2ch ダンテス・ダイジ スレ2-4

2chの「ダンテス・ダイジ」スレ2です。
おそらく、1と同じ方が投稿されているのだと思いますが、価値ある仕事だと思います。
埋もれてしまうのは惜しいので、此処に置かせて貰います。
長いファイルですので、4つに分割してみました。
もし、此処に置くことに問題ある場合は、お手数ですがご連絡下さい。(霊基)

ダンテス・ダイジ2


不思議に静かな夜に

吾が臨済禅の師、木村虎山老師は曰われた。
『悟りは各自もちだ』と。太郎に太郎の悟りがあり、花子に花子の悟りがあり、釈迦に釈迦の悟りがあり、猫に猫の悟りがある。
実際、冥想は、それどれの人めいめいにそれにふさわしい充足と安心感を与える。
めいそうの極地は、もちろん、あらゆる相対現象界を撲滅した絶対無とそれ自体への回帰である。
その絶対無、ニルヴァーナは、『ニルヴァーナ』という言葉の無限回の念唱によって開示されもする。
しかし、この無数の個生命の活作用である現象界では、窮極本質といういことや、悟りの高低深浅など問題にならない。
要は、あらゆる個生命が、もっとも、それぞれにふさわしく生き切り、死に切ることなのだ。
それが、どのような生き方であろうと、もはや自己の天命を生きているものにとって、いかなる問題も存在しない。
冥想は、必ず、それぞれの人にふさわしいだけの光明を開示する。世界平和の理想も個々人の安寧も、
すべて自己解放の宇宙の中に収束する。

運命をコントロールすることや、宿命転換などということは、万人に必要とする。冥想である。
しかし、絶対無の覚証、解脱涅槃といったことは、この世一切への完全不適応者達のみに与えられた
悲惨にして至福なる不可思議な恩恵である。
(中略)
私と老師は、首里にある小さな万松院という臨済禅で、その夜ふけの酒を酌み交わしていた。
老師も、ごろっと横になり、私もごろっと横になった。
古ぼけた本堂の方から、アワモリの匂いが、かすかに漂って来た。
『夢のようですね』私は、いい酔い心地のままつぶやいた。
老師は、半睡の程で静かにうなづかれたようだった。
夜がさらに深まり、不思議に静かな夜だった。

何もかもないそのものの絶対的充足が涅槃そのものであり、ナムアミダであろうと『オーム』であろうと同じことである。

琉球の久遠の陽光の下  如意第慈 拝

—–

冥想修行とは、イメージ・思考・観念・感覚の言葉遊び、もしくは不安にもとづく堂々巡りではない。
また、自律神経訓練や催眠や各種薬物を使用したホンルモンや神経コントロールなどの
医学的セラピーやマインドゲームなどではない。

完璧な透明さは、修練によって起こすことは出来ない、愛情と信頼の上に即非的に全面愛が産まれ、
全面愛は、それ自身、ニルヴァーナへ、おのずから流れ込む。

君の内なる感受性を、社会に無理やり適応するというやり方などで殺してはいけない。
正しい感受性は、とても傷つきやすいが、それは、愛情と信頼、そして瞑想への種子となるものだから。

現代人の言う、物質的豊かさとは、一つの精神的慰安への欲望に他ならない。
なぜなら、人間にとっての、本来の物質的必要性とは、単純な衣食住の充足に過ぎないのだから。

一般的に、女性のエゴは、失神にまで至る無数の性的オルガズムと、男性への愛着から愛情への成長か、
最愛の男性の子供を出産し養育することにより、ほとんど完結する。

一般的に、女性の失神にまで至る、全身心的オルガズムは、相手である男性に対する、全面的な愛情と信頼なしには起こり得ない。

フリーセックスとはもっとも強度な性的抑圧である。
あなたが、セックスの、神秘的恐怖に直面しないからオルガズムがないのだ。
あなたが死の、神秘的恐怖に直面しないから、エクスタシーがないのだ。

虚無に直面し切れない不安が、性欲という観念を形成する妄想であり、
問題なのはセックスという精神的欲望を、愛情という一つのリアリティーにいかにして変容せしめるかということだ。

セックスの諸問題を、解決する方法は、本当に心の底から、ただ一人の愛人を愛しきることにある。

—–

堕落と管理下は、同じものであり、これが進行すると、本当の恋愛も、本当の一家団らんも、
本当の遊びも、本当の仕事も、本当の芸術も、本当の冥想も、つまり、あらゆる幸福は消え去ってしまうであろう。

社会とは虚構に過ぎない。現実にあるのは、様々な人間関係である。
人間関係とは、様々な欲望の取引である。
人が、現実を現実として見るのは、欲望の取引が、何らかの障害に破滅した時である。
現実を現実として見る時。愛が出現する余地が生まれる。

人が、絶対愛に目覚める瞬間は、激烈な場合のほうが多い。

愛情は、あなたなしにはあり得ないが、愛はあなたがあったら目覚めない。

あらゆる出来事も存在も、すべて一回限りのものであり、連続性とは観念的虚構にすぎない。

私が、どのような生き様をしようと、私という何者かは、一回限りの生を生きている。
転生というものは、あるにはあるが、それは、心霊学的なものではない。いずれにせよ、一度しかない人生なのだ。

現実として、一切万象の中に単独として存在しているものはない。
重要なのは、万象の一体性が、絶対愛だということにある。

全体性の回復とは回復ではない。あたりまえなことだ。すべてが、完全だと言うも、すでに手遅れだ。

夢想する事もできないだろうが、君自身は、すべてと、
すべてのすべてをと知り尽くしている。けれども、それも又、どうということはない。

地獄とは、理想を実現しようとする、精神的な欲望以外にはない。

神から見れば、君は地獄を避けて通り抜けるわけにはいかない。

それが、どのような形象であろうと、形象を持っている事が地獄の始まりであり、
そして、それこそが、神のかけがえのないゲームなのだ。

—–

私という感覚は、明らかに全体という知覚と別個のものではない。にもかかわらず、私という単独の感覚は残り続ける。
この私という単独の感覚自体が、拡大するにつれて、退屈・不満・不安・恐怖などになる。
つまり私という感覚の明瞭さ自体が、苦である。
私とは、すでに欲望であるがゆえに空虚なのだ。そこで。私は、この空虚なる私を忘れようとして行為する。
そして、行為の中に何らかの満足感や快楽を発見すれば、私という感覚は、減少もしくは消えたように感じられる。
しかし、満足感や快楽は、一時的なものであるから。一人きりになると、私は空虚感となって再びあらわになる。
つまり、私という欲望は、喜び苦しむために生きる。
これが、人生であり、それは私が死ぬまで続く。生きている間に、死ぬということ、これが純粋冥想である。

生きている現実の中に、ただ一人いること、いかなる願望も期待も無意味だと知って、
ただ一人、空虚感の中にいざるを得ない時、私という感覚が、自消自滅する余地を持つ。
その時、生きる意味全体があらわになり、それは同時に市の意味全体を明白にする。

私は、必ず死滅する時を生きている。
私という感覚は、死滅の彼方から出てきた。にもかかわらず、人は死を恐れるらしい。なぜ、死を恐れるのだろうか?
死が何であるかわかれば、生がなんであるかわかる。そこに絶対平和や絶対幸福がある。
それらが、わかったところで、私という欲望が喜び苦しむために生きることに変わりはない。
しかし、そこには、純粋冥想が、通底している。

純粋冥想を生きること。
それ以外に、この人類が、戦争もしくは破滅するのを避ける道はないだろう。
それは、また、あるがままを生きるということに他ならない。
あらゆる観念・信念・思考を超越して生きること、
それが、あるがままに生きるということである。
あなたは、あなたの全渇望を、あなたのあるがままの探求に燃やし尽くさねばなるまい

—–

完全な絶望は、一つのあるがままの状態を産む。そして、現代人の大多数にとって完全な絶望は不可能だ。
完全な絶望は、本当の幸福・愛情・信頼からしか起こらないのだから。

この世の人間にとって最も重要なことは、思考の停止などによって引き起こされる、神秘的な何者かをしることではない。
現実として、神秘そのものとしてあり続けている、そのこと自体にある。

君が、本物の悟りをかいま見る、それが、本物の煉獄の出発点だ。

権力中毒は不安に至って終わる。
セックス中毒は虚しさに至って終わる。
麻薬中毒は衰弱に至って終わる。
ところが、神中毒ときたら 永遠に終わる見込みはない・・・

メンタル・レヴェルのマニピュラ・チャクラからアナハタ・チャクラへの上昇が、
この西洋工業都市文明の成熟テーマであるとともにラスト・チャンスでもある。

西洋文明終末期の最終的な崩壊と成熟の人間性のプロセスは次のようになる。

1、マニピュラ・チャクラの否定。すなわち、エゴトリップの頽廃。
2、ムラダーラ・チャクラへの退行。
  すなわち、セクシャルな事柄や麻薬の流行と、その反動としての超管理社会。

3、死もしくは狂気についての狂気的関心。あるいは、その反動としての社会平和や宗教への熱狂。あるいは戦争と暴力。
  ここまでで、ムラダーラ・チャクラへの退行の試みは、終息する。
  つまり、西洋文明の実質的崩壊である。
4、だが、一部分ではこの崩壊を乗り越えて、真の成熟過程が進行する。
5、死についての非抑圧的正常な関心。
6、そして、メンタル体、アナハタ・チャクラの爆発。すなわち超越的な慈愛と、純粋な冥想行為の発現。

—–

文明終末期の人間達は
1、何が善で何が悪なのか判断できないほどに成熟する。
2、次に深い深い内面の旅によって、まったく新しい善悪の判断を体得する。
3、そして正しい善悪の判断、正しい善悪の相補性を身につけながらも、善悪を超越する。
4、無価値の価値が体得された人類には、まったく、新しい、初めての文明が始まる。

あなたが、エデンの園から追放されたのは、神の意志であるが、東洋的重農文明を選ばずに、
西洋工業都市文明を選んだのは、あなたの意志である。
それと同様に、管理下と堕落を選ぶか、霊的進化を選ぶかは、神の意志ではなく、
あなたがたひとりひとりの意志と努力にかかっている。

文明終末期において、もろもろの悪をなさず もろもろの善をなす人は、正真正銘の救世主である。

何が善で何が悪だ? 瞑想とは、善悪の彼岸であるなぞと 思っている人物は、超人になるどころか
人間や動植物や鉱物にもなれまい。

あらゆる人生の直感的理解 大自然の治癒力や破壊再生の力
そして、当今、流行のあらゆる人為的セラピー
それはホール(whole wholly: 全体的な)と名付けられた、人為的総合療法だが・・・
それらは、純粋冥想という生涯を通じての生きる姿勢の中に包含されている。

人格の成熟と、その進化発展あるいは超越には、現実上、段階的発展なぞ、あり得ない。
人格の成熟段階の果てに、解脱、もしくは神との全面的合一が、あるわけではない。

禅であろうが、ヨーガであろうが、それが純粋なものであるならば、
個人的人格や、人格のいわゆる成熟を問題にしない。
真実とは、人間の個人的人格性とは、いかなる関係も持っていない。

—–

ある種の人々にとって悟った人が病人に見えることがある。
もともと、あなた一人には、何が正常で何が異常か、さっぱりわかっていないのだ。

理由のある安心を持ってはならない 絶対の安心には どのような根拠もない 君の素直さが君を安心させる。

いかなる根拠も無いということが、これそのものなのだ。

理屈と保障がないからこそ、久遠の安楽なのだ。

喜びも苦しみもないからこそ、あなたは永遠の平安を生きて死ぬ。

そして、あなたは喜びを求めて旅続ける。

ニルヴァーナという妄想 エクスタシーというマーヤ
それを欲すること???
これが人間という戯れの正体だ!

何もかもなし!ただただ、これの戯れでない戯れ・・・

—–

果てしない旅

幸福は、外的な状態に依存してあるのではない。

あらゆる方法や修練によって、至福を知るのだ。
内面のただ一ミリだけの充実に向かって、
苦難の果てしない道を
やみくもに走り続けるのだ。

君が君にオーケーと宣言した時が
君の情熱の消える時だ。
そして君は、
灰色の穴ぐらの中に自己満足と
あきらめの日々を暮らして死んでいく。

ただ量り知れぬ秘められた情熱だけが、幸福や至福の彼方へ甦る。
何と果てしない旅だろう!

—–

この世とは、女性との愛情とセックスである。
社会人の生活とは、このマハー・マーヤを土台にしている。
したがって、一人の女性との愛情が終わることは、社会や世俗的なことがらの終わりを意味する。
ここに、ヨーガが始まる。

あらゆるタブーをもう一度見直せ。
そこには恐怖があり、恐怖からの解放がある。

それがそうであり、これがこうであるなら、もっとも素直に 直面していく以外にない。

個別性と 主体と客体 すべて二元相対性のあるところは本源ではない、しかし、真実だ。
自我と欲望の全性質を知り尽くし、その上に完全なる全体者に目覚めない限り、人類はつねに盲人同志の争いを続ける。

それについての これについての概念的理解は何の役にも立たない。
言えばみな誤解をうむ。

マインド・コントロール
フリーメーソンのプロジェクトとりわけ人のよい日本人には、理解し難い事だろう。
だが、世界中の郡盲達が、それをトリックだとしらずに、
自己主張の対立と国家主張の対立による戦争に向かっている。
巧妙きわまりないトリックにのせられないためには、
人は、欲望を超越した真実を発見せねばならない。
あなたが世界だ あなた変容すれば世界も変容する。
それは、主観的なことでも客観的なことでもない。
余りにもシンプルな事実だ。

—–

タントラとはトータルという意味で、インテグラルということではない。
タントラ・ヨーガは、あらゆる固定観念・イメージを、分解して、すべてとあらゆるリアリティーに探求と挑戦をおこなう。

神自身の化身が神を忘れるここが面白いところだ。

ヨーガとは、あらゆるリアリティーを総合的に楽しむ。楽しみそれ自身だ。
それは総合であって統合ではない。総合はすでにある、いたるところに!

本性を 忘れた人間は、 決して 本性を忘れ果てはしない
しかし、本性に帰るには、いのちがけの行為が必要であり、そこには、人間の苦はもうない。
生きることが 耐えることだとあきらめのつく人はそれでいい。

だが、完全を絶対至福を求めざるをえないほど 苦悩している人には、自己と世界を捨てて そこに至る道すじがある。
だが、その完全なる知恵と愛のやすらぎとは、現代人にとっては、危険きわまりないものになったようだ。
自殺もまた完全なるやすらぎへのあこがれなのだろう。
人類よ 気づけ!

ありがとう すべての ありとしあらゆるものよ・・・

—–

センチメンタルジャンプ。

どこにでも、どこまでも、朗らかさの中を朗らかに自由に飛んでいけるようにと、
私は、あらゆるもの達に願う。

ジャンプ・イン! ジャンプ・アウト!
自由自在な愛と美が踊り狂う!

すべてが、よかったのだ。
渇望の狂暴なパンチが、あらゆる生命を、駆り立てる。

もし、あなたが、幸福に、この世を生き尽くしたら、あなたは必ず、死と存在とを問う時節を待つ。

誰が、私とは誰かということを、知りたがっているのか?

私とは誰か?すべてが私だ。すべてとは何か?「何か?」とは何か?これ何者ぞ?

永遠を通じて、ただ一度だけの全面的絶望は、君が欲望以外の何ものでもないにもかかわらず、
君自身が、神であるがゆえに起こる。

人間にとってベター・ハーフとは、異性の魂と身心である。ベスト・ハーフとは死である。

全ては何だ 全ては何だ 全ては何だ 全ては何だ 全ては何だ 全ては何だ 全ては何だ

全ては神秘だ  さよなら  あらゆる私の顔よ

覚者というイタヅラ者が、世に出て来ては、世の人々を惑わすかな。
惑わされなかったら、惑い続けるばかりだ。

愛は、よくあやまちを犯すが、その傷跡を残さない。 生きて愛せ、地上の何ものにも固着することなく。

—–

何故なら社交って言うのは君たちの精神健康にとって、とても大切な事だ。
君たち余りにもぬけがけしたいと思いすぎるがためにね、人と人との関係さえ満足にできない。
だから社交場、大いに必要だ。
唯、その前提は例外が唯一つも無いということ。みんな、同じなんだ。
それさえ分かっていたらとても楽しい社交場になるよ。
ところが君と俺とは違う、俺のが一段階悟りは深い、なんてやりだすからおかしくなる。
俺は恐怖を感じない、君は恐怖を感じているなんて振りをするから、いよいよやりづらくなる。

みんな同じなんだ。一番最後の最後。
すべてが終わった所に到達しない限り、
人間はどんな風に上手いことトリックを使って暑い仮面を被ってても皆、同じ穴のムジナだ。
同じだけ不安に悩み、同じだけ内面では恐れ。
そして、その違いといったらさ、
上手く内面の不安や恐れをだまかす事が出来るタイプの人間とさ、
それが出来ないタイプの人間との差に過ぎない。

『一度きりの君たちだ。そして君たちが死んだら、永遠に、永遠に、永遠に、
今ある君たちがくり返されることはない。たとえ無限の時間が経ったとしても・・・。』

—–

人間ジャンキー

人間というジャンキーよ  おれたちは何といとおしいのだろう・・・

麻薬ジャンキー、セックスジャンキー、夢想ジャンキー

性愛ジャンキー、社会性ジャンキー、新興宗教ジャンキー、

権力ジャンキー、支配欲ジャンキー、戦争ジャンキー

殺人ジャンキー、マイホーム・ジャンキー、プライド・ジャンキー

自然ジャンキー、神秘体験ジャンキー、センチメンタル・ジャンキー

ニルヴァーナ・ジャンキー、衣食住ジャンキー、空気と水のジャンキー、

しかり!
ジャンキー・マーヤ・ジャンキー!!
しかり!
ジャンキー・モクシャ・ジャンキー!!

人間とはジャンキーのことだ。
それにしても、なんと美しいことだろう・・・

—–

ウィリアム・ブレイク

そうなってゆく そのままでよいのだ。
人は喜び悲しむために産まれて来たのだ。

だが、この絶対者は違う。
絶対者は喜怒哀楽から離れて、喜怒哀楽を戯れ、
そしてまったく同時に、喜怒哀楽を超越して 絶対の流れをながれ続ける

そして絶対者は、すべてのすべてで久遠にいませり!
存在と非存在とに何のかかわることもなく。

私が絶対者なのだ。
ほんの卵だけれどもね・・・

一つの夢が終わり 新しい夢が始まっているはずだが
悟りが夢であるように
私には何一つ
つかまえるものが見えない

私の眼がくもってしまったのか
新鮮な何かを私は
なおかつ、待ち続ける

神よ、 「何もかもなし」それ自身よ、
悟りが夢であったように
私という夢をことごとく

あなたの中へ消し去りたまえ

神よ「なにもかもなし」それ自身よ、
私自身よ

—–

どんな人でも 心の底では 自分も宇宙もどうなるものでもないことを 深く深く知っています

どのような君も どのような宇宙も 君自身の描いた夢であり 夢から目覚めるという夢を見ようと
どのような夢を生きようと それは君の好き好きである

君にふりかかることは全て訓練である 訓練であることを自覚しておけば 君はそれをもっと楽しむことができる

人間というものはどこにもいない 人間というものが 君のイメージの一つにすぎないように
時間の持続としての永遠もまた 永遠の夢にすぎない 永遠とは場所も時間もない 君自身のことである

このことを憶えておく必要はない 君はいつも見知らぬ世界に いつも見知らぬ旅人としてある
君達は常に今からまったく新しい旅へ出発する

君達は恐ろしい死を遂げる それもまた忘れないように

—–

ダン『あのねぇ多分ゴロッとして充実本当に命がしているっていう状態になれるのはね、
ものすごく怖ろしく合理的に現実的に言おうか。リアルな問題として。
恐らくね、そう、ものすごい本気で毎日全く、なんだ?道元禅師のさ、朝何時に起き、何時に食事をし、
何時から何時まで何々をやる、というのを続けて、それを一生続けるだけの根気を持ってる人間がいるとするだろう?
例えば百人いるとするだろ。そしたらその百人の内、一人くらいだ(笑)」
「そうやって本当に充実するのが?」
『うん』
「それだけ大変な事なの?」
『(笑)』
「こうやって充実することは?(笑)いゃー、思うんだけどさ、僕がこうやって充実するっていうのはね、
なんか非常にいい想念としてね、いいイメージがね、どんどんどんどん・・・・ね」
『うん、その時はね、その想念がさ、次の行動を発見してくれるよ。もしそれがいいゴロッ、いい怠惰であったらね、
必ず行為への情熱が蓄積されてくるんだよ。力なんだ!』
「うーん、そうか」
『どんなんでもいいんだよ。例えばさ、一生懸命何かやっててさ、その内わからなくなってさ、
どっか喫茶店なんかでウトウトウトウトとする。何かなんとも言えないいい気持ちでホッと目が覚める、さっぱりしてる。
そして『あっ、あっ、またあれやろう』っていう意欲。そういうものがひとりでに内側から全く無理なく生まれてくる。
それが怠惰の、一番いい有り方だね。でも本質的怠惰じゃないよ。本質的怠惰いったらそういうもんもへったくれもない、
もう一挙一投足ことごとく充実だよ。見てくれ。俺を』
「うん、芸術そのものだよ(笑)」

