愚さん断片

「クリシュナムルティから禅へ」に於ける、愚さんの書き込みの私的な抜粋です。

「結局、禅って何なの? どういうこと言ってる訳?」と云う質問に対しての答えとしては、非常にこなれており、感心して読んでいました。紹介してみます。無断使用+文章、少しいじってます。 (ー_ー)ペコリ

つまり、元来、人は不安定から始まり安定を求める…
別の言い方をすれば、苦悩と気晴らしで一生を使っていく訳です。

ところで、仏教ないし禅が主張しているのは、単純です。
宇宙はバラバラでなく、ひとつである…分離した自己などというものありはしない…主観と客観などという切れ目は、ありはしない…ということです。

ところで、困ったことに、この主張は言語ないし思考過程を通して働くしかないので、必ず概念化されちゃうので、概念と概念を作る自分(自我)が分かれちゃう。
例えば、色即是空と聞けば、色とか空を頭に描いちゃいます。
そこで、念仏とか公案とかのトレーニングシステム?が生まれる訳です。

ですから、禅では、心を休めるなんてことはしません。
悩むときは悩むしかない。苦しいときは苦しい。
悩み苦しみから逃れることを目標になんてしません。
もし、目標があるとすれば、どのように苦しみとひとつになるか、ということです。
もっと言えば、苦しいときには、どうすればもっと苦しくなれるかという工夫をすることです。
苦しみに対する防御がなく、苦しみそのものになれば、
苦しみは嵐のようにやってくるでしょうが、嵐のように去っていきます。

そうそう、つまり坐禅は、とくに只管打座は、奥深い感情と接触すること…
不安とか、憎しみとか、そのような何かに接触する、いい方便だと感じます。

と云うのは、感情は接触すれば消えていくからです。
感情と自分を分けてると接触できないので、カスになっちゃって、ややっこしいことになる…

クリシュナムルティさんが言う瞑想・メディテーションとは、分別のない状態…
たしか「真理の種子」か何かで、ボームさんとの対話の中で、こんな感じのことを言ってました。
「一般的には、瞑想とは、ある意識状態から別の意識状態に移っていくことと思われていますが、実際は、そうではなく、あるがままを見ていくことなのです」

つまり、ただ、写真機のように世界を見、テープレコーダーのように音を聞く、
そのまま、丸出しの世界です。
自他の分別がない、そのような状態です。
これが自然の状態なのですが、分別が途方もないスピードで入り込んでくるんで…
そこで、本当はおかしいんですが、無分別の状態が神秘的ということになっちゃう。

そこには、歓喜があります…クリシュナムルティさんで言えば、JOYです。
苦悩の終焉、時間の終焉、即今、即今に生きていくこと、
大安心、無我無心、腹が減ったら飯をくい、疲れたら休む、
悲しければ泣く、悩むときは、徹底悩む、
日は東から昇り、西に沈む、柳は緑、花は紅…
これ、みな同じことなんです。
困ったことに、そうじゃなく思えちゃう…

人の苦しみ、この混乱は、脳みそのかなり奥にある誤解が原因なんでしょうが…
つまり、どうしても、自分およびその精神状態・感情を客観的に(?)見ちゃったりして、
何とかしようとしちゃう。
これ当たり前なんですが、これが苦しみの原因なんです。

クリシュナムルティさんの言う瞑想とは、
苦しみと共にあること、そのとき、苦しみはないよ…と云うことでしょう。
つまり、大安心です。
そして、そのようになれるにはどうしても、自己を明らめねばならない、
ということになり、これに手間がかかる…

そうそう、ですから私たちに与えられているミッションは、
思考・分別と云うすごい武器を与えられ、
そして、その結果、宇宙から分離した自己が苦しみ、
そして、そこから、もう一度、その虚構を見抜き、宇宙そのものとして生きていくこと。
それだけが、おそらくは人生の目的(?)であり…

まあ、でもそうは簡単にいかないんで、
生まれ変わり、死に変わりをしながら、ちょっとづつ進んでいくしかないようです。

> 気づくとはどういうことでしょう
要するに、坐禅しているときです。
そして、できれば、色んな思いが出てきても、
嫌がりもせず、追いかけもせず、そのままにしておく…
これ、結構むずかしいんですが…それだけのことです…
つまり、気づいている訳です。

> 根本的な解決はどこにあるのでしょうか
悩むときには、悩む、困るときは、困る。それに徹するしかないです。
ところが、そうはいかない。
なぜなら、悩みから逃げたい訳です。
どうしても、イヤ…当然です。

