核心部分

こちらの研修コースで行われている、瞑想・内観・ボディワークの全てに共通する、技術と行程の核心部分について。

苦しみと云う事実・現実

まず、このような実践-行に興味関心を持ち、取り組んでみようと思われるからには、(それが具体的で強烈なものであれ、あるいは漠然とした曖昧なものであれ)何らかの現状不満、何らかの身体的/心理的な悩み・痛み・苦しみをお持ちであることと思います。

その詳細に違いはあるにせれ、いずれにせよ、「今ある何かを無くしたい(免れたい)」か、「今ない何かを手に入れたい(経験したい)」か、のどちらかの動機が、(明らかであれ、自身に対し隠されたものであれ)存在するに違いないでしょう。

まず、それを自ら認めること。
それを、実践に際しての確かな出発地点として確認したいと思います。

「自分は、自分の現状に対し、何処に、何の不満を抱えているのだろうか?」

「自分が今感じている(抱えている)、身体的/心理的な悩み・痛み・苦しみは何か?」

「自分は、今ある何を無くしたい(免れたい)のか? 今ない何を手に入れたい(経験したい)のか?」

無くせる苦しみと無くせない苦しみ

「身体的/心理的な悩み・痛み・苦しみ」のなかには、やり方によっては無くすこと(解消させること)のできる、具体的な対処法を持つものも存在します。

たとえば、何らかの身体の怪我・病気によって、不安・悩み・痛み・苦しみが起こっているならば、適切に処置すれば、それらは消えるでしょう。

心理的な悩み・痛み・苦しみの場合でも、状況を変えるなどの適切な対処によって無くせるものはあるでしょう。

それら、具体的な対処法によって解消できる「悩み・痛み・苦しみ」については、ここでは扱いません。

問題は、普通のやり方では解消できない「悩み・痛み・苦しみ」というものが人生には存在し、それらが深刻な問題としてつきまとい自分を苦しめること。
それを、どうしたら良いのか、ということにあります。

対極(反対側)へ逃げ避けること

「無くせない苦しみ」の一つの例として、「むなしさ、満たされなさ、空虚感」の問題を取り上げます。(これは、不安、恐れ、怒り、認められたさ、身体の痛みなど、あらゆる「無くせない苦しみ」に共通して言えることです)

何をしても、本質的な部分で無くならない、常につきまとう自分のなかの空虚感。
人や物、経験によって一時的に誤魔化せたように見えても、時間が経つと再び立ち現れてくる、自分の中に空いた穴、何かが欠けたような、満たされなさ、物足りなさの感じ。

それらを感じたとき、私たちは、「自分には充実感が無い、何かが足りない。どうすれば一時的ではない(終わらない)充実感を手に入れられるだろうか」と考え、思いつくことができる、あらゆることをします。
趣味、娯楽への熱中、刺激を求めること、社会的な成功、達成、認められること、充実した人間関係…
そのなかには、瞑想や修行、精神世界的な色々も含まれるでしょう。

それによって、むなしさという問題が解消するなら、それで良いのですが、しかし、それが自身にとって「無くならない問題」であるならば、まもなく、再び、それはぶり返してくるでしょう。

上記の普通の対処法― それは、むなしさから充実へ今、現にある、あるがままの事実から、あるべき理想(こうありたいもの)へと至ろう、離れよう、逃げようとする心理的な動きであると言えます。

しかし、おそらく、そのやりかたでは、いま問題となっている「無くせない悩み・痛み・苦しみ」を扱うことができません。

では、どうしたらいいのでしょう。
どうすることができるのでしょうか。


否定から受容へ 今、ある事実に留まること

残されたやれることは、ただ一つだけです。

もし、いま、「むなしさ、満たされなさ、空虚感」が存在するなら、その対極である「満たされた充実感」を求め、そこに至ろうとする内的/外的行為を一切やめて、対極なしの「むなしさ、満たされなさ、空虚感」に留まることのみ。

いま、此処に、現に/既に存在する、全面的なむなしさ、空虚感の感覚、その事実を認め、そこに在る、それであることです。

空っぽさと充実感は、実際には反対の概念ではなく、いま、この「満たされなさ」という実感によって、自身の存在が充満し、一杯であるという事実を認め、そこに留まり、感じ、味わい切ることです。

それをするとき、重要なことが一つあります。

法と概念(事実とイメージ)

それは、「むなしさ」という言葉、概念、イメージを剥ぎ落とした状態で、その言葉によって指し示されている実感そのもの、事実そのものに意識の焦点を当て、それを感じ切ることにあります。

「むなしさ、寂しさ、満たされなさ」という言葉(概念)を介在させずに、それら感情・感覚に直接触れ、感じ切ったとき、それらは実際、どのようなものなのでしょう。

それは、内的思考(内語、つぶやき)と心的映像と身体感覚の複合体・塊のようなものかもしれません。

そこに、普通と違ったかたちでの内的な変化と救いが起こる可能性があります。

「自分の悩み・痛み・苦しみに、受容的に気づくこと」という言い方で、その経験を表現しています。

絶対的なものの具象化(方便)としての技法

以上の説明が、「気づきの技術」という方法論の核心部分です。

それは、普通の意味で、手段や方法化ができません。

なぜなら、それを行い、実現するには、今のこの状態から抜け出し、もっと楽な良い状態に変化すると云う希望を諦め、全面的に絶望することが、その瞬間、求められ、それが「受容的な気づき」が成立する前提条件となっているからです。