—–

「あのね、僕はさ、眠った後っていうのはね、大抵ね、憂鬱な気分になるんだよね。どうなんだろう?」
『それはね、Nがね、エネルギーっていうのを使い果たしてないからなんだ。
だから俺にはNにいろんな仕事っていうのをゴチャゴチャ与えてるだろ。Nにはカルマヨーガっていうのかな。
そういう方向が必要だからなんだ。それは簡単な話だよ。
例えばさ、こんなのバグアンなんかがバグアンっていうのはわりと似た発想するから誤解受けやすいんだけど、まぁいい。
例えばね、死刑囚というのがものすごく静だっていうのとね、俺、よく前『ゴットファーザー』のパート1、見た?映画?』
「うん」
『あの時にさ、アルパチーノがやってるやつがさ、本当に初々しい学生か、兵隊かな、だったのがさ、
親父の復習のために殺すんじゃあない。相手を。そのトイレかなんかの中にピストルを隠しといて。
本当に面と向かってこう殺すわけじゃあない。
奴にとって最高の倫理なんだから、そういわゆる文明的な倫理っていうこと、ここでは問題にしないでくれ。
ただ、大切なことはさ、奴はさ、完全に自分を守る世界からさ、成すべきことを成す、という世界に飛び出しちまったんだ。
そしてそれを飛び出した事によって、完全にそれを果たすわけだよ。
果たしたか、果たさないかっていうのは本当は大した問題ではないんだ。
やるってことなんだが、それをやった後、ものすごいのどかなどっか島に逃げるじゃない。どこの島だっけ?
どっかイタリアの方にある島に。そしてものすごいのどかに、野原やなんかを散歩してるんだ。
そいでふと町かなんか、村かなんかで見かけた女の子を一目見た瞬間に、もう一目惚れする。
『うん、この娘がいい。これを貰う』っていう調子で、やるわけ。全く怠惰っていうか、気ままに振舞ってる。
その気ままさっていうのはどっから出てきたかっていったらさ、奴のエネルギーが完全に発散されたとっから出てくるんだ。
とにかく人間っていうのはね、とてつもないエネルギーを誰でも持ってるのさ。

—–

そして、それを使い果たさなければね、決して安らかな眠りもね、それから穏やかさも、いきてる怠惰も起こらない。
それは、俺はものすごく堅いことをいってるように思うけど、もし俺の言葉が堅いものだと思うんだったら、
人生をずっと生きてみればいい。人生にはさ、とてつもないことがいっぱい起こるんだ。
人間関係に於いても、肉体に於いても。何一つ保障されてはいない。人間の立場から言えばね。それだからこそわかるんだ。
怠惰でいいし、俺はこれでいいと思っててもさ、それは決して長続きはしない』
「うーん、そうなんだよね」
『ただ一つだけ長続きするっていうのはね『心ある道を生きる』ただそれだけ』
「うーん、毎回毎回」
『うん』
「ただ、その毎回毎回がさ、あれかこれかっていう次元にね、どうしてもなった時ね、その戻り方だよね」
『うん、必ず選択がある。そこにね。そして選択があったらやっぱりそれは冥想の中で開かなくちゃあならない。
つまり心を静めて、或いは独りっきりになって。『俺は本当は何が好きなのか?』』
「一つ一つ?」
『うん。一つ一つっていうよりも、あるポイントがつかめさえすればそれ以外のものなんてそう大した問題じゃあなくなる。
中心をどこに置くかっていうことをまずはっきりさせるんだ』
「それが出てこないんだなぁ、出ないか」
『別に出なくてもいいさ。それはどうしても出なくちゃあならんという気持ちがまだそこまで熟してないからだ。
だから今は、とにかくいろんなものをやる一つ一つの事柄があるだろ、
それが自分が本当に好きかすきじゃあないかっていうことを抜きにしてとにかくやってみること』

—–

『あのね、欠点のない生活っていうのは単純なことなんだ。それを全部打ち込んでさ文句なしなんだ。
だから自分の気分に反するようなことでも、それをやってみようと、もし決めたらさ、それを全部背負い込む、
直面するっていうことをやりさえすればいいんだ。そこにね、なんか
『まっ気に食わないけど仕方なしに合わせた方がいいんじゃあないかなぁ』というその動揺、それが力を損なうってこと』
「うん、じゃあさ、もしね、どうしようもない状態に立ってね、AかBかっていうことがあってね、
例えばAの場合にはね、僕は抜けたいんだって、こっちの方が気持ちが強かったとする、
まぁでもBっていうのはそこにいなくちゃあいけない。ね。だけどこっちの方が強いんだけど、
まあ、こっちに従おうと決めたら、ここに全面的に直面しろ、っていうこと?」
『うん、従おうと決めたんなら、もう全面的に従うのね』
「ああ、未練があるんだ、いつも」
『うん、そう。未練、つまり中途半端っていうことくらいね、
その人間のエネルギーっていうのを自由に流す働きを邪魔するものはないんだ』
「そうなんだよね、中途半端だよ。俺は」
「なんで中途半端なのかなぁ」
『『究極の旅』か何かにバグアンが書いてあるようにさ、
つまり、ハンター、猟師っていうものすごく穏やかな人間だっていうこと、書いてあるよ。
つまり、いつでもさ、動物を殺している生活、緊張の連続の生活、そういうのを送っている人っていうのはさ、
例えば山の中に入って動物を殺す時はさ、じかに自分の命が危なくなるえわけじゃあない?常に危険に晒されてるわけだ。

—–

そうすると危険に晒されれば晒されるほどね、それを中途半端でもって置いてくことができなくなちまう。
気に入るとか気に入らないかという以前に自分がそれを選んだならば、もう中途半端できないんだよ。
直接死につながるからね。そうすると奴のエネルギーはフル回転するんだ。
フル回転するからその狩猟が終わった後のハンターっていうのはさ、実に穏やかなんだ』
「全てに関してそれが言えるわけ?」
『うん』
「でも、やっぱり理想をもたないっていうことは確かに正しいかもしれないね」
『うん、でも理想を持たないっていうのはね、解放されるっていう意味ではね、
つまり理想をもたなけりゃあ縛るものがないっていうのはあたかもね、何でもいいんだ、
『俺は、人間なんか何やってもいいし、何もやらなくてもいいんのなら、俺はもう勝手なことをするよ』
って決める解放感に似てる。そこで書かれているのはそういう意味だよね。理想を捨てることによってさ、
完全に今に責任を持てっていうことなんだ』
「無為自然ってことが完全に今に責任を持つこと?」
『うん、そうだよ』
「さっき言った流れっていう」
『うん、そう。それは人間のものではないんだ』
「その流れの中で願望というか、出てくるものもある。理想もあり得る」
『いや、常にっていうことだ。常にあるんだ』
「無為自然の中で常にまた理想が出てくる?」
「そうだよね。調子のいい時って、次の行動ってのはピタッとイメージとして見えてるんもんね。いつも」
『うんうん』

—–

「うん」
「確かにそうなんだよね」
『あのねぇ、カスタネダがさ、暇潰しにどっかの飲み屋へ入って、インディアン達にからかわれるっていう場面があるんだよ。
それもやっぱり同じでさ、結局道化に、ピエロにされちゃったわけだよな、その周りの連中から。
その時のドン・ファンのコメントがあってから、つまり『お前はあそこに行ったけど道化にされちまった。
お前は元々さ、何が本当にやりたいかっていうことも考えずに行った。だからお前は弱くなってさ、黒魔術師にさ、
つけ入れられる隙を与えてしまったんだ。それはどうしてかっていうと、お前はさ、あの酒場にさ、道化になりたくて、
そして道化になるっていうことを周りの状況が助けてくれるっていう形で入ったじゃあないか』ってこと。
そうじゃあなくて、元々、全然そんなつもりないのに、いつの間にかそうされちまったていうことなんだ。
いい?それはどこに行こうと何をしようと自由なんだ。別にそんな所へ近寄るな、とかそんなことじゃあないんだよ』
「うん」
『まさに、例えば、女は男を迷わすから女に付き合うな、っていうのと似た発想であってさ。
そんなものじゃあない。そうではなくて、もしそそれをやるんならばさ、完全に自分に対して責任を取れっていう事なんだ。
責任を回避する方法、果たす、責任ていうものを問題にしなくなる方法を教えよう。
『俺は既に責任を果たした』そう大声で叫びたまえ。全くこれは同じ意味だ。どうして同じ意味かな。いい?
試しにね『俺は完全に責任を果たした』って大声で叫んでみなよ。君でもいい。君でもいい。
君がね、もし、自分で『俺は完全に責任を果たした』そう大声で叫んだらね、
君は完全に君自身の責任っていうものを新たに背負い込むことになる。もう、誰も肩代わりしてくれない。
誰にも寄生虫みたいに依存することが出来ない状態っていうものを認めたことになっちまう『責任を果たした』
って言うことによって。怖ろしいことだよ。言えるか?普通考えてみればいい。普通の人間がさ、
責任果たしたって言い切れるか?言った瞬間、、彼はさ、完全に周りの人達から離れちまうんだぜ。
そんあ言い方する人はいないんだもん。大抵言えるっていうのはさ、無難な線を出すよ。

—–

『あのー、出来る限り責任をはたすよう極力頑張ってみます』とかさ『それほど確信はないのですけれどもこれが義務ですから』
とかさ。そう言う。そこで言ってみろ、いきなり『俺はもう俺の責任を果たした!』言った瞬間、
完全に独りっきりになっちまうぜ。もう何となく曖昧にっていう世界をさ、全然承認してくれなくなっちまう』
「やっぱり、何となく曖昧な世界にいるのかね?」
『人間っていうの、少なくとも今の時代の常識世界では、何となく曖昧なっていう世界』
「ふーん」
『そして、なんとなく曖昧さっていうのはどこから来るかっていうと、人間は弱いものだ。それから人間は死ぬものだ。
だから、そして人間っていうのは不安で空虚で頼りないものだ、という無意識的な前提があるからなんだ。
でも、そうじゃあない。人間はそんなつまらないものじゃあない』
「ああいう曖昧さのある所っていうのは本当に淀んだ感じがするね」
『うん』
「僕、こう学校でこう付き合っててさ、友達のグループにいてよく感じることがあるんだなぁ。
すごい腹がたつことがあるんだ」
『うん、それがもっと先行くとね、やっぱり彼等は彼等にふさわしいやりかたをしているっていうことが見えてくる』
「どういう意味でふさわしいわけ?」
『うーん、それは宇宙の中で存在するものでさ、その場所にふさわしくないものは一つもないっていう・・・
そしてそいうい見方をするけど、それは人には決して言っちゃあいけない。
君の目が変わってあらゆる人間達がふさわしく生きている姿が目の当りに見たら、君はきっと嬉くてしょうがなくなる。
或いはいとおしくてしょうがなくなる。そのいとおしさっていうのは全然人に話すべき事柄じゃあないんだ。
何の意味もないのさ。それを人に話しても』
「言われた本人が満足してないのかねぇ。いくら言ったて」
『うん』

—–

そんな固定的なものはないから。法則みたいなものは。ある法則っていうのはさ、常に自分の感じ取っている自由からさ、
行為するってことだけだから。ただこうでなくちゃあならんなんてことない。
ドン・ファンなんかなんだ、あれ。『喋るの止めろ、喋るの止めろ』っていうけど、おそらく語数数えてみろよ。
カスタネダとドンファンの喋った言葉の語数。多分、カスタネダの二倍は喋ってるね、ドンファンは』
「方便」
『うん、方便って言ってもいいし、それが彼自身の心ある道だと言ってもいい』
「ふーん」
「たださ、ここで捉えてる場合は、流れてっていうのが非常にスムーズにね、決定されるんだけどね、
ただいったんこっちの方に入っちゃうとさ、入っちゃうとどうなるのかね」
『そしたらね、もう一度愛しさに帰ってみな』
「こっちへ?」
『うん、大切なものに。何が大切、何でもいいよ。その時のもので。それは友達だろうと彼女だろうと、なんでもいい。
そこに帰ったらまた頭の働き方っていうのが変化する。いい頭は目的を作ることは出来ないんだ。
目的は決して頭で作ることは出来ない。目的が先にハートの中で生まれて、そこに即して頭が働くだけ』
「なるほど」「ああ」「そういう構造か」
「うまれたものをこう、執行していくっていうか、実現してゆくためにやった方がいいわけ?」
『ところが多くの人たちがノイローゼになるのはね、目的がさ、思索活動の中から出て来るって信じ込んでるから』
「ふーん」「はぁ、はぁ、はぁ」
「そうなんだよね。いわゆる論理っていうのは実現の過程の中で初めて出てくるわけ?出発点にあるんじゃあないんだ?」
『うん』

雨宮第慈講和録4 素直になる  より一部抜粋

—–

「時々さ、計画立ててね、自分でも思うんだけどさ、これはまだ俺がね、本当のなんていうかな、
自由な流れを見つけてないから必要ないんじゃあないかなぁ?ていう気もする一方、
いや、やっぱりそうなっても計画が出てくるんじゃあないかなぁという気持ちも色々あるんですけど」
ダン『うん、だからそんなふうにさ、取らぬ狸の皮算用なんかやる必要ない。今から出発しろ。今の君から』
「ふーん」
「もしさ、動きがね、動きがピタッと止まってね、その止まってる状態がね、
心地よくなるって冥想するしかないのか、その時は」
『冥想するしかない』
「本当に冥想するしかないの?」
『ない』
「そうみたいだな」
『なんにも出て来なければさ、なんにも出て来ない人間に出来ることっていうのは本当にいわゆる形のある冥想しかないから。
こりゃあもうはっきりしてる。ものすごいリアルなもんだよ』
「大抵なんにもないっていうことはないの?」
『うん、ない。必ずある。でも時に何にもなくなることがある。そうなってくるともう最後のところにね。
ニルヴァーナの直前って言ってもいいかも。本当に何もなくなってる』
「それ、未練も何もないっていうこと?」
『そう。未練も何もないなんていうことさえ考えない』
「そういうふうに直面するのか・・・」
『だからその直面の問題っていうのは話しても全く意味がない。意味があることっていうのは、今の君達から出発するってこと。
常に今の君達から』

雨宮第慈講和録4 素直になる  より一部抜粋

—–

ダン『例えばきみがさ、どんな方向が自分の本質だってもしその時に考えたとしたらさ、
そのことを精一杯進むことをさ、怖れないでくれ。二番目の矢があるなんて思わないでくれ』
「うーん、二番目の矢があると思っちゃうんだよね。ね。」
『うん、うん』
「それがあれなの?理想っていうの?」
「うん、理想だよ。つまり自分っていうのをさ、特別扱いしてるんだ」

『例えば冥想の中で安心するとするじゃあない。そうするとね、安心するっていうことは、
あらゆる出来事っていうものをさ。一時的に忘れるっていうことだよね。
そうじゃあなくてね、あらゆる出来事っていうものは、君達がさ、自分を表現するために与えられた材料なんだ。
で、本当に安心しきった時、かえって逆に明確な方向が出てくるんだ。
それが、ドラッグのいわゆる陶酔っていうのと一番違うところだね。冥想っていうのは。
ドラッグの陶酔っていうのはその時忘れるわけだよ。で、その時はいい。でも、それは決して続くことはない』

—–

「ある種の坊主はさ、飯をねたらふく食ってさ、そして座禅を組む、そんなのは偽もんだっての、
ちょっとわかんないんんだけどね。それどういうこと言ってる?」
『それは奴がさ決して観念から出てこない。つまり趣味でやってるってことさ。
一度も座禅そのものに直面しないでさ、趣味でやっててさ、その趣味がさ、絶対だなんてめかしてるわけ。
いい?趣味が趣味である限りなんの問題もないんだ。そういうふうに知ってやってるんだ。
ところがもし『それが俺のもうあれなんだ』なんていうふうに言った瞬間にさ、彼はものすごく空虚な存在になってしまう。
いつもぬくぬくと自分の空の中にいたいと思う』
「ちょっとわかんないねぇ」
『たらふく飯を食ってさ、座禅を組む。みんな形さ。与えられた形さ。それをやってりゃあさ、大丈夫だって』
「あーはぁはぁはぁ」
『うん。保証されてる。誰かが保証してくれてるんだ。自分からちっとも自分の流れっていうのを生きないんだ』
「ふーん、そういう意味か。やっぱり座禅は小食のほうがいいのかなぁと思ったりしたんだけどな(笑)」
『(笑)そんなことないよ。
あのね、じゃあ、冥想で一度も俺は冥想やってる人達にこういうことは、言ったことないんだけれども、
もし、その人が本当に行った人であったならね、その人の言葉っていうのは全然違うところから出てくるから。
あのね、なんでもいいわけ。例えばNならNがTMへ行ったとするじゃない。で、今度俺のところで冥想してるとする。
そうすると俺は、こんなこと言い出すとする。『TM?あんなものね、単なる気分をリラックスさせる、
その程度に過ぎない。全くろくでもないし、君には全然合わないし、あれこそ人を迷わせる所業だ』なんて平気でいうよ。
ところがそれを平気で言ったからってさ、それが客観的な意味で言ってると思うなよ。
禅宗なんてったらもとひどいよ。同じ門下から出て同じ修行を積んで完全に許されてさ、
つまり、老師、グルだな、二人の人間がいたとするだろう。で、ある弟子がAという老師のとこに付いてたけど、
どうもしっくり来ないっていうんでBのところへ行っちゃった。

『お前今まで何やってたんだ?』ったら『A老師について一生懸命修行してました』ったら
『馬鹿垂れ!あんなろくでもない偽者のところにいたのか』ってやるよ。
何故か、奴の頭、奴自身にとってそれは偽者だからなんだ。いい?
行った人間の言葉っていうのは毎回毎回生きてるわけ。客観的な基準を与えようとしてるんじゃあないんだ。
その言葉っていうのは即座にそいつの意識レベルっていうのに衝撃を与えるようにできてる。
学問体系を造る意味でやってるんじゃあないんだ。(中略)
一回切り一回切り全て、うん。人の固定観念っていうのをさ、破壊するために生きた説法なんだ』
「親鸞の『歎異抄』なんかさ、すごいことが色々あるけど、そういうのは全部そういう効果で、
効果というか、場で言われたもの?」
『うん。それはだから、親鸞の言葉だと殆んど人間から出てこないんだ。うん。
で、とにかく人間から出てくる言葉とね、人間以外のものから出てくる言葉っていうの、
似ているとしてもそれは全然違うんだから、とにかく。
で、ある老師から別の老師のところへ行ったら、その別の老師が前の老師をけなしてた。それを見て
『ああ、この人はこんなけなすんだからきっと嫉妬かなんか、憎しみがあってけなしてるんだろ』って思ったらそれまでだよ』
「その人は?」
『うん。一回一回完全に生きた場の中からさ、言葉が出てくる。頭から出てきてるんじゃあないんだ。
頭だったら毎回いう言葉同じだろ』
「(笑)そうだね」

『例えば高橋信次なんて毎回同じだよ。全部位置づけができちゃってる。ヒトラーはどこにいるとかさ。釈迦は何だとかさ。
イエス・キリストは何だとかさ。体系を語るんだ。そしてそれは実に入り易い。
何故かっていうと自我をね、観念ていう中で理解できるからなんだ。観念で納得して『ああ、そうか』って思えるからなんだ。
ところが、本当の冥想の一番最後にあるもの、勿論方便としてそういうものは使われるけどね。最後にあるものはそうじゃあない。
自分が自分以外のものに生まれ変わるっていうのはさ、それまで待ってた古い自分の立場でもって納得できたからっていって、
生まれかわるもんじゃあない。言うなればさ、俺達は完全に楽な世界へ出ようとしているのさ。
そうすると今度、完全な楽っていうのをまた肉体的なレベルとか、そういうので理解しちまう。
そうすると、肉体が消えた恍惚状態を、完全な楽じゃあないかなんて言い出したりする。うん。そんなものじゃあない』
「道は遠いなぁ」
『(笑)。遠いっていうよりも、一番最後の立場に立って言えばね、永遠に修行っていうのは続く。
臨済だろうと達磨だろうとそりゃあもう、例外じゃあない。誰が来ようと。修行が続くんだけど、
それは求める修行ではないんだ。ただする修行なのさ。その結果が問題なんじゃあないんだ。ただ、内的に出て来るのさ』
「維持しようとするのとはまた違うわけ?」
『うん、いいとか悪いとかいう次元じゃあないんだ。ただ、内的に出てくるのさ』
「いや、維持。維持する」
『ああ、維持か。うん、維持するっていうことはもっと後の段階だよ。もちろん、維持するっていうことだって、出て来るよ。
例えば釈迦は釈迦教団を維持したい、とか。維持したいっていうので、いろんな奴がいろんな方法を作ってるよ。うん』
「自分のレベルを維持するっていう」
『意識のレベル』
「うん、意識っていうか」

『うん。レベルを維持しようとするのは冥想修行者にあり得ることであってさ、
一度でも行った人にはそういうふうなものの捉え方っていうのはない。但し、外見上は全く変わらないっていうことさ。
またドンファンから出せばさ、つまり、ドンジェナロは盟友と取っ組み合いしてさ、遂に盟友を自分のものにしちゃう。
その時、奴は人間じゃあなくなっちまったんだ。世界が止まって。止まったのさ。止まったっていうことは、
ドンジェナロがそこで死んだっていうことさ。あるいは元々無いっていうことに気付いたってことだ。
そうすると今まで知ってたと思う世界っていうのは、二度とないわけだ。にも関わらず、ドンジェナロは人間なんだよ。
そして人間としての憧れを持っている。人間としての喜び懐かしさ、そして悲しみ、いとおしさがある。
だから、その方向に向かって、心ある道を生きつづけるのさ。
で、ただどこが違うかっていうと、結局片一方はさ、行き着いていない人にとってはさ、それしかないわけ。
つまり愚かさであって、人間の行為っていうのは全て愚かさなんだ。
こんなことを言うと、人間の使命とか、神の国を作る為の使命なんていうふうなイデオロギーっていうのを信じてる人にも、
顰蹙をかうかもしれないけど、どんなことやったて同じなんだ。どうしてその辺で蚊が飛んでることとさ、
人間が何かをやることとそんな違いがあるなんて思うんだよ。そりゃあ、人間の意義だけで作ったさ』
「あー、そうかぁ」
『うん』
「ほんまだね。やっぱりゴルビアスの結び目みたいにあんな広大なスケールで視点が移れば、
なんかそういう感じもわかるね」
『うん。そりゃあ、本当に肌で実感出来るよ。そしてその時、初めて修行っていってもいいし、
あるいは戯れっていうのが永遠であると同時に、自分は戯れもしなければ、修行もしない存在であるっていうことがわかる。
それは同時にある。それをそんなに考えないで欲しい』