だけど、これ無理です。
だって、悩みを作ったのは自分なんです。
悩みと自分は別のものじゃないんです。
これが分かり辛いんで、ややっこしくなっちゃう。
つまり、悩み、ないし、悩みの原因が、自分の外…客観…としてあり、
それと、自分(主観)が戦って、なんとか勝つという構造が生まれちゃう。

これで、むちゃくちゃなことをやっちゃう訳です。
つまり、原因を追究していけば解決するのではないかと錯覚する。
そんなことは有り得ない。

悩めばいいんで、苦しめばいいんで…
ところが、その悩み、苦しみを、意識して、逃れようとするから話がややっこしくなっちゃう。

すると、こういう問いが生まれます。
私たちは、なぜ、逃れようとするか?
答えは簡単です。
私たちは、自分自身を肉体と同一化して、
身長170cm、最大100年で規定されている存在ということから、
何とか防御しなきゃいけないことになっちゃう。

つまり、あらゆる心理的な苦痛は防御から生まれ、
大安心は、「OK、傷ついてみよう!!」…無我無心のところ、それが解決です。

もっと、積極的です。
深く根付いてしまった対立観念を、とにかく一回、がむしゃらにキレイに掃除します。
すると、この世界には一切対立がないということを実感します。
これは歓喜です。
世界は自分だったってことですから。
煩わしく、自己を脅かす、客観世界が無くなる訳です。
お経に、お釈迦さんの額から光がでて世界を照らす、とか、
そこらじゅうから、菩薩が現れるとか、確かありましたが、このことでしょう。
いわゆる光明の世界です。
また、時間は継続しているものではなく、裁断されていることが分かります。
つまり、時間的・空間的に、自己を束縛するものが無かったということが分かります。
あらゆる苦悩の終焉です。
と云うより、もともと苦悩などなかったんですが、自分で作っちゃってたってことです。
一切の問題が解決します。

この対立のない世界を、言葉で表現しようとすると、
まず、平等ということになります。いわゆる、空(くう)です。
宇宙はひとつということで、これはなんとも頭に描けないのですが、
仮に、霊源と名づけます。
大きさも、時間もありません。
それが大活動しているのが、この世界です。

苦しむ私、つまり、苦しみと別の私があると錯覚すれば、苦しみを逃れようとします。
だから、私と苦しみの間に、えらくギャップができちゃう。これがつらいんです。
苦しむ私がなくなるということは、苦しみに引っかからない、
つまり、悩み苦しんでいて、そのまま、満点…
でも、これ、アタマで理解したら全然ダメなんですが…

私はこう思うとか、私の手が痛いとか言っているときに、
そういう私に関わる話の時には、具体的な、個々のことなのですが、
それは「我」と呼ぶものではない。
そのように、対象として知覚されるものは「我」ではない。
それらの知覚の背後に、決して知覚される対象とはならない、本質的な中心がある。
それを「我」と呼ぶ。
それは絶対の事実、真実なのだ(と仮設している、あるいは信じている訳ですが)。

ヒンズー教では…と言っても、ラマナ・マハリシとかシャンカラくらいしか知りませんが…
主体と客体を前提とし、主体をアートマンと呼び、対象となるものは客体であり、主体たりえない。
つまり、「私」があることを知っていると云うことは、「私」が主体たりえない、と云うことだ。
つまり、主体たる「真の私」は対象たりえない…わからない…
これを、普通は「ない」と言います。
じゃ、何も起きないのかって言えば、思ったり、痛かったりする。
と云うことは、思い、痛みだけがある。
主体もなく、客体もなく、思い、痛みがある。
ただ、これを表現するとき、言語・思考の性質から、二元的に表現する。
そこで、主体がある、という表現を取れば、
何かが思い、痛がっているので、その主体は、全宇宙とも言えるし、目の前のビールでもいいし…
つまり、主体は客体だってことです。そして、これが、アートマン=ブラフマン。

> それで、佛教で、「我」というものはない。と言うときに、それは、上で述べた意味での「我」はないという意味なのですね。

だから、世界から分離された「自我」「オレ」は無いってことです。
事実は、私たちは、なぜだか、とにかく、おそらくは深い眠りを除いて、
「自我」を分離してる訳です。
持って生まれた脳みその作用です…無明とか呼んだりもします…
余計なことを、とにかくやってる訳。
また、困ったことに、そう理解したところで、止みはしない。
この分離が苦痛なんです。
この感覚が、あらゆる不安、苦しみ、悲しみ、生と死、の根源です。
つまり、これは本当に当惑してしまうのですが、
なぜか分からないけど、
自分は常に勝手に、その根源(仏、アートマン、ブラフマン、神)から、一所懸命逃げ出しているってことです。
速い話、わざわざ努力して苦しんでる。