その「全面的なあきらめ、受け入れ」を方法(テクニック)によって、作りあげることはできません。

しかし、間接的なかたちで、それが起こりやすい方向づけをすること、環境設定をすること、ヒントを与え、その練習をすることはできます。

それが、それぞれの研修コースの内容である、と言えます。

それは、ハシゴをかけることができない場所へ向けてかけられた、特殊なハシゴなのです。

私自身の立ち位置について

研修をリードする私(船江霊基)自身は、それを達成しているのでしょうか。
その「受容的な気づき」を実現し、マスターし、日々、苦しみのない状態で生きているのでしょうか。

まったく、そんなことはありません。

私自身、日々、新たな問題に直面し、そのたびに悩み、苦しみ、失敗し、生きております。
では、なぜ、自身が身を持って救われていないのに、この方法論が正しい、価値あるものと言えるのか。

それは、これまでの人生で幾度も味わった危機的な状況のなかで、自身を最終的に救ってくれたのは、やはり、そのときそのときの「受容的な気づき」の成立によるものであったという経験によります。

最終的な、二度と元に戻らない、決定的な体験― 伝統的に悟り・覚醒などと呼ばれる― それを自身も求めて生きてきましたし、過去に何度か、それが実現したかと感じられた瞬間もありましたが、私の場合、それは常に一時的なもので、時間と共に元に戻り、いまも変わらず悩み・迷いを抱えたまま生きております。

しかし同時に、この、自分が狙いを定め、歩んできた方向自体は間違えていないだろうとの確信は強くあり、
なので、こうして研修所を主催することを自分に許せています。

また、これまで研修でお世話をさせていただいた、それぞれの方が、それぞれの仕方で、自分に向き合い、自分の姿を見ることによって、変化し、楽になり、救われるう姿を見て、自分のやっていることは無意味ではないだろう、と感じさせられる経験があるからこそ、続けていられる、と云う事実もあります。
ただ、過去に多くの失敗も犯しており、そのことに対する後悔もありながら、二度と再び、そのような失敗を繰り返さないようにと誓い・願いながら、この仕事をしている、それももう一つの事実です。

私の自己認識では、自分は、まったく悟った先生・指導者などではなく、単なる、この道の(旅の行程の)ガイドであり、この修行体系での実践を何年か前から始めている先輩でしかなく、そして、気づきの修行が好きで、この道に入ったのですが、才能的には、それほどのものがなく、長くやっている割には、大したことはなく、人間的な欠点も多く持っている。
ただ、天才肌ではない分、普通の人の修行上の行き詰まり・悩みを理解し、解決へのアドバイスをすることは得意である、と云う良いところも持っている人、というものです。

最後に

かって、若い頃、苦しみから開放されたい、楽になりたい、と懸命に修行していたときのことを思い出します。

いくら努力しても、今の自分の現実と、自分の目指している、苦しみから開放された、今と一つになる、これで本当に良いと思える境地とのギャップは埋められなく、本当にクタクタになり、力尽きました。
それまでの何年間かの苦闘の果ての、どうしようもない行き詰まりのなかで、その時、初めて、「どう足掻こうと、自分には無理なのではないのか、自分には目的を達成することはできず、救われるときは来ないのではないか」との絶望・あきらめの気持ちが湧いてきました。
そして、こう考えました。
「これまでずっと、そのことだけを目指して生きてきた。いま、ここで、その宿願を捨て、あきらめたなら、明日から何をして生きていったら良いだろうか、自分には何が残るのだろうか?」と。
しばらくして、気がつきました。
「この、いま、あるままの、迷って苦しんでいる自分だけが残る」
「そして、そこから抜け出せる可能性は、もう無いのだから、自分は、いま、あるこのまま、この迷っているまま、それと共に生きていくしか無い」
そこで思いました。
「では、それは、これまでやってきた、今にある、今の事実を生きる気づきの瞑想と何が違うのだろう」
「何も違わない。ただ、これじゃない、もっと良い何かの実現を未来に期待しているかしていないかの違いしか無い」
「では、結局、修行を続けるとかやめるとか云う選択も無い。やるもやらないも、悟るも悟らないもない。
と云うか、気づきの修行をやめる、そのやめ方がわからない」
そのようなことを思い、また瞑想に戻りました。

いま、この文章を読み、「自分には、それは無理じゃないか」と感じられる方も居られるかもしれません。
確かに、いつか、未来のあるとき、劇的な覚醒体験をして、以後、すべての悩み苦しみを感じないスゴイ人・悟った人になりたい、というのであれば、それは多くの人にとって実現しない夢・叶わない憧れでしかないかもしれません。

しかし、仮に、それが無理だとして、では、残る生涯、どう生きていくのか、どのように自分の心と向き合って生きていくのか、と問うたとき、できることは、「いま、ある、等身大の、決して素晴らしくも優れてもいない、この自分の身と心と寄り添い、それに気づき、それを受容し、それを味わって生きていくしか無い」― それが、一番マシな残る時間の過ごし方・在り方に違いない、と私は思うのです。
それは、やるかやらないか、悟ろうが迷ったまま死んでいこうが、それ以外の選択の余地のない、唯一残された事実だと思うのです。

いま、生きている、そのものが、気づきの修行であり、あらゆる経験が、常に/既に「受容的な気づき」のなかに成立しており、その外に出ることも、それをやめることもできないのです。

……

以上、粗い文章ですが、私の一番言いたいこと、伝えたいことのエッセンスは書き表せたつもりです。

もし、心に引っかかる何かがあったなら、ご連絡ください。
共に取り組んで参りましょう。