—–

僕にとってね、修行っていう言葉はどういう意味を持つんですか?」
『そりゃあ、多分努力ってっていうことだろ』
「うん」
「人によって意味合いが変わってくるわけ?」
『うん。変わってくるけど今ここにいる三人にとっては努力っていうことだろう』
「努力」
『うん』
「あんまり好きな言葉じゃあない」
『好きな言葉じゃあない。ナウじゃあない』
「引っかかるんだよね」
『うん』
「何でひっかるのかねぇ」
『そりゃあさ、努力っていうものに引っかかってるから。つまり努力っていうものを帳消しにしてないんだ』
「あー、あー、そうなのか」
「結局、その帳消しにするために努力するっていうことなんだろうけどね」
『そう。そう』
「そこまで行ってないんだね」
『だから、それだとさ、必ず二つの世界の中へ落っこちゃうんだ。嫌なものがあそこにある。『ああ、嫌だ』と。これだよ。
努力を嫌うっていうのはさ、そういうふうにもとれる。だからバグアンなんかが努力しないで『ただ、全てをみつめる』
なんつったらただ話を鵜呑みしてさ、『努力しないでいいのか。うん』なんてやってる内にさ、
もう空しくてもうどうしようもなくなってさ、こりゃあ自殺もんだよ』
「(笑)」

—–

「やっぱり現実に直面するっていうのは、そういう一つ一つの言葉のニュアンスとか、
イメージとかっていうのは一つ一つ解消するっていうこと?」
『うん、そう。そしてより本質的なイメージに変わって来る。イメージっていうよりはイデアに』
「ふーん」
『うん』
「なるほどねぇ」
『だから、例えばクリシュナムーティーなんかがイメージっていうのを否定してるけどさ、まさにイメージそのもの。
そのイメージっていうのはさ、人間が勝手にでっち上げたイメージじゃあなくて。
つまり二元性のイメージじゃあなくてね。例えばなんでもいいや。例えば、自分がものすごく貧困だとしたらさ、
もう裕福になってるイメージを描いてさ、その間だけ楽しもうっていう。
もちろん、それでいいんならいいよ。それで。でも、ちょっと俺は悲しい。せっかく素敵な命が与えられてるのに、
それだけで止まってしまうって、悲しいよ。そして何故人は努力しなくちゃあならないかって言うとね、いい?
人っていうのは元々完全にパーフェクトに素敵だからなんだ』
「その完全にね、パーフェクトだっていう立場から一つの努力をするっていうことが出て、
一つにまたバグアンみたいに、ゆったりと自然にしてればいいっていう両方が出て来るのかね?」
『そう、それは全然体系的でないからね(笑)。だってここに。じゃあ、キリスト教的に言おう。
『わが内に神があって、それが今俺に喋らせたり、俺に煙草を吸わしたりしてる』っていうのさ、
『我生くるにあらず。キリスト我にありて』こいつは楽だ』
「(笑)」
『こんな楽なことはないよ。うん。本当だよ』
「(笑)なるほどね」

—–

『ところが面白いことにさ、この楽さっていうのをさ、見つめてみるとさ、この楽っていうのはさ、責任をさ、
全て自分が背負うっていう楽さなんだ。無いからね。責任も、義務も、努力も無いから(笑)
だから努力するんだ。だから責任を負うんだ。そりゃあ、言うの易しいさ。努力はないよ。
善も悪もないよ。そんなもん、頭がさ、ニヒリズムに直面する時、誰でも出てくる答えさ。
『この世はさ、別にみんな同じ。似たようなもんさ。勿論そうさ。みんな似たようなもんだから、
何やってもいいしさ、どうていうことないしさ、ああ』
それでも、それでは絶対納得しないっていう命が、もうあるんだよ。それ以前に。
頭でいくらそう考えたとしても納得できないっていうやつがあるのさ』
「やっぱり、あるの?本当に」
『ある』
「あるのかな?」
『うん、だったら試して見ろよ』
「あるんだ」
「(笑)」
『やってみればいいじゃん。そんなの『全てが同じでさ、全てが仏で、ああ、何やってもいい。だったら何やってもいい』
だったらやってみろよ。もう、あっちこっちでやたら行き詰るよ。で、まぁノイローゼになって精神病院行き
入ってもらって。Wはさ十二冊の推薦図書読む』

雨宮第慈講和録4 素直になる より一部抜粋

—–

私は空気がなければ生きられはしない。私とは空気なのだ。

私に自由はない。自由が私を使っている。

自由それ自身は完璧な笑いだ!

人間の喜怒哀楽のゲームは決して終わることはない。
だから、ゲームはすでに終わり尽くしている。

海の波々が寄せては返す。朝ごと太陽は東より昇り、

落日の残光を残して西に沈み行く。

体内の有毒ガスがたまっている現代人は

あたりまえのやすらぎを知ることがない。

それでも血わき肉おどる『これ』は、

笑いに笑いに笑っている!

—–

ただそれだけのこと

私は冒険なぞ求めてはいない 血わき肉踊るディオニソスも 一刹那にすぎない

みんなみんな同じであると 知ってしまったからには・・・ この上なにを求めようというのか

今は初夏の香りの中で 野の草花とともに うたたねしたいだけ・・・ ただそれだけのこと

庭先にマーガレットの花が咲き乱れ すずめの鳴き声はすずめの鳴き声らしい
そして わたしは生きているらしい・・・ 時には不安にめいり 時には極楽のエクスタシー酔いながら
私はどこからどこへ行くか知らないばかりか
こう書いていることも こう書いている私とやらも ぜんぜん知りはしないらしい・・・

やれ観念的だ抽象的だ やれ実質がある実行がある やれ現実だ夢だ
私たちは何て馬鹿げたゲームにうつつをぬかしているのだろうか

草花が初夏の風にゆれることが現実であろううか?ノイローゼ青年が見た空飛ぶ円盤は幻覚だというのか?
誰も何も知りはしないさ・・・

私はとこしえに楽しく生きたい! たとえ、それが、まっかなウソであろうと。

—–

リアリティーとは対立の統合ではない永遠の対立である。この、考え方は、人間的知性の限界の表明にすぎない。
リアリティーとは、永遠の対立であり。久遠の統合である。

正反対のものとの和合によって 個生命は成熟していく。
成熟とは、人格の器量と柔軟性との質的深まりのことである。

七つのチャクラとは、人間的機能としては人間的次元の七つの認識形式のことであり、したがって七つの欲望のことであり、
七つの質的に違った快楽のことである。
人は一切皆苦の洞察によって七つのチャクラをつぎつぎに卒業していく。

一般に個生命の最終的成熟とは、人生と世界との現実認識体験にもとづく、よりよき適応状態のことである。

完全に近い人生と世界との適応状態には、完全に近い幸福と絶望とが、ともなっている。
瞑想ほどの、理論と実践のくい違いが激しいものはない。

—–

その日も、私は全くの闇の中にいたように思う。すべての出口はふさがれてしまっているように思えた。
私はごろっと横になって、見るともなくテレビを見ていた。テレビ番組は、どれもこれも面白くなかった。
しかし、他にやりたいことも、できることも何もない。
私は、何気なくチャンネルを回した。つまらない洋画だった。それは、ローマ時代のキリスト者の殉教をテーマにしたもののようだった。
この番組は、既に大半が終わっていたが、その映画の内容は浅薄そのものという印象を与えた。
やがて、場面は或るキリスト者の殉教のところへ来た。そのキリスト者は殉教される直前にこう言う。
「それでも、私は神を愛する」と。
その映画もその演技もその筋書きも、何もかも見えすいていて、つまらないものだった。
しかし、その場面で語られた。「愛」という言葉が、異様な程、私の中に響いてきたのだ。
 その「愛」という言葉が、私の心に入って来ると同時に、
「人間は絶対的に救われない、人間のみではない、一切万物は絶対的に救われないのだ」
という想念が、私の中に浮かびがあってきた。
それは、胸がつき破れるような悲しみだった。
それは、そのテレビ映画の内容とは全然関係のない悲しみであり、しかもその悲しみは、
何もかも一切万物に関する悲しみというようなものだった。

私の中に閉じ込められていたすべての思いが爆発した。
こんな悲しみは、私のそれまでの人生で初めてのことだった。私は気が狂ったように泣いた。
涙は後から後から、止めどもなく溢れ出してきた。
その絶対的と言っていい苦痛と悲しみの中に、それは開けたのだ。
それは、突然開けた。
私と世界を含む万物万象を包む愛が開かれた。
それは、信じられぬ愛であり歓喜だった。私は目の前のテーブルの悲しみも、庭にある石ころの悲しみも、
世界中に生きているあらゆる人々、あらゆる生物達の悲しみも感知することができた。
そして、その絶対的悲しみの極限は、愛そのものなのだ。
愛は人間の中の一つの感情などではない。愛は、この宇宙そのものの根源なのだ。
私は、歓びと有難さの中に、自ずから姿勢が正されて静座していた。
悲しみの涙は、そのまま歓びと感謝の涙に変った。私の身心の重苦しさは、もうどこにもなかった。
私は大気そのものになったかのように、さわやかに静坐合掌していた。私と私の妄想していた世界は消え去った。
私の絶望は、私と世界全体を洗い流した。
愛が開かれ、開かれた愛が唯一絶対の存在として、ここにあり、その愛があらゆるものとなって表現されているのがこの世界なのだ。
どの位の時間、私はその至福の中に静坐していたか不明であるが、静坐を終えて立ち上がり、
あたりを見渡すと、何もかもが愛の中に輝いて見えた。
この愛の感動は、その後一ヶ月位続いていた。その感動のある間、私の身心は軽やかで、自由そのものだった。

やがて、その感動は徐々に薄れていたっが、その時の根本自覚は決して消えることはない。
只管打坐が正に自らなる只管打坐そのものになったのは、この経験があってからであった。

私は、私の欲望としての存在に嫌というほど痛めつけられ、その絶望の闇の中に死んだと言ってよい。
この仮象であり無常の世界は、私の観念の中にある妄想であり、その妄想の中に、
あらゆる争いや醜悪なるもの、地獄が見えるのである。しかし、自己意識は、その絶望の極点で自滅する。
私が自滅することは、世界全体が自滅することであり、それは言語を絶する不可思議な悲しみであった。

私は大慈悲が何であるかを知った。大悲は、人間の中にある或る感情などではない。
愛の歓喜が人間の情動ではなどではないのと同じように、大悲は、すべてのものの根源なのだ。
私は、無限の悲しみと無限の歓びを同時に知った。それは、開かれた愛そのものであり、
私もまた、一切万物と同じように愛の中に顕われた愛の一表現なのだ。

—–

ドナルド・シモダ

オレたちゃ空の遊び人 オレと瞑想とは流れもの
干し草畑をふらふらと おてんとさまに包まれて

瞑想 お前がオレの情婦だ 黒いガーターちらりと見せて
酒場で踊る女より オレはお前と寝たいんだ お前の中で寝ていたい

雲は二人の愛の巣だ 風や嵐は恐くない
すねるお前がなお恐い 白い尻から火を吹いて
お前が怒ればオレは死ぬ 死んでもくいはないけれど

王冠かむった帝王や ペントハウスの金持ちが
手をのばしてもとどかない 七千フィートの甘い大気
それが二人の絹布団 オレたちゃ空の流れ者

いくたびもなく・・・いくたびもなく・・・
ここに終わり ここに始まる
今は死ぬに最高の時だ!

生前解脱を果たしても、肉体がある限り、欲望とカルマとがなくなってはこまる。

欲望は、現実という夢を仮作する。だまされているのだ・・・ 現実という夢に。
一切皆苦・諸行無常・諸法無我。あらゆる個別性は苦である。絶対確実なものは何一つない。
永遠不滅なる実体は存在しない。
これが、だまされているという現実の単純な論理的分析である。

真実の愛は、絶対絶命なる虚無を極めつくさねばならない。

—–

ステップ・バイ・ステップというふうに、悟りを開くということは、ありえない。
個が、だんだんと全体に成っていくというのは妄想である。
全体しかなかったと目覚めるのが、悟りであり、
私は、だんだんと全体と一つであることを悟り始めたというのが、迷いである。
修行のプロセスが、どのように起伏にとみ長い苦闘の連続だとしても、
悟りを開く時は、一瞬の内にである。
修行とは、それが、どれほど完璧で徹底的なものであろうと迷いである。
修行とは、それが、どれほど純粋なものであろうと迷いである。

悟りしかない立場から見れば、一切万象は永遠に修行している。

迷いが悟りになることはない。
迷いの位相は、永遠のまよいであり、悟りの位相は、久遠に悟りである。

その本性上、
死をことさら憎悪もしくは恐怖するものを、ブラックマジックという。
従って、現代商工業都市文明は、ブラックマジシャンの集団である。
死を恐怖するが故に、黒呪術は、真正の孤独を嫌悪する。
それ故、
君がたとえ一人きりでいようと、他人の眼を気にし続けている限り、
君は、黒呪術師か、またはその卵である。

—–

『ジャンプ台は尾てい骨にある。
君たちが自分の尾てい骨を完全に知覚することができたら、崩れる。
世界のゲシュタルト、形態っていうのが必ず崩壊する。
発狂する人って言うのは尾てい骨の接続点が、バチン!とはずれるんだ。
尾てい骨のなかで、クンダリニーとムラダーラチャクラが接続しているから、
俺は俺、君は君とかここに紅茶があるっていう世界にいるつもりになっている。
君たちに見えるのは相も変らずひとつの喫茶店だ。
しかしこれがはずれると全部、認識形式が変る。
つまり世界そのものが変ってしまう。
だから、ジャンプ台そのものは尾てい骨のクンダリニーにある。

そしてクンダリニーが活性化する方法はふたつしかない。
平静に知覚するっていう方向、平静に努力を重ねていく方向。
そして、もうひとつは、ショックだ。
ショックと言うのはどういうものかというと、
例えば突然、明日死ぬ事を宣告されるだとか・・・。
君がどっか調子が悪くて病院へ行った。
するとあなたはガンであと一日しか寿命がありませんって言われた。
どうなると思う?何もかもが崩れてしまう。
もう、テーブルもテーブルじゃない。紅茶も味がわからない。これはね、はずれたわけ。
ショックとは何かと言うと、現実認識なんだ。おわかりかな?
瞑想のふたつの方向って言うのね、現実直視の方向と、平静さや愛の方向、そのふたつなんだ。
女の人には愛がとても向いている。それはある一人の男の人への愛でもかまわない。
それがとても成熟させてくれる。でも簡単にはみつからないよ。
本当に自分に会う相手なんて、一生に一回か二回あったらいいほうだ。
さて、そして問題は現実認識のほうなんだが・・・
はっきりと認識するとこの世とは苦楽、喜怒哀楽なんだ。
それに完全に直面できるってことなんだ。
直面したら(クンダリニーは)はずれる。
でも逃げればいつまででも逃げられる。』

—–

クンダリニーは、個生命体の生命力である。
クンダリニーは、あらゆる人々の根源的生命欲である。
クンダリニーは、ただ一人孤独である人間の生きている所以である。
クンダリニーは、千々に乱れたハーモニーそれ自体である。
クンダリニーは、ムラダーラチャクラの中に眠っているニルヴァーナへのジャンプ力である。
クンダリニーは、この多様多元の存在界のあらゆる戯れである。
クンダリニーは、生命進化という夢の原動力であるとともに、喜怒哀楽生々化々そのものである。
クンダリニーは、血わき肉おどるエネルギーである。
クンダリニーは、色即是空の色である。
クンダリニーは、尾?骨神経節の中にあるデーモンである。
クンダリニーは、至高の愛欲・あこがれである。
クンダリニーは、マーヤである。
クンダリニーは、ニルヴァーナである。
クンダリニーは、クンダリニーである!
さあ、夕暮れの静けさを味わおう。
酒の酔いをほろほろと楽しもう。
苦しみを苦しもう。
楽しみを楽しもう。

—–

ジャンプ――
われとうつし世を越えて、
すべてのすべてであり、
何ものでもない限りない空に達する。
マーヤからニルヴァーナへのジャンプ、
プラクリティーからプルシャへのジャンプ、
これが、クリヤ・クンダリニー・ヨーガ
大周天
ニルビカルパ・サマディー
シャーマンの呪術的飛行の極点。

糸のほつれをほどくにはどうすればいいか?
糸全体を切り捨てるのが禅であり、
糸口を発見して、
徐々にほどいてくのが、
タントラ・クンダリニー・ヨーガである。
この二つは、結局、私自身だ。

二元は一番最後まで対立する。
それから先は人間的なことではない。

—–

当のこの世のとの一切の別れは、
本当にこの世のすべてを理解するのは、
あなたがあなたの肉体の頭部の光の智慧に導かれて、
限りない道の広がりへ出てゆく時である。
つまり、あなたは、
唯一の限りない出会いと一瞬一瞬に
別れを告げているということなのだ。
それが愛の始まりであり、
それが愛の終わりなき終わりなのだ。

君が冥想者である限り、
君は愛も歓喜も卒業する時がくる。
が、自分が自分なら、
卒業などありはしない。

完全といえるほどのエゴイズムが、
愛には、そして冥想には必要な場合の方が多い。
完全なエゴとは、公明正大な善人のことである。
まず、あり得ないタイプの人間のことだ。

—–

人間は、
ひまな時間を作るために努力する。
だが、大部分の人々は
ひまな時間をどう使うかを知らない。
私達は小人である。
小人、閑居して不善をなす。

安心には不安があり、
愛着には憎悪があり、
快楽には苦痛がある。
そこで、私達はしかたなく
あらゆるものからの解放を欲望する。
解放を求めることが
根源的な束縛にもかかわらず
私達は解放をもとめなければならなくなる。
何故なら、私達は
完全なる解放から産まれてきたからだ。

絶対 完全 至福 自由

なるこれと一つであったことを知って
私は、こう断言することができる。
あらゆる個生命達は
これを求めて
旅しているのだ。

—–

本当にあたりまえな人
人間であることの
あらゆることを味わい尽くす瞬間、
その瞬間は
只一つの無限のよきものにつながっている
瞬間は時が消える時
私達が、人間として、神秘として、
発展していく小さな入り口
それは、
どうあろうともすべてである汝、
すべてで、同時にあたりまえな旅人
神秘な旅人
私へ帰っていく旅人

あんたは、本当は消えたいんだ。
けれども、うわっつらでは
死にたくないと思っているわけだ。
それでも、あんたは消えたいんだ。
余りにも素晴らしいことを予感するから、
あんたはブルブルふるえる。
欲望は、欲望を消すことを欲望する。
消えたところが、至福であることを
あんたは、ほんとは知っている。

至福に至るメカニズムは
もう、出尽くした。
そこで、君達は君達なりに生きているだけだ。

君が意識をはっきりさせたまま人生を終える時には
君は知るだろう??  何もかもがいいということを。

—–

仏界、入りやすし、
魔界、入りがたし、
ここ、入りやすいか、入りにくいか?

すべてはすべてだ。
トートーロジー(同語反復)が
思想的には究極の真理になってしまう。
だが、同語反復とは何だろうか?
死の刹那に私は知る――
人間と称する何ものかの一生とは、
一刹那の夢の戯れであったことを。
回る回る 回転木馬
まわるまーわーるー
かいてんもくば
神の戯れ、私自身の私自身

人生は長いようで短い、なぞと言わないでくれ。
こんな言葉は、一度も本当に生き切ったことのない
バカモノがほざくまっかなドウソだ。
まことにまことに言う、
人生は、ただただ短い。
人生は、ただただ短いというのも
まだ妥協だ。
人生と称されている何ものかは
一刹那
無限のいっしゅん
本当のことを言えば
人生なぞないのである。
われもなくうつし世もなく なにもかも なにもかもなしなにもかもなし

—–

クリシュナ イエス・キリスト 釈迦 老子 すさのをのみこと 臨済 道元
ババジ パドマ・サンバヴァ クリシュナムーティー 無為隆彦……
こいつらは、ウジ虫であり、タバコであり、はなくそであり、クソであり、快苦であり、
あなたであり、わたしであり、
神であり、悪魔であり、太陽であり、月であり、
地球であり、海であり、砂漠であり、宇宙であり、
オナラであり、ニルヴァーナであり、
新宿の売春婦であり、すべてのすべてであり、
それ以外である。
そういうわけで、太郎も花子も
ミーちゃんもハーちゃんも
この只一人の無限なる私自身というわけだ。
われもなくうつし世もなく なにもかも かみのなかなるかみのたわむれ

何事も、これで終わりだということはない。

孤独を、
ほとんど絶対的なまでの孤独を感じる時もあり、
すべてを超越して、
すべてのすべてである時もある。

私は私だけの私
私はあなただけのあなた
私だよ……
おれだ!