私たちは、常に自分を世界から分離してます。
つまり、「自分がある」という感覚を、無意識的に、意識的に持ってます。
脳みそのどこかが、その作業をやってる訳です。
そこで、いつも、アタマの中で、「ああでもない、こうでもない、損した、得した、ばかやろう、好きだ、嫌いだ、俺は正しい…」なんて、やってる訳です。
これが「自我」の性質です。
さて、痛みについて言えば、肉体的な痛みは単純です。
傷があれば痛い。
痛む「主体」があっても、多少のクシャクシャはあるにせよ、おおきな問題は起こしません。
ところが、心理的な痛み、例えば、不安、悲しみとなると、問題を引き起こします。
というのは、「私:自我」が「悲しみ」を持っている、となる訳です。
肉体的な痛みのときは、こころの持ちようで痛みが消えるとは思わない。
ところが、心理的痛みだと、なんか働きかければ「悲しみ」が無くなるように見えたりする。
つまり、「私」は「悲しみ」を排除しようとしちゃうんです。
これ、勝てないゲームです。
と言うのは、「私」は「悲しみ」から抽象されたものだからです。
つまり、「私」は「悲しみ」から分離していないんです。
「悲しみ」から逃れようとすればするほど、「私」と「悲しみ」は強くなります。
これが苦痛なんです。
そして、私たち、このゲームを一生やり続けたりしちゃう。

無分別智
「宇宙をバラバラにして、自己を孤立させ、苦悩を作り、その解決をしている。
その犯人は、脳みそだった」と「脳みそ」が理解します。
すると、脳みその働きが変わります。
分別してはいるのですが、無分別からの分別です。
それが「無分別智」です。
つまり、我々が(自覚なく)いつも使っているものです。
それを自覚したときに、しょうがないので「無分別智」という名前をつけただけのようです。

ここの「仏法とは」からのコピーです。まったく、その通りです。以下引用。

信じると信じ得ないとは、それぞれの法縁の深浅があるため、何ともやむを得ないものがありますが、一応話だけしておきます。

仏法の根本と、その全てを簡単に云うと、
「宇宙は一つものと悟り、それを身に付けること」である。

どういうことかと言うと、釈尊も眼が開く前は、自己とは宇宙の中の小さなカタマリにすぎないと思っておられた。しかし12月8日、明けの明星を見た瞬間、この「俺が」という我がフッと消え、自分と他との境が消え去った時、大変なことに気がつかれた。
それは宇宙間一切のものには何一つ理屈がなく、哲学もなければ宗教もない。名前もなければ境もない、只一個のそのままの丸出しだったということである。そしてこれが本当の自己の正体だったと気づかれたのある。
その時の感動を「奇なるかな奇なるかな、山川草木悉皆成仏す」と仰せになっておられる。
わかってみたら、山も木も一切合切が無我無心にして、どれひとつとして同じものがない、すべてが独立独歩で比較の仕様がない、手のつけ様がない、まさに完璧な仏の大博覧会が宇宙の姿であったのである。
この発見がいかに大変なことであるかは、少しでもこの体験(これを見性という)をした者でないとわからない。丁寧に説明すればある程度の見当は付くかもしれないが、本当の納得と感動は生じないものである。

宇宙(自己)は只一個の丸出しと徹底見破った途端、全ての問題が氷解する。
只一個ゆえに、どこからか生れて来たり、死んで行くことはない、断じて不可能である。姿かたちは変わっても、死んでも何処にも行きはしない、千変万化の生き死に自体が自己である。
丸出しゆえに、生は生において完全無欠、死は死において完全無欠、比較対立のしようがない。生死問題も瞬時に解決する。いや最初から生死の対立が無かったことを悟るのである。
迷と悟・凡と聖・是と非・得と失、そんなもの、そんな対立は元々この宇宙間のどこにもなかったとハッキリとわかる。
(したがって、まず何としても多少なりともこの体験をして、いちど無我の宇宙を垣間見る必要がある。ことに出家はこれを指導する立場のプロでなければならない。いくら真面目に生活していてもこの体験が無ければニセ坊主である。坐禅はこの体験への最短方法であり、接心会とはこの無我の宇宙に接する行のはずである。)

