関係の鏡

あたりまえな日常の関係のなかでの、絶え間なき観察・自己への気づき

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あらゆる関係が自己露呈、自己開示の機会なのです。
この自己暴露は、思考と感情の絶えざる調整、柔軟性を必要とするので苦痛なことです。
それは開けた平和な期間を持つ苦しい戦いです。
習慣的判断、理論、価値観を根絶することは非常に奮闘的であり、その過程のなかで葛藤は避けられないように見えます。
しかし、ひとの全体が露わにされること―完全な自己理解のなかにのみ、苦痛、葛藤、混乱からの全面的な自由があるのであり、関係がその自由への通路なのです。

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関係の鏡は、そのなかに私の、そうであるままの姿を映し出してくれる鏡です。
しかし私たちは、そこに映し出される現実の自分の姿を好まないので、絶えずそれに修正をかけようとします。
私はそれをそうでないものに変えたい。
それは私が「そう(で)ありたい、そうあるべきである」というイメージを既に持っていることを意味します。

「そうでありたいもの」、あるいは「そうであってはならないもの」のイメージ― それに従って自分を変えようとする基準を持つかぎり、その瞬間における自己の現実・実態・現にある姿の理解はありません。
これを理解することが本当に大切です。
なぜなら、これが私たちの大部分が迷うところだからです。

私たちが単に自己改善に関わっているに過ぎないなら、自己そのものの、いま現にあるものの理解はありません。
あなたは単に満足できる結果を求めているに過ぎないからです。
そして結果を得ることは、結局どこへも導かないでしょう。
しかし、あるべき私ではなく現にそうである私を見る(知る)ことは非常に難しいことです。
心は、そこにあるものを避けるのに常に非常に熱心で、巧妙だからです。
それは、今あるものをとにかく否定しようとします。

それゆえ、あるがままの自分を見るためには非難があってはなりません。
非難するなら、決してそれを理解できないでしょう。
あるいは受け入れ、肯定することも理解へ導く道ではありません。
否定も肯定も、それを掴むことのひとつの形なのです。

しかし、私たちが問題を非難や正当化なしに見ることができるなら、すなわち関係のなかで、自身の問題・実態を、それがそうである通りに見ることができるなら、そのとき、今あるものを開く可能性が、今あるものの理解の可能性が出てくるのです。
それはあなた自身を、あなたがそうである通りに、瞬時瞬時、知ることです。
進行するあらゆるできごと、外側のあらゆる挑戦、あらゆる経験に対する内側の反応のすべてに気づいていることです。
しかし、何らかの形の基準とする信念、昨日の経験に対する執着、記憶があるなら、あなたは自分自身を、充分に、完全に、深く、広く知ることはできません。
新しい何かを理解するためには新鮮な心がなければなりません。
信念、予測、先入見を持った心ではなく、経験で動きが取れなくなった心ではなく。
あらゆる経験、関係―その全体の意義に気づいていることは、そんな容易なことではありません。
それは並外れて油断のない心を必要とします。
しかし心は、昨日の経験を保持することによって鈍くされています。
信念によって鈍くされています。
信念に基づく経験は、単に条件づけを強めるに過ぎません。
そして、そのような経験は、非常に申し分なく満足なものであっても、関係のなかの反応への気づきを通して生まれ出る、あの途方もない自己認識を限定します。
なぜなら、あなたが経験を持ち、そしてその条件づけられた経験の記憶を持って新しい挑戦に出会うなら、明らかにその挑戦の理解はないからです。
そして関係は確かに挑戦ではないでしょうか。
関係は静的なものではありません。
その挑戦に、適切に、充分に、完全に出会うことができないため、私たちは問題を持つのです。

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日常のあたりまえな関係という鏡のなかで、私は自分自身を観察し、理解していくことができます。
その鏡を通して自分自身を見守るとは、絶えず油断がなく、自身のなかに起こりつつあることに注意深いということです。

あなたは、そこに映し出されるどんなものも非難する感覚なしに、この関係の鏡のなかで自分自身を見守るということが、いかに並外れて難しいことであるか知るでしょう。

あなたが自分の見るものを非難するなら、その理解はありません。
いま現にあるものを理解するためには、非難、正当化、判断、価値づけが去らなければなりません。
それは極めて難しいことです。
なぜなら私たちは、判断し、評価するよう、良いと認め、悪いと否定するよう、しつけられ、育てられてきたからです。
しかし、人はそれをやり通さなければなりません。
心の過程全体を理解しなければなりません。
単に知的に、そのことについて考察したり、議論したりしているのではなく、実際の日々の生活のなかで、関係の鏡のなかで、
心のなかに実際に起こりつつあることを観察し、学び尽くさなければならないのです。
否定したり、制御したり、変えようとしたりすることなく、それを調べ、それに学び、その内容全体に気づいていなければならないのです。

そのとき、あなたがそんなにもはるかに進むなら、心がもはやどんなイメージも投影しておらず、どんな観念も編み出していないことを知るでしょう。
心はそれ自身の全体を理解し始めつつあり、したがって、それは非常に明晰に、単純に、静かになります。

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重要なことは、ひととの関係のなかで自分自身を理解していくことなのです。
そのとき瞑想は、孤立化へと向かうものではなく、関係の最中で、自身の真の姿―自身の欲求、感情、思考を見出していく過程となります。
そして、その発見そのものが自由の始まりであり、変容の始まりなのです。