—–

戯れたわむれたはむれ……

恐怖・不安・デカダンス・悲しみ・苦悩
まわるまわる……回転木馬……
ワオ、ワオ、ワオ
たわむれ……

悟り・迷い・シッチャカメッチャカ
秋の虫が、鳴いている。

いわゆる通俗的クンダリニー・ヨーガの問題点の一つは、
アストラル体以下の各チャクラの機能を過大視する余り、
ある種のイメージや、夢想的ヴィジョンを、
本物の霊的ヴィジョンと思い込んでしまうところにある。

あらゆる科学は、人間性の欲望と肉体性の認識形式にもとづく実用仮設にすぎない。
したがって、
あらゆる人間性内部のやりくりが、必然的に限界に至らざるを得ないように、
科学文明も明らかに限界に達している。
いかなる科学も、それが人間性から発した仮設である限り、
人類の真の幸福や平和に解答を与えることはできない。
それどころか、当の科学自体を正しく扱うことも不可能である。

—–

人間の側から見れば、覚者と凡人の差異は、海の大波と小波程度のものにすぎない。
霊の側から見れば、覚者と凡人の差異は月とスッポン以上のものではあるが、
覚者の側から見れば、覚者と凡人の差異なぞあったためしはない。

クンダリニー・チャクラという
この久遠の生命海の一波動は一般的には、
アナハタ・チャクラの無限愛をその振幅の最大のボーダーとしている。

一たび、無限愛に目覚めたならそれ以後の冥想の流れは、おだやかなものとなる。

すべては、神の夢の戯れであり
すべては、神の真実それ自身である。

迷いから見上げると
悟りは逆説的なドンデン返しに思える。
だが、悟りの眼には、迷いと悟りは決して切り離すことのできぬ限りなく美しい神秘だ。

—–

本当の自分自身は、
初めの頃は絶対他者あるいは神として現れる場合がある。

つぼみへと成熟する時
君は不可思議な喜びに包まれている。
つぼみが破裂して花開く時、
君は
君を失う言語を絶した恐怖と法悦にいたるだろう。
やがて、君自身という花が散る時が来る
透明なやすらぎが
すべてに満ち渡っている
そしてなにもかもが忘超された刹那
たった一つの果実が結ばれていた
君は
君ということのない君自身だったのだ。

人間性のあらゆる問題の原因は
ただ一つしかない。
それは、
人間が自分自身を見失ったということ。

この世とかの世を通じて
君にとっての
最大の恐怖は、
君が
君自身に変容する瞬間である。
そして最大の至福も…

孤独な鳥は何もない大空で
ただ一度だけ空中衝突を起こす。
君は君自身になったのだ。

—–

絶対者から発出したエネルギーは、人体の外では、一本の黄金色のコードに、
人体の内部では、三本の白銀色のコードとして見える。
チャクラとは、三本の白銀色のコードから芽吹いた七つの花もしくは果実である。

生死・中有界を開示するクンダリニー・ヨーガの行法上の秘伝とは、
特殊なマハ・ムドラーとヨニ・ムドラーにつきる。
また、この際に、解脱に達したグルは不可欠である。
解脱に達したグルだけが、ブラフマ・ランドラを開く事ができるゆえに。
クンダリニー・ヨーガの内面的秘儀とは、いかなる方向性・目的性を持ち得ぬ
全身的渇望と、それに必然的にともなう全面的な鋭敏極まりない知覚である。

クンダリニー・ヨーガの技術的解明は単純である。
それは、完全に肉体を浄化し、健康状態のまま、肉体側に下降している生命力を、
知覚と意識の極点まで上昇させることにすぎない。
すなわち意識のしっかりした臨在患者が入る透明で鋭敏極まりない知覚状態を、健康体の間に実現し、
クンダリニーというエネルギーコードを死の彼方へジャンプさせることにすぎない。

君自身の側から見れば、
君という、
七つの寄せては返す波は、
起点も滅点もサハスラーラ・チャクラで、
その最大に達した波は、
クンダリニー・マーヤの
永遠の愛欲世界を回転する。

自分自身を説明した理解することはありえない。
だが、
自分自身の気付く直前を表現してみよう。
完全なる闇。
そして突然、開示される
超時間・超空間の絶対歓喜。

—–

絶対者から発出したエネルギーは、人体の外では、一本の黄金色のコードに、
人体の内部では、三本の白銀色のコードとして見える。
チャクラとは、三本の白銀色のコードから芽吹いた七つの花もしくは果実である。

生死・中有界を開示するクンダリニー・ヨーガの行法上の秘伝とは、
特殊なマハ・ムドラーとヨニ・ムドラーにつきる。
また、この際に、解脱に達したグルは不可欠である。
解脱に達したグルだけが、ブラフマ・ランドラを開く事ができるゆえに。
クンダリニー・ヨーガの内面的秘儀とは、いかなる方向性・目的性を持ち得ぬ
全身的渇望と、それに必然的にともなう全面的な鋭敏極まりない知覚である。

クンダリニー・ヨーガの技術的解明は単純である。
それは、完全に肉体を浄化し、健康状態のまま、肉体側に下降している生命力を、
知覚と意識の極点まで上昇させることにすぎない。
すなわち意識のしっかりした臨在患者が入る透明で鋭敏極まりない知覚状態を、健康体の間に実現し、
クンダリニーというエネルギーコードを死の彼方へジャンプさせることにすぎない。

君自身の側から見れば、
君という、
七つの寄せては返す波は、
起点も滅点もサハスラーラ・チャクラで、
その最大に達した波は、
クンダリニー・マーヤの
永遠の愛欲世界を回転する。

—–

自分自身を説明した理解することはありえない。
だが、
自分自身の気付く直前を表現してみよう。
完全なる闇。
そして突然、開示される
超時間・超空間の絶対歓喜。

あらゆる神通・超能力、
あらゆる宿命転換やカルマの改善は、
君を、
君なぞないというところまで導く
君自身のトリックである。

ニルヴァーナとは、不二一元でさえもない。
神とは、ニルヴァーナの中なるマーヤの流出現にすぎない。

この世のものであろうと
地獄や天国のものだろうと
神人合一や解脱・ニルヴァーナであろうと
夢幻や幻覚の中のものであろうと
君は本当に知り尽くさねばならない、
断じて君は、
何ものの
自分だけのものにすることができないことを…
それどころか、君は、君さえも、
自分だけのものにできはしないのだから。

—–

ここにいつもここがあり、
今はいつも今だ。
それゆえ、なにもかもが冥想している。
但し、
君は断じて、
今、ここにいることはできない。

肉体・意識・現象・宇宙・・・
そのありとあらゆる出来事・・・
これらは、
すべて肉体に属するものにすぎぬ。
どれほど高尚な形而上学的悩みも、
肉体あってのものだねだ。

—–

一般に、
クンダリニー・ヨーガは、アストラル体を基点とする。
マントラ禅や丹田禅は、エーテル体を基点とする。
公案禅や只管打坐は、メンタル体を基点とする。

マントラ・ヨーガとは、
ある特定のチャクラを刺激する音を
心の中でくり返すものであり、
マントラ禅とは、
全身全霊で、任意の音を発声することにより、深い呼吸を誘発し、
エーテル体と肉体の生命力を一気に活性化しようとするものである。

マントラ・ヨーガも、マントラ禅も、一点集中によって思考の雑音を排除しようとする単純なトリックではあるが、
マントラ禅の方が、精神安定剤よりは、生命力増強方としては、多少すぐれていると言えば言えるだろう。
とりわけ、マントラ・シッディという爆発的な身心一如的な歓喜や感謝や念力の発現は、マントラ禅の方が、はるかに速い。

マントラ・ヨーガとは、怒った時には頭の中で百数えなさいということであり、
マントラ禅とは、ランナーズ・ハイが起こるまで走り続けよ、とか
『コカ・コーラ』と一心不乱に、ゲット・ハイになるまで大声で唱えろといったものだ。

—–

いい、人はね、自分自身ひとりがね余りにも空しいからね、その穴埋めに色々なことをでっち上げるのさ。
総理大臣になろう実業家になろう素晴らしい音楽家になろう、プレイボーイになろう。
ところが肝心の自分自身の空しさっていうのはいっこう解決ついてない。
だから、一時的には何か上手くいったっていう喜びがある。
が、しばらく経つととそれは全部ポッシャリする。また同じ問題の繰り返しだ。
君達という、その君達の自意識がある限りね、何をやったとしても最終的な結論は絶望だ。
それはひどい言い方かも知れないが、この人生の真実だ。

ところが人はさ、自意識に直面して自意識の問題を片付けるということを最高におそれている。
だから、色んな目標をつくる。やれ定力をつけたらなんとかなる。やれエネルギーに満ちたらなんとかなる。
やれ、ドラッグを飲んでこんなんなったらどうかなる。やれ、すごいグラマーな美人かなんか抱いたらなんとかなる。
やれ、素敵なスポーツカーか手に入れて運転したらなんとかなる。
やれ、金をいっぱい貯めて何一つ食うに不自由ない大邸宅に住めばなんとかなる。
何もなりゃしない。が、多くの人たちってのは全然苦しんでないように見える。
苦しんでないことはない。心の底では君たちと全く同じ問題を抱えてる、全く同じ問題を。
ただ、どこが違うかというとさ君たちよりもさ、上手くさ仮面をかぶることに長けただけだ。それが上手になっただけだ。
ところが、本当に一人きりになってみろよ。何一つ通用しない。

そして、もう一度言おう。永遠に永遠に永遠に永遠にこの宇宙が生まれ変わり死に変わり生まれ変わり死に変わりしたとしても、
君たちがもう一度現れることは絶対にない。ただ一回きりを君達は生きてる。
で、君達は何か実験したいと思ってる。この世に実験なんかありはしない。
君達は何かを試したいと思ってる。この世に試すなんかありはしない。みんな真実だ。
もし、それに全力をかけなくちゃさ、死んでから閻魔大王に飯代請求される。

—–

何でせっかく最高に生きられる命を与えられているのにそれを発見しないで終わっちまうんだ、
最高に生きられる命、それはね自分の命を全身全霊で持って捧げること、そしてそれが愛だ。
そこに行き着かない限り君は何をやったとしても決して安心する事はないだろ。

明日になったら安心する?明後日になったら安心する?あれをやったら安心する?
そんなこと考える。あれが実現できたらもう俺はハッピーになる?
そんなことあるもんか。だったら実現したらいい、全く新しい問題がそこに残る。

そうではない、今からはじめなさい。今、始めるんだ。今、その中にいるんだ。
今、愛そのものの中に委ねるんだ。

そして、情熱っていうのを本当に当たり前に考えてごらん。
情熱を注ぐべき対象っていうものをもし本当に素直に考えたらばね、二つしかない。
それは、運命的な出会いによってさ、これが全てだと本当に言い切れた場合。それはもちろん悟りとは別の事だ。
例えば、音楽に出会えた、音楽のためなら死んでもいい、素敵な男に出会えた、その男のためなら死んでもいい、
あるいは、とても可愛らしい子供を産んだ、この子供のためなら死んでもいい。
その時、その人たちっていうのは全く人と比較する必要のない充実の中に生きている。
ちょうど、船の船長さんがね自分の船に愛情をかけたとき、その船が沈むっていう時にはさ、船と一緒に沈むように。
それが一つ。

そしてもう一つはね、
君達の自我がある限り何をやったとしても、君達の自意識が在ると妄想している限り、何をやったとしても、
何一つ、本当の安心も満足もありはしないっていう事を自覚した時にね冥想の道へ入ってくる。

—–

そして、冥想とは何かって言ったらね、これは人間が作り出したものじゃないんだ。
宇宙が創り出したね、一種のバランス機構なんだよ。
そして、それがあるために人間は完全にシッチャカメッチャカにならないですむ。
何故なら、誰でもだよ、唯一人の例外もなく君達が今持っている問題と全く同じ問題を持てる。
君達が今持ってる問題と全く同じ不安を持っているんだ。
総理大臣だろうと国際連合の総長だろうと何だろうと例外はない。

そして、今の冥想ブーム、これはいけない。
冥想っていうのが起こった事はいい、が、冥想っていうのがさまるで自我を防御するための道具に使われちまっている。
そんなことしてたら何時までたったてきりが無いだろ。
そりゃ、超能力を得て人の心を見抜くとか、超能力を得て金をうまく儲けるとか、超能力を得て女をものにするとか、
そんなことやることは出来るよ、もちろん。それは一つの能力だ。
が、そんな事やって後に何が残るわけ?
君達の一人ぼっちの空虚さはあい変らず一人ぼっちの空虚さだ。
だから、それ故にはっきり言っとく。君達が愛に目覚めない限り、君達が自分の自我から解放されない限り。
君達は一度も生きることはない。
そう、ちょっと前の時代ではさ、まるで悟りとか何とかっていうのはを問題にするのはさ、
もう年老いた人生が終わった人たちだと思ってた。が、そうじゃないんだ。
自分が無い、自分の全てを。自分の全てを、何だこれ?このにごり酒のために自分の命の全てを捧げない限りね、
君達に決して本当の満足、本当の快楽、本当の喜び、本当の全てはない。
で、僕の今話してる事がね、何か胡散臭いか、信じられないんだったらばね。可能性がある方向に向かってもっと頑張ったらいい。
その代わり、多分非常に残念な事だが、その可能性に向かって頑張って上手く達成できたとしたらね、
その時、虚しさがそこにあるってことに気付いたとしても、
もう、それに対して真剣に対処するっていうエネルギーはもう無くなっているだろ。
それが冥想院が絶対的に必要な理由だ。

—–

そしてそれは大きくなるためにあるんでもない、新興宗教をつくるためにあるんでもない、
君が君自身の内面の一番最後の答えを発見するためにあるんだ。
慈悲を慈愛を愛を真心を。
自分を超えた本当にさわやかで自由な、そして海のように計り知れない深い喜びと悲しみを味わうがために。
その時、君は決しておしっこした時にね、おしっこをさ十分の一とか三分の一とか残すようなおしっこの仕方は絶対しない。
全部出すだろ。
ところがが君たちと来たら、どうだ、何かやるのでも何時でも残ってるなんか、一部。本当に全面的にそれに直面しない。

そして命がけでやれっていう、それが偉く何かさ非常識なことのようにに聞える、或いはツッパった言葉に聞える。
何をやるにも命がけでやりなさいって、所が、これくらいシンプルで当たり前な話ないぜ、
何故なら君達何時でも死ぬに充分なだけいるんだぜ、明日死ぬかもしれん、一分後に死ぬかもしれん。
そして君達が死んだら二度とないんだぜ。二度と。たった一回きりの君たちだ。
もちろん転生はするよ。で、転生して生まれ変わったて今の君たちじゃない。

「しかし、その時には意識は残ってるんじゃない?」

そんなものは、全面的に意味無い。今日は究極講座ですから。

「何か、その時には何をやるって一つのパターンではないわけ?」

抜けた場合?抜けた場合はどんな言葉を言っても当たらない。
ただ充実しているということ。ただ生きることが生きているということ。
そして、それはもう説明できない、だから俺はさ、
宇宙全部の喜びに達してもまだ当らない、宇宙全部の悲しみに達してもまだそれに当らない、って言うしかない。
それはもう本当に言語を絶している。信じられない。だから俺を見てくれ、それ位しかいうことはできない。

—–

他に質問は?あるだろう(笑)幾らでも。
俺は正直言えばさ何一つ話すことなんか無いんだ。はっきり言っちまえば。

「で、確かに、それでもう。それでそうなんだけど。どうすればいい」

(笑)どうすればいいって聞いた瞬間さ、Sは実在といってもいいし完璧な喜びと言ってもいいし、それから外れちゃうんだ。
Sがねいつもひっかかるのは結論を出してから何かをやろうとする事だ。
どこかの道場行けばちゃんと理路整然とやってくれるだろうよ。
そりゃあどっかの新興宗教行けばさ色んな教義説明してさ、君たちを安心させてくれるだろうよ。
例えばさ、ダイジこれはグルである。従ってダイジのいう事をそのまま聞いていればあなた達は救われる。
こんな簡単なことはないよ。
そして人は神の宮である。神の子、神の宮である。だからお互いに礼拝しなさい。
そしたらそれで結論がついたように思う。
ところが、本当の本当の本当の自分の中心じゃ、ちっとも結論がついてない。
だから四六時中それをやってないと気がすまない、四六時中それを考えてないと安心できない。まるで麻薬中毒だ。
そうじゃない、元々あるんだ。全てがあり。
君達の恐れって言ったら一体何かっていったらね。一つはまず全てを受け入れたくないというところから来る。。
どうしても自分っていうのものをさ、他と分離したいと思っている。
そして、全てを受け入れてさ、全てと一体になったらさ、
今度はさ愛してる、本当に自分が愛してる思える人との関係さえ無くなっちゃうと思ってる。
ところが、それは全く逆だ。
君達がまず第一に神を全身全霊で愛することを知ればね、その時初めて自分が一番惚ほれている人間っていうのを、
本当にほれる事ができる。

—–

他に質問は?

「いやあ、別にあの、ダイジのところに来るとそうとう混乱させられる」

うん、もちろん。いいWはね。ひとつの理論、知的な理論。
しかもそれは非常に困った時にね、それは知的ではないという事を踏まえた知的理論を造り上げちまったっこと。
だから俺は言ったろ君はここで愛に触れたって、ところが君はそれを疑いだしたって。
ところが君本人としてはいっこう自分が疑ってるって言う気持ちはない。それを信奉してるように思ってる。
ところが正にその信奉しなくちゃならないっていうことが疑いじゃないか?
僕は、君の誠意、全誠意に対して話してる今。
だって愛に触れた人間が、一体愛とかさ神とかっていうことをそんなにガチガチガチガチさ、
信奉したり信頼したりさ愛はそれについてさ思索する必要があるかよ。
それは疑い以外の何ものでもないじゃないか。

で、君達のね最終到達点っていったらいいか、或いは本当に今ある状況っていうか。それが悟りなんだが。
それの方向を間違えてもらいたくないから、ハッキリ言っとくがね。
すべてがいいということ。すべてが完璧だということ。
そのすべてっていうのはこれと、この座布団と、この塵と、君と、それが全部同じ、たった一つのものだ。
たった一つの私だということだ。それが今であり、それが到達点だ。
そんな事がわかって何になるのなんて質問しないで欲しい。それがわかったら全てが手に入る。

例えば宗教。今みたいに冥想ブームで冥想がテクニックみたいなこと言われると、
俺はかえって宗教をもっと信奉しろとか、信仰しろとか言いたくなる。
それは当然のバランスだ。余りにも宗教から離れちまった冥想が。
が、その宗教にしてからがさ、余計なものに過ぎない。皆同じなんだ、僕達は。
そして皆同じだけにね、自分の中に限りない神秘を宿してる。君の中にも。
残念だが、君に届かないことがとてもつらい。でも、届く日が来るだろ。

—–

誤解しないでほしい、愛っていうのは全てに対する愛だ、もちろん。
が、全てに対する愛っていうのを理屈抜きに感じたとき。
例えばMがこの前のメディテーション・インで涙を流した時、愛に触れていたよ。
そしてその愛に触れた時、自分の個性が惚れてるものってのを一番愛する事が出来る。
愛っていうのは売春婦になるっていう類のものではない。
愛っていうものに触れた時、初めて順番が分かる。何が一番自分にとって大切か。その次は何か。
みそもくそも一緒には決してならない。

いい、忘れないでほしい。みんな同じなんだ。世界中の全ての人がみんな同じ問題を抱えてるんだ。
ただ、その違いわね、自分を騙すことがうまいか、うまくないか。それだけの違いだ。
ここでは騙す必要はない。いい?

さあ、全力で考えて欲しい、考えるんだ、思考するんだ。君達の今までにおちいった反対方向にいったポイントの一つはね。
一番肝心な事を率直に考えるってことを飛ばしちまったからだ。

智とね愛っていうのはバランスがとれて初めて本物だ。愛は智を含む、智慧を。智慧は愛を含む。

最終的に無意味だっていうなこと何一つないんじゃない?
ああ、人間、ものすごく極限に接近してるんだけどさ、
無意味だってことと意味があるってこととを分けるってことそれが人間が超えなくちゃならない最後のトリックなんだ。

月並みな、言葉だが。ねえ、あんた愛は愛を愛してるよ。

—–

「普通プロセスを言う場合は、どうしても動機づけられた情熱っていう感じがあるんだけど、そんな事はない?」

うん、人間のやる場合っていうのはさ、99.999999%目的のある情熱だ。
そしてそれから入るのももちろん正しい、本気で入るならばね。
その場合にはどういうかたちで起こるかというと、前世で恐らくそれに相当するものを経験したという事だ。

「じゃあ、目的の無い情熱っていうのが、意外と大切なもの?」

意外と大切じゃない。それが唯一の原動力だ。

「じゃあ、前世でさ、そういう因縁が無い場合はどういしょうもないってことになる?」

いや、そんなことはない俺に会ったからには。

「前世でさ目的のある情熱ってのを持ってたら、でぇ、それがどうなっちゃうわけ?」

うーん、例えばさ、前世でさ音楽家がいるとするだろ。その音楽に命がけだったとするだろ。
ところが死ぬ間際に音楽の無意味さっていうのを悉く見切ったとするじゃない?