ここに至って、今まで人が作った理屈で完全に惑わされていた自分の人生がすっかり変わってくる。
一切の理屈を離れ、宇宙の真理である無我の姿とピタッとひとつになった生活を目指すようになる。
しかしながら人間の思慮分別は根深いもので、例え真実をハッキリ見抜いてもなかなか体は言うことを聞いてくれない。習い性になった脳みそがこれに逆らうのである。
本来ひとつなのに、どうも自分というのが別にあるように感じたり、つい「俺が」の欲で動いてしまったりするのである。そこで、ここは作為的に(最初見抜いた時と同じ様に)何かに成り切ることで自分を忘ずる訓練(坐禅修行)を継続することになるのである。
(自己を忘ずるには、初めはどうしても作為的に成り切る努力をするしかないのである。よく、作為を放棄したらそれで無我無心になるはずと主張する人がいるが、そうは問屋がおろさない。作為を放棄しても無我にはならない。ただの凡夫が残るだけである。血のにじむ努力は残念ながらどうしても避けれないのである。)

この自己を忘じて、忘じて、すっかり無我の生活が身に付くまで研鑚を重ねること。これを仏道という。

永遠
永遠、クリシュナムルティさんで云えば、時間を超えたもの、とか、時間の終焉。
禅なんかだと、常春(とこはる)、去来のないところ、即今・即今。

私たち、記憶するシステム持ってるんで、記憶があります。
記憶された内容は、「過去」です。
この記憶は、「過去」というものが実在している、という印象を与えます。
もちろん、記憶ですから、「現在」ではありません。
「現在」以外に「過去」があると思います。
そして、「現在」は「過去」の延長線上にあります。
「過去」があれば、当然「未来」があります。
ここで、奇妙なことが起こります。
「現在」「即今」と云うのは認識できません。
対象として認識不能です…もし、すれば、それは「過去」です。
そこで、「過去」と「未来」しかなくなっちゃって、
「現在」なるものは、「過去」と「未来」の接点である、
抽象化されたなにものか、なんてことになっちゃう。
すると、どうなるか?
「過去」と「未来」のみが実在で、「現在」は、観念・抽象、ってことになります。
つまり、「過去」が実在ということは、
楽しかった思いで、後悔、罪の意識、こういったものは事実としてある。
また、「未来」が実在ということは、
希望、不安、といったものは事実としてある、ということになります。
これで、アタマはガタガタになる訳です。
「過去」と「未来」に押しつぶされる。
希望を求め、不安を恐れ…これ苦痛です。
そこで、この苦痛をなんとか和らげるために、希望がますます大事になっちゃう。
すると、ますます不安が強くなる。
無明街道を一直線ってところですか…
こうなると、「現在」というのは、強烈な勢いで、時間の中を、過ぎて行く…
何とも言えない不安なもの、という感じがしちゃいます。

しかし、ちょっと考えてみれば分かるのですが、
「過去」とか「未来」って、触ることも見ることもできません。
痕跡もありません。
たとえば、ツタンカーメンでも、
それは「過去」を見てるんじゃなくて、「現在」のツタンカーメン見てんです。
当然のことながら、「現在」以外に接触できません。
「過去」は、「現在」の記憶の感触?な訳です。
「未来」は、「現在」の思考な訳です。
つまり、「過去」と「未来」が抽象なんです。数字の1,2,3と同じです。
それでは、「過去」と「未来」が無いとき、「現在」はどうなるか?
そんなものありはしません。
「過去」と「未来」あるから、「現在」があるんですから。
「過去」「現在」「未来」がないとき、時間はありません。
そりゃそうです。
時計の刻む時間があるというかもしれませんが、
それは、ただの運動(針がまわる)からの抽象です。
ですから、心理的に「過去」や「未来」に圧迫されません。
また、別の言い方をすれば、「過去」がないとき「自己」はありません。
ですから「未来」もありません。
「過去」がないのは、生まれることであり、「未来」がないのは死ぬことです。
「生死、即ち涅槃とこころえて、生死として厭うべきもなく、涅槃として願うべきもなし。このとき、はじめて生死を離るる分あり…」(正法眼蔵)
「過去」も「未来」も「現在」もない…過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得(金剛経)
…つまり、なんとも手のつけようがない、即今・即今…
これが、まさしくクリシュナムルティさんだと、TIMELESS、時間の終焉、
ひらたく言えば、永遠、
別の言い方をすれば、無限の過去から、無限の未来を、含む、即今。
あらゆるものが生じてくる、母体。唯一、実在?するもの。
これ正しい?んですが、日常生活だと、すぐ逸脱しちゃって、結構、苦しい思いしたりしちゃう…
とにかく、これは理屈だけでは決着つかない。
肉体的なところまで関係してんで、どうしても坐禅なりなんなりしないと、ダメなんですね。