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私たち個人のなかに根源的変容を引き起こそうとするなら、あなたは日常生活におけるあらゆる関係のなかで、あなたの思考、感情、反応の全体を、一瞬一瞬、刻々に理解していかなくてはならないのです。

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それは、私たちの日常生活のなかの、あたりまえな関係という鏡のなかに、絶え間のない気づきによって顕わとなります。
それは、どんな取捨選択もなしに気づいていることを意味します。

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あなたはそれを、あらゆる日常的関係を鏡にして、自分の意識の中身を観察し、理解することによって見出さなければならないのです。

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新しいものを見るためには、あらゆる過去の蓄積物―経験、知識、記憶、見解に対する死がなければなりません。
それは刻々の気づきによって為されます。

あらゆる関係が、心がそれ自身のありさまを映し見ることのできる鏡なのです。
関係は、私と外界との間に、私と他者との間に、私と私の感情との間にあります。
その関係の鏡のなかで、ひとは実際にあるがままの自分自身を見ることができるのです。
判断することなしに、非難することなしに、ただ見守ることができさえすれば。

しかし、観察するための固定的な基点、足場を持つとき、その観察に理解はありません。
自分の思考・感情の過程に充分に気づいていること、そして、その過程から解放されていくことこそが瞑想です。

あなたは「そんなにも絶えず気づいているというのは、ちょっと自分には難しすぎる」とおっしゃるかもしれません。
もちろん、それは非常に難しい― それはほとんど不可能です。
機械を常に全速力で働かせておくことはできません。
それは速度を落とし、休息を取らなければなりません。
同様に、常に全的な気づきを維持することはできません。
その時その時、気づいていることで充分です。
ひとが一、二分、全的に気づいていて、それからくつろぐなら― そのくつろぎのなかで自発的に心の動きを観察しているなら―絶え間なく見守ろうとする努力のなかでよりも、より多くの発見があるでしょう。
あなたが歩き、話し、本を読んでいるとき、あらゆる瞬間に、努力なく、あなたはあなた自身を観察できるのです。
そのとき、心が経験し、蓄積してきたものごと全てから、それ自身が解放される可能性が出てくるのです。

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瞬間瞬間、みずからの為すあらゆる反応―あらゆる思考、あらゆる感情に気づいていられるなら、関係のなかで自己の実態が理解されていくでしょう。
そのとき、心の静寂―究極の実在が生まれ出る可能性が出てくるのです。

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これは、あなたが自分自身を、外界、他者、思考、感情などとの関係のなかで徹底的に見守らなくてはならないことを意味します。
条件づけの全過程を本当に観察しなくてはならないのです。
それは絶え間のない気づき、絶え間のない調査、絶え間のない観察の問題なのです。

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関係の最中で、会話の、行為の最中で、一日のあらゆる瞬間を通して自分自身を観察すること。
それによって現実のあるがままの自分の姿を見出し始めるよう。
関係のなかで、あらゆる瞬間に、ひとがそのことにエネルギーを注ぐなら、これがそれほど難しいことであるとは思いません。

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自分自身を、いかなる判断もなしに見守るということはとてつもなく重要です。
なぜなら、それが自分自身を理解し、自分自身について知る唯一の道だからです。
自分自身を客観的に観察してゆくなかで、ひとは、自分がいかにひどく条件づけられているかを悟ります。
社会によって、文化によって、宗教によって、家庭によって、教育によって、私たちは条件づけられています。
この条件づけは表面だけのものでなく、心の非常に奥深くにまで染み込んでいます。
そして、それだからこそ、ひとはかつて一瞬でもこの条件づけから外に出たことがあるのかどうか尋ねなければならないのです。

なぜなら、もしひとが自由でないなら、彼は絶え間ない葛藤と闘争のなかで生きていくだろうからです。
この自分自身の理解ということは、私たちの関係に注意を払うことによってだけ可能なのです。
関係を見守ることによって、私は自分自身を見ることができます。
そこにはすべての反応が表われており、条件づけのすべてが露わになっています。
関係のなかで、ひとは自分自身の実態に気づくことができます。
そのとき、この広大な恐怖の問題に気づくことでしょう。
心が常に、確かさ、安定、安全を求めて運動している有様を見ることでしょう。
それが私たちすべてが求めているものです。
完全な安定― 心理的な事実として、そのようなものはありません。
心理的に、私たちは特定の観念や特定の宗教、特定の集団の一員であることを受け入れ、そして条件づけられています。
あなたはこれまで、この世界で宗教組織が行ってきた害悪、それがいかに人と人とを分断するかということを見てきたに違いありません。
私は仏教徒であり、あなたはヒンドゥー教徒である。
私たちにとって、ラベルは実際の愛情・親愛よりもはるかに重要なものとなってしまっているのです。
ひとはこの分離を観察することができます。
それが私たちの条件づけであり、それが恐怖の源なのです。

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愛や善性や英知は、ただ関係のなかでのみ働くことができます。
すべての存在が関係のなかにあります。
ですから、まず必要なことは、あらゆる事物、人との関係に気づくようになることです。
そしてこの関係のなかで、どのようにが生まれ、働いているかを見ることです。

分離を生み出すのはなのです。
天国を、そして地獄を作り出すのもまたです。
このことに気づくことはそれを理解することであり、そしてその理解がそれを終わらせます。
この終焉のなかに善性があり、愛があり、英知があるのです。