「見切る?」

うん、見切る。そういうときが来る。芸術にはそういう側面があるんだ。

「見切るってのは、全部やっちゃって、で、見えちゃったってこと?」

うん、やり尽くす。本当に愛しきったってこと。音楽を本当に愛しきったてこと。
その瞬間、音楽が決して自分の解放に導かないでね。自分をある形のなかでもってガッチリ固めた事に過ぎなかったて事に気付く。

—–

「そういうことが前世であった場合は」

うん、あった場合は、生まれたとき思春期になったころから猛烈に遥かなるものを求め始める。

「それは、また音楽で?」

もう、音楽じゃない。

「ああ、そういう前世で目的のある情熱をやった場合はさ、もうやらないわけ。生まれた時は分かっちゃってるから」

うん、それが極限までいったなら、もうやらない。

花は踏まれてもなにも言わないでしょ、あれが愛。

ダンテス・ダイジ資料 テープより 一部抜粋

—–

澄み渡った一生懸命さとリラックスは別のものじゃない。

—–

転載

・「太郎には太郎の悟りがあり、花子には花子の悟りがある」
・「行者は行者でしかありえない」目的が難行・苦行になっている為に一生、行を探し求めるの事になる。
・「世の中に偶然は一つとして存在し無い、すべては必然なんだ」
・「キリストは悟りを開いていなかった、処刑された瞬間に悟りを開いた」
・「キリストは只々愛にのぼせ上がっていた、でもその愛は本物だ!」
・「人は自分の心からの誘いは、たくさんあるが、本物ほど遠くから小さな声で囁いている」
・「癌の末期患者の半分以上が死を超越して、死んで逝く」癌告知されると三段階の精神状態に至り
  その最後の段階に入ると、死を超越してしまうので、見舞客を逆に慰めるほどになる、死刑囚にも同じ事がいえる。
・「人間の最大の問題は、”死”である」
・「生まれながらに、死を超越して生まれてくる魂もある」
・「神は、一番ズボラだ」
・「あなたの守護霊は、CIAよりも正確な情報を所有しているし、嘘は利かない」
・「ラーマ・クリシュナは極度の胃弱だ」
・「スティービー・ワンダーは光の世界から演奏している、モーリス・ホワイトは、二回ほど光の世界を垣間見ている」

—–

この世のあらゆることには、完成ということがない

それは時計が回るように回帰する。
人生それは、また時計のように成熟し得る。
時計には個生命としての生老病死がある。

あらゆる個生命達の 夢と真実と愛のストーリー

THIS IS DREAM-TRUTH

老子

老子について何も知らない
ただ気楽な人だったなあと、わたしは思う。
そうなってゆく、そのままの人。そうなってゆく石ころ。そうなっていく雨だれ。

ただ素直にやわらかく、豊だったなあと、私は思う。
イエスのうように純真だが、そのオトボケは、ソクラテスを楽々とノイローゼにさせるほどの俗物中の俗物。

もちろん老子とは個人の名前でもなく。老子という本の名前でもない。

宇宙の名前だといったらよいのか?無限の名前といったらいいのか?
否、否、三度否!

なにもかもないそれを、老子が老子と名付けたらしい。ありとあらゆるものそれ自身を。
誰かが仮に老子と名付けたらしい。
ありとあらゆるそれ自身を、誰かが仮りに、老子 と名付けたようだ。

それだからこそ老子はあたりまえな人間なのだ・・・

—–

坐禅とは、いかなる状況、あるいは、いかなる世界においても、
生き生きと、やすらかに充実している。あるいは、たくましく、充実している。

絶対それ自身を、いくたびも体験し、そして、死のその最後の瞬間まで、
その充実を生き尽くすことにある。

臨済禅師は、もし、もっと長く生きたならば、老子のありように近くなっただろう。が、
臨済君は臨済君だ。彼は完全な自由を生きた。
老子は老子だ。彼は生き切り、生ききらず、死に切り、死にきらない、
絶対即相対の完璧な体得者であり、余りにもあたりまえなただの人。
そこで超人普化はというと、
ここで、狂僧か何か知らないが、狂僧普化は、カンオケの中で死んだというわけだ・・・

普化おまえのことだ!すべてこことだ!地水火風空無霊有のことだ!

あなた自身の夢・・・・あなたのいない夢・・・・
カオス・不如意・不安恐怖・あらゆるエクスタシー・幸福・不幸・快楽・苦痛
あなたもわたしもない。
何もかもない夢の極楽と中有と地獄の夢なのよ・・・・
至高無比の絶対満足のその中に、いいえ、それ自身の夢が戯れているのよ・・・・・・・
見よ! 是れは夢か絶対者か? それとは何か?? 是れ何者ぞ!?

おまえ自身の あらゆるお前自身の気狂い遊戯。
「よくも、あきないもんだ・・・。」

—–

坐禅
特に只管打坐は
その本質は 百パーセント万事休した姿勢でしょ

つまり
あなたは何者でもないかもしれないのだ

牢獄 束縛 催眠術 死 未知 不可知? 疑い 不安 空しさ

情熱 おお、めくらの情熱よ! サットヴァ質の極点よ。

神なるもの 絶対無の限りなき光なるものの・・・ あらゆる忘我の時よ! あらゆるエクスタシーよ!

臨済も普化の禅機にはかなわなかった。

この世に新しき言葉なく この世の神秘は続く・・・

能力によっては 至福は得られない。 それは時なのだ。時がすべて起こす・・・

—–

すべてが
こうである以上にこうである
そのすべてがすべてでいいんだ
いいや、いいんだ以上のいいんだ

聖人タイプは、すべてのすべてのすべての絶対を欲望する

相対と対立する絶対ではなく
絶対即絶対に至れば もともとなんということもない。

人様にメイワクかけ、世界にメイワクかけ、自分にメイワクをかけ続ける、
いわゆる俗人様つまり恐れ多くも御ブタ様々タイプは、
喜んでいるのか悲しんでいるのか・・・
楽しんでいるのか苦しんでいるのか・・・
ガンにかかってシチテンバットウしている人がミジメなのだろうか???
モグラの近視眼で、国をウレエ、世界をウレエ、だが自己をウレウルことだけは、さけて、
立派な偉大な事業に励んでおられる。
私は心の底から頭の下がる思いだ!

どういうわけか、私は苦しいのより楽しいのが好きな性分ときている。

さて、
何もかもが、ありとあらゆるもの、まったくないといったもの、
シッチャカメッチャカのすべてのすべてが、生命なわけだから、
生命ゆえに、価値も意味も方向もありはしない。

それが、どのようなプロセスを得たニルヴァーナ・エクスタシーであろうと、
それでも、あるのなら、何もいうことはない・・・・・・・・・・・

チェッ!オレ言っちまった!

—–

セイナルものという夢

本ものもニセものもない。
あなたがたは、聖なるものという夢を見ている。
絶対に信じられないほどの聖なる体験はある。
だが、
聖なるものなぞどこにもない!

バグワン・シュリ・ラジーニシ???
奴はシッチャカメッチャカだ。本ものだ。
終末が産んだ本もののコメディアンだ。
奴は最もタチの悪いテクニックで、バグワン中毒を伝染させている。
奴もそう長くはない。
だが、奴は正真正銘の本ものだ。

伊福部隆彦先生―――
老子の再来である。
酒で悟りを持続していた。
悲しいほどに本ものだ。
余りに悲しすぎるほど本ものだった。

ババ・ラム・ダース―――
間違いなくニセものである。
この人物は、
自分が本もののコメディアンであることを知っていない。
だから、自分を神のコメディアンだと思い込んでいる。

—–

高橋新吉―
ロマンチストだが、
どうにか一人前になりたての禅僧だ。
ロマンチストゆえに遊びがたりない。

大森曹玄老師―
この人とは話し合うのもごめんだ!

木村虎山老師―
釈迦より偉大の上に偉大だ!
無眼子、何の眼力もない。
ただ、淡い定力と、
仏法そのものなるプライドと、
法に対する素朴な親切心があるばかりだ。

チョギャム・ツルンパ・リンポチェ―
血わき肉おどる理想主義者。
本ものだ。
だが、新宿のトルコ嬢には
とてもかなうまい。

桐山靖雄―
ニセモノ。
立派な野心家。
とても出口王任三郎や空海ほどにはいけまい。
ニセモノの度合いがゆるすぎる。

グル・マハラジという青二才―
ニセモノ・イカサマシ。
ただの人。

君は君なんだ。
それ以外にない。
犬は犬なんだそれ以外にない

石ころは高らかに笑う

私は考えられないくらい幸福だから 考えられるほど不幸だ

たしかに観念といえば観念だ でもどうでもいいではないか 無限は無限なのだから・・・

だが これは とこしえにそれ以上だ!

石ころは、すでに、石ころではない これは体験したほうがいいだろう

その刹那 石ころは高らかに笑う

—–

知らぬが花なのよ、少なくともブタたちにとっては。
言い古された言葉だが、民主主義も共産主義も、愚衆政治にほかならない。
不幸は、ブタをブタ小屋から出したところから始まる。
現在の人間進化のステップでは 99パーセントは、ロボット、もしくはブタである。
現文明の崩壊は、とっくの昔に始まっている。
そして、それは逃げるすべのない宇宙テストでは、あるのだが・・・

ところでブタが本当にブタであり、ロボットが本当にロボットなら
それはそれで素敵だ。

賢者といい聖者といい超人というも
結局、本物のブタでありロボットであることに違いない。
老子よ、あなたはなんという俗物なのか!他のありとあらゆるものと同じように。

産まれて、生きて死ぬというのに、君はこの上何を問題だというのかね?

人は、その夢の途上で倒れる。ただ夢も時間もない、あらゆる絶対体験・――
パーフェクト・チェンジング・モメント
あらゆるかたちでの、
エクスタシーのサムシングのサムシング。

ある歌い手は自由を 私なりに追求してきたんだと歌う。
だが、自由ってなんだい?それは ある種の力のことかい?

インドのプリーで若いガンジャ・ババの卵である。スイス人の青年が言った。
「この世界はドリームでしょ・・・?」
私はなぜか知らぬがこう答えた。「これは夢であり、真実だ」と、
ヂャニス・ジョプリンはアルコールとドラッグで若死した・・・

—–

酔いを味わうだけらしい・・・

高いも低いもどうということはない
優秀と劣等とを誰が一体決めるというのだ それでも月は月を生きて死ぬ
スッポンはスッポンを生きる
こうあるらしいことが こうあるらしいのだ それにしてもこの一瞬よ! ああ、この一刹那よ!
説明できない力が、生命を駆り立て続けている。
私はすべてらしきものとして 酔いを味わうだけらしい・・・

帰っておいで

自分が存在しているという世界の存在は 結局あらゆるものに 悪意をもっている
新宿駅で飛び込み自殺があった 係員がレールのあちこちに散った 肉体のかけらをひろっていた
人間は無限のかけらにすぎない・・・
これが最もごうまんなる人間の 至高のセンチメンタル・エゴイズムだ
人間は無限なるものの一部にすぎない・・・ かけらと一部とは似たようなものだが
貝とコカコーラ程の違いがある たいした違いじゃないけれどね・・・
人間は無限なるものの一部に過ぎない・・・
これが 人間性の究極の深遠である
これが人間の魂の基調音である これが人間にしての最初にして最後の美
あるいは人間性そのものという何ものか
君は果てしなきものの一部にすぎぬ
だから 果てしなきものに帰るがいい!
もっとも、その頃には、君という人間性の夢も 夢の中へ跡形もなく消え去っている

とにかく どういうわけか、超えていくのさ 超えていくんだ
石を超え 山を越え 彼女を越え いとしい娘子を越え スモッグを越え 文明を越え
ニルヴァーナを越え 越えることを越え・・・

そして 帰っておいで  今 ここに

—–

バイクの ケタタマシイ戯れ
ああ ヘドロがあるヘドロがある ああ 花がある花がある
完全なるニルヴァーナがいる 完全なるマーヤが今っている
どっちがいいといったものでもない
メイッテ、メイッテ、メイル
ステキで、ステキで、ステキだ
秋の虫が鳴いている
老子はおさな子のように泣いている
なにもかもがいいという言う必要もないだろう

距離

距離などというものはない 遠い遠い昔も未来も『これ』にしかない。

すべての二元対立を悪戦苦闘して 私の最後の疑問に到る。
私は何か? すべてをすべてと認識しているわたしとは何か?
誰が私などというものを現しているのか?
こう現われている このわたしとは何か? こう書いている私は何か?
私を忘れている時の私とは何か?
そもそも すべてとは何なのか?それさえ まだるっこしい。
これは何だ?これ何者ぞ?  これは何だ??

ああ、人間の果てまで来てしまった――というこれは何だ?
そんなことどうでもいいという――これは何だ?
これは―――何だという――
これは何だ?

断じて知的疑問ではない

—–

不安

いい経験をすればするほど不安はつのる。

が、不安に対処する手段はない。

至福は起こる。それは、おのずから生ずる。

完っき至福――
それは人間が求めてやまないものだ。

だが、『これ』は至福以上だ。 ぜんぜん比較になりはしない。

そうなのだ

そうだ、あらゆる経験を 限りなき経験を 地獄を至福の極楽を経験して経験して体験したいのだ!

私の中に
あると思われる様々な観念―
一体その正体は そりゃ何じゃ?
苦を不安を退屈を倦怠を わけのわからなさを どうしようもなさを 誰がうえつけたというのか

だが、素敵な状態は やぱり繰り返したいし、永遠に続きたい!

すべてのすべてが
神だと私自身だと、至福や自由だと、言える『時』よ!

時を求めれば、時を遠ざからしむ。
時を忘るれば、ただちにその時だ。

—–

大志をもて。
かつて男にも大志があった。

地位・名声・権力―
それらは、一種のオルガズムであり得た。
あるいは、知的探求・芸術的創作―
少なくとも幾ばくかの陶酔を与えてくれた。

男の性的快楽なぞ淡いものだ。
だから男はいつの日か英雄になることを夢見た。
だが、自意識の頂点では、英雄の夢は破れる―それは生物学的必然なのだ。

破れた夢は、一つの暴力と化す戦争はすぐまじかにある。

人間を大自然に憩わしめるのは、オルガムズ以外にない。

悟りは究極的なオルガムズなのだ。

今や文明は終わった。究極的オルガムズに帰るに最適の時だ。

女はと言うと、女は女でなくなった。

現代女性は自意識的に快楽を求めつつある。
だが、自意識のあるところに全身全霊的オルガムズのあったためしはない。

独立した女は、もう奴隷になることができない。奴隷になれなければ、本当の性的悦楽などありっこない。

性的欲求不満の女達は、自分の産んだ子供を愛することはできない。

おお、宇宙よ!女には性的オルガムズを、男には宇宙的オルガムズを与えたまえ!

—–

悟りという体験の思い出―――何という足かせだろうか!

恐怖があることを恐怖するから、あんたは、あたりまえの恐怖を生きられなくなっちまったんだ。

「どうでもいい!」と君は本当に叫べるか?

悟りは悟りとは何の関係もない。犬が鳴いている!ワン・ワン・ワン・・・

人間という奴はつねに小便一部を残している。

それでいいんだ。すべてがすべてになるのは、すべてだけだ。

ああ、あなたはそれほどまでに不安という観念を愛しているのですね。

無駄口ばかりたたいている。

そうなっていくそれでいいというのに。

久遠の戯れは続く。何のためでもなく。

—–

まず第一に俺達人間が、なにか一つでも上手い手があるかどうか考えてみよう。
ほんの一つでもいい。なにか上手い手があるだろうか?
俺達の世代って言うのはみんなマスコミにのせられた世代だ。
そしてこの西洋文明って言うのはほとんど、マスコミがなければ何もなりたたない。
いつも、色々な価値を一生懸命、音楽もそう、それからテレビでもそうだ。映画でも、雑誌でも、色んな素敵なことって書いてある。
例えばグアム島に行ったら最高だ。が、行ってる本人はちっとも最高だなんて思っちゃいない。
何しろグアム島に幾度も行っていて、もうどっちらけだからね。だけど、そう言ったわけは商売が成り立たない。
或いは人は言う、神秘体験を得ればとても素敵だ。
或いは人は言う、内的なエネルギーに満ちてたらとても素敵だ。
或いは人は言う、セックスの恍惚境に入ればとても素敵だ。
何か上手い手があると思ってる。
例えば、色んなロックスターがものすごく調子にのってやってる。
が、スターっていうのがね、本当にスーパースターになればなるほど、哀れだってこと、気がついてもいいころだ。
何一つ掴まえることはできない、何一つ確かに自分のものとしておく事は出来ない。ただ、一時的な快感はある。
だけど、二年か、三年経ったら、全然そんなものが自分の不安とか欲求不満とかを全然解決してないことが分かる。全然。
一体、人は何を求めてる。何を。何を本当に求めてるんだ。色んなものに情熱にかける。
そして、人はあれがいいという。マスコミはあれがいいという。一生懸命追いかける。
が、行き着いた人間もそれらしく、うん、俺はもう最高の音楽家だ、最高だっていう顔をしなくちゃならない。
ちょっと昔なら英雄だ。そんな英雄に限って一人ぼっちになるとね、電気を消さないでくれ。一人ぼっちにしないでくれ。
人間がある一つの線、本当に厳しくて、本当に神になる、その一線を越えない限りね、
人はどんなに外見をつくろてもその内側ではさ、本当に三歳の幼子と同じだ。それくらい頼りない。考えて欲しい。

—–

S、定力を、エネルギーに満ちた状態、何かエネルギーに満ちて自由で、奔放で、それにとても憧れてる。
全然、頭でもって滞ることがない、どしどし行ける。人と直面しても楽々とこなす事が出来る。うん、帝王だ。
が、それがSの苦しみの原因だってこと、もういい加減気がついてもいい頃だよ。
人は、そう、俺達はどうして一人っきりになるのをね、そんなに怖がってる?
一人っきりになると空虚であることがいよいよハッキリしてくる。
そして、それでいて外に色んな人と付き合うとか色んなことをやってみる。その時はいい、上手くいけば。
だけど、今度は人さえ怖れる。同じ原理だ。だって君達はともかく俺は空虚じゃないって事をあくまでも頑張らなくちゃいけない。
ただ、一つも例外はない、ただ一つも例外はない。この世に例外なんて、ただ一つもありはしない。
だからこそ愛があるんだ。
自分だけ違う。自分だけ力に満ちてる。自分だけ完璧だ。そんなことはない。そんなバカなことはない。
そして一生懸命ぬけがけすることを頑張ってる。だからいよいよ人を怖がる。
なにしろぬけがけしたような様子をみせてもさ、自分の内面じゃ、ちっとも本当は優越してないことを知っているから。

君たちはね、たった一回きり今を生きてる。ああ、とても軽い言葉だ。
何故かっていうとねあまりにも単純すぎるからピンとこない、これは見れども見ず、これを聞けども聞かず、
あまりにも単純すぎるんだ。君達は死ぬ。たった一回きり今生きてる。
そして、もちろん転生するってことはあるよ。が、転生したそのものっていうのはもう君達ではない。
今日の君たちと、明日の君たちとは全然違うと思う。

「意識では同じような気持ちだけども?」

うん。

—–

さあ、諸君冥想に入ってください。
澄み渡った一生懸命さとリラックス。誤解しないでほしい澄み渡った一生懸命さとリラックスは別のものじゃない。
それを分けるからリラックスが台無しになってしまう。
そう、冥想には二つの方向がある。
一つは、完全に自分が消えて初めて生きはじめるという、そういう冥想だ。いや、もう既に完璧に生きていたことに気付く冥想だ。
それは、もう冥想とも言えない。そして、もう一つある。
それは、何らかの形で自我が安定する場所を発見する事だ。
一人の本当に愛する恋人に出会う、そのために死んでもいいと思う。それが一生の愛だ。
いや、永遠に続くとしたらそれは一つの答えだ。一つの愛だ。
音楽家が音楽に自分の全てをかける、それは決して宇宙とか悟りとかっていうものではない。
だけど、それに出会ったとき、その人は本当に楽々と自分の人生を楽しむ事ができる。もちろん、苦しみも悩みもある。
が、その苦しみや悩みはすべて肯定的なものだ。何故なら、人間は何かに自分をかけたいと思ってる。それ位、嫌気がさしてるんだ。
人間の本質ってのはね、自我の人間の本質ってのはね、
もし、憎しみという言葉を使うとすれば、憎しむ、その対象は自分自身にある、自分を一番嫌ってる。
じゃ、その辺の酒屋さんとか何とかっていうのは本当に生きてるじゃないかって言うかもしれない。
それはね、一つのバランスに達したんだ。それは自我が消えたんじゃない。完全に自由じゃない。
それは片隅の幸福だ。でも、それはとてもバランスがとれてる。文句ない。
目を閉じてS、比較するんじゃない、自分と何かと比較してはいけない、Sは一回きりのSだ。
永遠に永遠に永遠に永遠に、Sが生きた、その生きたっていうものは二度とかえらない。
宇宙が始まり宇宙が終わる。地球が始まり地球が終わる。永遠が始まり永遠が終わる。
だが、今のSは二度と二度と二度と戻ってきはしない。同じSは絶対にありえない。たった一回きりのSだ。