自分ていうカタマリはカラダの中にないよ、っていう主張だけです。
別にとっぴなこと言ってないです。
別の言い方すれば、思考者は思考です。
悩む者は悩みです。
これメチャクチャ当たり前なんです。
悩みがなきゃ、悩む者、主体ありません。当たり前です。
ですから、悩む者(自己)は、悩みから生じた抽象です。これだけなんです。

つまり、私たちの意識は、まるごと…部分的ではなく、まるごと…混乱なようです。
混乱がどのように現れるかと言えば、
ペターっと引っ付いた、不安、絶望、怒り、悲しみ、くよくよ、です。
こういったものの反対として、安定・安心を求めます。
だけど、これ無理です。
不安が親で、安心は子供です。
この種の安心は不安を中に含んでます。
つまり、安心とか幸せを求めること自体が、混乱です。
ですから、自分を全体として混乱だと認めねばなりません。
ある部分がマトモだと思っちゃだめなんです。
…もちろん、心理的な話で、数学ができるとか、家へ帰る道順知ってるなんてのは、マトモです。
マトモじゃないとすれば、マトモになろうとしちゃダメな訳です。
心を落ちつかせようとする全ての努力は徒労に終わります。
心は波立ちます。
不安、苦しみ、悲しみ、怒り…。これ押さえつけてもダメです。
だって、こういったもの、必然として生まれてきてんですから。
それはそうですが、こういったもの人生を暗くします。
すると、こういった好ましくないものの正体を探すことになります。
不安、苦しみを真正面から見ていきます。
感情の嵐が来ても、気を張って、毅然としています。
…もしくは、よれよれになってもいいんですが…
そうすると正体が見えてきます。
言葉とイメージ、それだけ…
お化けみたいなもので、カラッポ、スカスカ、…
とは云うものの、感情の嵐に入っちゃったときは、まあ、どうにもならないんですが。

「AWAKENING OF INTELLIGENCE」に、
クリシュナムルティさんとニードルマンさん…サンフランシスコ州立大学の先生なんだそうですが…との対話があります。

その途中です。

クリシュナムルティ:侮辱されたとき、完璧に注意して、まったく、なんの痕跡も残さないということができるでしょうか?

ニードルマン:おっしゃってる意味はわかります。

クリシュナムルティ:お世辞いわれても、さらー。イメージなし。イメージ作らない。今、イメージ作らなきゃ、過去のイメージもない。

ニードルマン:よくわからない…今、イメージ作らなけれれば、過去の…?

クリシュナムルティ:過去のイメージはありません。いま、イメージ作れば、過去のイメージに関係しちゃう。

ニードルマン:そう、関係しちゃいます。そうです。

クリシュナムルティ:しかし、もし、いま、なんのイメージも作らないとしたら…

ニードルマン:そのときは、過去から自由でしょうね。

クリシュナムルティ:そうなんです。そうなんです!!!

ニードル:そりゃ明確だ。

クリシュナムルティ:だから、精神は、いま、イメージを作らないことによって、自らを空しくする(要は、サッパリする)…..
そこで、精神が、いまイメージを作らないことにより、あらゆるイメージを、カラッポにするとき…それを深くやったとき、神聖なるものがあります。宗教とかそんなものとなんの関係もないなにかがあります。

これ、なんか難しそうに聞こえるんですが、
つまり、クリシュナムルティさんのよく言ってる、気づき、とか云うものです。
気づきが全てを解決するみたいな感じ。
これ、どういうことかと言えば、
どんな思いが生まれようと、そのまま、ほっとけ、ってことです。
道元さんでいえば、非思量。
単純なんです。
私たち、グシャグシャ、心のなかに持ってます。
欲とか不安とか、何でもいいんですが、それが心の奥底で、グダグダやってる訳です。
このグダグダと関係しちゃったらアウト。しなければ、浄化。
たった、それだけ。

