。
新しい対象の下調べをし、買い物ボタンをポチッと押すとき、掲示板で議論するとき、新しいニュースに、とりあえず目を通すとき―
常に、自分の心の動きの動機・本当のところを監視する、引いた目線を持てない限り、インターネットは、果てしの無い自分自身からの逃避の舞台、あるいは危険な遊技場となりかねない。
そして、また、怒り、自惚れ、承認欲求などのウィルスを、気づかぬうちに自分が世間にばら撒き、汚染することにも繋がるだろう。
絶え間なき気づき、絶え間なき注視・監視が必要である。
それを実践するとき、ネット接続は(仕事を持ち、社会の中で暮らす我々にとって)、自己の本性を見るための(心随観の)修行の最高の現場となり得るかも知れない。

人の話を聞く(読む)とき

他人の言葉を読むときには、過去のその人の言動の一貫性や、印象(自分の中にできている、その人のイメージ)と切り離して、「その一言が、今の自分にとって価値あるものか、学びをもたらすものかどうか」だけを見て、その言葉に学ぶこと。
最低の(と思っている)人格が、最高の言葉(活句)を吐いたなら、その言葉だけを受け取ること。
あたかも、最高のグル・師が、自分のために、その言葉を与えてくれたかのように。
常に、人の言葉の、最高の部分だけを見ること、受領すること
「その言だけを見て、その人を見ず」
だれがその発言をしているかを見るのではなく、
ぶつ切れの、その一言一言だけを完結したものとして見る。

自分が話をする(書く)とき

自分が掲示板などで、書き込み・発言をするときは、その言わんとする内容の良し悪しではなく(勿論、書き込みするならば、その内容は、嘘がなく、正しく、多くの方の利益となる最善のものでなければならない)、その書き込みをするにあたって働いている「自分の心の動機・自分を動かしている衝動・欲求」に注意深くあること。
どんな良いことを書いたとしても、それを書いている動機が、自己顕示欲であったり、怒り、腹立ちであったならば、その「善言」は汚染されており、良い結果には繋がらない。
常に、裏に働いている自分の動機を見据えながら、やり取りをすること。
また、何らかの発言をする時は、「この書き込みを、本名で、住所、職業、自分の立場を表示した上で書いたとしても、自分は、この通りのことを書くだろうか?」と自問してから書くと良い。
匿名性の裏に、自分の卑怯で卑劣な心が働いてないか見る。

感謝の祈り

主よ。
時として病気を与えてくださり、感謝します。
人間の弱さを知ることができるようにして下さったからです。
たまに孤独の穴に投げ入れて下さり、感謝します。
それは主の近くに行く機会ですから。
為すことが計画通りに行かないようにして下さることを、感謝します。
そのおかげで、私の高慢さを反省することができます。
息子・娘が心配の種になるようして下さり、感謝します。
両親と同僚が荷物になったように感じるときを与えて下さり、感謝します。
それによって、人間としての生きがいを悟ることができるからです。
食べて、生きていくのが大変であることを、感謝します。
涙を持ってパンを食べる、その心情が理解できるからです。
汗と苦労の杯を味合わせて下さり、感謝します。
そのおかげで主の愛を悟ることができるからです。
主よ。感謝できる心を与えて下さり、感謝します。

上村秀雄 『歩むもの』より

世の中というものは正直なものだ。
ごまかして渡ろうなんて、不貞の考えを起こしても、どっこいそうは問屋がおろさない。
貸借対照表は神様がちゃんと作っておられることを忘れてはならない。
……
何がこの人生においてもっとも大切なものなのか。
それをしっかり見定めて、まっしぐらに邁進することだ。
つまらぬことに心身を労している間に、短い人生は、さっさと過ぎてしまうのだ。
……
私の、最大の、そして最後の強敵は、私であった。
……
忘恩の徒となるは易く、報恩の人たるは難し。
ああ、なんと、人は恩を忘れ易いことか、われ、人ともに―。
……
大志を抱く者は、つまらぬことでは他人と争わない。
たいていのことは負けておればよいのだ。
……
誰にも知られずに、何かよいことを、毎日続けてすること―己の人つくりの秘訣である。
……
相手の出方の如何を問わぬ愛こそ、ほんとうの愛である。
この愛を知ることに依って、人生の趣は深くなる。
……
こうして五体満足にそろって、無事に生きているということ….
これは何という素晴らしい、ありがたいことであろうか。


上村秀雄 『歩むもの』抜粋

クリシュナムルティ『瞑想』より

瞑想は生の中で、もっとも偉大な芸術のひとつです。
おそらく最高に偉大なものでしょう。
それは他の誰かから学べるものではありません。
それが、瞑想の美しさです。
瞑想にはどんな技法もありません。
それゆえ瞑想には権威者などいないのです。
あなたが自分自身について知るとき、
つまりあなたを見つめ、
どのように歩き、どのように食べ、何を話しているかを見守り、
お喋りや憎しみや嫉妬を見つめ、
あなた自身の中で、これら全てのことに思考を差し挟むことなく気がついているとき、
それは既に瞑想になっています。

……

瞑想とは、日常生活とは別の何かではありません。
部屋の隅にいって10分間瞑想をし、そこから出てきて肉屋に戻る、というようなものではありません。
これは比喩として言っているのではなく、実際にそうなのです。
瞑想は、もっとも重大なことのひとつです。
あなたはそれを一日中できます。
仕事場にいるときでも、家族と一緒にいるときでも、誰かに「愛しているよ」と言っているときでも、子ども達のことを考えているときでも…

しかし、その一方で、あなたは人々に、兵士になり、人を殺し、愛国者になり、国旗に敬礼するようにと教えています。
現代社会のこのような罠にはまるように人々を教育しています。
それをことごとく見守り、あなたがそのなかで果たしている役割を理解すること。
そのすべてが瞑想にふくまれます。
このように瞑想しているとき、あなたはそのなかに、たとえようもない美しさを見い出すでしょう。
そしてあなたは、どんな瞬間にも正しく行動するようになるはずです。
たとえ、いっとき正しく行動をしないことがあったとしても、問題ではありません。
ふたたびそれを取り戻せばいいのです。
悔やんで時間を無駄にすることはありません。
瞑想は生活の一部です。
生活とは別の何かではありません。

クリシュナムルティ 『瞑想』より