—–

そして、それは全ての人々に言える。いや、全ての命に言える。全ての。
そんなことが頭で分かったてなんの意味も無い。が、今、君達のハートに俺の声が流れている。
そうすると、そこから新たな希望が、新たなエネルギーが育ち始める。かすかに、かすかに、かすかに育ち始める。
もう一度言おう。永遠に永遠に永遠に永遠に、今あるあなた達をくり返す道はない。無限の時間が経ったとしても、
君達がもう一度出てくることなんてないんだよ。たった一回きりなんだ。たった一回きりなんだ。
だからこそ、勇気がでてくる。だからこそ愛がでてくる。
そして、誤解しないでもらいたい、社会的に上手くやったり、社会的に繁栄したり、
社会的に確固とした地位を得た人っていうのが何か上手くいったなどと思わないこと。
そんなもの、錯覚に過ぎない。人間は自分の自我の全体というものを直面したとき初めて生きはじめる。
それ以外は、どんなに上っ面を整えたとしてもね、それはいつも自分が嘘ついてるんじゃないか、
いつも本当に生きてるんじゃないんじゃないか、思い続けているだけだ。ただ、それを深いところに抑圧している。
もし、君達が何か素敵なもの、何か上手い手があると思ったら、その方向に向かって全努力をするがいいだろう。
そして、その喜びと苦しみを悉く味わうべきだ。そしたら、わかるだろう。人間である限り何一つ例外がないことを。
君達、あまりにもマスコミが作り出した、外部が作り出した価値観を信奉し過ぎたために、自分達をとても弱く見すぎる。
本当は誰でも同じ問題にいるんだ、誰でも同じところにいるんだ。ただ、違いがあるとしたら一つだけ。
それは、自我が自分が何とか上手くやろうとする立場が迷い、そう本当は迷いでさえないのだが、迷いだと気付くこと。
その時、初めて君達は、初めて生きはじめる。そして、それが冥想なんだ。
永遠に永遠に永遠に永遠に、二度と今いる君達っていうのはくり返すわけにはいかないんだよ。
永遠に永遠に永遠に、いい? 無限の彼方まで、無限の時間がたったとしても同じ君たちっていうのは二度と現れないんだよ。
同じあなたは現れない。たった一回きりのあなただ。

—–

命がけである、命がけで生きろ。それを何か人々はとても堅苦しいことのように思う。そんなバカなことはない。
命がけで生きるっていったら、これくらいシンプルで、これくらいあたりまえで、これくらいほがらかな、考え方はない。
だって、死ぬんだもん、君達。もし、死んだらもう二度と君達がくり返すことはないんだぞ。
君達は二度と今をくり返すわけにはいかない。だから、すべてをかけるんだ。だから、すべてを投げ出すんだ。
晴れた日と暴風雨と同じ空の違った表情に過ぎない。荒れた海と静かな海と同じ海の違った表情にすぎない。
まことにまことに汝らに告げる、汝らを生みしものなる神にその愛のすべてをささげよ、次にすべての隣人達にその愛を捧げよ。
君達はよく思う。神に愛を捧げたら他のものが台無しになるんじゃないか?そして他のもの全部、台無しにしてる。
神ってなに?すべてだ。君達がすべてに愛を捧げたら君達の当たり前な人生が台無しになるといつも怯えてる。
君たちを産んだものがまず第一にある。君達の心臓を動かし、君達の頭に様々な妄想を感じさせ、君達の感覚を働かせている、
そのものがまず第一にある。それはいいといっても悪いといっても始まらない。在るんだ。
そして、もしその愛がすべてになれば他のことはすべて整っていく。夫婦関係だろうと、セックスだろうと、
必要なだけの金だろうと、必要なだけの地位だろうと、必要なだけの安心だろうと。
ところが君達はまず最初に、外側のごちゃごちゃしたものを掴もうとする。
そんなことしたら、永遠の時間があったとしたって、そこに行き着くことなんか決してないよ。
さあ、起こっているすべてを感じ取るんだ。あらゆる音を、あらゆる思いを、あらゆる感覚を、あらゆる楽しみを、あらゆる恐ろしさを、
ほら、子供たちがなんか騒いでる。ほら、俺がタバコの煙を吐いた音が聞こえる、君たちに。

—–

従って、今、あたりまえな人間っていうのは数えるほどもいない。彼らはいつでも鎧を着て何とかしようとしている。
まだ、生まれちゃいないんだ。が、君達は君達の悩みゆえに生まれるチャンスを持っている。
それが、俺と君たちとの一万二千年前の約束だったね。
あらゆる身体の感じ、あらゆる思考、あらゆる思い、俺の声。肉体の感覚。注意を集中しようとするができないという考え方、
ううん、どうでもいい。さあ、なりきれ、今になりきれ、俺に帰ってこい、此処に帰ってこい。

ちょっと前にとても流行った。そして、それは結論っていうのは不条理とか徒労だとかいう。
すべて人間のやることは徒労だっていうんだ。空しい努力だっていう。が、それは人間にとって本当に真実だ。
もし、嘘だと思ったら自分が情熱をちょっとでもかけられるものに向かって全力を投球したらいい。
そして、それが上手く実現したときにはっきり分かるだろう。人間の努力はすべて徒労である。
徒労でないものはただ一つだ。

空を飛ぶ鳥を見よ、鳴かずからず。それにも関わらず神は鳥を養っているではないか。

社会とか自分の使命とかっていうのは自我を安定させるための盾にすぎない。
地位、名声、金、それから低級な意味での愛情。それらみんな自我を安定させるための盾だ。
だから、それに行き着いたとしても心の底から、うん、と言えない。言えわしない。
自我があると思って、自我が頑張ってる限り、そんな事は本当に本当に心の底から絶対なる満足を得ることなんか決してない。
が、人は思う。あれが、何とかいったら満足があるんじゃないか、あれが何とかいったら安らぎがあるんじゃないか、
そうじゃない。安らぎは君達が捧げたところにある。全てに向かって、命に向かって、君達の命の全てを捧げたところにある。

さあ、優しくオームを唱えよう。出るがままに、震えるがままに、怖れるがままに、求めるがままに、勇気あるままに、
意志のままに、優しさのままに、愛しさのままに。身体が揺れるがままに。
今、君達は真実に出会っているんだ。今、君は愛にいるんだ。

テープ資料より 一部抜粋

—–

おれは神

あらゆる人間達が片時も忘れず おれを求め続け そして生きている
おれの眼の前の灰皿を おれは あらゆる政治や文化や思想よりも
何兆倍も魂をこめて 産み出した おれの指の動きの一つ一つが
銀河系宇宙や その他のあらゆる宇宙を 粉微塵にしては又こねあげる
でもそんなことより おれはあの小学生の女の子の自殺を
もっともっと愛してる 百姓のおおらかな生活に憧れた青年が
幾年もの作物づくりに疲れ果て 希望も生気も失った中に
おれは限りない希望と生気となって実在する おれは神だから
何ものにも頼ることがないなどと 変な意地をはって
パン屋からヌードスタジオへと 勤め変えしながら おれを愛し続けてくれた女房を
だいになしにして自殺させてしまった そしておれは神だから
女房がどんなに神だったかを 死なれたあとに気がついて おろおろとするばかりだ
おれの胸には大きな風穴があいて その風穴から
無限宇宙をいつでも眺めることができるのに 神なるおれは神が嫌いで
胸の風穴を 酒と薬で埋めようとする おれは神 いまだかつて一度たりとも
面と向かって正々堂々と 人間の顔を見たことがなく すずめの鳴き声を聞いたことがなく
太陽も月も星も見たことがなく アイスクリームを本当に食べたこともない
おれは神だから 冷汗をかきながらすべての人々と話し合い おれは神だから
終わりのない愛ですべての人々を包む おれは神だから

—–

あるいは高笑いあるいは泣きくずれ 道のどまんなかで ヘドとクソをたれ流す
おれは神 欲望にかられて女のすべてを欲しがるもの
神を求めて求めてやまないもの ヒマラヤの洞くつなんぞ 一軒のマージャン屋にも
価しないにもかかわらず 坐禅瞑想のあらゆる終りを 洞くつの中で楽しみ続けるもの
おれは神 おれの女房が中絶した胎児を 神なる看護婦が
アルコールづけにしたビンを持ってきた時 あほうづらをして眺めることしかできぬもの
冷たい雪山の中でストーブのぬくもりを求め 砂漠の只中ではションベンをさえ飲むもの
おれは神だから 求道生活を馬鹿にしてあざけり笑い おれは神だから
湖に映った月の影のように なによりも求道生活に精進する 聖者という俗人が
迷いと悟りを分けたばかりに 悟り好きの求道者は 悟りに至る様々な道を
もの狂おしくたどり続ける そのあげくにおれが神であるばかりに
悟りという迷いを開いて喜ぶ おれは売春婦という神だから あの十七才の少女のように
一日として男がいなくちゃいられない 一切万物の幸福好きもこまったものだ
これもあれもみんな神なるおれの責任だ おれは神

—–

一ぱいのお茶をやさしく友人に出す 釈迦やクリシュナや老子などという ニセ者が出たばかりに
 世も末だ おまえは神だからおまえを生きろ おれは神だからおれを生きる
 ヒマを持て余したおれは やれ文明の没落だの やれ宗教だ哲学だなぞと言い張り
 ヒマを持て余したおれは 神だ神だと言い張る ヒマを持て余したおれは
 のどかな田舎風景や 輝く陽光と銀色の海を愛し よせばいいのにあそこのキャバレーで
 女の子を口説きだす そして神なるおれは ヒマを持て余しているから
 よせばいいのに神そのものであり続ける
 おまえにはおまえの惚れているものがあり おれにはおれの惚れているものがある
 おれは人間として必死に 今死にゆく癌患者の手を握り
 処世の達人なぞ遠い妄想にすぎない 今までにおまえは 一瞬でも本気になったことがあるか
 ありはしまい なにしろおまえは神なんだから
 おれはいつも正真正銘の本気だ なぜならおれは神なんだから
 おれは四六時中ウソばかりついてる 神だからだ おまえは四六時中真実でいる
 おまえが神だからだ おれは神 おれの孤独を何とかしてくれと 叫び続けるもの
 おれは神 さびしさなんぞどこ吹く風 絶対なる幸福なんぞにひっかかるなよ
 おれ達は神なんだから 絶対なるこの幸福を戯れよう おれ達は神なんだから
 おれは神 蜜よりも甘い甘えで甘えるもの おれは神 一抹の甘えも弱さも持たぬもの
 おれは神 弱くて軟弱なめめしい生きもの

—–

愛は愛を楽しんで

私は愛したから この世に産まれてきた 愛がすべての形を創り
年老いた老人であろうと 失恋自殺の少女であろうと
帰減する直前の 一微塵の生命の中にも 一つの形があり その形には限りがない
愛がすべての多様世界を編み 諸行無常・諸法無我の説法も
決して真理などとなったためしはなく 釈迦の編み出した一つの世界にすぎず
この世を忘越した 胡蝶荘周も そのようなこの世への愛を生きた
生きているものには 生命のみが与えられ
死は生命のみが編み出すことのできる 一つのドラマ以外のものではない
あなたはあなたの生命をくまなく愛し切り
私は私の生命を すでに愛している以外にない
一切生類の宿業と無明とは 一切生類自身の愛に他ならず
不治の業病に苦しみ 自らの命を断った青年は
自己の生誕を呪ったヨブに等しく それぞれの愛を演じている
つきることなく 宇宙の終りにもつきることなく 愛は愛を楽しみ続け
愛によって仮現する一切万物の嘆きは しかし決して愛にとどくことはない

私は愛しているから 今生きている
私がどうなろうと あなたがどうなろうと
愛は愛を楽しんで つきることがないのだ

—–

「修行するのはやっぱり目的がなくちゃ出来ないでしょう…。」
『うん、目的があって当然だし、目的なしでは人間の人生ってありえない』
「だから一般に仏教では、その目的はニルヴァーナにおくわけでしょう?それで修行するわけでしょう?」
『うん。ところが目的っていうのにはね、特に宗教的な例えば、悟りっていうものはね、もの凄くドンデン返し的なものなんだ。
例えば、小乗仏教で良く言うんだけど、何回か生まれ変わって、こう、どっかに到達点がこうあると思う。
それを延々とこう行くとやがてここへ行き着くだろうと思うんだ。
ところがそんなものじゃなくて、絶対に行き着けないって自分がもうこうなった時、その瞬間にそれが起こるだけであって。
それは、ここまで行き着く、こういう段階辿ってこう行き着くって言うのはさ、方便に過ぎないんだ。
それによって生き甲斐を与える、つまり方向性を与える方便に過ぎない。
問題なのは、今で、今で、今、君自身がさ、本当に悟りを開きたいと心の底から思った、本当に解放されたい、
本当に成仏したいっていう情熱がさ、もうどうしようもない位君の中に湧き起こったらさ、即座に君は成仏する。
ところが人は余計な事に悩みすぎるんだ。例えばさ、情熱っていうのが必要ないにもかかわらずさ、
自分はまだ究極の点にないんだからさ、何か足りないんだ、足りないんだと思い続ける。
あのね、未来にむかって修行するっていう形でもってもし、今この場でだよ、一番良い形っていうのは永遠に悟りには行き着かない。
だけど、俺は修行するって形が素敵だね』

—–

「十七歳で悟ってさ、どうして妄想なんか出て来たの?」
『座禅してる時?』
「うん」
『風邪引いて熱出ないか?(笑)』
「この間の原稿というか、遍歴のことが書いてあったじゃあない。あれは、その後?」
『うん、その後』
「悟った後、そういうふうになり得るわけ?」
『なり得るんではなくて、悟りそのものが問題じゃあないんだ。悟りっていうのは一発決まっちゃえばもうそれまでなんだ。
後は自分がどれだけ心ある道を生きるか。つまり、どれだけ自分の人間としての思いっていうのを生きて行くか、それだけなんだ。
だから例えば釈迦が衆生済度っていうのをやるのをさ、何か特別なことのようによく仏教信奉者は思う。でも特別なものじゃあない。
釈迦はその時何でも選べたんだ。衆生済度っていうのは釈迦の人間としての、やらなくちゃあならなかったことだったのさ』
「悟った後にね、ああいう混乱が起きるっていうのが、何かよく分かんないけど」
『じゃあ、君はさ、もし、悟ったっていうことによって混乱が起きなかったらさ、そしたら君は一体何する?
きっと一日中座ってるかさ、山奥入ってあれするよ』
『それだからこそ人間はさ、それを超えて生きようとするんだ。
いい?ドンファンの言葉で言えばさ、つまり世界を止めたからって人間そのものは決してかわるものじゃあない。
そして人間はやっぱりイクストランへ向かって歩み続ける。ただ、違う所はね、どこか言ったら、そりゃあたった一つだけだよ。
つまりある日、それしかないと思ってるか、その現れがさ、無限の中の一つの物語であるっていうことを知ってるか』

『もしね、たった一つだけこの世とあの世と全部ひっくるめた中で、意味があることがあるとしたら、
本当に自分の一番深い流れを生きる、ただ、それだけだ。
本当にどんなこと、何も座禅冥想しない人だって構わない。本当に自分の流れっていうのを生きるっていうのを、
なんらかのきっかけで掴んだひとだったらね、どんな人が出て来たって全く同じにしか見えないよ。
釈迦が出てこようと、総理大臣が出てこようと。うん』

—–

俺は大学に行っているとき、禅学の先生と、何かの先生がいて、それが飲んだくれでこまるというんで、行った時にさ、あ、坊さんだ。
坊さんと、もうひとり面白いやつがいて、坊さんの方は、彼のところに行くのにさ、
改まって仏心がなければいかんとかなんとかやったらしいんだけど(笑)、そのあと、面白い男の方は何やったかというと、
要するに、一升びんぶらさげて、二人して飲んだくれて終わりなんだけど、それでちゃんと響くところがあるんだ。
だって、つまんないと思わない?そんな杓子定規でいったとしたら。
大切なことは、自分が確かに忠実に、自分の中に感じとってることなんだ。
そこからどういう行為が現れるかというのは、全部その人の個性なんだ。もちろん、そこから出た行為がだったら、
坊さんのように説法したりしてもいいんだ。
だから、若い世代というのは、すぐに片一方を取りやすい傾向があるわけ。
例えば、説法するのはぶざまだと思うとか、そんなことじゃないんだ。肝心なことは、その奥にあるその人の姿。
あとはどういうふうな料理をしようともいい。大切なのは、新鮮な野菜と、新鮮な魚があることなんだ。

—–

それがどんなものであれ、本当に素直に出てきた願望。ここを間違えるといけない。
もう、そういう間違いをする人はものすごく少なくなったんだけど、願望とか願いとか、悪く言えば欲望だよ。
釈迦が衆生を全て救いたいと言うのだって欲望だろ。救いたいんだもの。
俺が皆とさ、自由を愛を分かち合いたいというのだって欲望だろ。だって、分かち合いたいんだもの。
だから願望というものを決して恐れちゃあならない。
それが、本当に素直なものであるならば。
(中略)
いい?時々人は間違いやすいんだ。自分が求めているものを何かと聞かれたらさ、例えば俺は金がほしいと言うんだ。
俺は権力がほしいという人もいる。地位や名声がほしいと言う人もいる。でも、その時、もう一度考えてほしい。
それはさ、何かの代用品じゃないかって。金があって何したいんだ?うん、飲み歩きたい。
それから、何でもいいや。きれいな家に住んで悠々と生活したい。そこにあるものはいったい何なの?
やっぱりふれ合いたいと思ってるんじゃないの?だから、本当にある願望は何かという事に気がつかなくちゃならない。
時々人間は絶対に無理だとか知るとさ、かえってそれの代用品の方を自分の本当の願いだと思いやすいんだ。
でも代用品を求める程、人間というのはちんけな存在ではありません。本当に素直にね、自分の本心から求めていい。
(中略)

—–

で、大切なことは、願望というものを出す時にはさ、全部を帳消しにしなくちゃいけない。今から、出発しなくちゃ。
今の中から、一番いいものだけを取るという形しかない。それは過去を無視するという意味ではないよ。
懐かしい過去とかそういうものを全部生きている今だよ。
で、そのときに願望が生まれる。そうするとそれが本当に自分に忠実であった場合は、それを実現するパワーというのは、あるんだよ。
求めよ、さらば与えられん。君達が本当に素直に、率直に、忠実に求めた時、水晶のような魂で求めた時、
その時、それを実現するパワーがもう備わっているんだ。
でも、その芽はちょっとまだ柔らかい。ちょっとまだ柔らかい。
もちろん願望が出てきてそれを実現するためには、君達の行為が必要だから。
これを願望が出てきたらすぐに実現するといっちまったらさ、まるでこれは精神病院行きだよ(笑)。
でも、精神病院行きになったらさ、せっかくのこの世の物語がなくなっちゃうじゃないか。
(中略)
それで、その芽はまだ柔らかいんだ。その芽を育ててゆくのは君達自身なんだ。
ここでもう一つ言っておくんだけど、それは時間と共に成長するということなんだ。本当言うと時間はないんだな。
それで、この次に『時間性のトリックに迷わされることなかれ』
つまり、時間性というのは、必ずある願望、例えば、悟りたいと願望が起こったとするでしょ。悟るというのに時間がかかるわけ。
それは時間というものが必要だという人間の自我の観念があるから。マインドの観念。
(中略)

—–

時間がないということうを知るために。元々、君達に必要なものは全て備わっているということを納得するために、時間が必要なんだ。
もっと極端に言えば、時間がないという事を知るために時間が必要なんだよ(笑)。それが人間の姿。
つまり、永遠でない時間の持続がこの世にあるわけだよ。全然、永遠でないわけ。
全てのもの、いいなあと思ったものも消えてしまう。だけど、本当にいいものは、いつでもあるというのを知るために、持続があるわけ。いい?
だから、キリストの言葉ではこうなってるわけだ。
『汝らもし求めるなら、それが既に与えられたと信ぜよ』
これは時間性のトリックを否定した言葉。そうするとどういうことが起こるかというとさ、すでに与えられているわけだ。
もし君達が絶対の悟りを開きたいと思うだろ。もし本心から、本心からだけど、
無相三昧、つまり究極のニルヴァーナに本心から行きたいと願っている人がいるかどうか怪しむんだけど。
本心から思ってるのはあんまりいない。むしろパン屋になりたいとかね、お百姓さんになりたいとか、
そういうふうにいろいろな姿があるわけ人間に。
その究極の悟りが願望の中で起こったとするよ。そうすると、君にはもう、究極の悟りを実現するパワーがあるんだ。
ところが、まだその芽は柔らかいときた。でもその時どういうふうにやるかというと、既に究極の悟りを得ているんだ。
ただ、そこで知的な宗教と情的な宗教の誤解があって、愛の方がいいな。絶対な愛というのを既に得ているんだと。
そうするとどうなる?その感じを本当に信ぜよと言ってるわけ。
イエスというあの達者な男が。その限りでは信ぜよ。そうしたら安心するよ。
安心したら全然行為が変わってくる人がいる。安心から出た行為というのと。求める行為というのは、全然違うからね。
つまり、求めて、いろいろ求める行為の中にはさ、実現できないんじゃないかという疑いが常につきまとうわけ。
じゃなくて、安心しろよ。安心しなさい。なぜ安心するの? そんなこと聞かれても困るよ(笑)。
安心しなさい。いいんだよ、安心して(笑)

—–

『いつでも君は白い紙を持っている。
それはほとんどの場合、計算のための用紙としてしようされる。
しかし、君が望むならそこに現実を書き込むことが可能だ。意味のないこと。嘘。
何でも書き込むことができる。そして、もちろん、破り捨てるのも自由だ』

じゃあ、俺は自由なんだと言って、いろんなことやってる人間の姿をよく見てみな。
その中にどうしようもないいらいらがあることがよくわかるから。それは自分が自由じゃないと本当は思ってるんだ。
だから、あえていろんなことをやってさ、自由であろうとするんだ。
本当に自由な人間だったら、そんなごちゃごちゃしたことをやりはしない。本当に自然に流れていくよ。
そして、どんな意味のないことでもいい。どんなことでも書き込んでいい。
もし、本当にね、君達が望むなら。美しいことを。

それから書きたくなかったら破り捨てるのも自由だよ。そして、リチャード・バックの場合には、
破り捨てるのをほぼ死と解釈しているんだけどね、そうじゃないんだ。
破り捨てるというのはどういうことかと言うと、俺はもう、物語はいやになった、やめようということさ。
物語を嫌になった人間は何になるかというと、物語のない世界に入る人もいるだろうな。
そうすると、大抵精神病院へ行くな。でももう物語がなくなった時、無相三昧という、まるで人間の物語を無視したもの。
それはもちろん君達の好き好きだ。
見て見ろよ。ある人間がこの世の一切に愛想を尽かした時、どんな非人間的になるか。
それは破り捨てようとする努力なんだ。でもそれさえかうよ。本当言うとね、破り捨てようとする努力、悟りとね、
人間が例えば、幸福な家庭を作りたいと素直に思うこととか、本当に自分にふさわしい仕事をやっていきたいと思うこととか、
全然違う次元のことじゃない。それに要する労力も全然差はない。趣味の問題。軽く思わないでほしい。死ぬなんて。
つまりそれは君達がほんとうに君達自身に忠実であること。これくらい単純に聞えて、難しいことはないかもしれない。
とにかく大切なことは元々白紙なんだということを知ることなんだ。
(以下略)

雨宮第慈講和録 十三番目の冥想 より 一部抜粋――

—–

Man live freely only by your readiness to die.