> その落とそうとするのは何です、誰です、

それは「私」です。自我という意味です。
死ぬのはイヤだ、心配はイヤだ、何でもいいんですが、
自我は必ず、そのような、好ましからざる問題を持ってます。
なんとかしようとします。
そこで、ああだこうだ読んだりして…
すると、どうも、自我自体が問題だと推測します。
これ困っちゃう。
だって、主体が問題であれば、解決のしようがないからです。
そこで、論理的には、どうしようもないことが分かり、
クリシュナムルティさんなんかも、becoming(なりゆくこと)止めればいい、とか、
沢木興道さんとか、紀野かずよしさんとか、ただ坐ってりゃいいんだ、とか聞いて、
そうだな、と思ったりもする。
だけど、落ちつかない。いくら理屈分かっても、自分に手をつけちゃう。
そこで、困って、なんか手立てはないかと探す。
原理的には、自我が自我を落とすなんてことは到底無理。
ここで、自我を落とすための色んな方便、念仏、題目、坐禅、公案とかに出会う。
共通してるのは、なりきっていくこと、これが自我を殺す方便…
単純ですが、極めて有力な方便。
すると、最初は意識してなりきっていくんですが…
つまり、意思=自我により始める…
そのうち、メカニカルになっていきます。
自分では意識してるつもりですが、実際は無意識のような状態が生まれます…
なぜ、そうなるかは分かりません…
いわゆる三昧(ざんまい)ですか…
そして、そこに意識がもう一度よみがえったときに、
自我がなかった、ということに気づきます。
なんか、言葉にするとギョウギョウしくなりますが、結構、単純なことです。
すると、悟りの程度の差はあれ、あらゆる人生の諸問題は架空である、と納得できます。
もっとも、そんなサッパリした気分、続きはしないんで、
また、悩んだり、苦しんだり、なんですが、でも、光があります。
出口が見えてんです。
これ、ありがたいことです。

> それと見抜いたあとに残るものは、限の無いはしごなんて無いですよ。

本分上はそうですね。
ただ、それじゃ腹はふくれないんで、
修証辺上、つまり実際上は、残念ながら、困ったことに、そうは問屋がおろさない。
とにかく、カラダ(思考過程)が逆らうんです。いうこと聞かない。
すぐ損得とかに、ビンビンに反応したり、他人を自分と対立して見たりしちゃう。
不安はやってくる。心配でゾクゾクする。
それはそれで平気にはなってるんだけど、迷いであることも確か。
だから、死ぬまで、はしごを一段一段上がってく。
終わりないはしごです。それで満点。これ以上の人生はないでしょうね。
そうそう、より正確に言えば、
死ぬまでじゃなくて、生まれかわり、死にかわりして、永遠に登ってくんでしょう。
これが四句誓願でしょう。

衆生無辺誓願度
煩悩無尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

これ、だれが誓願するのか?
これ、宇宙の本体、そのものであります。
なんか、長くなっちゃいました…

瞑想とはなにか
クリシュナムルティさんが、こんな感じなこと言ってました。
「瞑想とは、一般的に、ある意識状態から、別の意識状態に移行することだと思われている。
が、実際は、あるがままを見ていくことなのだ」
まことにその通りであります。

もちろん、取っ掛かりは、苦悩の解消という意味で、逃避の要素があるでしょうが、
また、修行の段階では、ある意味での思考の制御という工夫が必要でしょうが、
結局、つまるところ、思考過程は、このまま問題なかった、ってことに気がつく訳です。
別の言い方すると、ある意識状態―不安、悲しみ、何でもいいですが―が、問題だと思い、
その意識状態から抜け出て、ある「幸せな」意識状態に移行するために坐禅したりする。
これ、間違いです。
私たちは、意識状態が苦しみの原因だと錯覚するんです。
そして、その意識状態(苦しみ、不安)を逃れるために、外的には、環境を改善しようとし―争ったりし―内的には、宗教的に解決しようとする。
これ、どっちも的外れなんです。
と云うのは、意識状態が苦しみの原因ではなく、そこからの逃避が苦しみの原因だからです。
つまり、意識・思考と自己を分けちゃう訳。これが苦痛なんです。
このことを実感として感じていくプロセス、それが修行と言われてきたんでしょう。

見たり、聞いたり、考えたり、欲しい、惜しい、うれしい、悲しい、憎い、悔しい、可愛い、心配だ、バカヤロー、クソー、フザケルナー、つかれた、腹減った、それだけのことです。主体がない。
クリシュナムルティさん風に言えば、思考者は思考です。感情から離れた主体はない。煩悩即菩提。大悟とは、煩悩三昧なり。これで一件落着。
だって、生死即涅槃。迷ってる私が、完全無欠。手のつけようがない。
とは云え、このままでいいか、っていえば、どうも落ちつかない。
不安は嫌だし、感情の嵐と戦い、押さえていくのは苦しい、嫌なやつは多い。
だから、無駄と予想しつつ、修行するしかないようです。
坐禅したり、声出してお経読んだり、まことにバカみたいなことして、
退屈なことを頑張ってやって、時間をムダにしてく、それしかないようです…
まあ、分かっちゃいるんですが、つい怠け心が強くて…いまいちだなー、ってのが実感です。

四句誓願
「この無常な世界で、今どうしたいか?具体的に何をどうするか?」が常に問題ですね。
人を殺す人生もあり、殺さない人生もありですか。。

つきつめれば、かならず、そうなりますね。
答えは分かってんです。
24時間、自分のことを勘定にいれず、回りのことだけを考えて、ただ生きてく。そして、死ぬ。
衆生無辺誓願度。これしかないんです。そう決めちゃえばいいんです。
ところが、ついつい、せこくなって、自分の損得考えちゃう。
そして自分が苦しむ。
まったく、「火の車、造る大工はおらねども、おのが造りて、おのが乗りこむ」
自分の人生捨てればいいんだけど、すぐ、しびれちゃう…

だから、あの四弘誓願、だれが作ったか知りませんが、ほんとよく出来てんです。
人生の意味、生きる目的、生き方、明日の心構え…全てが入ってます。

衆生無辺誓願度
煩悩無尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

とにかく、結果がどうか、なんて考えない。誓願しちゃうんですから。ぐしゃぐしゃアタマ使わない。
衆生無辺誓願度
自分も含めて、全人類が、なんか落ちつかず、落ちつきたいという衝動があって、欲となったり…要するに、迷ってる…これに決着をつける。

煩悩無尽誓願断
とにかく、せこくなる癖、これ止まらない。とにかくコントロールできない。
だけど、斬ってく。クリシュナムルティさん言うみたいに、ほっとけばイイというのは、それはその通りなんですが、やっぱ、ぶった切っていくという決意が先です。

法門無量誓願学
情緒的に分かっても、また忘れちゃうんで…忘れてもいいんですが…やっぱ、知的に整理しておく。

仏道無上誓願成
別に仏道なるものがある訳ではないんですが、理性を持ちながら、なおかつ無我無心に活動していることを、仏道と呼べば…分別しつつ、無分別に生きる…
これ、何というか、ひとつのダイナミズムであって、完成なんか有り得ない。
だけど、完成に向かって一直線…そのように生きたいとは思ってんですが、
なんか、そうはいかない…困ったものです。

私たちの問題は、恐怖…平たく言えば、不安…
ようするに、思うとおりにならない…ということでしょう。
その究極が死ということですか…
不安のない世界、それを私たちは、とにかく求めます。
物心ついてから、ずーっと求め続けます。
なぜかしらないけど、対象は変わりますが、安心を求めます。
クリシュナムルティさんで云えば、安全・セキュリティを求めます。
クリシュナムルティさん風で言えば、なぜそんなもの(絶対的な安全)が無いと分からないのだろう?…明日には死ぬかもしれないのだから…。それが、無いと分かれば、つまり、安全を求めなければ、それがそのまま安全である、って主張です。
禅では、大安心とか言ったりします。
般若心経で、「ショウケン五オン、皆空、度、一切苦厄」「無有恐怖(ムウクフ)」なんてあります。要するに、空だって分かれば、一切の苦しみが終わる、心配事はないよ、っててことでしょう。
だけど、誰も彼も、生きていくことは、やっぱ大変な訳です。
まったく予想もつかない災難なんかが平気でやってくる訳。
クリシュナムルティさんの言う通り、安全なんてないんです。
だから、問いはこうなります。
泣いたり、腹立ったり、困ったり…それが、そのまま、大安心になる。
これが仏教ないし禅ないしクリシュナムルティさんの主張とする。
それは一体どういうことなのか?
それは可能なことなのか、
そして、もし可能であればどうすれば可能なのか?
また、そんなことを考えるのに意味があるのか?

要点は、色(資金繰りに困ってる)即是空(そのまま安心)ていうことです。
「安心して困る」、これができるか、できないか、
これが勝負(いっぱいやってんで、ちょっと、おおげさですが)。
どのような状況であれ、どのように過酷な状況であれ、その悩み、苦しみと、そのままひとつになって生きて行く、一切の逃避が止んだとき、それを仮に、極楽とか呼ぶ訳です。
地獄の真っ只中だろうが、平然と大手を振って歩いてく、
そこに落ちつき、落ちついてることも忘れてる境涯…
イメージだと、良寛さん…そういうことですかね…
つまり、これが、分かりやすい?色即是空ですか…