Death is an illusion only those who have the illusory ego imagine.
For it is a disappearance of the imagined self which the ego identifies.

—–

例えばある人を好きになったとする。
その人と本当に幸福な生活を築きたいと思うかもしれない。
だがそれは自分にとって確かなものなんだ。それは基本的には権力欲と全然変わらない。
つまり自分というものを拡大して確かなものにしたいと思っているんだ。
だけど本当に確かなものというのを煎じ詰めるとね、自分の都合によって確かなものが起こるかというと怪しい。
例えばどんなに確かなものにしようと頑張ったって君達は死んでしまうんだ。
今日とてもいい気持ちになったって明日は変わるかもしれない。
今日とても素直な気持ちになったとしても明日はやる気がなくなってしまうかもしれない。
今日はとても生き生きとしていても明日は意気消沈してしまうかもしれない。
いつもそういう起伏の中にいるんだ。
そしてそれが本当にわかると、自分を拡大するとか人から認められるとか、自分と彼との間をがんじがらめにして確かなものにしておきたいとか、そういうものとかが別にそれほど重要なものではないということがわかるんだ。
そうすると何がそこに出てくるかというとね、それを全部見つめる目なんだ。

—–

全部自分が空になってしまうんだよ。つまり自我が自我自体で持ってさ、もう解消してしまう。
「自壊しちゃう」
うん自壊、自消自滅しちゃうんだ。だから今言ったように二つの方向がある。
最初からあるもの、光を求めてね行く方向が自我の方向なんだ。
それに対して闇をね、もう闇が闇っていう意味をなさないくらいまで闇と付き合えるっていう方向がもう一つある。
例えばクリシュナムルティなんかのね、生きかたっていうのはまさに闇から出発するの。
この醜悪なこの世よって、どうやって逃げ道があるか、逃げ道があると思うのか、どこにも逃げ道は無い。
じゃあ、どうしたらいいのか、どうしようもない。どうしようもなかったら君はどうするか。
こっからだ飛び立つのは。
どうしようもなかったら君はどうするか。どうしようもなかった時、君は完全な沈黙を守るんだ。
出た。完全な沈黙。こんなものは人間の力で出来っこないんだ。完全な沈黙ってのはね 無垢欲にとらえてくれるんだ人間を。

—–

(中略)
つまり知性の結論は虚無なんだからね。欲望で動かされる知性の結論は虚無しかないんだから。
どんな哲学者だろうとね純粋に知性だけを働かせてね。何かを理解しようとしたら結論は虚無にならざるを得ないんだから。
「ある、ないの知性でしょ」
うん、必ず虚無なんだから。欲望によって動く知性は、そして人間の知性ってのは欲望によって動いているから結論は虚無なんだよ。
(中略)
知性の道ってのはね最も険しい道であってね、一番入るに難し。

—–

うんとね、それからもう一つね霊学とかあるいは特に心霊主義の場合にはね、ものすごい落とし穴が一つあるんだ。
それはね、それが面白いって事なんだ。やりだすと。
そしてね、例えばよくインドで語られてヴィヴェーカナンダなんかがさものすごく愛していた話にさこういうのがあるんだ。
つまりインドでは客人ってのを神の使いとしてみるんだけどね。
その時、すずめがいるんだけど、そのすずめが巣を作っているわけ木の上に。
そしてそこの木の下にある旅人がものすごく腹をすかせて飢え死にしそうの如く寄りかかってるわけだ、
そして上の鳥、パパすずめとママすずめと、そして息子すずめといるわけだ。
そして下見てパパすずめがさ『客人が一人来た』って言うんだ、
そしてね『客人はお腹をものすごく空かせてて今にも飢え死にしそうだな』って言うんだよ。
で、客人は夜になって焚き火をするんだ。
そして、ある時最初にパパすずめがさ、つまり客人の方はこうやって火に当たってたんだけどさ突然すずめが落ちてくるの、
それで丸焼けになってしまう。そうすると、あっ、いい食べ物が出来たと飢えを癒すわけ。
そうするとパパすずめが死んでしまうのを見てママすずめがさ『パパすずめがなくなってもまだ客人はお腹を空かせているだろう、
じゃあ私が行こう』とまた今度ママすずめが火の中に入っていっちゃう、そしてそれによってさ、まだ食い足りない。
そして今度息子すずめが見ててさ、こどもすずめが、両親がさ客人をもてなして自分がもてなさないのは申し訳ない。
下へ飛び降りて自分も焼けて、そして旅人は満腹して去っていった。そしてその旅人は何かな?クリシュナだ、きっと。
『彼らすずめの家族はクリシュナの中に』
そういうものこそがさ人間を生かしてるものなんだ。ところが心霊主義に懲りだすと全然そうじゃなくなる。
欲望の延長と変わらなくなっちゃうのさ。

—–

「だから、結局一種の知的探求」
うん、知的探求だし、もっと始末が悪くなる。つまり苦労しないでものを呼び寄せるなんて事に懲りだすとね。
その間に人生があるのにね、汗流したりなんかしたりして。それなしで何か食い物出て来いって、これにとりつかれたらさ。
食い物出てこいってここに食い物出すってことはね、もう食い物の世界を卒業したって意味なんだ。
その次あるんであってね、それを卒業しないでさ食い物出て来い、ここに来いなんて言うんだったらさ、
彼自身の人格的な深みってのは絶対できやしないのさ、愛なんか二度とわからない。
それは要するにさえらく利益のあるかけひきにすぎないじゃない。いい、低級霊につかまるのはみんなこれなんだよ。
低級霊ってのは何のことはない霊的に言えば低級霊って何か意味深だけどさ。
簡単なことさ人間は自分勝手にさ自分の欲望だけ満たしてふれあいがないことさ。それが低級霊って言うんだ。

—–

(中略)
あのね、ふれあいっていうのはね。人間だけに限らずね全てにあるわけ。
そして現象世界にその人が命を持ってるってことはね、どんなにその人間が虚無的であろうとね、
どんなにニヒルなポーズを決め込んで一人っきりでいようとね、必ずふれあいがあって生きてる。
それは空気とのふれあいであったり、どんなこと言ってもいい。そしてふれあいなしで生命ってのは存在しないの、繋がりもしない。
山奥の聖者が一人悦にいってたとしてもね、聖人が『唯、一人なんと恍惚境よ』なんて言ってたってね、
そばに木があり、山があり、大気があり、水があり、それによってその仙人は生きているんだよ。そのふれあいとね。
時々、自我ってのはね、特に近代人の自我ってのはね、つまりふれあいってのと逆の方向に行くことが超越だと誤ることがあるんだ。
その時、断ち切っていってしまう、みんな。それからわざと野蛮なことをやる。
ドストエフスキーが罪と罰で典型的近代人の自我ってのを描いてる。つまり何やってもいいと錯覚するんだな。
何故ならさ、何やってもいいってのはさ自我が孤独であるから。誰にも責任取る必要もないしさ何にもふれあいはないんだ。
だからようするにさ婆は殺して金を取っていいんだって発想が出てくるんだ。でもそれは自我の結論なんだ。
奴自身を生かしてるのは、実際は奴が歩いている道路であり、奴が着ている服であり、奴が食べる食べ物であり、
切り離すほうには決してチョイスされない。全てのものと触れ合う方向にあるだろ。
よく、例えば本当に悟りを開いたら唯、一人で砂漠の中にいられるのが本当の悟りだなんて錯覚することがあるけどさ、とんでもない話だ。
唯一人砂漠の中にいてさ、どうやって維持できる肉体を、空気がなくちゃ困るだろ、そんなに何もいらないなら空気もとってくれ。

—–

(中略)
「変なこと聞くけどさ、神ってのはどうなのかな?あれは、もう全く精神の方は自給自足体制はあるのかな?」
うん、神の世界だけは自給自足体制だよ。絶対自給、
「神ってのは結局、自分ひとりなわけじゃん」
うん、もし一人って言い方したら神の世界は一人だよ。
「彼は、だから周りってのを、感覚は知ってるのかな?」
もちろん周りはないよ。
「そこがだから完全な自給自足?」
うん、それはニルヴァーナって表現される世界だね。ところがニルヴァーナって世界だけだとさどんな物語も起こらないのさ。つまり、
「でも、神はさ現実にさ人間を創造し次々と新しい善を創造し世界を創造していくわけでしょ?汎神論的には自分の体の中に、それと矛盾しない?」
いや、矛盾しないよ。それがなければね神はさ、絶対の愛っていうか絶対の無ね、ていうものをさ表現する事は出来ないし、
確認してもらうことが出来ないんだ。だから、神とね、この現象世界の間もね、やっぱり同じふれあいの世界にあるわけ。
ちょうど、もし神がさ夫だとしたらさ、この現象世界に生きてる命はさ妻なのさ。その二人の語らいなんだ。
で、本当のキリスト者だとこういう事をよく言う、『もし人間なくば神存在あたわず』って、
もし、人間が生きていなければね、神は存在できないんだよ。いい、神を確認してくれるのはさ、神の本当の素晴らしさを確認してくれるのはね、
君たち生きている人間だけなんだ。君たちが生きてねその中で感じ取ってくれることで神はいき続けることができるんだ。
だから、小乗仏教と大乗仏教、何故小乗が大乗になったかっていうと一番大きな問題はそこなんだ。
小乗の世界だったらさ神までいって終わりになっちまう。
ところが神までいって終わりになっちまったらさ元々やつは生まれてくる必要なんてないのさ。

—–

そうでなくて大切なことはね、その神の世界っていうのをさこの現象の中にあらわすって事なんだ。
出会い、ふれあい、愛し合い、生めよ増えよ地に満てよ、うん。
そして、君がもし本当にこの世に疲れね、そして彼の世にも疲れたら、そしたら神はただちにさ、神自体の中に君をかえしてくれるよ。
でも、君はきっと長くかえっていることはない、また新しい旅に出発するよ。
おれたちが天国から降りてくるときもそうだったのさ。つまり天国っていうよりもっと正確にいえば無の世界にいたんだ。
もし、無の世界にいたっきりだったらさ、それはふれあいもないしさ、どんなドラマもなければさ、どんな愛情もない世界なんだ。
それは喜びも苦しみもない。でも、そのかわりさそこに起こる命のね、ありとあらゆるさいろどりもないのね。
だから、そのまま無の中にとどまる側とさ、出てくる側とわかれて、おれは出てくるほうを選んだ。今、君とこうやって話し合うために。
「やっぱ、それは出てくるってのは退屈だっていう感じが多いのかな、或いは」
退屈だっていうよりね、こういうことなんだ。
わたしはもう一度この世に生まれてきたい花となり木となり、幾度もなく、幾度もなく、わたし達はであいたい、君に。
あそこで出会い、ここで出会い、遠い昔に出会い、遠い未来に出会い。

—–

で、常に命の世界にはね逆っていうものがあるわけ。例えばね一番高い人格ってのはね、実は一番低いんだ。
例えば釈迦がいるでしょ、釈迦ってのは解脱するでしょ、解脱するって言うのはねどうしようもないくら奴がさ、
エゴイスティックになったていうことなんだ。何故かっていうとね中間にとどまることができなかったから。
例えばカンジーの言葉、ガンジーがさ不可触賤民達をハリジャンって呼んで神の子って呼んだでしょ。不可触賤民達を。
彼らは本当に動物のようだ。インドにいて彼らと一緒に生活するとね、本当に動物だ。
夜、一緒に彼らと地面の上に寝てるだろ。こっちが寝返り打つとさ足がやつらの頭にあたるんだ、
こっちがまた寝返り打つと手かなんかがやつらのさ腹の上かなんかをぼんと叩くんだ。でも、やつら動物のように文句も言わないでさ、
ぼろっきれのように寝っこけてるよ。で、ガンジーはそれを神の子って呼んだ。
それはさ、神の子って言う意味はね、別に何かを飾るためであったりね政治的な配慮があって呼んだんじゃないんだ。本当に神の子なんだ。
例えばさ、人間ってのは偉大だっていう発想がなりたつだろ、なぜなら他の万物の霊長だって発想がなりたつだろ。
でも、もっと偉大なのはね、君を今そこにあらしめているその畳だよ。
君がさ、あるどぶ川かなんかをさ、どぶ川の渡し板かなんかを渡ってさここまで来た。
その時にさ、本当に偉大なのはね君を渡してくれたその渡し板なんだよ。

—–

「聖書なんかにある先のものが後になるとかと同じなのかな?」
うん、その通り、先のものが一番後になる。即ち俺が一番後になるのさ。
「ダンがあとになるの?」
うん、一番あとになる。
そして、これを殺伐な話だと思うかどうか知らないけど禅にはこういう話があるんだ。趙州和尚がいたときにさ、趙州和尚ってのがいたんだ。
あるお婆さんが自分が救われたくてしょうがなくてさ、そしてずっと仏道の修行して仏教学の研究してさ、でも納得がいかないで、
なんとしても自分は救われたいと思って趙州和尚のところに行くんだよ。
んで『自分はどうやって救われたらいいでしょうか?』って言ったらさ、そしたら趙州和尚がね、こたえて曰く
『願わくばこのお婆さん以外のすべてのもの成仏せんことを、極楽に行かんことを、極楽に行ってください、そして願わくばこの婆は地獄に落ちろ』って、
それはそのお婆さんが本当に救われるために趙州和尚が言ったことだよ。
それは愛について語っているんだよ。

資料テープより 抜粋

—–

開くことのない花が 決して散ることのないように

いつまで続くのか いつ果てるともなく続く 闇という妄想
この闇は妄想だから その息苦しさの圧迫感に 悲鳴をあげ あるいは絶叫して発狂へ至る
妄想なのは闇だけではない 日常茶飯事の出来事も 英雄の権力の陶酔も
性愛の秘められた頂点も また平凡な幸福とうい名の妄想もある
闇という妄想は あらゆる色とりどりの妄想の 一つの終末であり 亀裂である
それは妄想を見ていた私の亀裂ではあるが 私の全面的崩壊ではない
私の全面的崩壊のまだ来ない所に 闇という妄想が続く
闇は闇自体の中に 音もなく消え去らねばならない
消え去った闇は もはや妄想も 妄想を見る私も消滅し去っている 見る私は崩壊するともなく崩壊し
開くことのない花が 決して散ることのないように
大宇宙というあらゆる人間的ドラマは ついぞ演じられたためしはない
あらゆる光と闇とを 闇自体の中に消し去った闇は
あらゆる生類の妄想としての闇の その息苦しさへの 神秘な愛情を抱いた
闇でない闇 透明になる その透明の中に
光ではない光が満ち溢れ 光と闇からなるのではない
夕焼けが 漁師の背中を 透明に彩める

—–

すずめがさえずり

若者は熱病にうなされ悩み

老人が季節のうつろいに眸をしめらす時

あるものが高まろうとしている

あるものが帰ろうとしている

いやおうなく

あるものが高まろうとしている

あるものが帰ろうとしている

密かな懐かしさを内に抱いて

—–

救世主なぞいらない 救世主でないものなど何一つありはしないのだから

君はもともと慈悲の救世主として この世に生き切り死に切っている 他のありとあらゆるものと同様に
そして 慈愛と自由とは 君の思い込んでいる人間性の中にはない

救世主は すべての場所と時間を通じて 只一人しかありえない
それゆえ救世主は 一つの肉体や人格でないばかりか どのような決まった形態も持っていない

救世主なぞいらない。私達、一人一人が、真人間になればいい。

—–

だからこうやって俺の身体がこうあるでしょ、この身体の中に全てがある。全ての宇宙がある。
例えばねこのローソク一つの中に無限の宇宙がある。君たちはたぶんこのローソクの中にある宇宙は経験したことはない筈だ。
でも、人によっては経験することが出来る。或いは人の意識の中の宇宙っていうのは。
それは特別なおもいの中でしか経験できない。
例えば黒人なんかと付き合ってるとさ時々黒人の意識の波長と合わせるとさ完全に黒人の世界に入ってることがあるわけ。
そうすると黒人の外から見たイメージとね、彼らは快楽主義者なの日本人的な。
全然経験してない人でもすぐに入ってくることが出来る。
人生体験必要じゃないわけ、唯それを素直に感じとれればいいわけ触れ合えばいいわけ。
それから、後の三つね。智慧、力、自由っていうのはのね人生体験がないと絶対に起こらない。
もっと正確に言うと虚無がないと、切り捨てるものがないと。
「執着心を?」
うんそう、断つって事。

—–

例えばさ、今言ったように愛からさ愛、安心、感謝、喜び、これらっていうのはさ修道院の中でさ本当に素直にさ清らかな生活っていうのをおくって、
キリスト様でもなんでも祈って本当のその人が清らかな気持ちで本当に信じてね、唯ひたすらに信じてねその前に礼拝するって事を続けていけば必ず分かってくる。
ところがこういう人がさ、じゃあ巷に現れたりするよ。巷で何でもいいや、いきなりさ目の前で男同士が抱き合ってる姿を見るとかさ、
マリファナかなんか吹かしてロックビートのってこんななってやってるのを見るとかさ、酒をがぶがぶ飲んでる姿を見るときにさ、
彼女或いは彼ね、修道士としてものすごく清らかな人たちはさ、入っていけないわけ。その世界に。
それは彼らもしくは彼女がさその世界はいいとしたものなんだ、いいとしたものであってさ、
彼また彼女はさその中にその修道生活のなかに生きてる限りさその喜びを味わっていき続けることが出来る。
だけどそれは神の半面にすぎないわけ、そこには恐ろしさがないわけ、その世界の中ではさ死でさえさ恐ろしいものではなくて還っていくものにすぎないわけ、
だから死体っていうのをさ一番さ清らかにさ安置されればすむものなの、そこには死体が腐ってくることが決して起こらないわけ、
死体は腐ってさ実際は腐敗したにおいを漂わすことがあるわけ、それから骸骨になりさ腐った得体の知れない塊になってしまう。
そういうものってのは見る必要ないわけ、愛の世界では。
それは高さなんだ。人間の高さなんだ。

—–

で、高さに必要なものはね唯ものすごい純真さだけなんだ。
ところが深さっていうものがある。深さの一番根源は自由なんだ。自由っていうのはまさに出入自在なんだ。自由自在に動き回ることが出来る。
何がきてもこなせることなんだ。どんな悪人を見てもさ平気で奴をさ乗せることが出来るんだ。
例えばこういうことがあった僕が仏教学やってるときに多少出来た教師がいたんだけどさ、
(中略)
後から言った奴には自由があるわけ、そう、もしかしたら愛とか感謝とか清らかさにおいては前言った仏教僧にはかなわないかもしれない。
だけど、彼には泥沼をも入っていく自由とか力があったわけ。
(中略)
でも、断っておくけど愛って言うのが本当にいくとこまでいけばそれは必ず自由だよ。
唯、どうしても人間ってのは部分的にしかそれを受け入れることしかできないからね、
だからそういう風に二つに分けて説明した。

—–

(前文不明)
「キリストの至福?」
いや、キリスト風のものさ。
「があるわけ?その天国?場所でも、その地獄の場所でも」
うん、それだったら一つだけあるよ非常におおきな、天国の至福とね、天国と地獄を越えた世界のね、至福とのね違いがある最大の一点はね。
天国の至福にはね、嫌うものがあるんだ、恐れるものがあるんだ、何時でも自分を正していかなくちゃならない、見たくないものがあるんだ、やばいものがあるんだ。
ああ、俺はやばくなってしまうとか、でも、天国と地獄の結婚の至福はねそういうものが全くない。
「地獄的なものも受け入れるって感じ?」
ううん、もう地獄も天国もないから。
うん、もしそれじゃ何があるって聞かれたらやっぱり愛だけが。

—–

「よくさ、守護霊に任せればいいとかさ、或いはその守護霊さえ守護している守護神に任せればいいとかさ、よく言うじゃない?
それはもっと本質的っていうかさ全体的なところから見たらどういうことになるのかな?」
もちろん守護霊に任せるのがいいよ。唯、その守護霊が何を意味するかによるんだ。結局ね守護霊っていったらね素直ささ。
本当に自分に素直でね人間味感じれるものだ。そして人は素直になるためにはね偏見を沢山捨てなくちゃならない。いっぱい。いっぱい。
色んなさ、ものでこっちは不可能だってがんじがらめになってるんだ。でも、素直になってるときだけ人はね、なんとなし生きる事ができる。
肝心なことだね。だから仏教の恐察は最後には諸悪莫作・衆善奉行に尽きちゃうんだよ。悪いことをしないように生きていきます。
良いことをするように生きていきます。それが仏教の究極の究極の、ある意味じゃ、諸行無常 諸法無我 涅槃寂静より深い言葉だよ。
(中略)
肝心なことはさ、どんな霊の問題でも全てその人の中にあるってこと。
(中略)
君に大切なことはね君自身を生きるって事なんだ。
(中略)