> 愚さんから見ると落ち着かないのはXですか。。

まずは、落ちつきどころが分からないと話が始まらないです。
結局は、落ちつかぬまま、落ちつくんですが、
それは落ち着きどころがわかった後の話です。
落ち着きどころが分かったところで、落ちつくかっていえば、
それはそう上手くはいかない。
だけど方向は見える。
まずはこれが大事なんでしょう。第1の必要条件ですか。
見当違いのところへは向かわない。
あとは死ぬまでどれだけ精進するか、ということになります。
話を戻して、
落ちつくということは、禅で言えば、「自己に安住する」とかいったような気がします。
結局、「本来の自己」を気づき、つまり、宇宙はひとつであることを悟り、
表現でいえば、「空」:絶対平等、を悟り、それを悟るがゆえに、比較がやみ、
優劣とか意味をなさなくなり、というか、その差別のままの完全性に気がつく、
そこで、「色」:絶対差別「おれはおれだ」って、落ちつく。
寝たり、起きたり、困ったり、それが完全性の表現と気づく。
理屈でいうと、以上のような感じでしょう。
問題は、まず絶対平等のところを見ぬかない限り、絶対差別は見えないというところです。
結果として、全宇宙に何一つ間違いはないのですが、
それが観念になると、いわゆる無事禅となります。
最初の問いに戻れば、落ち着きどころが見えてない、ないし錯覚してるのは×ということですね。

誰にとっても、なりきってしまえばいいんで…
つまり、働くときは、タダ働く、遊ぶときはタダ遊ぶ、歩くときは、タダ歩く…
なにも難しいことはない、
これだけなんですが、これができない。
損だ得だ、憎たらしい、可愛い…となっちゃう。
これは、意識の奥底で、常に働いている分別があるからです。
これ自体は、実はマズイものじゃないんですが、とりあえずは邪魔なんです。
邪魔だからって、面と向かって闘っても勝ち目がないんで、相手にしないようにする訳。
そこで方便としての修行が出てくる…
実際は、方便即真理なんですが…
まあ、それはそれとして、なにか対象を作って、そこに意識を集中していく作業をする訳…
対象と自己を一つにしていく訳です。
そうやって無意識のクセを直してく。
道場としては、原理的には日常で充分なんですが、
分別のカタマリが日常なんで、やっぱ違った状況が必要となります。
思考のクセ、分別過程を潰すには、とにかく、なりきっていくんですが、
レベル?としては、色づいていないほど高級で?、難しい訳です。
こんな感じですか…

1、気づき…クリシュナムルティさんの、観察者なしの観察、坐禅もなんもいらない。
2、只管打坐…道元さんの、一つになる対象を持たない、ただ坐ってる、どんな思考が起きても、そのままほっとく…
3、随息観…坐って、息になりきっていく。
4、数息観…息を数え、数えることになりきっていく。
5、公案禅…与えられた公案になりきっていく。
6、念仏…まず、観念的に阿弥陀仏とかをイメージし、それを念仏することになりきっていく…時宗みたいな踊念仏は、踊ることになりきっていくのだと思います。
7、題目…日蓮宗みたいのは、とにかく、ハードに、題目になりきっていく。思いっきり読経するのも、こんな感じですか…

一応、以上のように分けましたが、
原理的にはどれでも悟れるはずです。優劣はありません。
ただ、一方では、クリシュナムルティさんの「気づき」なんて、できはしません。
結果として…悟りに悟って…そのようになることはあっても、
とても現実的だとは思えません。
だけど、クリシュナムルティさんの本なんか読んだ人、これをトライしちゃう訳…
できはしないんで変に観念的になっちゃう。
只管打坐、これまた難しい。よっぽど修行してないと、できない。
タダ坐ればいいっていうんですが、ピーンとしている感じがなきゃしょうがないんで…
あと、色々ありますが、
要するに、坐禅が唯一の方法とは、思いませんが、最も有力な方法だと思います。

要するに、苦しみから逃れるすべはない、それを悟れば、苦しみはない…
つまり、苦しみと私は別のものではないので苦しむしかない…
で、どうなるか?

苦しむしかない…で、どうなるか?
「度一切苦厄」なんです。
「苦しいときは苦しい」と悟り、
苦しみを避けようなんていうのは不合理で、バカバカしいことだったと悟れば、
即「度一切苦厄」です。ギャップないです…「即」です。
要するに、水が流れるようにサラサラと、苦しいときは苦しいまま、うれしいときはうれしいまま、
そこを幸・不幸だとか、ああだこうだ、なんていうのはナンセンス…
何というか…損だ得だ、そんなこと、まったくなにがなんだか分からないまま、生きていく…
あたかも、テーブルになったり、椅子になったり、そんな感じで生きていく。
テーブルが悲しむのも変ではありますが…でもそんな雰囲気。

朝起きて、夜寝る、腹立てたり酔っ払ったり、
これがそのまま宇宙の大活動だと気づけば決着つくんですが、なかなかそうはいかない。