—–

イエス・キリストがこういうこと言ってるんだ世の末にはさ一杯色んな預言者が出てさ我は何とかだって言いだすってことを言ってるけどね、
それはどういう意味かっていうとねいっぱい乱立するからさ選ぶのに困るなよって意味じゃないんだよ奴が言った意味はね、選ぶのにに困るんじゃなくて、
本当に愛に触れるにはねその人自身、その人一人の問題だって言いたいわけ。乱立するとか何とかじゃなくて必ず目移りするだろうけどさ、
神の国に入るのはね、そういうものを選ぶことによってではなくて自分の内面ってものを開くことによって起きるの。
(中略)
どんなに宗教自体がね完璧な状態にあり、そしてそれを教えている人たちが完璧な状態にあろうとね、
だからってみんながそこに入ればいいっていうようなもんじゃないんだ。俺に従い個性に従へ、その人自身が一回限り通用する方法でね開けばいいんだ。
だけど体系化する場合は違うよ。もちろん体系化できるよ。
だから問題なのは全ての事柄に関してはさ客観視できるけどね、ただ人間が本当に生きるって事に関しては客観性なんてどこにもないってことさ。
どんなに客観的なことをたくさん蓄えたってさ、だって人間がさそれを食わなきゃ、もう何にもない。

—–

(前文不明)
例えばさ釈迦がさ、浄土したときに天地もさ星目もさ山河大地も悉くこれ浄悟っていうのはさ、まるで釈迦が一人思いみたいなもんじゃん。
いい、だってもし日蓮上人は肉体だっと思ってさ実際そこに魂かなんかがあってさそれが天国に昇ったり地獄に落ちたりするもんだっとしたらね、
極楽にのぼったり、そういうものだっとしたらさ、それはもう仮の姿にすぎないじゃないか、そんなのぼったりおちたりするものだったら。
君が信仰しようとしている少なくとも仏教にひかれているっていうのはね、そんな昇ったり落ちたりしないさ、絶対の命、久遠の仏、久遠の命、久遠の救い、
そういうものを君は発見しようとしているんだろ?だったら君がさ、その霊的にどうの落ちたのこうのっていうよりはさ、
君自身がさ久遠のものをつかまなくちゃ、発見しなければ。君自身がその中に投げ込まれなければ。
「そんなことはどうでもいいと?」
うん、どうでもいい。
(中略)
「すごく、こうね感情のさ心の中でどうでもいいって思いつつもね、すごくこうね惑わされるっていうのがあるね(中略)どうしたらいいんだろ?」
惑わされたらいいよ。
「だって苦しいもん、やっぱ」
苦しくてもいい。
「ううん、でも苦しいから向かなくてもいい」
だって本当に気に入ってるんだろ?気に入ったものが出て来るんだったらしょうがないじゃないか。
(中略)

—–

「心の惑わされるって言うのはいけないっていう」
あのね、心の平和ってのはね本当の元々の説いてあるのはね、自分の色々な惑わしとか色々魅かれるものがあるでしょ。
その魅かれるものを閉ざしてね蓋をすることで起こるものじゃないんだ。じゃなくて開ききってしまうものなんだ、委ねきってしまう。
例えば普通の人間だったらさ普通だったらこういう風に思うわけ。例えばあるものが出てきてうんと魅かれる魅惑的なものだ、自分の目の前にさ。
その時にねこれを見てさこれは魅惑的で自分の心を動揺させる。これは絶対に寄せ付けまい、ってこうやるとするじゃない。
ところが寄せ付けないだけであってさ現実にはそれに魅かれる心っての相変わらずはあるわけ自分の中に、唯かたく蓋をしてさ一生懸命鍵を閉めてるんだけどさ、
ところが人間の心の中ってのはね蓋をすればするほどますます強くどかどかどんどん叩いてくるわけ。
「だから別の宗教だったら魅かれる自分そのものを変えなさいっていう?」
それはね無常っていうことに繋がるの或いは虚無ってことにね、その時はね虚無とか無常っていうのは滅多に出会うことがなくてね、
もし出合ったらね女に魅かれるとかね何かに魅かれるなんてことは問題じゃなくなるよ、魅かれたくても、もう魅かれる気分が起こらなくなっちゃうさ。
解脱っていうのはねそこにあるんだ、究極的なものってのは。それは無理して抑えることにあるんじゃなくて、禁欲的生活にあるんじゃなくてね。
例えば、君がものすごい最愛な人と結ばれたとするでしょ、それがものすごく素直な結ばれ方で幸福な家庭をつくってたとするでしょ、
そしたら突然何かが起きて君が君の家族を全部一度に失ってしまうとするでしょ、その時君の前にどんな魅力的なものが現れたって君の心は動きやしないんだ。
君の心は動揺しないんだ。魅かれやしないんだ。もう君はさ一度ね本当にさこの現世の中でさ素敵なものにであってしまったからだよ。本当にほれたことがあるからだ。
つまりね心の平安っていうのはねほれることを蓋をすることじゃなくてね、ほれた後滲み出してくるものなの。
そんなこと言ってたらコチコチの人間になってしまうよ。人と全然話が出来なくて、人と触れ合うことが出来なくて。
(中略)

—–

例えばキリスト教では希望っていうでしょ、希望っていうのはキリスト教でいう希望ってのは普通誤解されてるんだけど、希望って言う意味はね。
真に肯定的なものを信じ続けることなんだ。それは希望って形で仏教なんかでは特に言わないけどね。
求道生活っていうか修行生活っていうのを支えるのはね、やっぱりこの中に本当に絶対的に肯定できる何かがあるだろうと信じ続ける部分があるんだ。
それは禅門みたいにそういうもの一切ね、そういう色合いってものをさ消したような建前をやるところだってそうのなのさ。
そのためにね色んな経文があって、
曹洞宗では(中略※1)臨済宗では(中略※2)
その唱えることによって勢いつけるわけだよ。それが希望だ。謙虚であれとか希望を捨てるなとかいうでしょキリスト教で。

※1参禅の漢、先ず須く至誠心を起こして清浄の願を発すべし。仏祖の前に於いて焼香礼拝して、仏に白して言わく、
「願わくは我れ、此の父母所生の身(をもって)、三宝の願海に回向し、一動一静、払拭に遺せず、今身従り仏身に至るまで、
其の中間に於いて、生生世世、出生入死、仏法を離れず、在在処処、広く衆生を度して、疲労(疲捐)を生ぜず。
或いは剣樹・刀山の上、或いは钁湯・炉炭の中、唯だ斯れ正法眼蔵を以て、重担と為して随処に主宰と作らん。
伏して願わくは、三宝証明、仏祖護念

※2見つけられないので省略

—–

ある時はね多少それ選ぶときにね自分の明るさからいってしまったらさ何かさ非常に行き詰ってしまうような自体のほう選ばなくちゃならない事があってもね、
必ず明るさってもののほうを選んだんならね、それを超えてってしばらく時が経った後ねやぱっぱりいい方向選んだんだなって分かるよ。それ良心だね。
でも、普通のいう道徳的良心っていうか社会的な良心じゃないよ。社会的な良心ってのは自分の身を守るためのものでしかないから、
それやるとみんなから村八分にされるからやばいとかね。そうではなくて、本当に自分の中に後ろめたさ何も感じないですむ方向は厳然として存在しているんだ。
それで後はいいさ、そんないちいち考えないでねいいと思う本当に自分がいいと思うことやっててみな。そうすれば自動的に修正してくれる現実が。
やっぱりそれがよくなかったら、よくないって結果が出てさ君を正すことになるよ。
大切なことはやることであってね、前もって全部がさうまくいくなんてことをしることではないんだ。
行け、アルジュナよ、たたかえアルジュナよ。

テープ資料より

—–

プリー(東インドの浜辺の町)で歩いていたら、向こうからインド人が歩いてくる。

そいつを見て驚いた。俺がそこにいるんだ。それで大声でそいつに尋ねた。

ハウ・ユー・ゲット・ジス(どうやってこれを得たんだ!)

俺が何でそんなに驚いたかと言うと、インドには禅がないから、心身脱落の境地に至ることは不可能な筈だからだ。

そのインド人は、俺を寺に連れていって、クンダリーニ・ヨガを教えた。

それで、それから八日間座りっぱなしだ。

そして解脱した。

後、その寺に懸かっている絵を見たら、そいつの顔なんだ。

それでそいつがババジっいう聖者だったことが分かった。

—–

全ては何だ 全ては何だ 全ては何だ 全ては何だ 全ては何だ 全ては何だ 全ては何だ・・・・・・

全ては神秘だ・・・ さよなら あらゆる私の顔よ・・・・・・

あらゆるものを知りたいという欲望が完璧になり、あらゆるものを後にする用意が出来た時に、また戻って来い。

—–

そしてこの世にエゴがなければね、この世は存在しない。
もしこの世に無明が存在しなければ、無明というのは悪い意味で使われているけどね、
無明が存在しなければこの世は存在しない。

「この世というのは初めからそういうふうにできてるの?」

そう

「舞台として?」

そう

「アダムとイブの堕落というけれど、それに関係なく舞台としてあるの?」

アダムとイブの堕落というのはね、それをわざわざ『聖書』で言っているのはね、アダムとイブの生きる世界っていうのはエゴの世界なんだ。
そして、そのエゴの世界というのは生きる時に、頼むからエゴ以外のつまらないものを引っ張り出してきて、
本当に生きないようなまねをしないでくれということなのさ。本当にいきてくれということさ。
それにはどうしたらいい?それにはね、自分のエゴというもの、自分の素直な思いというのが、
いつでもエデンの園から流れ出しているのに気付いてくれということなんだ。
君が何かの時に不安を感じたとしても、恐怖を感じたとしても、そこにはいつもエデンの園が流れている。
うん、それで良心とは尺度さ。君達がどれだけのエゴに忠実であるか。それだけだよ。君達がもし良心的だとしたら、それは全く無理なく生きているということさ。
だから救世主というのはね、即ち君達の本性というのはね、いつでも一番楽でいる。楽でいるというのが本来の姿なんだ。

「エゴというのは逆説的な意味で言ってるんでしょ?つまり仏性ということでしょ?」

うん、仏性。

「普通の我々というのはその仏性を生きてるんじゃなくて、自我の中に生きてるわけじゃない?素直さというのは、無限の次元があって、もともと本当の自分を素直に生きれば、仏性を生きることになるわけだけど、そこまで行かずに、浅い素直さというか、自我の自分に忠実になってしまうということがよくあると思うんだけど」

うん、あるけどね、そんなことは抜きにして、君の中にはいつでも深い思いがあるんだ。

講和録1 十三番目の瞑想より 一部抜粋

「人間が生まれて来る時にね、百の問題を持ってこるという話を聞いたことがあるんですけど、それは本当なんですか?」

うん、本当だよ。

「ああ、そうなんですか?それが解けるとやっぱりあっちへ行くんですか?」

解けるとは?

「解けた場合」

解けたらここへ来るよ。

講和録2 君がどうかいより 一部抜粋

君は間違いなく死ぬんだ。
誰でも死ぬし、間違いなく一人きりであるときがあるはずだ。
もし本当に自分ひとりきりになったら誰が君をわかってくれる?
あるいは君がもっている問題というものを誰が分かってくれるということだよ。
例えば君は今ここにいる。
ひょっとしたらきみはすてきな彼女が欲しいかもしれない。
だけどその彼女が欲しいと思っても、すぐに出てきてくれない。
君がここにいるということを自己で考えたらものすごく不自由な存在としてしかありえないんだ。
例えば君は清らかですべてがわかった状態でいたいかもしれない。
あるいは本当に安らいでこの中にいたいと思っているかもしれない。
だけど実際にそれはないから質問しようとしている。
俺がここで出したいことはね、君がもう完全に安住しているということなんだ。

(中略)

「そういう姿勢に至った過程とは何?(笑)」

うーんと、一番最初に出会ったのは今から大体三万年くらい前、アトランティスの。

「三万年(笑)」
「アトランティス」

うん

「どこですか」

今はもう無いけど。そこでね。何か本当のものが欲しかったんだ。何をしても本当のものに見えない。

「いい?」

うん

「現実が、やっぱり初めは嫌になったんでしょ?」
「やっぱり、苦悩かなんかあったんでしょ?苦しみか?」

うん

「それが原因でしょ?」

例えば、お釈迦さんがさ、死んだりさ、年取ったりさ、それから病気になったりする人を見たんだ。
そしたらそれで猛烈に悩んじゃってさ、で、親父さんが跡を継げって言うんだよ。ね、お前は立派な男なんだから。
そうするとさ、その時に、いや、僕は出家します、そしたら、そんなこと言うなって。一時の思春期の迷いだって言うわけさ。
そしてねその時にね、釈迦君はさ、もしね、お父さんがさ、本当に死なないものね、僕に教えてくれたら僕は思い留まります。
その代わりそれを教えてくれないんなら出家します。って言ったんだよ。そしたら親父さんは何も答えられなかったんだよ。で、出家しちゃったんだよ。

「本当のものが欲しくて何とやらとおっしゃたけれども、じゃあ、今探してる最中なんですか?」

誰が?

「あなたが」

ううん、探してない

「もう見つけちゃったの?」

見つけてない。

「じゃあ、成り行きに任せる?」

成り行きにも任してない。

「どういうふうにやってるんですか?」

どういうふうにもやってない。

「じゃあ、三万年もね、努力はどうするんですか」

それは、これからも努力するんじゃあない?

「どういうふうに?」

例えば、今君と話したように。

(中略)

「現代っていうのは、すごく教師が多いでしょ?」

うん

「何故こんなに多いんですか。そんな本当にあらゆる実感を体験した人間が多いんですか」
ううん、そうではなくてねぇ、それは自我の正当な発達過程なんだ。つまり自意識っていうのが極限まで来てる時代なんだ。
例えばもしバイブル流に言えばつまり終わりの世には偽救世主、預言者がいっぱい現れて、ああでもない、こうでもないと言うのと全く同じ意味だ。

「つまり、すごく強固な形で自我っていうのを作り上げた状態の人間が一番沢山いる時代っていうことになる?」

うん、そう。
だけど問題なのはね、強固な自我っていうにしろ何にしろ、それはね客観的に判断するっていうことは意味がない。
問題なのはね、君が君に出会うこと。唯それだけなんだ。そしてそれは縁によって起こる。

「縁?」

縁ていう全く神秘的なものによって。
だからこれとこれを比べてこっちのほうがどうも本物らしいからこっち行くかなぁ。
それの方が6・4でいける、なんて考えでね、行ったとしたらさ無意味なのさ。何故かって言うとね、何かを教わるんじゃあなくてね、
自分の持ってるものをただ吹き飛ばして、自分自身に目覚めるだけなんだ。そのきっかけを作るためにはさ、ひょっとしたらものすごい猛烈な邪教でさえさ、
あのー起こしえる可能性があるんだ。

「邪教」

そう、(中略)もっと極端に言えば人殺しか、強姦、殺人、それから泥棒なんていう人間がさ、それ熱心にやってる内に(笑)、
出会うなんてことだってあるかも知れない。唯、それは単発的だけどね。
で、これからの時代っていうのは単発性ではなくて、偶然にそれに出会うっていうんじゃあなくて、
本当にその大きな意味でコントロール出来るっていう人間が出てこなくちゃあならない時代なんだ。

「今の時代に?」

うん、そう。時代に。そしてそれは必ずゾクゾクと出てくる

「コントロールすることの中には密教的な意味もあるわけ?」

うん、それは人によるね。うん。あのね、密教と顕教と、俺が例えば瞑想をしてるでしょ。
そうするとね、その中にはね、本当言うと三つに人はタイプが分かれるの。ひとつはね開顕教って言っていい。顕教、開かれた顕われた教え、開顕教。
それからもう一つは秘密教。それからもう一つは宇宙人。

「えっ?」

宇宙人

「宇宙人?(笑)」

つまりコスモポリタンっていうこと。普通コスモポリタンって世界市民って訳されるけど、俺の訳からいうとどうも宇宙市民だと思うんだよ(笑)。その三つがある。
そして、それはどういうふううに違うかって言ったらね、開顕教と秘密教っていうのを体得した人間と、それからコスモポリタンとはこれは明らかに違う。
コスモポリタンっていうのはどういうことかって言うと、唯、自分自身の個性を発見したのみだ。それ以外ではない。但し、彼はきっと生き生きと生きることが出来る。
でもものすごく個人的なものだ。それは。つまり自分のペースを発見したんだ。でもそれだけでものすごい大きなことだ。
精神病院で一番うまく治った人間が大体コスモポリタンって言っていいだろう。
それから、秘密教、密教とね顕教っていうのは、二つはその根源に於ては全く差はない。全く。唯ね、顕教の聖者っていってもいい、なんて言ってもいいや。
顕教のね、行った人っていうのは、なんかゴチャゴチャしたことが嫌いで、単純明快なのが好きだっていう個性を持ってるに過ぎないんだ。
それからね、密教の方の聖者っていうのはそうじゃあなくてね、いろんなこう何かね、わけのわからない、ね、トリックとかね、なんかして遊ぶのが大好きなんだよ(笑い)

(中略)

バグワンなんかがよく言ってるらしいんだけど、『宗教っていうのは一番最後の贅沢だ』って言ってるだろ。
それは要するに物っていうのがさ精神の代用品にどうしても出来ないくらいまで、自我意識が発達した人間が最後に行き着く所だっていう意味。
とてもじゃあないけど、毎日食うものだけのことしか考えていない人間にさ『はい、そのままで居なさい』(笑)。『流れに任せて』なってったって始まらないじゃあないか。

「でも、そうなるとね、最終戦争っていうのかな、そういうものはバングラデッシュやね、西アフリカには起こらないんですね?必要がないから。きっと」

うん、でもそれをまきこむことにはなる。

「でも、巻き込んでも、その戦争自体の意味ってのは、バングラデッシュの人達と我々にとっては全然違う」
うん、全然違う。全然違う。その通り。全然違う。例えば、今の霊界の状況から行くと、もう一度大戦争が起こるけど、その原因っていうのは、やっぱりものすごく精神的だ。

「人間の不安なんか、すごい関係する?」

うん、関係するよ

(中略)

いや、問題はね、瞑想の一番最後に行き着く所はね、その四つのレベルっていうのをね、いつでも自由自在に行き来出来るっていうことなの。
釈迦が初禅から出たとか、二禅から出たとか第四禅、四禅から出たとかさ、何々の瞑想状態から出た、何々の瞑想状態から説法したっていう、そういうことなの。
そのすべてが自由自在に行き来出来る、出入自在ってこと。それが最後に行き着く所。

「イエスは出入自在だった?」

うん、ちょっと癖があったけど。片寄ってたな。

「どういう感じの癖?」

うーん。やっぱり、神の愛っていうのかな、に、じかに触れるっていうことをあくまでもこう、それを持っていたいって欲求がものすごく強かった。

「釈迦の方がさ、柔和で自由な感じ、リラックスしてるっていうかな?イエスってさ、なんかこうベートーベンみたいなぐうっ頑張ってる感じ。
あれはどうしてああいう違いが出てくるの?」

それは個性の違いだね。

「でも、東洋の聖者って大体リラックスしてる感じがすごくするけど、キリスト教の聖者って、パウロにしたて、
ペテロにしたって、イエスにしたって、
後のアウグスティヌにしたってなんかこう、頑張ってるていう、そういう感じ」
うん、あのね、いろんな理由が言えるけど、じゃあ、今一つだけ理由を言うとねぇ、西洋が自己自身に触れる触れかたっていうのがさ、行がものすごく少ないんだ。
で、行が少ない人間っていうのはね、意識っていうのに圧力を掛けないと入れないことになってるんだ。

「あっ、あーなるほどね」

行っていう、冥想っていう行っていうのがあるとね、圧力必要なくなっちまうのさ

「圧力なくする方向でやてるんですか」

うん、そう。最初からもう溶け込む、安らぐっていう方向から入って行ける冥想っていう行があるところだね。ところが、そのものが全然確立されてない所だと、
意識っていうものを極限まで張り詰めるところでバチンって割れる瞬間っていうを待たなくちゃあならない。
うんうん、あるよ。

(中略)

うん、出発点。つまりね、あくまでも人間ていうものがあって、その人間っていうものから救いをさ、導き出そうっていうような立場がある。
ところが、東洋的な発想っていうのは、元々人間、全然問題にしちゃあないんだな。うん。
だから、そうね、西洋の方が人格主義っていうかな。そういう立場だろうね。非常に人格的で人格を練磨してとかさ。そういう方向でしかいけないね。
もっと行きやぁ、インディアンなんかになったら、人格もへったくれもないじゃあないか。テオーテなんか食らってさ、そして超越的世界に入って、
全然違う体系が出てくるよ。うん。

「インディアンなんかの持っている、精神世界っていうのは全然違うわけ?」

ううん。と、一番最後まで行き着いたインディアンだったら全く同じ所へ行き着く。キリストが行き着いた所、釈迦が行き着いた所、クリシュナが行き着いた所。
唯、そのやり方が全然違うから。

(中略)

でも冥想を始めた場合だと逆からいっちゃうんだな。つまり答えから最初に得て、答えの展開っていうかな、表れとして出会いがあったり、友情があったり、
仕事があったりっていう逆の方向に流れていくと。
(中略)
本当の冥想は恋愛の中でも起こり得るし、仕事の中でも起こり得るし、もちろん冥想やってる時にも起こりえる。
それはどういうことかって言うと、もう他に行く場所が完全に無いことを知る。そのくらいまで自分を賭けるんだ。

講和録3 最高に生きたいより 一部抜粋